外伝『Aqua―悲しみを知るもの』
外伝『Aqua―悲しみを知るもの』 [ 1 ]
迷い人よ 舞う砂に惑い 照りつける陽の神ハロの蹄にかかり
枯れ果てた祈りの中に シンシアの雨の腕を夢見るものよ
しばしその歩みを止め 風の音に耳を傾け 頭を垂れよ
迷い人よ 砂で荒れた大地にただ数多に注ぐこの愛は 何処から来たか
祈りさえ果てた大地に 幾度となく繰り返される営みは 何を求めるか
迷い人よ 砂漠を渡る 迷い人よ
風に紛れ古人は語る 砂漠が泣いたその日のことを
迷い人よ 砂漠を渡る 迷い人よ
しばしその歩みを止め 風の唄う その歌を聴け
(グラカイエに伝わる古い子守唄『悲しみを知るもの』より 第一節)
(それ)は不意にオイアキュアの前に引き出された。跪かされたまま、砂漠を渡る者がよく身に付ける薄汚れた布が引き剥がされると、突然目の前に流れ出た美しい銀の滝に周囲からは息を呑む音がする。その輝きに僅かに目を細めると、オイアキュアは(それ)の隣で胸を張っている小男に視線を移した。
視線を受けて小男は待っていましたとばかりに更に誇らしげに胸を張って見せた。
「積荷の中に隠れていやがったんです。金目のものも身に付けていやがるし、よく見りゃ別嬪だし、殺っちまうのは勿体無いんで連れてきやした」
小男はにやりと笑うと(それ)を小さく小突いて顔を上げさせた。
最初にオイアキュアの目に入ったのは、その『瞳』だ。天幕の前で焚かれた炎を受けて、キラキラと輝く恐ろしく大きな瞳は紅く、底知れぬ透明な煌きさえ湛えてオイアキュアを見つめた。一瞬、その場に居たもの全てが再び溜息を漏らす。砂漠の夕日は赤いが、(それ)の瞳はその夕日よりもさらに鮮烈に輝いた。
「名前は?」
オイアキュアは短く問いかけた。
おそらく(それ)は少年だった。幼さを残した意志の強い瞳が、まっすぐにオイアキュアを見つめた。
色素のない少年の肌はぬけるほど白く、頬だけが緊張と焚火の熱とで紅潮しているのが分かった。僅かに緩められた色の薄い唇は微かに震え、不意に小さく引き結ばれると、コクリと細い喉が鳴った音が聞こえる。滝のように顔の周りを彩る銀の髪は微かに渦巻きながら腰まで流れ、幾筋か細く編みこまれた髪の束が、まるでそれ自体が美しい飾りでもあるかのように複雑に縒り合わされていた。砂漠に住むものではないことは、一目でわかった。
少年は緊張のためか、オイアキュアの問いかけに応えようとしない。
「言葉がわからないのか? 声が出ないのか? ――名前は?」
ただ、人形のように呆然と立ち尽くしているその美しい銀の影に、オイアキュアは苛立ったように手を伸ばした。
「話せないのか、話さないのか、どっちだ? ――お前はただの木偶か?」
紅い瞳に映っている自分を見つめながら、オイアキュアはその白く細い顎に手をかけた。吸い付くような木目の細かい肌が指先に触れる。
「……キュアノス・デ・ゼアグ・イアド……?」
震えながら発された細い声は微かに語尾が上がった。
発せられた言葉は古いエクリア語で『ゼアグの王子キュアノス』という意味だが、ゼアグという国は既に20年も前にエクリアに吸収された。吸収直後には活発だったゼアグの復興を望む反乱も既に絶えて久しい。
意表を突かれたように動きを止めてしまったオイアキュアを無表情に見つめながら、なおもその銀の影は震える声で問い掛けた。
「あなたが、キュアノス・デ・ゼアグ・イアド……?」
その白い面に既に恐怖の色はない。代わりに微かな笑みさえ口元に浮かびはじめていた。
「問いに答えろ!」
オイアキュアは我に返り、乱暴にその銀の髪を鷲づかみにすると引き倒した。声もなく細い体はオイアキュアの足元に倒れ、豊かな銀の髪がまるでその体を覆うように乱れた。
「私はグラディス……。ルナリアの星見宿からエクリアに売られる途中の奴隷(アルドラ)……」
その言葉を証明するように、長い衣の乱れた裾から細い足首が覗き、そこに銀の華奢な奴隷輪が見えた。
「あなたこそがゼアグの遺児。幾度も星見の中に現れた、あなたこそが碧玉の宝冠を抱く者……。ようやく私は亡き祖母の言葉通りに生まれてきた使命を果たせそうです……」
グラディスはゆっくりと立ち上がると、両手を胸に当てた。周囲で見つめる者達はポカンとその様子を見つめていたが、急にゲラゲラと笑い始めた。
「お頭、こいつ見てくれは美人ですがお頭の方はからっきしのようですぜ。自分の立場を分かっちゃいない」
小男が下卑た笑いを口元に浮かべた。
破滅の神ライアの落とし子――それがオイアキュアに付けられた通り名だ。最初は砂漠を塒にする数人の気楽な集団だった。だが、いつのまにかその人数は膨れ上がり、世間では一端の窃盗団のような言われようだ。
砂漠の中で水場を持たないオイアキュア達は水を得るために隊商を襲い金品を奪う。だが、無差別ではない。隊商の中には、貧しく水場を持たない村の人間を騙し、奴隷として売り飛ばすものも少なくはないが、オイアキュアは特に奴隷を売る隊商を嫌った。オイアキュアが狙うのはいつも、人買いの隊商だった。
砂漠の周囲の村では、奴隷と言っても使用人と同じような意味しか持たない。ただ、使用人とは違い、村の大事な会議や決定には参加することが出来ない。だが、人買いが連れて行く先のエクリアでは、状況が違う。エクリアの奴隷は生活も考えも、命さえも縛られた。エクリアでの奴隷は家畜と同じ意味を持っていた。
周辺の村人はオイアキュアを好んではいなかったが、なによりも自分自身の身の安全を図るためにオイアキュア達に水を差し出し、人買いから守ってもらい、金を得ていた。砂漠で水場を持たないことは常に死の危険を伴ってはいたが、オイアキュアはそれを逆手にとり、守らねばならない場所を持たないことで戦いを有利にしていた。
破滅の神ライアの落とし子――それは隊商の中で囁かれはじめた名だった。積荷を諦めさえすればオイアキュアとて無駄に命を奪うことはしない。だが、一太刀でも歯向かえば、けして容赦はしないかった。傭兵を雇う隊商も多いが、地の利があり、人数の多いオイアキュア達の前では逆に寝返る者とて少なくはない。
奪った金と財宝の一部は働きに応じて下の者に分けられ、食料や酒はすぐに酒盛りで消えた。奴隷のほとんどは周辺の村に返されたが、稀に故郷に帰れない事情のものも居り、そういう場合は下働きをさせるか、見つけたものに与えられるのが常だった。事実、過去にはそうやって下働きをしていた女と愛を育み、集団を抜けて周辺の村に住みついたものもいる。
小男は当然この美しい奴隷の細く白い首筋や柔らかな輪郭を描く唇にちらちらと視線を投げては、与えられた後のことを考え、にやりと下卑た笑みを浮かべている。
オイアキュアはじっとグラディスを見つめた。
まだ幼い頃、自分を養っていた年老いた父に繰り返し聞かされた自分の生い立ち。ゼアグの滅びた夜に、王妃は近づいてくる敵兵の足音を聞きながら自らの手で腹を裂いて臨月になる我が子を産み落とした後、自害したのだと。王妃として母として、生まれくるものを守るための壮絶な死様。そして王妃付の女官に預けられたその赤子こそがオイアキュアだと言うのだ。
だが、オイアキュアはその話を信じてはいなかった。確かに自分の誕生はゼアグの滅亡の頃ではあったが、生まれを証明するものすらない。年老いた養い父の話を信じろというほうが無理だったのだ。
だが、いま、確かに目の前の人物は自分を『ゼアグの王子』と呼んだ。
「星見宿に居たと言ったな?お前は星見なのか?」
最近勢力を増しているエクリア国は政の多くを星見に委ねるという。星の動きとその輝きに未来を見るという星見は、その年の農作物の出来や天候の変化、隣国の王の体調までをも知り得るといわれるのだ。
「ルナリアは星見の暮らす村。幼いときから全てのものに星見の技が教えられます。男児で成長の見込みのあるものは星見宿に入り、独り立ちできる程度になると、星見を必要とする場所へ――多くはエクリア国の神殿へ――買われていくのです。星見宿で過ごす私たちは、一生を神殿の奥深くに繋がれる聖なる奴隷となることが初めから決められているのです……。私はエクリアにある光の神エクリヴィアラの神殿へ売られる途中でした」
なるほど、だから足首の奴隷輪もほとんど飾りとしか思えないような華奢なものなのだろう。
「砂の下にも水場があることがある。星見にはそれが分かるか?」
グラディスは微かに首をかしげると、空を見上げ、天空に輝く星を指差した。
「北の碧玉星は輝きが薄く、東の碧玉星は二つに分かたれています。おそらく、もう少し南に行けば小さな水場が見つかるでしょう。しばらくすれば風が強まり、雨が降ります。僅かな間、おそらく明日の朝には降り止むでしょうが……」
オイアキュアは空を見上げ、微かに流れてくる風の匂いを嗅いだ。松明の燃える匂いの中に紛れて、確かに微かに湿り気を帯びた空気を感じる。
オイアキュアは傍らに積んであった金の塊を小男に投げ与えると、呆気にとられている小男には目もくれず、腰に下げた剣を抜き、自らの左の薬指を傷つけた。
「なるほど、星見は役に立つ。仲間になれ、お前には水案内をしてもらおう」
血の流れる指先を見つめて一瞬目を見開いたグラディスは、その生暖かな血が自らの額をゆっくりと滑っていくのを感じた。オイアキュアはグラディスの白い額に血で十字を描くと、傍らで呆けている小男に今一度視線を移した。
「こいつの寝る場所と移動の馬を手配してやれ。夜があけたら水場探しだ」
そのとき初めて小男は自分がこの美しい銀と紅玉で出来たような人間を手に入れられないことに気が付いた。額に血で十字を描くことは『仲間』として迎え入れる証。一度仲間となったものに妄りに手を出すことは許されない。
「役に立つものを連れてきたな。殺さなかったのも懸命だ。エグノア、こいつに十分な酒をやれ。今日の殊勲者はこいつだ」
片隅の暗がりから影のように音もなく現れた背の高い影が、小男に無理やり杯を持たせた。
「酒を持て!」
待ちかねたようにあちこちで小さな歓声が上がり、つい先ほど積荷の中から引っ張り出したばかりの干し肉や酒、カヤの粉を練って焼きしめた焼き菓子が並べられた。新たに火を焚くと、殺した馬の肉を剣に刺し、あぶっては焼けた部分を削ぎ、口に運ぶ。あちこちから武勇伝を語る笑い声や、冷やかしの合の手が聞こえ始めた。
そんな男達の様子をあっけにとられて見つめていたグラディスは、不意に思い出したように額に指をやった。ざらざらとした感触がして、既に血が固まっていることが分かった。
「新参者の印だ。少なくとも今晩一晩は取るな。取って誰かに無体なことをされても責任は取れんぞ」
エグノアと呼ばれた背の高い男がグラディスの手を止め、にやりと笑った。
「俺はエグノア。生まれはクラヤだから、ルナリアのことは少しなら知っているぜ。俺の親父はルナリアによく食料を売りに行っていたからな」
天幕の前にどかりと腰をおろし、一人で玉杯を煽りはじめたオイアキュアをグラディスは黙って見つめた。その赤茶けた髪、日に焼けた褐色の肌、そして、砂漠の民特有の美しい琥珀の瞳は幾たびも自らの夢の中に訪れた。その姿は美しい碧玉の王冠を戴き、その両手が空にかざされると、熱く体を焼く陽の神ハロの姿は消え、美しい雨の精霊シンシアの夢のような透明な羽根が降り注いだ。
――そなたは鍵となろう。碧玉の王の足元に臥しこの乾き逝く大地に恵みを運ぶも、碧玉を紅玉と換えこの大地に戦火を走らせるも、どちらもそなたの持って生まれた定めじゃ。だが、グラディス、一つだけ忘れてはならぬ。婆はどちらのそなたも愛しておるぞ。
断片的にしか残っていない幼い記憶の中で、なぜか祖母のこの言葉だけは一字一句忘れることなく覚えている。
「何を見ている……。することがないなら酌くらいしたらどうだ」
オイアキュアの瞳がいつの間にかグラディスを捕らえていた。破滅の神ライアの落とし子という恐ろしげな名をつけられていながら、その瞳はどこか冷めた色を湛えていて、周囲で歌い騒いでいる輩達とは明らかに人種が異なる。
グラディスはゆっくりと足を進めるとオイアキュアの隣に滑り込んだ。松明の炎を受けてキラリと一瞬紅い瞳が輝くと、不意にポツリと二人の間に雨の粒が落ちてきた。
「雨……か」
オイアキュアは無造作に空いていた手を空にかざした。
グラディスが先刻言った通りに雨は降り出し、そして夜が明けるまで降り続いた。
雨の降った朝の砂漠はしっとりと砂が濡れ、足元から僅かに冷たい風が起きる。じき、太陽が昇り始めると湿った砂は見る間に乾いていくのだが、その僅かな涼の時をグラディスは楽しんでいた。
「おい、水場探しだ。馬は用意してある」
背の高い影がそんなグラディスの小さな楽しみを中断させた。エグノアだ。砂漠の民より僅かに肌の色は白く、瞳の色は緑がかっている。北の民の特徴だ。
「エグノア、あなたの故郷はクラヤだと言ったけれど……」
クラヤはルナリアより僅かに南、ルナリアへは高い山を一つ越えなくてはならない。クラヤは砂漠の一番北の端で、清水の湧き出る泉を持ち、農業が盛んだ。
「俺のおふくろは北から連れられてきた奴隷だったからな。」
この背の高さも、瞳の色も肌の色も母譲りだと笑うと、不意に真剣にグラディスの顔を覗き込んだ。
「俺のおふくろもお前のように肌が白かった。髪もお前のように美しい銀の髪だった。だが……」
――お前の瞳は紅いな。
「ルナリアでも私は異端児でしたよ。星見の長老のお話では、私は色を無くして生まれたのだろうと言うことでした。私のこの瞳の赤い色は、お前の血の色なのだと……」
エグノアはへぇと曖昧な返事を返すと、不意にグラディスから眼を背けた。
「来い、馬はこっちだ」
グラディスは慌てたようにエグノアの背を追った。その背後では緩やかに陽炎が立ちはじめ、濡れた大地に太陽の最初の光が放たれていた。
グラディスは砂漠の強い日差しからその瞳を守るために、白い布をすっぽりと頭から被っていた。最初はグラディスのために用意されていた馬に乗ったのだが、高地で育ったグラディスは馬に乗った経験がほとんど無く、この砂の大地で馬を扱うことは出来なかった。仕方なく今はエグノアの馬の前に乗せられている。
「大丈夫か?」
問いかけに頷くと、グラディスは目の前に垂れてくる布を僅かに持ち上げて周囲を見渡した。見渡すばかりの砂の山、空は風で巻き起こる砂塵で霞み、太陽の光だけが燦々と降り注いでくる。目標とするものなど何もない。一度迷うと、けして自分の望んだ場所には辿り着けまい。だからだろう、オイアキュア達は必ず岩のある場所に野営し、その周囲に持ち運べないものを埋める。そして、自分たちは積めるだけの荷物と一緒に常に一緒に動くのだ。単独で行動するのは晴れた星のある夜のみ。それも、既に砂漠に慣れた一部の男達だけがそれを許されていた。
「砂漠の光は眼の色の薄いものには厳しい。けしてその布を取るなよ」
周囲を眺めているグラディスに気が付いたのか、エグノアが言葉を続ける。エグノアは北から連れてこられた奴隷の民が砂漠の太陽で瞳を焼かれ、光を失ったのを何度も見ていた。エグノアの母もまた、砂漠の太陽でその視力を奪われていたからだ。
「おい。この辺なのか?」
オイアキュアの声だ。張りのあるよく響く声は、砂漠の砂の上でもかき消されること無く耳に入る。
「降りてもいいですか?」
グラディスは小さくエグノアに尋ねた。小さく肩をすくめると、エグノアは馬を止め、先に飛び降りる。そして、グラディスを抱きかかえるようにして砂の上に降ろした。
「すみません……」
グラディスは熱く焼けた砂の上に跪くと、その両手を大地にかざした。
「シャトアの小さき子等、クロセルの声を聞かせよ」
突然ふわりと風が起き、グラディスの体にかけられていた布を吹き飛ばした。キラキラと輝く銀の髪が風に揺れ、その細い指先が砂の上に不思議な文様を描くのが見えた。
――召喚? クロセルは水を繰る精霊、星見とは召喚師なのか?
オイアキュアは微かに眉をひそめた。風に乗り、時折自分の耳の届く言葉がある。育ての親はそれを王家の血を引く証だと言って聞かなかった。ゼアグの王妃の中に流れていた召喚師の血を引いているせいなのだと。
(オイアキュア。私は貴方を待っているのよ……)
耳の届く声は甘い。だからこそ、その響きに身を委ねることが出来なかった。どこか甘いその誘いの奥に、何かほの暗い影が見えるような気がしていたからだ。
「うわぁ!」
不意に沸いた歓声めいた驚きの声に、オイアキュアははっとして視線を戻した。
跪いたグラディスの体は、その指が触れたところから迸り出た澄んだ水に濡れ、太陽を反射してこの世のものとは思えぬほどにキラキラと光輝いていた。
歓声を上げた男達はすぐ馬に積んだ荷物を解き始めた。天幕を張り、日陰を作り、馬を休ませる。湧いてくる水を桶に入れては馬に与えた。砂漠の水は尊い。一滴も無駄にしたくはないのだ。
「今だけです……。これは移動する湖ですから……」
ぽつりと呟くようにグラディスは言うと、水で濡れそぼった髪をうるさそうにかきあげた。身に纏っていた布は肌に張り付き、細い体の線を露わにしている。
「昨日、男児と聞いてもあまりピンとこなかったが、そうやって体の線が分かると、やはり男だな」
オイアキュアは薄い唇を微かに歪めた。そして勢いよく自らの羽織っていた薄手の上着を脱ぎ捨てる。砂漠の男らしい、よく筋肉のついた上半身が露わになり、太陽の焼けるような日差しの下で金属質の光を放った。
グラディスはその裸身のわき腹にある、引き攣ったような傷跡に目を奪われた。
「なんだ?」
「聖痕ですね、その、脇腹……」
オイアキュアは思い出したように自分の脇腹を眺めた。生まれたときにはもうついていたと言われた傷跡。生まれつき付いた傷は神に選ばれた守り手なのだと神話では語られる。だが、オイアキュアは神というものそのものを信じてはいなかった。
「聖痕? ただの傷跡だろう?」
嘲笑にも感じられる冷たい笑顔をグラディスに向けると、オイアキュアはゆっくりと傍に汲み上げてあった水桶に手を伸ばした。水面に輝く太陽がチラチラと瞳を射た。
(オイアキュア……。私はあなたを待っているのよ……)
聞きなれた甘い囁きが、オイアキュアの耳元に風の唸りに紛れて届く。振り切るようにオイアキュアは頭から水桶の水を被った。
グラディスは大人しく天幕の中に収まっていた。男達は昨晩の略奪で血に染まった武器の手入れに忙しく立ち回っていたが、砂漠の日差しは強く、用事もなく動き回るのは愚かなことだと悟ったからだ。高地にあったルナリアとはあまりにも違う気候に、グラディスは疲れを覚えていた。
「疲れたのか……?」
不意に背後からかけられた声に振り向くと、背の高い影がグラディスを見下ろしていた。
「エグノア……」
昨夜から色々と世話を焼いてもらっているせいだろうか、エグノアの顔をみると少し安心する。グラディスは小さく笑うと首を横に振った。
「いいえ……。疲れたというほどではありませんけど……」
「能動的には動きたくない程度には疲れている、ということか」
エグノアはそう言うと、笑いながら腰をおろした。
「ルナリアとはあまりに気候が違うだろう?」
大人しく頷いてみせると、グラディスは小さく溜息をついた。水の豊富だったルナリアとは違う、乾ききった砂漠の風に唇はかさかさになっている。無意識のうちに唇を舐めていた。
「星見宿の連中は成人とは関係なく独り立ちするんだな……」
砂漠では14になると、成人として認められる。もちろん、14ではまだ一人では生活できない者もいるため、完全に独立しなければならないというわけではなかったが、儀式や祭りの際には大人と同じとして扱われていた。14になれば、婚姻も認められるのだ。
「ええ。星見宿に入ったものは、年齢ではなく能力で判断されます。それ以外の者は、砂漠と同じで14で独り立ちするのですが」
グラディスは微かに俯いた。
「私は、まだ、そういう意味では成人ではありません……」
幾つだとエグノアが問うと、グラディスは小さく12だと答えた。
「長い髪だな。暑いだろう?」
グラディスは笑うと、首を振った。
「そうですね。ですが、髪を切ると能力が無くなると言われているので。星見宿の者は全員長髪ですし……。何もかも、砂漠とは違っていて……」
砂漠の男達の髪は大抵、肩につくかつかないくらいで荒く切りそろえられている。長い髪は戦いの際に邪魔になるだけだからだ。その代わり、男達は必ずそれぞれの願いと祈りを込めた飾りを思い思いの場所につけている。ほとんどの飾りは宝石と銀で作られていて、魔物から身を守るのだと信じられていた。
グラディスは昨晩与えられた銀の首飾りに服の上から触れてみた。
瞳の色に合うだろうと言って無造作に投げ与えられたものは、血のように赤い原石を銀の蛇が巻いているもので、その蛇の瞳にも小さな紅い宝石が埋め込まれていた。
――蛇は知恵と水を育む動物だ。お前が相応しかろう……?
冗談とも本気ともつかない口調で、皮肉げに笑うと、オイアキュアは傍らにあった翠玉の飾りを取り上げた。それには蠍が巻いている。蠍は砂漠と死の象徴だ。
――これは俺だな……。
ぽつりと呟かれたオイアキュアの言葉には、何の感情も見出すことが出来なかった。
ふと、視線を感じて、グラディスは顔を上げた。そっと伺い見ると、視線の先に小さな影が見えた。一瞬、寒気がする。グラディスを積荷の中から引きずり出し、下卑た笑顔でジロジロと眺めたあの小男……。単に顔貌が醜いというだけなら、あの男より醜いものも居るだろう。だが、あの男を醜いと感じるのは、その粘着くような雰囲気そのものだ。
グラディスは小さく身震いすると、目を逸らした。
「どうした……?」
不意に黙り込んでしまったグラディスにエグノアは声をかけ、グラディスが視線を泳がせていたあたりを眺めた。慌てたように小男は天幕の奥へと姿を隠す。
剣呑に眉をひそめ、エグノアは視線を戻した。おそらく昨夜のことを根に持っているのだろう。あの小男――ダナンにしてみれば、自らの獲物を横取りされた形になってしまったのだから。
――あいつはどうも好きになれない……。
当然盗賊の集まりなのだから、卑怯な奴も居るし、どこか箍の外れたようなものも居る。それは当たり前だと思う。だが、あのダナンの持つ異常な執着心は既に病的ですらあった。ダナンには『いつも自分が座っている場所に勝手に座った』というだけ相手に切りつけたり、勝手に自分が儀式化していることを他人に妨害されるとナイフを振り上げて威嚇するようなところがあった。
「いいえ……」
思い出したように発せられた返事にエグノアは我に返った。グラディスは前と変わらず膝を抱え込むように小さくなり、しきりに唇を舐めている。
「喉が渇いたのなら水を貰ってくればいい。もう、焚き上げて飲める水が作られているはずだ」
小さくそうしますと答えて、グラディスはゆっくりと立ち上がった。地面の強い照り返しに目が痛む。布を深く被ると、狭い視界にふらつきながらゆっくりと砂の上に踏み出した。
エグノアはその後姿を見送ると、深く溜息をついた。グラディスに尋ねたかったことを口に出すことが出来ない。グラディスの横顔は、記憶に残る母の横顔にそっくりだ。
エグノアが5歳になったときに光を失った母は、それでも父と共に働いていた。ルナリアまでの急な坂道を父と共に登っていたのだ。10歳になった秋の日、ルナリアへと家を出たまま、両親は帰ってこなかった。3週間後にルナリアから流れてくる谷川に父の遺体が浮いた。村の人間は遺体と一緒に流れてきた積荷を見て、崖から積荷と一緒に落ちたのだろうと言った。おそらくは、母も一緒に。
だが、母の遺体はあがらなかった。いつか帰ってくるのではないかと、エグノアは待ちつづけたが、それから14年が過ぎても母は帰ってはこない。
――母の髪は美しい銀の髪だった。肌の色も色素がないのではないかと思えるほど白かった……。
「エグノア?」
不意にかけられた声に、反射的に振り向くと、いつ現われたのか、オイアキュアが小さく首をかしげてエグノアを見つめていた。
「どうしたんだ?」
なんでもないと答えた後、エグノアはふと、先刻のダナンの様子を思い出した。粘着くような視線の先にはおそらくグラディスの姿があったはずだ。どのようなつもりで見ていたのかは分からないが、好意的とは言い難い。
「ダナンが……」
「グラディスに御執心……か?」
エグノアの言葉をオイアキュアは笑って遮った。
「あの男、最近目障りなほどよく動く。今回の隊商の情報もあの男からだ。見かけの割に中身の薄い隊商だったがな……」
含みのある言葉に、エグノアは眉をひそめた。
「昨夜、砂漠を渡っていたのはあの隊商だけではなかったということさ。中身が薄すぎる」
にやりと笑うと、オイアキュアはエグノアに手に持っていたナイフを投げた。
「そろそろ役者も揃っているだろう、行くぞ……」
ゆっくりと砂漠に足を踏み出したオイアキュアの胸元で、翠玉が鈍い光を放ち、銀で形作られた蠍の針がチカリと瞳を焼いた。