番外編『昔の花』
番外編 『昔の花』
いけ好かない男だ。
それが美都が彼を見て最初に感じた印象だった。
まだ若いひょろりと背ばかりが高い姿は、白衣を着ているというよりも白衣に着られているような印象がした。細い首はまだまだ信用するには足らない子供であるように感じたし、行儀悪くジーンズのポケットに両手を突っ込んでふらふらと歩く様子は、不真面目でしたたかで、とにかく自分とは趣味も性格も合わないだろうと、そう思わせるには十分なものだった。
大幅に教育課程をスキップして大学の研究生をしているという良く似た境遇から、周囲は事あるごとに必ず彼と美都とを比較していた。もちろん、その比較の上で、常に彼が勝者となっていたわけではない。周囲が行っていたのは比較という名の両者への中傷に過ぎなかった。だが、彼が居なかったら、そういう姑息な手段での中傷は受けなかったのだと思うと、美都は実際に出会う以前からたまらなく彼のことが嫌いだった。
もちろん、美都は「会ってみたら意外といい人かもしれない」という可能性までをも否定していたわけではなかった。しかし、そんな優等生的な感情も実際に会ってみて霧散した。
初対面の美都に向かって、彼は握手を求めるように手を差し出し、握り返した美都の手をしげしげと眺めて「苦労してねぇ手だな」と口をゆがめて笑ったのだ。
――自分の方が苦労してきているのだと、そんなことでも誇りたいのだろうかこの男は。
それは、美都の中にわずかに残っていた彼への期待を粉砕するには十分すぎる態度だった。
美都はカツカツと音をたてながら足早に廊下を歩くと、扉の横にある電動スイッチを押して扉が開くのを待つ。幾分反応が遅い扉は、ボタンのスイッチをピカピカと明滅させて、ようやく小さな電動音を立ててゆっくりと開き始める。体が入るほどの隙間が出来たのを見てとると、美都はいらいらしたように体をねじ込んで、乱暴に反対側の開閉スイッチを押した。
――そのいけすかない男に資料を渡しにいかなくてはならないなんて、ついていない。
整理しなくてはならないデータは山積みで、統計処理のために必要な論文の収集も終わっていない。暇なわけではないのに、美都が一番若いという理由だけで他の研究員の伝書鳩のような役をしなくてはならない。
――理不尽よ。
美都は肩にかかる髪を乱暴にかきあげ、大きくため息を吐いた。
年齢に意味があるだろうか。美都は初等教育から高等教育までを大幅にスキップしながら進級してきた。高等教育過程は少なくとも1年は経験しなければならない――という教育システムのために、籍だけは高等過程においたまま、進学予定の大学の研究室で研修を受けている。既に大学で必要な単位の多くも修めており、来年になれば、少なくとも資料を渡してくれと頼んだ先輩などよりは上の立場となる。
――たいした研究もしてないくせに、先輩だというだけで人を顎で使うような真似をして。
美都は唇を噛み締めた。教育のシステムが現状のようなものではなかったら相手を使っているのは自分の方なのだと、そう思うにつけ、こんな用事で研究棟の廊下を歩いている自分の立場が悔しい。
「失礼します」
ノックの後に小さく応答があったことを確認して、美都は重い扉を開いた。中で作業をしていた数人が顔を上げ、美都の姿を認めると一様に驚いたような顔をする。
「結城くんがこちらだと聞いて、資料を渡しに来たんですが」
あぁ、と得心したようなため息を吐いて、一人が奥の扉を指した。
「彼はいま、自室でデータの処理をしているよ」
「ありがとうございます」
美都が奥の扉の前に立ち、ノックをしようとすると、背後から笑みを含んだ声が投げかけられる。
「ノックは要らない。してもたぶん琢己には聞こえないから」
美都は首をかしげて、それでも小さくノックをしてみる。何の応答もないことを確認したのち、恐る恐るドアを開けた。
静かな室内に、パタパタと端末のキーを叩く音だけがする。――否、微かにカシャカシャと細かな電子音も聞こえる。
カチリと音を立ててドアを閉めると、美都は本棚が迷路のように配された室内に足を向けた。
彼は居た。薄暗い室内、端末のモニタの光にぼんやりと照らされた横顔には、一度も見たことのない生真面目な表情が浮かんでいる。両耳を大きく塞いだヘッドホンから微かに漏れている音で、彼が音楽を大音響で鳴らしながら作業をしているのだと分かった。
なるほど、ノックの音が聞こえないわけだ。
「失礼します」
声をかけてみる。振り向く気配もない。美都はため息を吐いて、端末に歩み寄った。
袖を捲り上げ、着崩したように見える白衣の襟が、思いのほかきちりと整えられている。相変わらずジーンズだが、端末に向かう際に邪魔だったのか、ポケットから取り出した財布や外した腕時計が、几帳面に机の端に揃えられているのが意外だった。
ふと本棚に視線を巡らせると、膨大な量の資料はきっちりとファイリングされ、参照しているらしい数冊の本以外はすべて本棚に納められている。――案外、几帳面な性格らしい。
端末の前の壁にはボードが掲げられていて、走り書きのメモや名刺が無造作にピンで留められている。その多くは研究関連の予定やメモなどのようだったが、その中に紛れるように写真が一枚留められているのを認めて、美都は思わずそれを眺めた。
幼い少年が、自分より小さな少女の肩に手を回して笑っている。古い写真なのか色褪せていて、端は擦り切れ、折れていた。
「何?」
不意にかすれた声がかけられた。その時はじめて、美都はキーを打つ音が途絶えていることに気がつく。
彼がまっすぐに美都を見ていた。
「用事?」
かなり長い時間この部屋に閉じこもって端末に向かっていたのだろう、不慣れな子供のように声がかすれてしまっている。彼自身もそれに気がついたのか、小さく咳払いをして再び美都に問いかけた。そして、耳から外したヘッドホンから漏れる音に眉を顰めて、片隅のオーディオスイッチを慌てたようにオフにした。
「資料を渡しに」
美都はまったくの無音になった部屋の中に響く自分の声に軽い眩暈を感じた。奇妙なほど緊張している自分が可笑しい。
「あぁ、糖鎖配列の論文資料か」
ゆっくりと彼は立ち上がり、美都に歩み寄る。
「あとでこちらから取りに行こうと思っていたんだけど。悪い」
見上げると、背が高いのが分かる。資料を手渡しながら、なぜだか美都は悔しくなった。
「あなたが私に謝ることじゃないでしょ」
ひょいと、彼の眉が上がる。馬鹿にされたような気がして、美都はぷいと顔を背けた。
「いや、単なる感謝の気持ちのつもりだったんだけど」
彼は渡された資料をパラパラと確認して漏れがないことを確かめ、本棚からファイルを一つ取り出してファイリングをする。流れるようなその作業を横目で見ながら、美都は再び視線を写真に戻していた。
笑った幼い少女の笑顔――まるで、何の苦しみも知らない天使のようだ。
「他にも何か用?」
整理を終えて棚にファイルを戻した彼に視線を戻した美都は、不意に問いかけたくなった。
「この写真……」
何事かときょとんと目を見開いた彼は、美都の視線の先にある古い写真を見て、ああ、と小さく声を上げた。
「見て、分からない?」
「分からないから、聞いているのよ」
こうして身近に貼ってあるということは、親しい間柄の写真なのだろう。古いものだから、家族の写真かとも思ったが、天使のような少女の様子がどうにも目の前の彼と結びつかないのだ。
「妹だよ」
彼はそっと写真の前に立った。ピンを丁寧に外して、美都の前に写真を差し出す。色褪せた写真は、所々擦ったような跡が残り、隅に手垢がついていた。
「結城さんの?」
「そう」
後ろに立っているのは俺だ、と彼は小さくため息を吐いて呟く。美都は大切なものを守るように抱きしめている少年と目の前の彼の顔を見比べる。
「何、面影もない?」
可笑しそうに彼が笑った。
意外だった。――だが、同時に確かに彼だと美都は思った。一度も見たことのないような慈しみの表情だが、笑みを刷いた目の印象が似ている。いや、本人なのだから、似ているのは当たり前なのだが。
「なんとなく分かるわ。いくつ?」
なんとなくかよ、と、彼はまた可笑しそうに言って、8つだと応えた。
「10年くらい前の写真かな。妹が写っているのはそれしかなかったから」
「ご両親の写真は?」
首を傾げた美都を、彼が目を細めて眺めている。
「会おうと思えば会える人間の写真を貼るほど、家族愛に溢れてないんだよ、俺は」
「え?」
「妹は、天に召されたよ。これは最後の写真」
美都は一瞬、背の高い彼の顔を凝視した。生真面目な顔がじっと美都を見つめ、ふと、手の中の写真に視線が落ちた。美都も写真に視線を落とす。
「事故で?」
「いや、心臓が悪くて」
写真の中の少女は、何の苦しみもないような笑顔で笑っている。守るように肩に回された兄の手を、小さな手がぎゅっと握っている。
「掛け算が出来るようになった翌日に、この写真を撮った。約束していたんだ。掛け算ができるようになったら、外に出て花の下で写真を撮るって」
美都はぼんやりとした写真の背景に目を凝らした。滲んだ斑紋のように見えるのは、花なのだろうか。少年の背後に伸びたアーチのような霞んだ緑は、何かの木なのだろうか。
ふと、情景が思い浮かぶような気がした。外に出ることが出来ない少女に、その兄が掛け算を教えている情景。これが出来たら、願い事を一つ叶えてあげると約束して。
写真の中の少女は幼い。たぶん、彼女は一生懸命に兄から学んだに違いない。そして、掛け算ができた時の願い事は、美味しいお菓子やお人形ではなくて、その兄と外に出て写真を撮ることだったのだろう。
――きっと、彼女にとってはかけがえのない、優しい兄だったに違いない。
「そう……」
繋ぐ言葉を見つけられずに美都は黙って写真を返した。彼の手が、再び丁寧に写真をボードに貼り付け、ピンを刺す。端の折れや汚れが気になって、美都はその手の動きをじっと見つめた。
「写真立てにでも入れればいいのに」
そうすれば、これ以上、写真の端が擦り切れることもなければ、汚れることもない。このままでは、いつか写真は古びて、少女の顔さえも薄れて見えなくなってしまう。
ふう、と彼はため息を吐いた。
「もう、ガラスの中に閉じ込めたくないんだ」
まっすぐに写真を見つめる横顔を、美都は見つめた。
「でも、色褪せていまに何も見えなくなってしまうわ」
不意に、彼は美都を振り返った。
「そうかな」
「そうよ」
再び視線を写真に戻して、入れたほうがいいのかなぁと、額を掻きながら首を傾げる彼を、美都は不意に可愛らしいと感じた。彼の方が自分より僅かに年長であるのに、仕草が、口調が、まるで小さな子供のようだ。
「何の花なの?」
「何が?」
「だから、その写真に写っている花よ」
さぁ、と、彼は首を傾げた。
「知らないで撮ったの?」
「8つだぞ? 花の名前まで知ってると思うか?」
拗ねたような口調に、美都は思わず笑った。彼が再び頭を掻く。
美都はそっとボードの前に歩み寄り、メモに埋もれるようにして貼られている写真を覗きこむ。彼はそんな美都に場所を譲り、自分は端末の椅子に行儀悪く腰掛けた。
「白い花だった。花は小さくて、木は大きくて。――あぁ、実が生ってたな。美味しかった」
「食べたの?」
食べたさ、と彼は事も無げににやりと笑って応えた。
「病院の敷地の隅っこに生えてたんだ。なんだか美味そうな実が生っていたから、看護婦や親の目を盗んで採って食った。味をしめて何度も木に登って食ってたら、見つかって大目玉喰らった」
その話をしたら、その木の下で写真を撮りたいと妹が言ったのだ。
美都が彼を振り返ると、ふと、彼の瞳が何かを懐かしむように伏せられた。
睫毛が長いと、不意にそんなことを思って、美都は慌てた。
「結城さんらしいわね」
「――琢己」
ため息混じりの彼の不意の言葉に、美都は首を傾げた。
「だから、琢己。『さん』付けされるのって性に合わない」
「名前で呼ぶほど親しくないわ」
つい口調が厳しくなって、美都は僅かに唇を噛んだ。
彼はひょいと肩を竦めて、あぁそういう意見もあるね、と、いつもの調子で応えた。
急に彼が憎らしくなり、美都は視線を逸らし、ドアへと足を向ける。
「資料、渡したから」
「――サンキュ」
ため息混じりの声を背中に聞きながら、美都はドアに手をかけた。
「写真立て、買うの?」
「さぁね」
振り返った先で、彼は最初に会ったときのように口を歪めて笑っていた。
実験室から琢己が部屋に戻ったのは、もう夜中だった。試薬を使った実験は、10分毎にデータを取らなくてはならず、部屋に帰るのもままならない。とりあえず携帯端末に打ち込んだデータを部屋の端末に移しかえて、関数処理したシートに読み込ませ、データ不備の有無だけは今日のうちに確認しておかないと、明日からの実験に進むことが出来ない。
「1時間――いや、2時間かな。あぁ、睡眠時間を削るしかないか」
独り言でそうぼやくと、電気のスイッチを入れる。
他のメンバーの実験終了を待って始めたら、大幅に予定が狂った。本来なら夕方には終わる予定の実験だったのが、思わぬ誤算だ。
琢己は大きくため息を吐くと、試薬で汚れた白衣を脱ぎ捨てる。帰るときに忘れずにランドリーボックスに放り込んでおかなくてはならない。
ふと端末の乗った机を見て、琢己は違和感を覚えた。
端末のキーの上に、白い柔らかな紙に包まれた箱が乗っている。厚みのあるそれに見覚えはない。何かの資料というには小さすぎ、梱包が丁寧すぎる。
「何だ?」
琢己はそれを手に取った。軽い。
首をかしげて、とりあえず包みを開ける。箱の蓋を開いて、琢己は絶句した。
――これ。
白い小さな花が枠の周囲を飾る、それは写真立てだった。可愛らし過ぎず、華美過ぎず、どちらかというとシンプルですっきりとした印象のそれは、本だらけの部屋の中で、不思議と違和感がない。
――参ったね。
贈り主が誰かすぐに分かった。白い花の話をしたのも、写真立ての話をしたのも、ただ一人だけだ。
琢己は小さくため息を吐いて、そっとボードから色褪せた写真を外した。背後の板を外して写真を入れて飾る。端末のモニタの前で、幼い顔が白い花に彩られて笑う。
「あぁ、そうだ」
思わず琢己は呟いた。
――あれは、白いオレンジの花だ。
琢己は目を閉じた。
「オレンジ、食いてぇな」
彼女の白い手を思い出した。