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オリジナル異世界ファンタジー:「月蝕―Eclipse―11番目の神」
外伝『Aqua―悲しみを知るもの』
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外伝『Aqua―悲しみを知るもの』 [ 2 ]

 俄か湖の周りでは、数人の男が、炎天下の下で火を焚いていた。穴のあいた蓋を乗せた大釜に湧き出た水を入れて火にかけ、その穴に細身の剣を突き立て、更にその上に半円の鍋を逆さに被せる。こうすると蒸気を水に変えて飲用の水を得ることができるのだ。男達は顔を紅潮させ、鍋を滴り落ちてくる雫を集めているが、その手にある容器にはまだ半分ほどしか水が溜まっていない。
 声をかけようとしてグラディスは躊躇った。水をくれと言えば、男達は平気であの水を与えてくれるだろう。だが、男達の肌を伝う大量の汗を見た後で、それを口に出すことは出来なかった。喉が渇いてしょうがないわけではないのだ。砂漠の気候に慣れない体が、湿気を欲しているというだけで。
 足を冷やせば少しは違うかもしれない。グラディスはかすかに波打っている湖に足を伸ばした。長い裾をたくし上げ、爪先を水に入れると、冷やりとした感触が足先から上ってきた。キラキラと輝く水面が網膜を焼く。眩暈に似た感覚を感じながら、グラディスはゆっくりと足を進めた。
 ――人というものは、ある一つの運命を背負っている。運命の激しさの差、魂の道程の長短はあっても、全ての人間に運命が与えられているということはかわりはないのだよ。星見はその運命を読み解く術。その中でもお前は万物の声を聞く能力を持って生まれた。力を恐れてはならぬのだよ、グラディス。恐れられるべきは、その力を悪しきものとして使おうとする己の心だと思いなさい……。
 祖母は力ある星見だった。星見の里に生まれていなければ、神殿に使える女魔道使いとしてその名を轟かせたかもしれない。だが、星見の里の女達は里を出ることは無い。彼女たちに課せられた使命は子を産み、その子に星見の術を教えつづけることだった。
 ――お婆さま。でも、本当はこの力があることが苦しいのです。運命を読み解く星見が、己の運命を呪うのは愚かなことでしょうか。
 グラディスは無意識のうちに胸の前で指を組んでいた。閉じた瞼の裏に、ゆらゆらと反射した太陽が赤い影を作った。
 ――グラディス……。
 名を呼ばれた気がして顔を上げると、直射日光から瞳を守っていた布を誰かに引き摺り下ろされた。真っ白に燃えた視界の中にポツリと黒い染みのようなものが広がり、急速にグラディスの視界を奪っていった。
「お前は俺の供物だ!」
 喉に絡まったような、不快な声。荒々しく掴まれた腕を必死に振り払うと、不規則な光の渦で彩られた視界がグニャリと歪んだ。無意識に胸元の蛇の飾りを握り締め、グラディスは叫んだ。
「捧げられるべきは私ではない! 私は既に捧げられたものだ!」
 生れ落ちたその日に、天にかかる星が告げていた。この子供は砂漠に捧げられた者だと。
 鈍い痛みを鳩尾に感じて、グラディスは声もなく昏倒した。

(お婆さまの死ぬ日を言い当てたのですって?)
(ええ。一分一秒と違わずに、死に場所さえ)
(素晴らしい星見と言えばいいのかしら……、それとも……)
(やはり、『呪われたもの』だと……?)
(口に出すのはおやめなさい。呪われるわよ……)
 ――違う!
 見えてしまうのです。瞼をこれ以上ないほどしっかり閉じていても、頭の中に直接に『声』が語りかけてきて、カタカタと回り続ける命の紡がれる音が不意に途絶える。知りたくなどないのに。どうして、こんな風に暴力的に知らされなければならないのだろう。
(お婆さまがあの母親を介抱したときには驚いたけれど、ある意味、お婆さまの予言は当たったのでしょうね)
(白い女から白い子供が生まれ、そのものは鍵となるだろう。一つは楽園の、また一つは戦禍の……?)
(そう。砂漠に捧げられた真っ白い鍵……)
(奴隷女の子供がなによりも重要な鍵になるだなんて……)
 ――見えたから、あんなにあの場所には行くなと訴えたのに。お婆さまは笑ったまま天の星を指し示した。すべては運命だと言って。
(砂漠に捧げられたものなら、早いうちに砂漠に返さなければね)
(あの母親も砂漠のものだったのでしょう?)
(そう。砂漠に居たりしなければ、あの命ももう少し永らえたでしょうにね。全身から血を流して死ななければならないなんて……)
(奴隷輪くらいは母親のものを持たせたかったけれど。形見らしい形見は残っていないのだから……)
(しょうがないわ。治療の為に焼ききったのだもの……)
 彼女たちは、その会話を聞かれてなどいないと思い込んでいたに違いない。ふと通り過ぎようとした廊下で偶然耳にしてしまった会話だった。塞いだ耳から漏れ聞こえてしまった会話に、心の奥から沸き起こった悲しみとも苦しみともつかない感情を叫びにかえて、呪いの言葉を吐きたかった。母を蔑み、運命を蔑む者を、いっそ呪ってやりたかった。
 だが、母を侮蔑する彼らがあらん限りの力で母を治そうと努力したのもまた、事実だった。口々に蔑みの言葉を吐きながら、その両手が血で汚れるのも厭わずに、彼らは母の全身を清め、苦痛を少しでも和らげようと毎日氷室から貴重な氷を運んだ。
 矛盾した生き物だ。人というものが矛盾しているのか、彼らだけが矛盾しているのか、それはわからなかったが。
 数日後、エクリア国の神殿へ聖奴として行くように言われたときも、それが嘘だと言うことはわかっていたが、敢えて何も言わなかった。全ては運命でしかないのだから。

 視界が真っ赤に燃えていた。頬にざらつく砂漠の砂の感触がする。手を付いて体を起こそうともがいて、初めてその両手が後ろ手に縛られていることに気が付いた。
 ゆっくりと瞼を開くと、ギラギラと輝く太陽が目を射た。小さく呻き声をあげて目を閉じると、不可思議な斑紋が瞼の上を虹色に染め上げた。
「お前は俺の供物だ。そういう手筈になっていたんだ。なのにあの『化け物』が……」
 ぶつぶつと独り言のように呟きながら、ダナンはグラディスの脇に座っていた。
「そう、あいつは『化け物』だ。俺は聞いたぞ。俺は知っている……」
 薄目を開けて男を仰ぎ見ると、何かに憑かれたように男は虚空を見つめている。
「化け物……?」
 小さくグラディスは尋ねた。ダナンはじろりとグラディスの顔を睨みつけると、ぺろりと唇を舐めた。
「あぁ、そうさ。あいつは母親の腹を自ら裂いて生まれてきた。母殺しの悪魔だ……。俺は知っている。供物を捧げるんだ」
「あいつ……って?」
 ダナンはにやりと笑った。

 ゼアグの最後の日。臨月の王妃は迫り来る敵の手になす術もなく、王宮を逃れ、戦火の広がる町を逃げ惑っていた。ダナンは殺され、放置されている死体から金目のものを剥がしている最中に王妃の一行を見つけたのだ。あちらの方が金になると踏んで、すぐにその背中を追った。
 そして、見たのだ。
 不意の激痛に王妃がうずくまり、倒れ臥した。苦悶の形相のまま、王妃は天に昇っている星を睨みつけた。
「ゼアグの力の全てをこの子に捧げなさい……」
 王妃は次に起こることをまるで知っていたかのように、胸の前で両手を組んだ。次の瞬間、彼女の膨れた腹に音もなく無数の亀裂が入り、おびただしい血と悲鳴の中で赤子は生まれた。

「お前が昨日あの名を呼ぶまで、気付かなかった。だが、確かにあの聖痕、あの容貌……、ゼアグの王子のものだ。あれは『化け物』だ。母殺しの……」
 側近のひとりはその惨状に悲鳴を上げ、生れ落ちた赤子に切りかかった。その刃から赤子を守るために、幾人かが命を落とした。付き従っていた一番年長の侍女が、近くに倒れていたゼアグの戦士の手から剣を剥ぎ取り、赤子の臍の緒を切った。そして、脇腹に短く切開線を入れると、彼女は血に濡れた赤子を抱き、泣きながら王妃の額の宝石を取った。
 大粒の碧玉――王妃が輿入れの際に王から贈られた宝石は風の宝珠と呼ばれ、常に風を呼び、風ある限りゼアグは滅びぬとまで言われたゼアグの象徴だった。それを彼女は赤子が泣き叫ぶのもかまわずその傷口に押し入れたのだ。
「あぁ、そうだ。あいつはゼアグの風の力で自分の母親を殺して生まれてきた。『呪われたもの』なんだ……」
 ――呪われたもの!
 グラディスは不意に沸き起こった怒りに似た激情を必死で噛み殺した。
「呪われた……もの……?」
 小さな問いかけに似たグラディスの声は、もう、ダナンには届いてはいなかった。虚空を見つめたままブツブツと意味の通らない呟きを繰り返しながら、ダナンは忙しなく唇を舐めた。
「俺の供物だ。俺の。なのに、あいつが奪った。砂漠におさらばするんだ。帰れ。俺はまだ死にたく……ない。そう、死ぬ……。違う――殺す」
 ――狂っている……。
 グラディスは無意識にダナンを避けるように体を逸らした。忙しなく舐めつづけているにもかかわらず、潤んだ様子も見せないダナンの唇が矢継ぎ早に歪んだ言葉を紡ぎ出した。
「生贄は必要だ。砂漠に、いや、俺に? 違う。『呪われた』――殺さなければならない」
 ダナンの手がゆっくりと腰のナイフに伸びた。半月に反り返り、尖った切っ先が砂漠の太陽を反射して、瞳を焼いた。
「俺の供物!」
 振り下ろされるナイフの残像を網膜に焼き付けて、グラディスは目を閉じた。
(白い女から白い子供が生まれ、そのものは鍵となるだろう。一つは楽園の、また一つは戦禍の……?)
(そう。砂漠に捧げられた真っ白い鍵……)
 ――お婆さま……!
 突然激しい風が体を取り巻き、閉じた瞼にびしゃりと嫌な感触が走った。遅れて、鼻腔に生臭い匂いが充満した。ドサリと何かが倒れる音がして、不意に地面から引きずり起こされた。
「間に合ったか……」
 瞼を開いた。目の前に頬を血で汚したオイアキュアの顔があった。そして、そっと足元に視線を移すと、喉を掻かれ既に命を失ったダナンが、目を見開いたまま倒れ臥していた。
「殺し……た?」
 胸元から酸っぱいものがこみ上げ、グラディスは一瞬眉をしかめた。
「裏切りには死を。――生きていたところで役には立たん。ゲダ中毒だ」
 オイアキュアは冷たく言い放つと血で濡れたナイフを乱暴に上着で拭った。焼けた胸元で刺すように蠍の針が光った。
 グラディスは視界が急速に外側から失われていくのを感じた。全身に降りかかったダナンの血の匂いが激しい嘔気を誘った。地面に崩れ落ちながら、遠くで誰かの叫び声を聞いた。


 頬に微かに触れる風が湿り気を帯びていた。目の前に薄く織り上げた更紗の布が天蓋のように張られている。ゆっくりと首を巡らせると、傍らに水の入れられた壺が置いてあり、微かに傾けられた口からポタリポタリと水滴が落とされていた。グラディスは一瞬、自分が何処に居るのかを考えた。そしてすぐ、血に染まったダナンの顔と、体中に降りかかった血の匂いを思い出した。
 ――裏切りには死を。
 僅かの迷いもなく、血の匂いや一つの命が失われるということにさえ眉一つ動かさず、冷たい瞳が自分を見返していた。助けてくれたのだろうと思う。『間に合った』とオイアキュアは言った。少なくとも、自分を助けるために来てくれたのには間違いがないのだ。
 だが、ふと疑問が沸き起こる。オイアキュアは『いつ』自分が襲われることを知ったのだろう。そして『どうして』助けてくれたのだろう。あの冷たい瞳は『助かってよかった』とは微塵も言ってはいなかった。
 ――裏切りには死を。
 口実だったのだ。裏切りを周囲に知らせず制裁を加えるための。
 グラディスは両手で顔を多い、体を小さく丸めた。何故か無性に苦しかった。銅鑼のように自分の心臓の拍動が耳についた。小刻みに震える唇を、グラディスは拳で覆った。
 不意に近付いてきた足音が足元で止まり、誰かがそっと傍らに座った。
「どうした。苦しいのか?」
 心配そうな声色にほっとして顔を上げると、奇妙な表情をしてエグノアが座っていた。
「いいえ……」
 小さく答えながら、グラディスは身を起こした。ようやく自分の全身に目が行き、初めて、自分の体の血が拭われ、服も換えられていることに気がついた。
「怖かったか?」
「……はい。あの人はもう、狂っていました……」
「違う……」
 グラディスは、きっぱりと否定したエグノアを驚いたように見上げた。厳しい視線にたじろぎながら、次の瞬間、怖かったかと問いかけたものがダナンに襲われたことではなく、オイアキュアその人だったことを悟った。
「はい……。とても……。でも、正論だと思います」
 一つの集団を統べる者として。砂漠で生き抜いていく者として。
 エグノアは黙っていた。
 失神したグラディスを介抱してやりながら、エグノアはグラディスが弟かもしれないとオイアキュアに告げた。帰ってこなかった母はルナリアで拾われ、グラディスを生んだのかもしれないと。そう考えると、年齢も、グラディス自身が語った母の記憶も、何よりもその良く似た横顔の説明がつくように感じた。
 オイアキュアはじっとエグノアを見つめ、ただ一言『すまなかった』と言った。
 ダナンに制裁を加えるにはこれ以上ないほどの絶好の機会だった。裏切りをそうと知らせることなく、『仲間と認められたものに妄りに手を出してはならない』という規則を破ったという理由で周囲は納得するだろう。グラディスのどこか女性を思わせる優しげな風貌やまだ幼い肢体は、ダナンが執着する理由を周囲に納得させるだろうし、また、事実これから先出てくるかもしれない不貞の輩に対しての見せしめとしても絶好の機会だった。
 だからといって、それがグラディスを危険に晒していいということには繋がらないことを、オイアキュアはよく分っていた。まして、それが片親とはいえ、エグノアと血を分けた兄弟かもしれないというのだから。
「食事はここに運ばせる。砂漠の太陽に長時間さらされて、かなり消耗しているはずだ。寝ていろ……」
 エグノアはまだ血の気の薄いグラディスの顔を見つめて、微かに笑って見せた。途端に、グラディスの顔がほっとしたように緩んだ。微笑んだときに僅かに哀しげに見える笑みは、母にそっくりだ。
 エグノアは立ち上がった。そのまま部屋を出て行こうとして、ふと、思い出したように立ち止まった。
「グラディス、お前の母の奴隷輪は、銀のカリナ花にクラビカの実を紅玉で象ったものか?」
 カリナの花は雪の上にしか咲かない。エグノア自身、カリナの花を実際に見たことはなかった。
「ええ、そうです。幼いときに、寒い北の大地にしか咲かない花だと教えてもらったことがありました……」
 カリナの花は孤独を恐れぬ強い心、クラビカの実は運命を甘受する潔さ――母はそう、その模様の意味を教えてくれた。星見の修行が辛いと泣くたびに、諭すようにその模様の意味を繰り返した。母はその意味の通りに、孤独に運命のままに死んでいった。それが幸せなことなのかどうか、グラディスには分からない。
「そうか……」
 ただ一言、小さく返事を返すと、そのままエグノアは逃げるように部屋を出た。
 ――間違いない。弟だ。
 銀のカリナ花の模様は珍しいのだと母は言っていた。いい目印だから覚えておきなさいと。
 この再会を喜ぶべきなのか悲しむべきなのか、エグノアには分らなかった。

 足早に遠ざかっていく小さな足音を見送って、グラディスは再び体を横たえた。チラチラと瞼に浮かぶ感情のない瞳と蠍の針が、眩暈に似た感覚を引き起こし、グラディスはたまらず体を小さく丸めた。膝を抱え丸くなっていると、少しだけ安心することができる。微かに差し込む砂漠の光に、視界が赤く染まる。
 ――母親の腹を自ら裂いて生まれてきた、母殺しの悪魔……。
 確かにダナンはそう語った。ゼアグの最後の日に、王妃の腹を裂いて生まれ出たのだと。あの聖痕の奥には、ゼアグの魂ともいわれた風の宝珠が埋まっている。
 風――そうだ、ゼアグは風の国だった。常に山間から砂漠に向かって流れる風が、砂漠の砂の侵入を防ぎ、風の力を使って風車が小高い大地に水を運んだ。砂漠の周辺の国の中であんなにも豊かで美しかった土地はないと、若かりし日にゼアグを訪れたことがある婆さまは言っていた。――だが、風は失われ、ゼアグは滅んだ。エクリアによって治められているかつてゼアグのものだった土地は、今ではじりじりと砂漠の砂に侵略されつつある。砂漠は広がっていく。風が砂を運び、大地は乾き逝く。
 グラディスはそっと胸元の飾りを両手で包み込んだ。
 知恵と水の象徴である、蛇。――だが、蛇にはもう一つの意味がある。過去の殻を脱ぎ捨てる、再生という意味だ。そしてオイアキュアのもつ蠍にも、砂漠と死以外にもう一つの意味がある。命を賭す真実――かつて蠍は自害の為の道具としても使われたのだ。この蛇と蠍の銀の飾りは意図的に二つで一つの組として作られたのに違いない。
 小さく足音が近付いた。グラディスは、その足音がゆっくりと自分に近付いてくるのを待った。
 ゆっくりと布の扉が押し開けられ、足音の主は横たわったままのグラディスを認め、躊躇ったように一瞬息を飲み込んだ。
「寝ているのか……?」
 オイアキュアの声だった。微かに声を落として、伺うように発せられた言葉は優しげでさえあった。
「グラディス……?」
 じっと息を押し殺して、グラディスは目を閉じ、返事をしなかった。むやみに高鳴った鼓動がこめかみで銅鑼のように打ち鳴らされ、オイアキュアの耳にまで届いてしまうのではないかと不安になった。言葉を交わすのが恐ろしかった。あの瞳を見て、何を言えばいいのか、その瞳が未だ、あの冷たいままの瞳であるかもしれないのだと思うと、恐ろしくてたまらなかった。
 ゆっくりと空気が揺れて、オイアキュアが横に座ったのが感じられた。閉じた瞼に嫌というほど視線を感じた。ふと、何かが髪に触れ、ゆっくりと撫でるように動いた。一瞬遅れて、それがオイアキュアの掌だと分かった。
「お前の瞳には、きっと俺の知らない真実までも映るに違いないな……」
 寂しそうな声だった。後悔がグラディスを包んだ。
 数回、無造作にグラディスの髪を梳き、オイアキュアは来たときと同じようにゆっくりと部屋を出て行った。布の扉が閉まったと同時に弾かれるようにグラディスは飛び起き、まだ揺れている扉を見つめた。寂しげなオイアキュアの声が、微かに痛みとして胸の奥に残っていた。

 微かに揺れる布の音を背後に聞きながら、オイアキュアは小さく溜息を漏らした。寝ていてくれて助かったような、反面、残念でならなかったような相反する感情が、すっきりとしない砂漠の視界のようにオイアキュアを憂鬱にさせた。
 倒れ臥し、煌く刃を向けられたグラディスの細く白い喉を見たとき、凶暴なまでの怒りが体に渦巻いたのを知った。意外だった。
 グラディスに執着を見せるダナンからわざとグラディスを取り上げれば、ゲダの吸い過ぎで異様なほど敏感になったダナンの精神を逆なですることなど計算のうちだった。オイアキュアにはグラディスに危害を加えられることなく助け出せるだろうという、多少楽観的過ぎる考えがあったし、また、仮にうまくいかなくても新参者が一人消えるくらいなんでもないことだと思っていた。
 だが、観念したように瞳を閉じ、倒れ臥したグラディスの白い横顔を見たとき、止めることに出来ないほどの怒りが込み上げた。危害を加えるどころか、触れることさえ許さぬほど、その怒りは激しかった。
 風が吹いた。怒りの風だ。耳元で甘い声が殺せと囁いた。
 ――殺せ。(それ)に危害を加えようとするものは全て。あなたの感情を曲げようとするものは全て。あなたの前に立ちはだかるものは全て。
 気が付いたとき、ダナンの首を掻き切り、その血の中で呆然と立ち尽くしていた。細いグラディスの体を引きずり上げると、その体の体温を感じて不意に本心が漏れた。瞳を開いたグラディスの、問いかけ非難するような紅い瞳。殺したのかと問いかける、青ざめた顔。
 そうだ。殺した。裏切りには死を。最初から殺すと決めていたのだ。
 しかし、ダナンの血で汚れたグラディスの咎めるような瞳を思い返すと、それすら言い訳のようにしか思えない。そう、事実、言い訳だ。怒りがダナンを殺した。止めることの出来なかった怒りが、凄まじいスピードで一人の男の命を奪った。
 ゾクリと背筋を悪寒が走った。とうとうあの甘い声のままに誘われるように人を殺した。人を殺めたのは初めてではない。だが、感情のままに人を殺したことはなかった。けして破ってはならないタブーだと自分で戒めていた。血の匂いの中で、あの甘い声はしてやったりというように笑っていた。勝ち誇り、蔑むように甲高い声で笑い続けていた。
 ――グラディスに何を確かめようというのだろうか……。
 もしもグラディスが起きていたら、もしも起きていて、自分の耳に聞こえる甘い声のこと、怒りの感情についてを、隠すことなく全て晒したら、あの紅い瞳はいったいどんな色を浮かべるだろう。
 慰められたかった。そして、それと同じだけの強さで、非難し軽蔑されたかった。与えられる感情は何でも良かった。ただ、自分に向かってくるまっすぐな感情が与えられさえすればよかった。もしも、違う世界に生きているのだとでもいうように瞳を逸らされてしまったら、何かが音を立てて崩れるような気がした。
 ――らしくない。らしくないな……。
 自嘲気味に小さく笑うと、オイアキュアは指先で胸元の蠍の針を弾いた。ちくりと微かな痛みが指の腹に走って、纏いついて離れない血の匂いが微かにオイアキュアを包んだ。



 ガタガタという大きな音でグラディスは目を覚ました。オイアキュアの突然の訪れを受けた後、しばらく追っていくかどうか悩んだりもしたのだが、試しに立ち上がってみるとまだふらつきが激しく、立って歩くどころの騒ぎではなかった。重く痛む頭を抱え、仕方なく再び丸くなると、ようやく緊張の解けてきた体には強烈な睡魔が襲ってきた。泥のような眠りに落ちながら、オイアキュアの寂しげな問いかけが不意に耳に甦った。――だからだろうか、哀しい夢を見たような気がする。
 グラディスはゆっくりと体を起こし、寝乱れ広がった髪をかきあげた。幾分、重い感じのする頭痛は残っていたが、眠りに入る前にあった全身の虚脱感はもうない。試しに立ち上がってみると、微かに眩暈に似た感覚は残っていたが、体を支えられないほどではなかった。
 ――騒がしい……。何か、あったんだろうか。
 そっと、布の扉を押し開けると、目の前には忙しく働く男たちの姿と、すっかり片付けられようとしている天幕の山が見えた。
「起きたか、ちょうど良かったな」
 何事のなかったようにかけられた言葉に、グラディスは振り向いた。オイアキュアが立っていた。あの寂しそうな仕草が嘘だったかのように、口元には不敵な笑いさえ浮かべている。おそらく、いつものオイアキュアだ。まっすぐに見つめたままのグラディスから、オイアキュアは不意に視線を逸らした。
「町へ行く。エグノアの馬に乗せてもらえ……」
 背後で、男たちが今まで休んでいた天幕を崩した。成す術もなく、ただ邪魔にならぬようにとだけ心がけて、グラディスは立ち働く男達を眺めた。屈強な腕に浮かぶ筋肉、焼けた頬、短い髪。
 腰まで流れる長い髪を無意識のうちに指で弄りながら、グラディスは溜息をついた。
 何もかもが違いすぎる。砂漠は。自分と、この砂漠の民は。結局、何処に行ってもこの外見と星見の能力は、周囲から自分独りを隔絶した。自分は異端者でしかありえない。
 ふと、独り酒を飲んでいたオイアキュアを思い出した。彼もまた、異端だ。砂漠にこれ以上似合う男はないというほど砂漠の民であるのに、これほどこの場に不似合いな人間もいない。
 砂漠の砂にまかれ、グラディスは所在なげに立ち尽くしたまま、ただ男たちの姿を眺めていた。

 エグノアの馬に収まると、グラディスは申し訳程度に頭に掛けていた布を深く被りなおさせられた。幾分、叱るようなエグノアの声に身を竦ませ、言われるままに布を引き下げる。
「町へは何をしに?」
 大人しく馬に揺られながら、グラディスは尋ねた。
「隊商の荷物だけでは足りないものもあるからな」
 本当のところは違った。確かに、足りないものを仕入れに町に向かうことはある。だが、今回の移動の目的は品物の仕入れではなかった。疲れきったグラディスの体には、砂漠の砂の硬い褥ではなく、町の柔らかな夜具が必要だった。オイアキュアはグラディスを町に残そうと考えていた。北の民のように色素の薄い者は、長期間砂漠の太陽に晒されると肌が爛れてくる。それだけに留まらず、その爛れた肌はいつしか増殖を始め、じわじわと止まることのない出血を繰り返す。そして、早くて5年、遅くても15年では死を迎える。例外はないのだ。
 今、向かっている水辺の町、ケマリにはかつての仲間がいる。奴隷女と恋に落ちて、仲間を抜けたガイだ。仲間を抜けてからは町に落ち着き、水運びの仕事をしていた。その仕事の関係で、ガイにはエクリアの神殿との繋がりがある。祭祀に使う特別に精製した水を納めるのだ。事情を話せば、エクリアの神殿のどこかがグラディスを引き取ってくれるかもしれないという淡い期待が、オイアキュアの中にあった。
「今日は町に泊まることになるだろうな……」
「え、全員?」
 驚いたようにグラディスがエグノアを見上げた。
「まさか。泊まるのはオイアキュアとお前、そしていつも仕入れの交渉をする面子だけだ。あとの者は馬を引いて町の外で野宿をするんだ」
 オイアキュアが全員を引き連れて移動するのには理由がある。一つは常に自分の目の届く場所に置いておくため、そして、もう一つは町に対して自分達の数を見せつけるためだ。
「エグノアは泊まらないの?」
「俺はオイアキュアが居ないときの監視役だからな」
 その言葉を聞いて、グラディスは小さく溜息を漏らした。
「そら、あれが町だ」
 土の脆い壁を四方に積み上げて、一応周囲から直接入り込むことが出来ないようにしてある。知らぬ間に地面は砂混じりの草地になっていて、町の周囲や町の中には幾分背の高い樹も見られた。
「俺たちはここで待機だ。ここからは歩いていけ」
 乗せられたときと同様に抱え上げられて降ろされながら、グラディスはちらりとエグノアを見上げた。どこか違和感がある。腫れ物に触るように扱われているわけではないが、妙に気を使われたり、急に世話を焼かれたり。だが、その表情の裏にある真意は計り知れなかった。

 男たちに見送られ、町へ入ると、交渉役の男たちはすぐに町のどこかに消えていった。オイアキュアは何かを探すようにふと視線を巡らせた。そのときだ。
「頭!」
 もう、仲間ではないのだからその呼び方は止めろと何度も言ったはずなのだが、彼は頑固にその呼び方を変えようとしない。
「ガイ」
 懐かしげに声を掛けようとするオイアキュアを制して、ガイは有無を言わせずグラディスともども人目につかない物影に引きずり込んだ。
「頭、悪いことは言わない。早く町を出るんだ」
 真剣そのもののガイの顔を穴のあくほど見つめると、オイアキュアは困ったように眉を寄せた。
「用事さえ済めば長居はしないさ、こんな町」
「それじゃ遅いんだよ」
 訳が分からないというようにオイアキュアは肩をすくめて見せた。ガイはじれたように一瞬声を荒げると、慌てたように再び声を落とした。
「変なことを言う爺が町に来て、その、頭のことを――」
 言い難そうに唇を噛み締めると、ガイは意を決したように口を開いた。
「爺が頭のことを、『呪われた化け物』だと。災いを呼ぶと言って、町の男たちを焚き付けているんだ。俺は、頭に傷ついてもらいたくないし、この町だって傷つけさせたくない。――あんな気違い爺の世迷言のせいで……」
 グラディスは両手で口を覆った。色を無くした視界に、矢継ぎ早に映像が現われては消える。
 戦い。血。赤子。宝玉。剣。空。雲。雨。砂漠。星。――風。
 思わずオイアキュアにしがみつきながら、グラディスは荒い息を吐いた。誰かが直接頭の中に映像を送り込んででもいるかのようだ。
「おい。大丈夫か?」
 グラディスは無意識のうちに頭を振っていた。強烈な吐き気が襲った。
「風が……。風が来る」
 グラディスの青ざめた顔を見て、一瞬オイアキュアに戦慄が走った。笑った――ように見えたのだ。あの、耳元に囁く甘い声のように、誘うように。
「風が来る。風を、呼ぶのよ……」
 不意に荒々しい足音がオイアキュアを取り巻いた。
「居たぞ、引きずり出せ!」
 とっさにグラディスをかばいながら、オイアキュアは自分を取り巻いた男たちにナイフの切っ先を向けた。

 
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