第二章『星の道標』 [ 7 ]
マティスは襟元の紐を丹念に結ぶと、深くマントのフードを被る。陰になった目元は暗く、輝くような紫の瞳は翳りを帯び、暗い藍のように沈んだ。
――あんたはたぶん、周囲を容赦なく自分の運命に巻き込んでいく。おいらも、こうして関わっている時点でたぶんあんたの運命に巻き込まれてる。
タオと名乗った少年の言葉は、深くマティスの胸を射た。
五年前、炎の中で死を感じた時、マティスは運命を呪った。二年前、その多くの神官達の命を奪ったその死の刃が自分を追い続けているのだと知ったとき、さらにマティスは深く運命を呪った。逃げて逃げて、ただ逃げ続けて、呪うばかりで見定めようともしなかった運命と初めて向き合おうとしている今、マティスの中にはまだ躊躇いがある。この運命に立ち向かって命を落とすのが自分だけなら、それでもいい。だが、マティスの護衛を引き受けると言ったフォルマティオは、
いま別れたばかりのタオは、宿の女将は、そして床についているマイアは、彼らの命はどうなってしまうのか。
「あんまりだ……」
もしかして五年前に炎の中で息絶えていたならばよかったのだろうか。
「どうした。奴は何処に行ったんだ?」
不意に横から掛けられた言葉に振り返ると、左右に馬とラクとを引いたフォルマティオが立っていた。
「行ったよ」
マティスが短くそう応えると、フォルマティオは忙しない奴だと小さく笑って呟き、ラクの嘴につけた短い紐をマティスに渡した。
「乗るときには外してやれ。ラクはもともとこういう紐を着けられるのが好きじゃない」
想像していたよりも逞しいラクの嘴に、マティスは恐る恐る手を伸ばした。頭一つ高いラクの顔を見上げると、意を察したようにラクが頭を下げ、マティスの顔を覗きこむ。丸く濡れた硝子玉のような瞳は黒く、嘴の下に手を入れて柔らかな羽毛を撫でてやると、甘えたようにキュルリと鳴いた。
「ラクはもともと野生でも人懐こい動物だ。こうして旅に使われているラクは、特にな」
首を傾げながらマティスの顔を覗き込んでくる様子は、まるで無邪気な子供のようだ。嘴の奥から熱く乾いた舌が覗いて、撫でるマティスの手の甲をぺろりと舐める。自然にほころんだマティスの顔を眺めると、フォルマティオは僅かに目を細めた。
――寛いで和んだ顔を、初めて見る……。
そうして微笑んでいると、年より随分と幼く見える。
「行くぞ」
弾かれたようにマティスはフォルマティオを見上げた。
まだうっすらと笑みを残した頬が強張り、小さく頷くのを眺めて、フォルマティオは微かに罪悪感を覚えた。
「門を抜けたら、いったん西側の細道に入る。西側には一本だけ、普段ほとんど使われない西の森を掠める道があるが、その道の脇から西の森の中の砂漠の道標に行ける。そこからはもう、道標を辿りながら行くしかない」
「森の中の砂漠の道標?」
砂漠は広がっているのだと、マティスはそう教えられた。森の中に砂漠の道標があるのはどうしてだろう。
「砂漠は広がっている。だが、西の森もまた広がっているのさ。風が西から吹くから、砂が流されて森が広がる。東に流れた砂は、畑を埋めて広がっていく」
マティスは風に追い立てられるように東へと伸びていく黄色い砂漠を想像した。そして
、砂漠に追い立てられて東へ、海へとじろじりと後退していく街を思った。海の端まで追われたら、エクリアの民は何処へ行けばいいのだろう。
「行くぞ」
再度、フォルマティオはマティスを促した。キュルリと鳴きながら、まだマティスの顔を覗き込んでいたラクの長い首をそっと撫で、先を促すと、ラクはフォルマティスの意を汲み取って、大人しく一歩目を踏み出した。
マティスは雲のない砂漠の空を見上げた。遠く、吸い込まれるような空の彼方で、一羽の鳥がクルリと小さな輪を描いて飛んでいた。
「これがあんたの妹か?」
「おっと、触らないでくれ」
イオスはそう問いかけて少女の頬に触れようとした男の指を乱暴に掴んだ。深く毛布を被せられた少女の顔は蒼く、やつれた頬に長い黒髪がほつれて筋を落としている。
「すまねぇ。だが、あんたの妹だと証明してもらわなくちゃ、俺も役目を果たせねぇ。毛布を少しはいで、顔を確認させてくれ」
イオスは顔をしかめながら、そっと少女の体にかかる毛布を剥いだ。乾いてひび割れた唇から、浅い呼吸が漏れ、その呼吸に合わせて仄かにふくらみを帯びた胸が僅かに上下する。男はしげしげとそれを観察すると、小さく肩をすくめた。
「すまなかったな、旦那。確かにこいつは女の子だ」
「あぁ、俺の大切な妹だからな。――そのまま動くんじゃねぇ、首が飛ぶぞ」
押し殺したようなイオスの声に、男は何事かと顔を上げた。鼻先に突きつけられた短剣の切っ先がきらめく。
「な……」
反射的に剣の柄に伸びそうになった手を掴まれ、男は動きを止めた。
「まずは、その紋章の指輪をいただこうか。あぁ、指輪だけじゃダメだな。指も一緒じゃねぇと」
「どういう、意味だ」
男の額にはじっとりと汗が滲み始めている。
「なんだ、知らねぇでその指輪つけてんのか? 指輪が権力の証なのは、帝国のど真ん中でも砂漠の辺境でも同じだがな、砂漠の街じゃ指輪をつけた指が権力の証なのさ。自分の指も守れねぇようなヤツは、指輪を持つ資格なんてねぇんだよ」
――だから、砂漠の罪人は指を切られるんだ。一目で分かるだろ、罪人だってな。
弾かれたように、男の腕が上がった。短剣を突きつけていた腕を跳ね除け、掴まれていた腕をよじって解こうとした男の胸をイオスの足が蹴り上げる。その足を掠めて、男の剣が抜かれた。
「てめぇ、謀りやがったな。女将とグルか」
短剣をゆっくりと振りかぶって、イオスはニヤリと笑った。
「気付くのがおせーんだよ、まぁ、女将の迫真の演技もなかなかのものだったがなぁ」
ひゅと音を立てて投げられた短剣を剣で払い落とし、丸腰になったかに見えるイオスに向かって剣を振り上げた瞬間、男は動きを止めた。
いつの間に抜いたのか、イオスの左腕に握られた長い鞭が蛇のようにうなり、男の首に巻きついていた。ゆっくりと振り上げられた男の剣が床に落ちた。
「痛かったぜぇ、あのビンタはなぁ」
くいと鞭を引くと、さらに首が絞まり、男の体がひくりと痙攣する。にやりとイオスは笑った。
「それはすまなかったね。つい力がはいってねぇ」
戸口にアザラが立っていた。数人の男の影が背後に見える。
「は、ちっともすまなそうじゃねぇや。じゃ、こいつの処分は任せた」
イオスは鞭を振った。男の首から離れた鞭が、ピシリと床を一度叩いて、するりとイオスの手に戻る。支えを失った男の体が遅れて床に沈んだ。
「他の仲間はどうするんだい? もう街中に散った頃だよ」
「その辺は、連れが上手くやってるだろうさ。約束どおり、砂漠側の門には人をやってあるかい?」
アザラは倒れた男を忌々しげに眺めると、そっとマイアに毛布をかけなおしているイオスを眺めた。
「あぁ、傭兵あがりの男たちが行っているはずだ。ヴァイア側の門はいいのかい?」
イオスは弾かれて床に転がった短剣を拾うと、腿につけた鞘に挿す。
「ヴァイア側には俺が行く。連れがうまくやっていれば、連中の大半は砂漠側に行くだろう。そこは街の奴らに任せて、俺はヴァイア側で連れと合流して、旦那の後を追う」
「なんで、そこまでティオにこだわるんだい? 知り合いじゃないんだろう?」
アザラの顔に心配そうな色が浮かんでいるのを認めて、イオスは小さく笑った。
「旦那は覚えちゃいねぇよ。だから、知り合いって関係じゃねぇ。でも、俺はあの旦那を知ってる。俺がまだヴァイアで船乗りをやっていた時、隊商の護衛中の旦那と会った。――助けてくれたんだよ、旦那が。濡れ衣おっ被せられて殺されそうになってたところをさぁ」
――まぁ、そんなことがあって、船も嫌になって、ふらふらと陸に上がって旅三昧の日々になっちまったんだけどなぁ。
独り言のように呟くと、イオスは頭を掻いた。
アザラはため息をつくと、ぽんとイオスの肩を叩いた。
「追いかけてどうするんだい?」
「さぁ、分からんな」
イオスは明るく笑った。
「とりあえず、ルナリアにくっ付いて行くさ。ルナリアってのは、星見の郷なんだろ? そこで運命でも見てもらって、また旅三昧の日々に戻るさ」
「気楽だねぇ」
「あぁ、気楽だよ」
自嘲気味に唇を歪めて、イオスは歌うように応えた。
「まぁ、またこの辺を通るときは寄っておいきよ。アンタはこのタロンの義士の要請に応えた。タロンの民と同じだよ」
アザラの微笑みは優しかった。
「旦那に会ったら伝えておくれ、薬師が来るまでこの娘はこのアザラが面倒を見る。ちょうど旅の薬師がタロンに滞在してるから、しばらくは時間も稼げるだろうさ」
「分かった、伝える」
イオスはマントを取った。壁に立てかけておいた長剣を取ると、腰に下げる。
「気をつけて行っておいで」
アザラに笑いかけて、イオスは背を向けた。
「あぁ、行ってくるよ、タロンのおっかさん」
「アンタみたいなろくでなしの子供を持った覚えはないよ」
背後から聞こえた呆れたようなアザラの声を聞いて、イオスは笑った。