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オリジナル異世界ファンタジー:「月蝕―Eclipse―11番目の神」
番外編 『永久の楔』
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番外編 『永久の楔』

 滴るような緑の木々の茂みをくぐると、不意に鼻腔を満たす柔らかな水の気配に全身が濡れたような心地がする。短い雨季が過ぎ、これから過酷な夏季が訪れるというのに、未だこの地にはその気配がない。
 あたりに漂うあまりに芳醇な湿気の香に、軽いめまいさえ感じて足を止め、フォルマティオは胸に揺れる銀の小角を知らず握り締めた。

 小さな山羊の角を象った銀の塊には、丁寧に星の女神シャトアが彫刻してある。母を妻に迎えたときに贈ったものなのだと、幼い頃、父が話してくれた。その飾りは母の形見として長く父の胸元を飾っていたが、半年前、父が星の御許に召されてから、両親の形見としてフォルマティオの胸を飾ることとなった。
 その頼りないほど小さな飾りを、ふとした時に握り締めたくなる。まるで、その胸の奥にある、両親の面影にすがるような気持ちで。
 そんな自分が幼く恥ずかしいと思うこともあるが、冷たい銀の感触が優しかった父と母の手のひらの感触を思い出させて、それだけで心が和いだように静かになる。
 おぼろげに残る幼い記憶の中で、母は角に描かれた女神のように美しかった。泣いたあとのような赤い瞳が、いつも優しく微笑んでいたような気がする。
 その母が星に召されたときには悲しくて大泣きをしたが、記憶にかすかに残る幼いその気持ちは、死を悼むというよりは、もう二度と抱きしめてはもらえないのだという漠然とした喪失感だったような気がする。おそらく、母の死を最も悲しんだのは父であったろう。その証拠に、死の床についた父は胸に提げたこの銀の飾りをいつも握り締めていた。記憶が錯綜するのか、時にはフォルマティオの影に母の名を呼びかけ、見たこともないような優しい微笑を痩せた頬に浮かべた。まなじりに涙を浮かべ胸の飾りを手繰る父は、たぶん、母の迎えを待っていたのだろう。死してなお離すまいとするように、握り締めたままで強張った手の中にあった銀の飾りは、長老が星送りの前にその掌をこじ開けてフォルマティオに渡してくれたのだ。
 ――お前は母に似るだろう。
 懐かしい目をしながら父はいつもそう言っていた。父のその言葉を聞くたびに、記憶の中の少女のような母の容貌と自分の容姿は似てはいないだろうと不思議に思ったものだ。
 だが、その話をすると長老は穏やかに微笑み、魂の形が似ているのだよと、しわの深く刻まれた手でそっと頬を撫でてくれた。
 記憶の中の母は、その白い肌を砂漠の太陽から守るために濃い色のヴェールを被り、いつもひっそりと家の中に居た。激しい夏季のために周辺の村の水が枯れた時にだけ、夜の砂漠を馬で駆け、砂漠の移動湖を探し当てては水案内をする。母は砂漠にはなくてはならない水守で、その能力ゆえに、白子という砂漠に生きるものとしては致命的な性質を持ちながらも、子をもうけるほどに長く生きていられたのだ。

 ここ、グラカイエの大地で白子はそう珍しくはない。数年に一人は生まれているだろうか。だが、この日差しの強い砂漠の大地では彼等は短命であった。多くは子も生まず、恋さえも知らないうちに散っていく。砂漠の太陽は彼らの命を焼くのだ。
 白子が子を産んだことは、グラカイエの歴史の中では一度もなかった。色を失った子供が生まれてくるのではないかと心配し、子を産むことを止める声もあったという。それでも母はフォルマティオを産んだ。父と同じ栗色の髪と琥珀の瞳を受け継いでいた我が子を見て、母は安堵のあまり泣き伏した。
 ――お前の母は、砂漠の強い女の中でも類まれなほど強く、そして優しかった。自らに課せられた運命からけして目を背けず、命の全てをかけて砂漠の民の命を背負っていたのだよ。
 水の枯れた砂漠の中を、昼も夜も水を探し馬を駆るのが水守の役目。その旅は時には数十日にもなる。並みの砂漠の男でも音をあげる強行軍を、白い肌が真っ赤に焼け爛れるのも厭わず、横になり休む時間さえ惜しんで勤め上げた。砂漠の太陽が少しずつ自らの命を焼いていくことを知っていても、母は水守の務めを死ぬまで放棄することはなかった。

 くしゃりと足元で水気を多く含んだ草が音を立てた。露とも湿気とも判らないもので足先が濡れる。丸2日歩き通しの足にはその冷たさが心地よかった。
 ――いよいよ、成人なのか……。
 フォルマティオは知らず歩みを止めた。
 禁域についたら、もう、昨日までの自分ではいられなくなるだろう。男として認められる年齢になった以上、昨日と同じであってはいけないはずだ。それでもまだ、父のある子はいい。妻を取り、新しい家庭を築くまでの期間は成人したとはいえ親の庇護のもとにある。だが、父を無くした自分にその甘えは許されない。
 ――責任。自分で生きていくこと。
 もう一度胸の飾りを握り締めると、フォルマティオは再びゆっくりと歩き始めた。


 14になると少年達は長老のもとに呼ばれ、禁域への出発の日を言い渡される。出発の日は星祭の夜に行われる砂漠の聖地ルナリアでの星見によって決められるのだが、その時期はまちまちで、14になってすぐ行く者もいれば、16になって行く者も居た。多くの少年が15で行くのに対し、フォルマティオは14の誕生日に禁域に着くように行けと言われた。
 もちろん反対の声もあった。父のいない子に対して、その年齢は早過ぎるだろうと。
 だが、このグラカイエの大地において、星見は絶対である。いつもは優しい長老も厳しい顔をしたまま、ただ一言、星見の結果だと言った。そう言われると、周囲も沈黙せざるを得なかった。

 ルナリアは、馬で砂漠を一昼夜駆けた先にある山間の聖地だ。星見に長けた砂漠の民が、星からの言葉を受け取るために移り住んだ。砂漠と違い木々の緑はあるが、大地は痩せていて、耕す畑も果実の生る木もない。生きていくには過酷な場所で、それでも砂漠の民は星を読み続ける。
 そのルナリアの森の奥に、禁域がある。芳醇な水に恵まれた泉だ。シャトアの宿る場所とされたその泉は、砂漠の水が枯れ果てたときにだけ、砂漠の民の元へ運ばれる。数百年のグラカイエの歴史の中で、三度、そうしたことがあったと長老は言う。
 神の水は甘く、民の渇きを癒すが、口に含んだものは数年間は子を成すことが出来ない。生きるものの命を繋ぐために、これから生まれるものの命を差し出さなければさらないのだ。だから、禁域についても水を口にしてはならない。いつもは優しい長老の口調は、そう告げたときだけ厳しかった。
 禁域への旅立ちは、長老と両親が見送るのが常だ。だが、既に親を亡くしたフォルマティオの見送りは、成人するまでの後見として養ってくれていた年老いた養母と共に、次の長となる幼馴染が買って出てくれた。
 砂漠の少年は、たいてい、同年の少年たちと成人の日を競い合うものだ。もちろん、成人が早いことと人としての評価とは全く無関係なのだろうが、大人として認められることは、少年たちにとって一番身近な勲章には違いない。
 次の長として生れ落ちたエグノアは、フォルマティオより数ヶ月年長であるのに、自分よりフォルマティオが先に成人の儀式に向かうことにいたく自尊心を傷付けられた様子で、拗ねたように唇を尖らせて旅支度を整えたフォルマティオの背中を小突いた。
「なんだよ」
 苦笑を滲ませた声でフォルマティオが応えると、エグノアは変わらず拗ねた様子で、ぶっきらぼうに手にしていた包みをポンと投げてよこした。
「餞別。失くすなよ? 貸してやるだけなんだからな?」
 包みの中にはエグノアが後生大事に持っていた、小さな磁石が入っていた。遠い東の地で作られたという方角を示す磁石は、代々の長や帝国へ祭祀用の水を届ける隊商の長だけしか持っていない。エグノアのそれは、エグノアが生まれたときに、帝国の神殿から祝いとして贈られてきたものだ。
「エグノア……。これ」
「迷うなよ? 迷って遅れたら……笑ってやる」
 あまりの言い草にフォルマティオは笑み崩れた。
「迷わないよ。――でも、ありがとう」
 エグノアはにやりと笑うと、ツンとフォルマティオの前髪を引っ張った。
「帰ってきたら、禁域の様子、教えろ。俺が行くときの参考にしてやる」
「素直に気をつけて行ってこいと言えばよいだろうに」
 いつもながらのエグノアの様子に苦笑しながら、長老がたしなめるようにエグノアの頭に手を置くと、ぷっとエグノアがふくれて見せた。
「フォルマティオのことだから、気をつけて行くにきまってるじゃないか」
 今まで仲の良い二人でずいぶんと無茶はしたが、無謀な賭けをするのはいつもエグノアで、フォルマティオはその尻拭いをしたり、諌めたりと、役割がきっちり分かれていた。砂漠の大人たちが無茶をした子供たちを叱りながらも、必要以上に遊びに出かけるのを禁止しなかったのは、砂漠の長となるための良い試練だと思っていただけでなく、一緒に居るのがフォルマティオだったからだ。エグノアはそれを よく分かっていたし、そんな風に大人たちに信用されている友人が誇らしくもあった。
「行ってくる。イエナに会ったら、よろしく言っておくよ」
 苦笑をかみ殺しながらフォルマティオがエグノアの幼い婚約者の名を出すと、とたんにエグノアの耳が赤く染まった。
「余計なことはしなくていいっての」
 赤くなった顔を隠すように、慌ててフォルマティオが乗るラクの首に荷物を付けてやりながらエグノアが言うと、今まで穏やかに様子を見守っていた老婆が笑って口を挟んだ。
「イエナさまのことですから、きっとお迎えに出てくださるでしょう。若長が寂しがっていらっしゃったとお伝えなさいませ」
「だから、余計なことはしなくていいって」
 真っ赤になっているエグノアを笑いながら、フォルマティオはこれから旅を共にするラクの背を撫でた。ラクは砂漠トリ馬を乗用に飼いならしたものだ。普通、ラクにはくつわも手綱もない。女たちが乗るときには使ったりもするが、乗馬用に長く飼われているラクは羽 根の付け根をほんの少し引いたり押したりするだけで、乗り手の意図を察してくれる。普通の馬のように重い荷物は運べないが、馬よりもずっと砂漠に適したラクは、砂漠にはなくてはならない交通の手段だ。
「ほら、早く行けって。時間通りに禁域に着けなかったらどうするんだよ」
 急かされるようにしてラクの背に身軽に乗ると、フォルマティオは背後を振り返った。
「気をつけてお行き。シャトアの恵みがありますように……」
 老婆が小さく胸元で手を合わせた。同じようにエグノアが生真面目な顔をして印を結ぶ。
「行ってきます」
「砂漠を照らすシャトアよ、砂漠を渡る星の民シャトランをお守りください」
 砂漠に旅立つものを送り出す言葉を長老が紡ぐのを聞きながら、フォルマティオはそっとラクの羽根を握り体を前に倒した。乗り手の意志を感じて、ラクが駆け出す。
「気をつけて行けよ!」
 背後でエグノアがそう叫んだ。

 エグノアが見送るだけでなく荷物を付けるのを手伝った本当の理由を知ったのは、その夜のことだ。荷物にこっそりと入れられていたのは、手紙と小さな包みで、その手紙にはぶっきらぼうな癖のある字で「この包みをイエナに渡してくれ」と書かれていた。
 恥かしがり屋の友人は、面と向かってはこの包みを託せなかったらしい。
 フォルマティオは小さく微笑を浮かべて、腰に下げていた磁石を手に取った。星の光の下で微かに輝きながら、その針が北の一つ星を指し示す。その僅かに左手、遠くぼんやりと見える黒い山並みの奥に聖地があるのだ。
「気をつけて行けよ、か」
 背後からかけられた言葉を思い出す。エグノアからそんな言葉をかけられるのは初めてだ。――そう思った途端に、なぜ初めてなのかに思い至って、フォルマティオは吹きだした。
「そうか、いつもは俺があいつに言っていたんだ」
 急に吹きだしたフォルマティオに驚いたように、背後のラクが小さく身動ぎする。フォルマティオは大人しく座って背もたれになってくれているラクの羽根をそっと撫でた。
「ごめんよ。驚かせたね」
 クルクルと甘えたように喉を鳴らすラクを撫でながら、フォルマティオはそっと胸の銀の飾りを握り締めた。
「さて、夕飯も食べたし、休んだし。行こうか。夜明けの頃にはルナリアに着かないとね」
 立ち上がってラクの背を軽く叩くと、待っていたようにラクが立ち上がる。夜風から体を守るようにマントの襟を深く合わせると、身軽にラクの背に乗った。
 滑るように走り出すラクの背で、綿の軽い布が風に舞った。

 荒れた大地を抜けて痩せた木々の立つ森を抜け、ルナリアの入り口に着いたのは、浅く空が色付きはじめる頃だった。フォルマティオを待つように細く開けられた門扉の前に、ほっそりとした少女が人待ち顔で立っている。
「イエナ、こんなところで待っていなくてもよかったのに」
 ラクの背から飛び降りると、褐色の髪をおさげにした少女が笑顔になった。
「待っていたかったの。先だってエグノアさまから、よろしくってお手紙が来たから」
 次期長の妻となる少女は、幼い頃からルナリアとグラカイエを行き来して、多くのことを学ぶ。イエナはこの半年をルナリアで過ごし、砂漠の祭祀についてや礼儀作法をみっちりと仕込まれている。砂漠で見たときよりも随分と大人びたその穏やかな顔を眺めて、フォルマティオは笑った。
「これ、エグノアが渡してくれって」
 小さな包みを手渡すと、イエナは笑顔で受け取ってその中身を覗き込んだ。そして小さく頷く。
「ありがとう。禁域から帰るときに、どうぞ私の所に寄って帰ってね」
 イエナはラクの首を小さく叩いてうまやの方に促すと、門扉の横から伸びる細い道を指し示した。
「禁域はこの道を行ったずっと奥にあるの。禁域に着くと、祭司さまが儀式を行ってくださるわ」
 細い道の先は未だ暗い。あまり葉の茂らない細い木々が、道を囲むように立ち並んでいる。
「シャトアの恵みがありますように……」
 細い声が、道の先へと足を進めはじめたフォルマティオの背に投げかけられた。


 そして丸二日歩き通し、今、フォルマティオは禁域の一歩手前まで来ている。
 乾いた草の多かった大地は次第に緑を増して、濡れた葉の雫がつま先を濡らしていく。水で溢れた大地――そのくせ、鳥の声さえ聞こえない。
 みな、知っているのだ。この溢れるほどの水が、命を永らえさせることはあっても、命を生み出さない水なのだと。
 目の前にうっそうと茂った大きな葉を掻き分けると、不意に開けた視界に、豊かな水を湛えた静かな湖面が見えた。
 ――禁域!
 初めて見る豊かな湖面に、フォルマティオは足を止めた。
 湿気を含んだ豊かな水の香り。凪いだ水面に照る太陽の光と、風になびく木々の葉がすれる小さな音。ひたひたと打ち寄せる水際に並ぶ、丸く磨かれた小さな白い石。
 浅瀬に数個、飛び石のような平らな岩場があり、その対岸に光る、小さな塚と祠。
「お待ちしておりましたぞ」
 かけられた声に首を巡らせると、そこには白い祭司の装束を着た、年老いた星見の姿があった。
「私は今年の塚守です。あなたに砂漠の恵みと恩寵を。砂漠の民の責任と誇りを持ち、星の導きのままに生きなされ」
 フォルマティオは知らず膝をつき、首を垂れた。
「さぁ、こちらへ」
 導かれるままに水際に足を進めると、星見は湖の水を掬い、濡れた指先でそっとフォルマティオの額に十字を描いた。
「成人の証を付けましょう。目を閉じておいでなさい」
 膝をついたフォルマティオの髪を後ろに撫でつけると、星見はその耳朶に手をかけた。湖の水で清めると、手にしていた細い針でその耳朶をプツリと刺す。一瞬の痛みにフォルマティオが歯を噛み締め眉をしかめると、小さく笑い声がした。
「しばらくは痛みますが、あまり触らぬようにしなされ」
 星見の手で針は小さな金の飾り具に取り替えられ、再び耳朶を清められる。
「さぁ、湖の中へ進み、祈りなさい。祠主シャトアが道を示されるでしょう」
 目を開け、フォルマティオが手で耳朶を触ろうとすると、手を清めてからになさいとたしなめられた。大人しく両手を湖で清めて耳に手をやると、小さな硬い止め具が触れた。
「私があなたに出来ることはここまで。これから先はあなたが自分で見極め、進み、たどり着かねばなりません。あなたにシャトアの恵みを……」
 穏やかに星見は笑った。そして湖の中へと続く飛び石を指し示す。
「新たな砂漠の民よ、シャトアの導きを受けなされ」
 立ち上がり、フォルマティオはそっと飛び石に足を進めた。静かな湖面の上に立つと、風がそっと頬を撫でる。最奥の石まで進み、ふと振り返ると、もうそこに星見の姿はなかった。
 ――ひとり、なのだ。
 それは不意に実感としてフォルマティオの心を打った。
 自分で生きていくこと――自分の足で立ち、自分の目で見て、自分の意思で歩く。周囲の大人たちに守られるのではなく、その中で自分の責任と役割を果たしていくこと。
 フォルマティオは凪いだ湖面を見つめ、そっと石の上に膝をついた。手を胸元に組み、頭を垂れる。目を閉じると、風が草を薙ぐ小さな音がして、瞼の裏に両親の笑顔が見えた。
 ――シャトアの恵みがありますように……
 知らず、祈っていた。ひたひたと石に打ち寄せる微かな湖面の波の音が、静かにフォルマティオを包む。痛みが消え、じんじんと熱感だけになった耳朶が、燃えるようだ。
 どこかで鈴の音が聞こえた。
 リンと鳴る音に目を上げると、そこに不可思議なものを見て、フォルマティオは小さく口を開けた。
 人だった。――まっすぐに祠の方から水面を歩いてくる、美しい銀色の人。長く白い髪を風に舞わせながら、滑るように湖面をあるく人の足は、歩いているように見えながら、水面を揺らしもしない。重さのないような足取りでフォルマティオに近付いたその人の瞳は、燃えるような、赤。
(人の子。砂漠の新たな民。名を名乗りなさい)
 鈴の音の中で、雫が落ちるような声がする。それが、この銀色の影の声なのだろうか。
「フォルマティオ……」
 呟くように自分の名を告げると、ふわりとその影は笑った。
真実のフォルマティオ――あなたが扉の待つ者)
「扉……?」
 小さくフォルマティオが首を傾げると、その影は水面にそっと跪いた。
(小さな砂漠の民よ、あなたは旅立つ者です。あなたの最初の運命は東の地に、そして西の地に。砂漠で羽根を休めながら、それでも旅立ち続ける者、それがあなた)
 白く細い指がゆっくりと星の印を結ぶのを、フォルマティオは夢見るような気持ちで見つめた。
(ここからあなたは旅立たねばなりません。砂漠を越えて東にお行きなさい。そこで最初の運命に出会うでしょう。セリアと同じように、あなたは運命に立ち向かう子供になるのです)
「セリア、母上をご存知なのですか……?」
 にっこりと優しい笑みを浮かべると、銀の影が頷いた。
(セリアはシャトアの一番小さな娘の名、その名を冠した娘は砂漠の守手。私の声を聴いて、砂漠を守る優しい子供)
 母と同じ赤い瞳を見つめて、フォルマティオは小さく息を呑んだ。
「あなたは……?」
(わたしは星の器。風に守られて、星の声を聴いた白い星見グラディスの小さな欠片)
 そっと白い手が上がり、フォルマティオの額に十字が描かれた。
(さぁ、砂漠の儀式は済みました。旅立ちなさい。あなたに砂漠の恵みと恩寵を。砂漠の民の責任と誇りを持ち、星の導きのままに生きなさい)
 ふわりと笑ってその影が音もなく風に溶け、静かな湖面の上を、ただ風が渡っていく音だけが残った。


「おかえりなさいませ」
 禁域から帰りついたフォルマティオを門扉の前で待っていたのは、やはりイエナだった。傍らには数日の休息を得て羽根の艶も増したラクが居る。
「イエナ……」
 当惑したようなフォルマティオの顔を見て、イエナは穏やかに笑うと、そっと両手を差し出した。
「これを。成人の飾りです」
 うつくしい小さな黄玉の中に、花開く前の小さな蕾が封じ込められている。
「これは……」
「遠い昔の、もう砂漠には咲かない小さな花が封じられた玉です。エグノアさまが託されたこの玉を、禁域に行かれている間に耳飾に作り直しました」
 エグノアが託した小さな包みの中には、これが入っていたのだ。
「旅立たれるのでしょう?」
 フォルマティオは穏やかに笑みを浮かべたままのイエナを驚いて見つめた。
「知って……?」
「旅立つ者が現れたと、星祭の星見で皆が申しておりましたから。星見の方々に、親から渡される成人の飾りをこの地で渡さねばならない、同じ砂漠グラカイエの民の私がその役目をしなくてはねと、そう言われた時に、それがあなたのことだと、分かってしまいましたから」
 イエナから飾りを受け取ると、フォルマティオは砂漠の夕焼けのような濃い黄色の玉を見つめた。これをエグノアが託した――ということは、エグノアがこれを選んだのだろうか。
「エグノアさまもご存知でしたよ。ですから、その玉を選ばれたのでしょう。散らない花は永久とこしえの楔――砂漠の古い唄の詞ですけれども。きっと、遠くに旅立たれても、忘れるなとおっしゃりたかったんですね」
 フォルマティオは別れ際のエグノアの顔を思い出した。似合わぬほど生真面目な顔をして、胸元で印を結んだ、その顔。
「そして、これも」
 差し出しされた小さな紙には、ぶっきらぼうな癖のある字でほんの一行。
 ――磁石も持っていけ。失くすなよ。
 署名もない小さな紙切れを穴があくほど見つめて、フォルマティオは奥歯を噛み締めた。
 ――餞別。失くすなよ? 貸してやるだけなんだからな?
 別れの寂しさをいつもの軽口で覆い隠しながら、エグノアはどんな思いで玉を選び、そして磁石を手渡したのだろう。
 フォルマティオは胸元の銀の飾りを手繰った。
「寂しく、なります……」
 ちいさく、イエナの声が掠れた。
 大きな褐色の瞳を潤ませかけた少女に笑いかけると、フォルマティオは禁域で付けられた金の飾りに指をかけ、そっと黄玉の飾りに付け替えた。微かに重くなった耳は、まだ傷の痛みで熱い。
「行ってくる。エグノアに元気に旅立ったと伝えてくれ」
 こくりとイエナが頷くのを見つめて、フォルマティオは傍らのラクに飛び乗った。滑るように駆け出すラクの背で、風が頬を打つ。
「砂漠を照らすシャトアよ、砂漠を渡る星の民シャトランをお守りください」
 囁くように呟いたイエナの言葉は、もう、フォルマティオの耳には届かなかった。

 

番外編 『永久の楔』 了