外伝『Aqua―悲しみを知るもの』
外伝『Aqua―悲しみを知るもの』 [ 3 ]
町に入るときは、友好の証として日頃戦闘で使い慣れている剣を携えない。これは町側との幾度かの話し合いの末、決定したことで、オイアキュアは一度としてその取り決めを破ったことはない。もちろん、剣などなくても小さなナイフが一つあれば自分の身くらい守れるという自信は十分ある。だが、丸腰のグラディスを庇いながらというと、それも些かぐらついてくる。
「どういうつもりだ。町の者が集団で俺を襲うという事は、取り決めを破るという事だな。町の外には仲間が居る。狼煙を上げればすぐに町になだれ込んでくるぞ」
取り巻いた男たちに一瞬緊張が走る。男たちの手には棍棒が握られているが、誰もまだ、それを振りかざそうとはしていなかった。
「皆、落ち着くんだ。あんな爺の言う事を本当に信じているのか?」
ガイは自分が何の武器も持っていないことを示すように両手を上げながら、ゆっくりと町の男たちの間に入っていく。男たち自身、自分たちがしていることの意味が良く分かってはいないのだ。
「風が、来る。土壁を削り、屋根を飛ばし、風がやって来るぞ……」
不意にポツリとグラディスが呟いた。赤い瞳は虚空を見つめ、精神は何処か遠くへ飛ばされている。きっと、その瞳には普通の人間には見えない何かが見えているのだろう。そして、おそらくは、この男たちの様子など、その眼には映っていないのだ。だが、そのグラディスの様子は町の男たちを刺激するに十分だった。
「何をブツブツ言ってるんだ!」
一人の男が初めて棍棒を振りかざした。グラディスはぼんやりと焦点の合わない瞳でその様子を眺めている。
「風が、来る……。渦を巻いて。町を飲み込む」
オイアキュアはちらりと視線を町の土壁に走らせた。風に晒された土壁は内部に練りこまれた無数の石が表面に浮き出し、自分一人であれば軽々と登れるだろう。だが、問題はグラディスだ。
未だかつて、神降しを行う巫女を見たことはないが、実際こんなものなのだろうか。確かにそれはグラディスの姿形をしてはいるが、絶対にグラディスではあり得ないと断言できる。肌にぴったりと目に見えない膜でも張られたように、グラディスの体だけが何処か違う世界で浮遊している。
クスリとグラディスが笑った。
「供物を捧げるのか?」
天女のように美しく微笑んで見せて、ゆっくりとグラディスが崩れ落ちた。棍棒を振り上げたまま、ただ呆然とその様子を眺めていた男たちが、毒気を抜かれたようにゆっくりと振り上げた手を下ろした。
ガイの家に意識を取り戻さないグラディスを運び込むと、オイアキュアはすぐに使いを走らせ、エグノアを呼びつけた。その際に町と一戦交えなければならないかもしれないと皆に告げ、いざというときにはすぐ飛び出せるように支度だけはさせておいた。
エグノアは青ざめた顔のままびくりとも動かないグラディスを見て、一瞬眉をひそめた。
「最初から説明してくれ、ガイ。いったい町に何が起きた? お前が言っていた『爺』とういのは、いったん何のことなんだ?」
落ち着かないように先刻からイライラと机の周りを行ったり来たりしているガイに問い掛けると、一瞬、ガイは怯えたように口を噤み、唇を噛んだ。
「その爺が町にやってきたのは、たしか1ヶ月くらい前でした。何処から来たのか、何のために来たのか、そんなことは誰も知りません。ただ、町にきた爺は、とにかく頭のことを聞いて回っていた。今どこに居るのかと言う事から、頭が砂漠に出た年のことから、とにかく、頭に関することを全部……」
オイアキュアの激昂を恐れるように、ガイは首を竦めた。そして、視線を合わせないようにしたまま、なおも言葉を繋いだ。
「そのうち、爺は妙なことを言うようになりました。頭の脇腹の傷は聖痕ではないとか、ゼアグが滅びた年に生まれた凶児だとか……」
「――生まれ出でるときに母を殺した、母殺しの悪魔だ、とか……?」
驚いたようにその場にいる全てが声がした方を振り向いた。青ざめた顔のまま、グラディスが夜具の隙間からオイアキュアを見つめていた。
「どういう、意味だ……?」
オイアキュアは口の中がカラカラに乾いてしまったのを感じた。上手く口が回らない。無理やり少ない唾液を嚥下すると、微かに血の味がした。
「あなたは生まれる時に、母の腹を裂いて生まれたのだそうです。あなたのその聖痕の奥には、ゼアグの魂とも呼ばれた風の宝玉が埋まっていると、そう、私に告げた人がいました」
誰も、言葉を発するものはいなかった。信じるにはあまりに突飛過ぎる内容のはずだった。だが、その場にいる誰もがグラディスの語った言葉の真実を疑いようがなかった。それは確信に似ていた。グラディスの口から語られるものは、実際の真偽とは関係なく、語られた時点で真実へと変換されてしまいでもするかのようだった。
「嘘だ……」
オイアキュアが弱々しく呟いた。
グラディスはゆっくりと起き上がり、窓を開け、空を見上げた。
「星が、消えている……」
雲一つない空は漆黒に染まり、砂漠の道標となるはずの星はただの一つも瞬いてはいなかった。
「どういうことだ?」
生まれて初めて見る光景にエグノアが唸るように呟いた。グラディスは哀しげにも聞こえる小さな声でその問いに答えた。
「語るべき未来の形が、まだ、見えないのです……」
沈黙が落ちた。町は静かだった。肌をピリピリと焼くほどの張り詰めた緊張が町の全てを覆っているにもかかわらず、町は静かだった。
「頭、もう、休んでください。ここは砂漠でも珍しい水辺の町なのに、最近、水が少なくなってきて、皆不安で――そんなときに変な爺が世迷言をふれまわったりしたから、魔がさしたんです。だから……」
沈黙を恐れるように、ガイは言葉を繋いだ。
オイアキュアが町に来ると分かった時点で、町の男たちは襲撃の準備を始めていた。だからこそガイは町の入り口で待ち伏せ、オイアキュアをなんとか逃がそうと考えたのだ。襲撃は思いもよらない形で阻止されたが、いったん引いた男たちが再び武器を取り上げるかもしれない。そうなったときには、ガイも無事では済まされないだろう。ガイは既に最愛の妻を信用できる友人に預けていた。今、ガイの妻の腹には子が居るのだ。
ガイはチラリとエグノアに視線を送った。すぐにその意味するところを悟ると、エグノアは立ち上がった。
「俺とガイは下で番を」
出て行く二人を黙ったまま見送った。なんともいえない、居たたまれない沈黙だけが残った。
「いったいどういう事なんだ!」
階下につくなりエグノアは唸るように呟いた。
「突然呼びつけられて来てみれば、グラディスは倒れて、オイアキュアは腑抜けていて、お前は奥歯に物の挟まったような言葉しか言わない。町の様子は刺々しいし、肝心の商談だってまとまっちゃいない……」
ガイは肩をすくめて小さく首を振った。
「爺は占師だと名乗ったんだ。事実、いくつかの探し物を当てて見せたり、天気を予想したりして、町の人間の何人かはすっかり心酔しちまった。その爺が突然1週間前から喚きはじめたんだ。――お頭は、不幸を呼ぶ『呪われたもの』だと、けして、町に入れてはならないと……」
最初は誰も相手になどしなかった。この水辺の町は、幾たびもオイアキュアに救われていた。もちろん、オイアキュア自身、救おうと思ってやったことではない。だが、結果的に救われてきた町の住民は、オイアキュアを恐れながらも、どこか親しみを持ってその名を呼んできた。
だが、次第に砂に水が染みとおっていくように、その『呪われたもの』とういう響きは住民に浸透していった。そして、その結果が、あの暴動騒ぎだったのだ。
「勝手だな……。まぁ、そんなもんなんだろうが……」
吐き捨てるようにそう言うと、エグノアはドカリと床に座り込んだ。
――手勢は十分だ。先日戦闘をやったばかりで、幾分疲れは残っているが、武器をまともに扱ったことのない町の連中が相手なら屁でもない。だが、問題はその後、だな……。
ケマリは砂漠では珍しく水に恵まれた町だ。この町を失うとなると、一気に砂漠での生活が苦しくなる。グラディスが導いた湖も、言葉通りにすぐ水位が下がり始めた。砂漠に時として現われる移動湖の類なのだろう。
エグノアは眉間にしわを寄せたまま、壁にもたれ、むっつりと黙り込んだ。選ぶことのできるいくつかの選択肢を漏らさず挙げ、一番安全で確実なものを選ばなければならない。生き残るために。
丹念に夜空の隅々まで、僅かでも星がありはしないかと探していたグラディスだったが、諦めたように溜息をついて背後を振り返った。突然体を襲った夢のような感覚は、まだ体の自由を奪っている。力を入れようとすると、全身が震えた。
恐ろしいほどのスピードで螺旋を描いた、あの感覚。自分は確かに『風が来る』と感じた。急速に失われていく視界の中で、過去の断片を垣間見るように、幾つもの光景が錯綜した。体中が研ぎ澄まされてしまったような感覚――毛穴全部に無理やり瞳を付けられ、全ての事象の細部まで詳細に見せられてしまうような感覚。グラディスは震えた。おそらくあれは、人が見るべき世界ではないのだ。
振り返った先で、オイアキュアは項垂れたまま壁にもたれていた。荒い黒髪が垂れ、表情は掴めない。投げ出された右手に、半ば放り出されるようにして蠍の飾りが握られていた。
グラディスはゆっくりオイアキュアの方に歩き始めた。数歩歩くと膝がガクガクと笑い、倒れそうになる。仕方なくその場に座り込んだ。そして、目の前のオイアキュアと同じように膝を抱えた。
「何をしている?」
顔も上げず、オイアキュアは呟いた。
「……座っています」
なんと答えていいのか分からず、グラディスは素直にそう答えた。怪訝そうに投げられた視線が、不意に苦笑めいた笑いに緩んだ。
「お前は馬鹿か?」
グラディスは縮こまったまま、唇を噛み締めた。オイアキュアの視線が自分に注がれているのを感じたが、顔を上げることは出来なかった。
「風が来ると言ったな……。あれも星見なのか?」
ゆっくりとグラディスは頭を振った。
「分かりません。たぶん違う、と思います。ああいう風になったのは、初めてなんです。まるで、誰かに無理やり見せられているようで……。なんだか、怖かった……」
「怖かった? お前は笑っていた。供物を捧げるのかと問いかけながら……。まるで……」
――まるで、供物を要求する運命の女神のように。
グラディスは震えた。
そうだ。笑った。目の前の男たちの瞳の奥に、一瞬恐怖が浮かんだのが可笑しくて。町の中を荒れ狂う風に吹き飛ばされ、死んでいく、そんな未来の姿が可笑しくて。未来を知らぬまま、今を必死で生きている、そんな姿が可笑しくて。
自分の中にそんな部分があるなどと信じられなかった。信じたくなかった。
「運命が見えるという事は……、怖いな」
どこか切実な響きを持ったその言葉にグラディスは顔を上げた。まっすぐにオイアキュアが見つめていた。
「俺は本当にゼアグの遺児か? 俺は本当に、ゼアグが落ちたその日に生まれたのか? 俺は本当に……」
そのままオイアキュアは黙り込んだ。その先にあった問いかけは、聞かなくても分かっていた。グラディスは頷いた。次の瞬間、体の横を何かが飛んでいった。壁で跳ね上がったそれは、そのまま床を転がり、グラディスの目の前で鈍く針を輝かせた。
「知るか! そんなこと!」
オイアキュアは吐き捨てるようにそう言うと、拳を噛んだ。
幼い日に自分の傍に居たのは年老いた老人だった。繰り返し同じ昔語りを聞かされ、砂漠の片田舎では意味もない帝王学ばかりを教えられた。12で家を飛び出し、二度とそのまま戻らなかった。風の噂で、その老人が死んだと聞いた。聞かされ、教えられた自分の素性を拒絶した。それは、信じていなかったからではない。おそらく、一番信じていたのは自分だったのだ。母を持つ周囲の少年たちが羨ましかった。それでも、自分に母が居ないのがそういう理由なのだったら、納得できると思っていたのだ。信じたからこそ拒絶した。拒絶する反面、絶対に自分は周囲の少年たちとは違うのだと、違わなければならないのだと思っていた。
グラディスはそっと床に転がった蠍の飾りを拾い上げた。ちくりと針が指を刺した。まるで本当の蠍に刺されでもしたかのように、心には痛みが走った。
翌朝、早くにガイは家を出た。ガイ自身の身の安全を図るためという意味合いもあるが、実際は町の様子を知るのに一番最適なのが彼だったからだ。ガイはすぐに町の男たちが集まっているだろう屋敷に乗り込んだ。町の一員として暮らした数年、ガイは仕事と町の警護に力を尽くしてきた。最初こそ夜盗あがりだなどと後ろ指をさす者もいたが、次第に町のもの
達はガイを受け入れた。信用されているという自信はガイの中に色濃くあったし、信用させなければならないという義務感もあった。
町の男たちはガイの来訪をあらかじめ予想していたらしく、雰囲気こそ物々しかったが、すぐに話し合いの席についた。ガイは単刀直入に切り出した。1ヶ月前にふらりとやってきた素性のわからない余所者と、この数年町と共にあった者とどちらを信用するのかと。
「余所者とはいえ、その言葉には幾度も真実を見たが……」
歯切れの悪い返答にガイは畳み掛けた。エグノアから昨晩聞いたグラディスの素性を明かし、確かめてみればいいとそそのかしたのだ。
神殿の威光はこんな辺境の地でも強い。グラディスの現実のものと思えない美貌や不可思議な様子、その常人離れした瞳の色さえも『神殿に仕える者』だという言葉に裏打ちされ、一瞬にして尊いものへと変化する。既に男たちの心はぐらつき始めていた。ガイは小さく笑った。
エグノアは依然として階下で憮然としたまま腰をおろしていた。怒りの為に昨晩は一睡もしていない。グラディスは大人しく言われたとおりに夜具に包まり、横になっていたが、目をつぶると錯綜した風景ばかりが瞼に甦り、結局あまり眠れなかった。
そっと夜具の隙間からオイアキュアを伺うと、壁にもたれたままじっと天井を見上げていた影が視線に気が付いたようにグラディスを見つめた。昨夜見せたような、己を失ったような激昂は、その横顔に浮かんではいなかった。
「昨日お前が見たのはこの町の未来なのか?」
グラディスは小さく頷いて、たぶんと答えた。
「でも、確定した未来というわけではなさそうです。昨晩、星が一つも見当たらなかった……。今までに3度ほど同じようなことがあったと言います。どの時も運命の転機でした。まだ、語られるべき未来は確定していないのです」
「お前が見たのは『訪れるかもしれない未来の一つの形』というわけか?」
「そうなるのでしょう。ただ……」
微かに目を伏せて、グラディスは一瞬迷ったように口を噤んだ。
「ただ、私が体験したあの感覚では、まるで何かがそうなることを望んでいるかのようでした……」
絶対に笑われると思っていた。それは正確に表現しようとすればするほど、あまりにも奇妙な感覚だったのだ。だが、予想に反してオイアキュアは真剣な顔をしたままグラディスを見つめた。
「目に見えない、在るということすら定かではない、そのくせ確実にそこに実体があると確信できるような『なにか』は存在すると思うか? 甘い声で名を呼び、時に殺せと命じるような……」
もう、あの声を否定することなど出来なかった。この事態すらもあの『声』が招きよせた事態なのではないかとさえ考え始めていた。ダナンを殺した瞬間のあのけたたましいほどの笑い声。そして、昨日のグラディスの様子は、まるであの『声』に体を乗っ取られでもしたかのように思えたのだ。
「在るとも無いとも言えるでしょう。実際に神の声を聞いたという星見もいますし、結局それは自分の中にある『声』でしかなかったのだという星見もいます。世界は不透明です。私にはとても見通せません……」
これから神殿に仕えようとする者の言葉ではなかった。神殿に仕える者にとって『神』の存在は前提条件であり、目に見えない全ての事象は神が引き起こすものだという盲信が在る。だが、グラディスの言葉にはそんなものは微塵も感じられなかった。信じられると思った。どんなに突飛なことを言われようと。
「おまえ自身はどう思ったんだ? お前の体を借りて語ったあれはおまえ自身か? それとも何か違うものか?」
グラディスは目をつぶった。あの光景は人が見るべき物ではなかった。どこか無理強いされた感覚が残る。
「……あれは人としての感覚ではありえません」
「そうか」
クスリと笑い声が聞こえたような気がして、オイアキュアは不意に立ち上がり窓を開けた。平凡な太陽が降り注いでいた。
――迎えにいくわ……。
確かに何かが囁いた。
「いやな風だな……」
小さく呟くと、オイアキュアはそっと空を見上げた。じっとりと湿気を含んだような生暖かい風が、無理やり与えられる接吻のように頬をかすめていった。
話し合いをしたいという町からの申し出がオイアキュアの元に伝わったのは、それから程なくして、ようやく太陽が真上に掛かるか掛からないかという頃合だった。敢えて、室内で話す事を避け、オイアキュア達は町の中心の広場へと出向いた。町の一番大きな出入り口から広場までは直線で、障害物に遮られること無く駆け抜けることができる。そして、出入り口には昨日の段階で武装を始めた待機組が訝しげな表情で町の中をうかがっていた。
「説明していただこうか、昨日の無礼極まりない態度を……」
オイアキュアの言葉に、男たちは一様に黙り込んだ。そのうち、町でも重要な地位を持っている一人の老人が口を開いた。
「申し訳なかった……。水がなくなっていくという危機は人の心を疑い易く、弱くする……。私たちは根拠のない嘘に踊らされて……」
「真実だ」
オイアキュアは事も無げに言い放った。その場の空気が凍りつくのにも構わず、オイアキュアははっきりと言葉にした。
「妙な占い爺の言っていたことなら、真実らしい。俺はゼアグの落ちた日に生まれたゼアグの遺児で、俺の腹にはゼアグの魂が埋まっていて、俺は母親の腹を裂いて生まれた」
老人はよろめいた。誰もが息さえすることを忘れてオイアキュアを見つめていた。
――呪われたもの……。
町の男たちの脳裏にその言葉が甦った。自らと血の繋がっているものを殺すことは、自らと血の繋がっているものと同衾することと同じく忌み嫌われる。血の繋がりを否定することは、人であることをも否定することと同じなのだ。ことに砂漠ではその思想が強い。理由の無い嫌悪と憎悪が『母殺し』という言葉には含まれている。
「母の腹を裂いて生まれたと……?」
微妙な沈黙が落ちた。グラディスはオイアキュアの真意を図りかね、そっとその横顔を見上げた。そして、その顔が見たことも無いほど張り詰め、まるで祈ってでもいるかのように見えることに驚いた。
「自ら、母の腹を裂いて生まれたとおっしゃるのか……?」
「事実だ」
オイアキュアは笑った。
「その事実を知った今のお前たちの前にいる俺は、その事実を知らなかった頃の俺と何処か違うのか?」
優しげでさえあった。いや、実際オイアキュアは優しかったのだ。その言葉は既に昨日の町の男たちの態度を許し、今現在目の前で嫌悪と不安に瞳を曇らせている人々の、その瞳を許していた。
「悪魔め!――お前は何故ゼアグと共に滅びなかったのだ!」
不意に背後から沸き起こった濁った声に、皆一様に振り向いた。黒い所々に擦り切れた跡のある汚れた布に身を包んで、年老い折れた腰を杖で必死に伸ばしながら老人は立っていた。皺が濃く刻まれた顔の瞳は落ち窪み、露出した肌は日焼けと砂漠の乾いた風の為に爛れている。まるで黒い穴のようになってしまった瞳には怒りの炎が燃えていた。理性を失い戦慄く姿は醜悪だった。
「お前か、俺の話を吹いて回ったのは……」
ふわりと嫌な風が吹いた。寒気を感じて、反射的にオイアキュアは振り向いた。グラディスが震えていた。蒼白になった顔を歪め、救いを求めるようにその手がオイアキュアへと伸ばされた。反射的にその手を握り返して、あまりの体温の低さにギョッとした。
「グラディス!?」
何か恐ろしいものを見たように、グラディスの顔が引き攣った。苦しげに歪められた唇から、搾り出すような声が漏れた。
「風が……。風が来ます。逃げて……」
ガイが不意に気が付いたように空を見上げ、悲鳴に似た声を上げた。
「空が!」
何時の間に湧いたのか、厚い雲が空を覆い、見る間に太陽を覆い隠し、光を覆い隠した。砂漠の天気は確かに変わりやすい。だが、それは変化などという生易しい言葉では言い表すことは出来なかった。確かに昼のはずなのだ。太陽は輝き、砂の大地に眩しく反射していたはずだった。だが、空が厚い雲に覆い尽くされた今、とっさには人の顔さえ判別がつかないほどに暗い。
「松明を用意しろ!」
誰かがそう叫んだそのとき、不意にけたたましい笑い声が起きた。
「グラディス!」
狂ったように笑いながら、微妙にグラディスの顔が歪んでいた。薄く唇に笑みを浮かべたまま、ゆっくりとその指が天を指し示した。
「愚かな、占師の名を騙る者、お前が宿命を見る力を持ってなどいるものか! お前はゼアグの生き残り。自分の保身の為に王妃を袋小路に誘い入れた張本人。王妃はお前を呪いながら死んだのだ! 自らの子に
復讐の鍵を預けてな!」
グラディスの指がまっすぐに老人を指し示した。雷に打たれでもしたように老人は立ち尽くした。
「王妃の願いは成就されるぞ。見るがいい!」
地鳴りのような音が響き始めていた。暗い大地の奥から何かが立ち上がり、じりじりと町を目指し始めていた。一瞬の稲光が大地を青く染め上げた。黒々と、巨大な蛇が大地から鎌首をもたげている様が、はっきりと眼に焼きついた。
「た……竜巻だ! 竜巻が来るぞ!」
逃げることも忘れて、その信じられない光景に瞳を奪われた。幾度も瞬きを繰り返し、いつか現実ではないものとしてそれが消えてしまってくれるのではないかと、淡い期待を抱いた。
竜巻は近付いてきていた。ゆっくりとではあったが、この町に狙いを定め、着実に竜巻は近付いていた。
「エグノア! すぐに門の前にいるやつらを連れてできるだけ遠くに逃げろ。岩場の辺りまで行って、穴を掘り隠れるんだ! いいな、任せたぞ!」
オイアキュアの叱りつけるような言葉を聞いて、エグノアは呪縛を解かれたように、初めて視線を竜巻から外した。未だ信じられぬように竜巻を見つめたまま、門の前で立ち尽くしている仲間の姿を認めると、エグノアは慌てたように走り出した。急がなければ、障害物の無い砂漠で竜巻の前で立ち尽くすなど、自殺行為だ。確かに岩場の辺りまで行けば、何とかやり過ごせるかもしれない。運がよければという話だが。
「皆、地下室に行くんだ。腰を抜かしている奴は負ぶっていけ! グズグズするな!」
弾かれたように男たちは動き始めた。年寄りの手を引き、家の中から呆然と竜巻を見つめる女子供を促し、蟻の巣を突付いたように逃げ惑った。地鳴りのような音は激しくなり、時折響く落雷の音が着実に町に近付いている。
「グラディス! お前もだ!」
ぼんやりと放心しているグラディスを抱きかかえると、その頬にふわりと微笑みが浮かんだ。
「私は待っていた……」
絡み付くように首に回された手をオイアキュアは振り払った。その拍子にグラディスの体が投げ出される。
「何のつもりだ。その体から出て行け!」
グラディスの顔をしたグラディスでないものは、艶やかに微笑んだ。
「願いは成就された。代償は貰っていく……」
未だ立ち尽くしていたボロを纏った老人が、ゆっくりと砂に崩れ落ちた。既に息は無いことは、その見開かれた目を見て分かった。
「頭! 早く! 急がないと!」
目前に迫った竜巻に、ガイは地下庫の扉を開けたまま叫んだ。次の瞬間、町の土壁が轟音と共に崩れ去った。竜巻は町を飲み込んだ。
「頭――!」
ガイの目にグラディスを庇うように大地に倒れこんだオイアキュアの姿が微かに映り、そのまま、ガイは意識を失った。
ポツリと頬を打った雨粒で、グラディスは目を覚ました。辺りに散らばる家の残骸がそこに街があったことを語っていたが、周囲を囲っていた土壁も、高く立てられていた出入り口の門も、皆吹き飛んでその姿は無かった。
記憶の最後にあるのは、鼓膜を破るほどの轟音と全身を激しく打つ痛み、そして、誰かの体の重み。耳元で小さく名を呼ばれた。オイアキュアの声だった。
ゆっくりと起き上がり、グラディスは何かを固く握り締めている右手に初めて気がついた。強張ったように動かない指を無理やりこじ開けると、ころりと蠍の飾りが転がり出た。
「お前……、生きているなんて、奇蹟だな……」
ガイが立っていた。建物が吹き飛ぶときに出来たのだろうか、左手に血の跡がある。
「お前、分かってるか? 竜巻が来たんだぞ……」
おぼろげな記憶の中に、迫ってくる巨大な風の柱がある。そう――風が全身を叩いた瞬間、自分の上に誰かが覆い被さり、その痛みから守ってくれたのを感じた。そして、幾たびも自分の名を呼んだ。オイアキュアだった。右手に何かを握らせられ、最後に何か呟いたようだった。
「頭……は……?」
グラディスは蠍の飾りを両手で握り締めた。もう二度とオイアキュアの姿を見ることは無いのだと、そんな確信が痛いほど体を貫き、視界が涙で歪んだ。
砂漠は泣いていた。大粒の雨が町の残骸の上に、砂の大地の上に、地下から這い出て空を見上げた人々の上に降り注いだ。その雨は5日間降りつづけた。
ようやく砂漠に太陽が戻ったその日、エグノアは神殿からの使いの前にグラディスを連れて立っていた。もともと星見として神殿に行くはずだったグラディスは、やはり、神殿に返すべきなのだと考えたのだ。グラディスの白い肌に、砂漠の太陽は過酷過ぎる。
神殿からの使いは、グラディスを見つめると、小さく溜息をついた。
「ルナリアから知らせを受け、到着が遅れていたので心配しておりました」
天蓋付の輿にグラディスを案内すると、ゆっくりとその場に座らせ、熱くないようにと周囲の御簾を降ろした。
「星見としての才能だけでなく、器としての素質のある者は滅多にいません。神殿でも到着を心待ちにしていたのです……」
語るでもなく、ポツリと使いが漏らした。
「器?」
「お信じになられない方も多いですが、神をその身に降ろすことのできる才能のことですよ」
「器……」
エグノアは小さく繰り返した。御簾で隔てられたグラディスはもう、遠い世界の人間のように思える。
「よろしくお願いします」
使いのものはエグノアの言葉に小さく頷くと、出発の指示を出した。輿が担がれ、ゆっくりと動き始めた。
「エグノア!」
御簾を捲り上げてグラディスは振り向いていた。紅い血のような瞳から涙が滴り落ちているのが見えた。
たった一人の血を分けた弟……。行くなと叫びそうな唇を噛み締めて、エグノアは小さく笑った。
多分、これでいいのだ。自分は、弟という存在が確かにそこにあるというだけで十分だ。グラディスにしても、これからの神殿での生活を考えると、世の中から後ろ指を差されかねない兄を持っているよりは、ふと砂漠で触れ合っただけの知り合いが一人いるだけのほうがいいのだ。きっと。
エグノアは小さく手を振り、馬に飛び乗った。
オイアキュアは戻ってこなかった。だが、エグノアには死んだとは到底信じられなかった。いつか、風を周囲に携えて、笑顔で帰ってくるのではないかと、そんな風にしか思うことが出来ない。
その自分の感覚を信じようと思った。この、広い砂漠でたった一人の友の帰りを待つのも悪くは無い。
砂漠を渡る風はいつものように熱く、太陽は砂の大地を眩しく煌かせていた。
外伝 『Aqua―悲しみを知るもの』 了