第二章『星の道標』 [ 4 ]
「何を見ている?」
不意に背後からかけられた声に、マティスは驚いたように振り返った。あまり眠れていないのか、目の下に黒々と染み付いたようなクマが痛々しい。
「大丈夫か?」
思わず口をついて出たフォルマティオの言葉に、マティスは小さく笑った。
「星を見ていただけ。フォルマティオこそ、目の調子は?」
言葉を聞いてはじめて思い出したように、フォルマティオは急ごしらえの眼帯に触れた。
「痛みはない――と思う。ただ、グルの親父には、薬師にでも診てもらえと言われている」
「そう……」
マティスは疲れたように顔を伏せ、傍らに死んだように眠っている少女を見つめた。
「まだ、意識は戻らないのか?」
規則的に上下している胸以外、少女が生きていると示すものはない。丸3日眠りつづけている体は、既に僅かだが衰弱した色を見せはじめ、蒼ざめた頬に落ちる長い睫毛の陰が、黒々としている。マティスの返事を待たずとも、彼女が快方に向かっていないことは分かった。
「薬師は、薬を飲めない以上、回復は難しいと言うんだ。意識を戻す作用があるジギスの実を焚いてはいるけど、気休めみたいなものだね」
フォルマティオは少女の蒼ざめた顔を眺め、小さくため息をついた。
「女将が人に頼んで彼女の弟を呼びに行ってもらったんだが、見つからないらしい」
エクリアの医療は、おおよそ薬草に頼っている。東の伝説の国、ハランには薬草から抽出した効力の高い薬などもあるという話だが、僅かに流通するそれらの薬も、庶民の手の届く代物ではなかった。唯一、エクリアで高い医療技術を誇るのはルナリアだけだが、ルナリアは意識のない少女を連れて行けるほどたやすい道のりではなかった。
「――ルナリアに行く。行って、薬師を連れてくる」
マティスは小さく絞り出すように呟いた。この数日、頑としてマイアの傍らを離れようとしなかったが、残された手段が一つしかないことを知ると、その決断は早かった。タロンから南へ下りヴァイア連邦へ入ろうとしていたマティスの旅の予定とは正反対の道筋になるが、目の前に倒れている少女を見捨てて行くことは、マティスには出来なかったのだ。マイアのただ一人の家族だという弟に彼女を託したら
、すぐこの街を出てルナリアへ急ぐつもりだった。だが、肝心の弟が見つからない。
ルナリアまでフォルマティオについてきてくれとは言わないと、思いつめたように言葉を続けるのを、フォルマティオは小さく笑って止めた。
「馬鹿を言うな、依頼は受けたと言ったはずだ。それに、ルナリアに用事がないわけでもない」
怪訝そうなマティスの前で、フォルマティオはそっと眼帯を外した。
「見てくれ」
大きな傷のある頬――その上の瞳は潰れ、引きつった傷が瞼を覆っていたはずだった。黒い血を流した後、僅かに開くようになった瞼は、多少の引き攣れはあるものの今ではほとんど正常に開くことが出来ている。その瞼の奥から覗いたのは――黄色い、砂漠狼のような瞳だった。
「色が……!」
両の目を開くと良く分かる。砂漠特有の琥珀の左眼よりも色が薄く、僅かな光を反射する獣のような右瞳。フォルマティオは眩しそうに眼を眇め、そっと瞼を閉じた。
「見えるの?」
短い問いに、フォルマティオは軽く頭を振った。
「見える――とは、少し違う。例えばお前が目の前に指を出しても、それが何本かは分からない。だが、そこにお前が居るということは分かる。お前という『色』が見える」
「呪眼――」
「呪眼?」
マティスが思わず漏らした呟きを、フォルマティオは聞き逃さなかった。
「この瞳を知っているのか?」
しまったというようにマティスは一瞬瞳をそらした。だが、逃れられないことを悟ったのか、躊躇いがちに小さく頷いてみせる。
「神殿の書物に、かつてハランの森林地帯に住んでいた種族に見られる黄色の眼のことが書いてあった。マホビットと呼ばれたその種族には『呪族』を中心として集落を作っていて、『呪族』の長は、危険を回避するための『呪眼』を持っていた――と。『呪眼』では、物を見ることは出来ないが、森羅万象を色として識別し、形ではないものを見ることが出来たと言われていた」
マティスはいったん言葉を切った。その先の言葉を言うか言うまいか、悩んでいるようにも思えた。
「呪眼はどうして出来るんだ? 生まれつきか?」
フォルマティオの問いに散々迷った挙句、諦めたようにマティスは口を開いた。
「『菌』だ。マホビットの呪族は、半身を菌に犯されていた。眼から耳、口、鼻、指先――半身が全て菌糸で繋がっていて、普通の人間よりも小さな音を聞き、微かな匂いでも感じた。『呪族』が死ぬと、その指を食んで、次の呪族が生まれた……」
「人を食うのか」
マティスは頷いた。
「ハランでは、今でも人を食べる。尊いものを食べると力を得ることが出来る――それがハランの教えだから」
人を食う――そんな気味の悪いことを、マティスは平気な顔をして口に出している。それがフォルマティオには信じられなかった。エクリアの教えでは、人を食べることは禁忌だ。それは獣の所業で、人が為すことではない。
「その傷は、どこで出来たの?」
「俺は人なんて食ってないぞ」
フォルマティオは憮然として応えた。忌々しげに閉じた瞼を擦ると、ドカリと手直にあった椅子に身を預ける。
「食べたなんて言ってない。もしも、マホビットの呪眼とその眼が同じものなら、傷から菌が入ったのかもしれないじゃない。エクリアでの呪眼の話なんて、今まで聞いたこともない。――これでも、そういう話が一番最初に入ってくる神殿の内部に居たんだ。エクリヴィアラの神殿は神殿の教えの中心、皇帝がエクリアという国の中心なら、エクリヴィアラの神殿はエクリアの心の中心。神殿は異端を許さない。だから、神殿はハランの船をエクリアに着けさせない」
マティスの口調は激しかった。
「エクリアは見えない壁に覆われている。エクリアの民は世界を知らない。ハランの持つ、さまざまな技術を知らない。馬を駆け、小船を駆ることができる場所だけが、世界だと思っている」
「お前は知っているとでも言うのか?」
「――知らない。僕は、もっと知らない……」
マティスは唇を振るわせた。
「フォルマティオ――。僕は、神殿を出るまで、餓えて死ぬ人が居ることなど知らなかったし、食べ物を得るためには金が必要なことも知らなかったよ。何かを貰うには、こちらも何かを払わなくてはならないのだということさえ知らなかったし、違う言葉を話す人が居ることも知らなかった」
マティスは視線から逃げるように、フォルマティオに背を向けた。
「本当に、僕は何にも知らないんだ。親も、生まれた日も、与えられたはずの本当の名前も。どうすれば、マイアを助けてやることが出来るのかだって」
細いマティスの肩が揺れていた。
「僕は世界を知らなければならないのだと思う」
泣いているかと思ったフォルマティオの予想に反して、振り返ったマティスの顔はどこか決然としていた。
「なぜ僕が『器』なのかとか、どうしてこんな体なのかとか、そんな、考えてみてもしょうがないことに思い悩むのではなくて、いま僕に出来ることは何なのかとか、これからのために何を身につけ、知らなければならないのかとか――。今までのように逃げるのではなくて、求めるために進まなくてはならないし、進むために求めなければならないんじゃないかと思う」
フォルマティオは銀で彩られたマティスの顔を眺めた。昂揚し紅潮した頬に合わせ、紫玉の瞳は鮮やかにその色を増し、少女めいた顔立ちの中に強い意志が見え始めている。この三日間考え続けていたのだろう、決然とした意志に揺らぎはなかった。
「ルナリアで薬師を求めたら、そのまま砂漠に下りて『砂漠の星』を探す。人かもしれない、物かもしれない、場所かもしれないし、真実、それは星かもしれない。そんなことすら分からないけれど」
マティスは言葉を切り、気遣わしげにマイアの顔を眺めた。
「弟が見つからないのなら、女将にお願いする。金なら、どれだけでも都合する」
「そんなものは要らないよ」
小さく扉が開いて、温かなスープを盆に乗せた女将がそっと部屋に滑り込んだ。
「ごめんね、話が聞こえてしまってね」
アザラは盆の上のスープをテーブルに置くと、小さくため息をついた。
「マイアは良く働いてくれた。とうとういい男にめぐり合えずに子供を生む機会を失った私にとっては、実の子供のように思えるときだってある。本当は客だってとらせたくなかった。でも、この子はさせてくれないなら、この町を出るとまで言ったんだよ。そんなことで自分は変わらない――ってね」
強い子なんだと、アザラは続けた。
「私を見くびってもらっては困るね。金なんか要らない。ただ、一つだけ約束して欲しいことがある」
アザラは真っ直ぐにマティスを見た。
「すぐにこの町を出なさい。さっき隣小路の宿から連絡があって、マティス、人相の悪い剣士があんたを探しているらしいよ。宿をしらみつぶしに探しているようで、きっともうじきここにもやってくる。出て行った後は私が何とかする」
「大丈夫なのか? 女将」
フォルマティオの声にアザラは笑った。
「私はこのカナリの家の女主人だよ。フォルマティオは忘れたの? 初めてあなたがこの町に来たとき、私は敵討ちに敗れた剣士を匿っていた。追手はここにも押し寄せたけれど、私は彼を守り通した。この家に居る限り、私はけして何にも負けない。――けれど、今回は相手が悪い。いかに悪人でも相手が貴族じゃ、ここにマティスが居たら、私ではきっと匿いきれない。――それに、ルナリアから薬師を呼ぶのなら、早い方がいい」
フォルマティオはゆっくりと椅子から立ち上がると、部屋の片隅に置いていた袋を開いた。中からいくつかの装備を取り出してマティスの方に投げた。
「体には合うはずだ。この数日で用意しておいた」
なめした皮で出来た手甲を眺めて、マティスは困ったような顔をした。――つけたことがないのだ。
「女将、馬と――ラクを。あと食料と水も頼む」
フォルマティオはマティスを立たせると、皮の手甲を手首に巻いてやり、左手にだけその上に数本の細身の手剣を巻き込みながら包帯を巻いた。足首にも同じように皮を巻くと、短い胴衣の上から、太いベルトを斜めに締めさせ、短いレイピアを下げさせた。
「剣は使えるか?」
「少しなら」
「ラクには乗れるか?」
「ラク?」
「砂漠トリ馬のことだ。砂漠の砂を駆けるには、ラクに乗るのが一番いい。体がでかいと無理だから、俺は普通の馬に乗るがな。馬とはスピードも違うし、なにより水をあまり必要としない」
マティスは少し考え込み、たぶんと応えた。
「
ラクには普通、鞍を付けない。体重を前にかけてやれば走り出し、両の羽の付け根を強く持って後ろに体重をかければ止まる。誰かが襲いかかってきても、お前は迷わずただ走れ。水の在り処はラクが知っている」
ただひたすら砂漠の果てに見える山を目指せば、そこがルナリアだと、フォルマティオは続けた。
「フォルマティオはどうするの?」
マティスの問いかけにフォルマティオは笑った。
「もう、十年以上離れてはいるが、砂漠の真ん中で育った俺にとって、砂漠は庭だ。隠れるための穴も、水場も全て知っているさ」
階下から聞こえるアザラの声に応えて、フォルマティオは慌しく装備を片付けようとした。
「それは、俺が何とかするよ、旦那」
いつから居たのか、長身の傭兵らしい男が扉の前に立っていた。
「アザラさんには一飯の恩があってね。俺、旦那の替え玉」
ヴァイア特有の黒い瞳が愉快そうに揺れた。だが、髪は焦げたような暗い土色だ。
「俺ならその子の兄だと言っても誰も疑わないし、旦那と背格好も似てる。――まぁ、横はちっと細いがね」
男はフォルマティオの袋を引き寄せると、わざと机の上に中身を引き出した。
「男達が入ってくる。旦那と背格好は似ているが明らかに違う男が、病の妹のために装備を売ろうかと逡巡している――奴らは焦っている。俺に聞くかもしれない『奴は何処だ』と。俺は応える。そいつら、俺がヴァイアへの通行証を売った奴らかもしれない――」
男はフォルマティオにヴァイアへの通行証を渡した。
「ヴァイア側の門の近くの小屋に、俺の連れがいる。ハランの船乗りでいかさまが得意だ。馬とラクは奴が用意している。その通行証を見せれば、あとは奴がうまくやってくれるだろうさ」
行きなと、男が顎をしゃくった。
「すまない。恩にきる――」
「イオスだ。ヴァイアのイオス」
人を食ったような笑顔でイオスは笑って見せた。