第二章『星の道標』 [ 3 ]
目の前に横たわる白い物体が、自分が今まで尊敬し敬愛してきたクラウスの姿なのだと、トーマにはどうしても思う事が出来なかった。その白い布の中には自分の切り取られた両腕も入っているはずなのだが、それすら信じられず、逆に今となっては自分の両腕がかつてあったのかどうかさえ、曖昧な記憶のように思われた。
「グラカイエのエグノアさまがみえました」
先触れの声に先導されて、儀式の間に男が一人入ってきた。背の高い影は一瞬チラリと白い布の上に視線を走らせたが、何事もなかったかのように先触れに導かれた場所に立った。
砂漠のほぼ中央に位置するグラカイエは砂漠で最大の都市だ。数百年前、砂漠の流浪の民が街を開拓した。エグノアはその時のリーダー的な存在で、それ以降直系の子供がグラカイエを治めている。長の名は常にエグノア、次男はグラディスと名付けられる。
――グラディス・デ・シャトリ・アルドラ。
トーマは心の中で呟いた。
次男に偉大なる星見グラディスと同じ名前を付けるのは、もともと開拓の祖エグノアと偉大なる星見グラディスは兄弟だったからだという。現在でもグラカイエとこのルナリアは
、同胞として多くの行事を共有していた。
ルナリアの民は星の奴隷だ。星見の能力のために多くを犠牲にする。グラカイエから毎月多量に運び込まれる物資がなければ、ルナリアは機能しない。ルナリアはエクリア帝国に支配されながら、実質的にはグラカイエに依存して生きている。ルナリアそのものが砂漠から帝国へ差し出しされた生贄そのものなのだ。
数百年前に存在し、現在のエクリア帝国の礎の一人ともなったグラディスという星見は、ルナリアで生まれたといわれている。美しい少年で、既に10の時に星見の才能を開花させ、エクリアに渡ったのは12の時、その後はエクリアの最大の神殿、エクリヴィアラを祭る神殿に使え、影ながら国王に助言し、エクリアの帝政を今の形に発展させたと言われる。
――その者は白き鍵なり。碧玉の王の足元に臥し乾き逝く大地に恵みを運ぶ白き鍵なり。あるいは、碧玉を紅玉と換えこの大地に戦火を走らせる白き鍵なり。
目の前の水をなみなみと湛えた占盆の底に刻まれたこの文章は、白子であったグラディスに捧げられた星見の言葉だという。幼い頃にこの言葉を聞いたとき、前半の言葉の意味は、彼がルナリアからエクリアに赴く最中に、5日間もの長い間、雨が降り続き、その雨が恵みになってグラカイエの街が成立したことを謳っているのだと教えられた。だが、後半の言葉の意味については何も教えてはもらえなかった。
グラディスの魂は生きているのだと言う。エクリアの神殿のどこかで、何人もの人の体を入れ物にして、鍵となるその日まで、グラディスは死なないのだと。
トーマは占盆の底を見つめて小さく震えた。
――人の体を入れ物にして生きるなんて……。
ふわりと顔の前にかかった、色素のなくなった自分の髪を見て、トーマは一瞬唇を歪めた。トーマの髪は日の光に輝く褐色の髪だった。――そう、ほんの数日前までは。
周囲の少年たちよりほんの少しだけ色は薄かったものの、砂漠の民らしい美しい砂色の髪だった。だが、腕を切り取られ、ゲダの幻から解放されたトーマの目に入ったものは、すっかり色素が抜け、老人のようになった己の白髪だった。人は恐ろしい体験をすると、一夜にして白髪になるという。だが、己の身に起こってさえ、それが信じられない。
――白い鍵……。
白髪になった自分の姿を見て、思わず周囲の老人たちが漏らした呟きを、トーマは愕然として聞いていた。
白い鍵――。エクリアで白髪が――年老いて逝った者達でさえ、幾分か金の含まれた髪をしており、白髪となるものは稀だったのだ――生まれたのは、遠く伝説にさえなってしまったグラディス以来だった。では、自分
はグラディスの器なのか。器となるためにクラウスに選ばれ、腕をもがれ、髪の色さえ奪われたのか。
密やかな、誰に打ち明ける事も出来ない恐怖が、トーマを包んでいた。クラウスのためにあてがわれた部屋は質素で素朴でありながら、聖民に相応しい家具が備えられており、柔らかな夜具や呼べばすぐに身の回りの世話をしてくれる数人の人手もあったが、悲しみを打ち明ける友もおらず、背中を支えてくれる父もいなかった。全ては変わってしまったのだと、トーマはただ必死に自分に言い聞かせた。
「クラウスさま、もう、お休みでございましょうか」
不意に扉の外からかけられた声に、トーマは心臓を掴まれた心地がした。まだ『クラウス』という名には慣れておらず、また、そのような丁寧な言葉にも慣れてはいなかった。
「起きています。何でしょう」
ようやくそうとだけ答えて、トーマは慌てて泣きそうになっていた鼻をすすった。星見用の水盆に顔を映して、どうやら泣いていたとは分からないだろうと確認すると、ようやく安心してそっと扉の方へ歩み寄った。
「グラカイエのエグノアさまが、ご挨拶に見えておられます」
一瞬、トーマは迷った。迷ったところで、自分に拒絶できようはずがないことは分かりきっていたが、それでも心に生じた逡巡は、おそらく恐怖に近いものが含まれていただろう。だが、それは
ほんの一瞬のことだった。
「お通しして」
トーマの言葉を待って開かれた扉の先に、儀式の時に遠くから見つめた背の高い男が立っていた。儀式の時には月の光の中でのこと、その容貌を窺い知ることは出来なかったが、今、蝋燭の明かりに照らされているその顔は、確かに北方のゼアダの血を感じさせる彫りの深い顔立ちだった。
「夜分遅くに申し訳ない。到着が遅れ、正式なご挨拶をせぬまま儀式に参加する事になっただけでも申し訳ないのに、私もグラカイエの長、明日の夕刻にはルナリアを後にせねばならないのです」
エグノアの声は優しい。彼は部屋に足を踏み入れる前に深く、砂漠の正式の礼をした。
「お止めください。このような若輩の私に頭を下げられるなど。どうぞ、お入りになって……」
多少突っかかりながらもトーマは何とか口上を述べた。儀式の段取りを覚えこまされる合間に、ようやく教えてもらった敬語だった。本来、このような言葉は成人の儀式を終えてからおいおい教えてもらえるもので、必死に覚えた僅かな言葉さえ、トーマは満足に発音できているとは言い難
い。エグノアがこの言葉を不快に思っていはしないかと、トーマは上目遣いでエグノアを見上げた。予想に反して、そっと室内に足を踏み込んだエグノアの顔に浮かんでいたのは、優しげな――彼のような屈強な男が見せるとは到底思えないほどの優しげな、笑顔だった。
「無理をするな。お前の言葉で話せばいい」
不意にくだけた優しい言葉と共に、その大きな手が頬に当てられると、トーマはその指先の熱さに激しく悲しみが込上げた。
「う……」
両の目から転がり落ちた大粒の涙に必死で顔を歪ませ、それでも扉の先で控えているだろう村の者に聞こえないように、トーマは声を押し殺した。エグノアはトーマの声が漏れぬように、そっと自分の体の傍に抱き寄せた。この数日の出来事によって激しく消耗した少年の体は細く、しゃくりあげるたびに痙攣するように震える白髪が、糸のようにエグノアの指に絡んだ。
「砂漠の男は泣いてはいけない……」
ひとしきり泣いて、ようやくトーマが落ち着きを取り戻してくると、エグノアは抱きしめていた両手を緩めて、そっと少年の体を椅子に座らせた。自分はそのまま中腰になり、ひざまずくようにしてトーマと目線を合わせた。
「まだ、成人の儀式を済ませていないお前が影贄となったために、リダヤ(足をもがれた者)にお前の星親になってくれるように頼まれたのだ。聖民となったお前は既に肉親との縁が切られている。だが、成人の儀式では親がお前に星の恵みである宝玉を贈らなければならないからな。聖民は人の親となることは出来ないからと、リダヤは悩まれていた。グラカイエはルナリアの兄だから、お前の星親には俺がなろう」
トーマは自分の目線の先にある、琥珀色の瞳を見つめた。
「とは言え、お前は明日から成人と同じように星見に加わらなければならない身だ。運良く、俺は今、このルナリアに所縁のある宝玉を身につけている。旅立つ前にそれをお前に渡そう。耳飾にはなっていないから、あとで、細工職にでも作り変えてもらえばいい」
エグノアはそっと自分の首から二本の鎖を外した。その先には、紅い宝玉を抱いた銀の蛇と碧い宝玉を抱いた銀の蠍が光っている。
「これは、グラディスが持っていたといわれている鎖だ。縁あって、先代から受け継がれたものだが、グラカイエの民よりお前にこそ相応しいだろう」
エグノアは二本のうち赤い蛇の宝玉をトーマの首にかけた。
「強くなれ」
またうっすらと涙が浮かび始めたトーマを見つめると、エグノアは短くそう呟いて、その頬を撫でた。
――紅い、瞳だ。
エグノアは、リダヤから聞いていたその事実を前にして、微かに胸の痛みを覚えた。
クラウスに選ばれたトーマの色素が、おそらくはその幼い体には耐え切れぬほどの傷とゲダの効果によって、一夜にして奪われてしまったのだと、リダヤは声を震わせた。もともとトーマは色素の薄い子ではあった。北方ゼアダの血が濃いのか、トーマの家系には時に碧眼が生まれることもあったという。トーマ自身、砂漠の琥珀にはわずかに薄い、黄金のような瞳だった。しかし、いまのトーマの瞳は、その薄い色の虹彩の下、明らかな血の色が微かに斑になったかのように浮き出ている。
――色素の薄いものは、神の器と呼ばれます。かつての偉大なる星見グラディスも、星見にして神の器でございました。器のものは、神殿で守られねばなりません。しかし、かの者はクラウス、このルナリアの地で神に捧げられた者。私どもはどうしたらよいのでしょうか。
どうしたらもなにも――。エグノアは苦々しく唇をかみ締めた。
一番大事なのは、未来と腕と色素を奪われなければならなかったこの少年の苦痛を、誰かが拭い去ってやることではないのか。
表情を硬くしたエグノアの顔を、トーマが不安そうに見つめた。
「大丈夫だ」
エグノアは自らの胸の思いがト−マを苦しめぬよう、その視線を削ぐように、微かに震えている細い体を抱きしめた。