第二章『星の道標』 [ 1 ]
紫煙の漂う中、微かに呻き声が響いた。くぐもったそれは、長く苦しげに響き、一瞬の後、ゴトリと何かが床に落ちる音が響いた。
「トーマ……。許せ……」
涙声の小さな囁きが闇に落ちると、一瞬、星の光にキラリとナイフの切っ先が光った。
「何故お前が選ばれたのか……。何故、お前がクラウスに選ばれてしまったのか……」
幾度もそんな問いかけを繰り返しながら、代われるものなら代わりたいと、その声は続けた。
「まだ、12だぞ。成人の儀式も済ませてはいないのに……。恋も夢も、まだ知りはしないのに……」
ガサリと木々を揺らして風が吹き、ゆっくりと月を覆う雲を散らした。冴え冴えと輝く月の光の中に、少年が1人死んだように横たわっており、その隣には少年の肩から染み出している紅い血溜りと、まっすぐに整えられた、いま切り落とされたばかりの少年の両腕が置かれていた。
男はそっと血の気のなくなった少年の腕を握り締めるとゆっくりとそれを油紙に包んだ。
「トーマ、父を憎め……。どうか、父を憎んでくれ……」
少年は死んだように眠りつづけていた。紫煙の中に紛れたゲダの妙香が、少年の意識を遥か夢の彼方に奪い去っているが、目覚めた瞬間に、少年は現実を知る。
少年は贄に選ばれたのだ。神に捧げられる聖なる影贄の1人に選ばれたのだ。
男は逃げるように包みを抱えたままその場を去った。
月の光の中で、少年は死んだように眠りつづけていた。その横顔には微笑みさえ浮かんでいた。
天高く輝く星はただ、無機質に少年を照らす。止血された傷口からそれでもゆっくりと染み出してくる血は、鮮やかに紅かった。
「終わったか……」
人目を忍ぶようにして部屋に入ってきた男の、手にしっかりと握り締められている包みを目にして、年老いた人影がゆっくりと尋ねた。老人は椅子に体を預けていたが、その太腿から下には足がない。
「はい……。ゲダで良く眠って……」
男の声は掠れた。
「トーマは一人息子……。辛い役目を良く果たしてくれました……」
囁くような声が男の耳を打つ。優しげな風貌の線の細い男の瞳は真横に走る大きな傷によって潰され、おそらく真昼の太陽の中でさえ、深い闇の中に居ることは容易に想像することができる。
ゆらゆらと揺れる炎に照らされて、数人の人影が、少年の切り落とされたばかりの両腕を悲しげな瞳で見つめた。
「トーマの傍に居てやりなさい。明日からはもう、トーマはクラウスとなり、貴方の息子ではなくなってしまうのだから……」
男は首を振った。
「ダメです。私には両手のない息子を正視できません。この両手を切り落とす時、私はあの子の父であることを既に諦めたのです……。どうか、許してください……」
男の言葉は、最後には悲痛な叫びに変わった。それ以上、誰も言葉を発することはなく、ただ、男のすすり泣く声だけが響いた。月だけが冴え冴えと大地を照らしていた。
痺れるような痛みが指先に走ったように思った。少年はゆっくりと瞳を開き、微かに鼻をくすぐる生臭い匂いと、緩やかに溶解していく視界に眉をひそめた。暗い色の天井は横から射してくる朝の光に鮮やかな光と影のコントラストを作っている。一瞬どこに居るのか分らなくなった少年は、その天井に見慣れない護符が掛けてあるのを見て、初めてそこが儀式の間であることを思い出した。
――確か、父さんに儀式の間で待つように言われていて……。そのまま、眠ってしまった……?
少年は微かに頭を振った。昨夜の記憶さえおぼつかないほど、少年は疲弊し、微かに寒気さえ覚えていた。
――指が痛い……。
少年はゆっくりと両手を顔の前に持ってこようとした。微かに肩に走る痛みとなんとも言えない違和感が少年の不安を煽った。
――僕の、両手……?
急に何かに気がついたように少年は自らの肩を見つめた。血の滲んだその先に少年の腕はなかった。
――クラウス!
少年の顔はみるみる蒼褪め、小さく唇が震えた。何度も瞬きを繰り返し、丹念にすっぱりと腕を切り落とされた肩を見つめる。だが、何度祈っても少年の両腕は戻っては来なかった。ゆっくりと少年の眦に涙が浮かんだ。悲鳴さえあげることなく、少年は静かに涙を流した。
――父を憎め……。
夢だと思っていたあの父の言葉は、現で漏れ聞いたものだったのだろう。村の神殿に傅かれる影贄を少年は尊敬と畏怖の念をもって見つめていたが、一度たりともその運命が自分に降りかかってくるなどと思ったことはなかったのだ。
少年は影贄となった。星見で定められる影贄の宿命をこの村のものは誰も変えることが出来ない。神に捧げられた影贄は5人。一人は瞳を潰され、一人は喉を潰され、一人は耳を潰され、一人は足をもがれ、そして一人は腕をもがれる。体の一部を神に捧げることで、全ての災厄から村と神殿と、そして皇帝を守る人柱となるのだ。影贄は神殿で一生を過ごし、死を迎えると次の夜には星見が開かれ、代わりの新たな影贄が選ばれる。
昨日の朝、年老いたクラウス(腕をもがれたもの)が病で息を引き取ると、夕刻には星見が開かれた。まだ、成人ではない少年は星見に加わることは許されず、神殿で父も見上げているだろう空を見上げて漠然とした不安に心を曇らせていた。翌日、自らの身にこんな運命が待っていようとも知らずに。
――トーマ……。
名を呼ばれたような気がして、少年は天井を見上げた。そして、諦めたように目を閉じた。
もう、今までの名で呼ばれるはずがないのだ。
チリチリと焼けるように指先が痛む気がした。切り落とされ、既にそこに指はないのに、確かに少年の指は焼けるように少年の心を痛めた。
少年は目を閉じ、自分の腕を思い出そうとした。しかし、昨日まで当たり前に目の前にあったそれを明確に思い出すことは出来なかった。ただ、閉じた瞼の裏に天井に差し込む明るい日差しの作った斑紋だけが、不可思議な紋様となって少年の視界を彩っていた。
「……トーマ」
トーマは瞼を開いた。ゆっくりと頭を動かすと、逆光になった扉の向こうに呆然と立ち尽くした友の姿を見る。表情は伺えないが、立ち尽くしたまま声も出せずにいるその様子で、どんな顔をしているのか位は想像がついた。
「イザイ……?」
問いかけるように呟くと、不意にイザイは走りより、床に横たわったままのトーマの隣に崩れるように座り込んだ。
「酷いよ……。どうして、こんな……」
イザイの顔は怒りと悲しみで歪んでいた。イザイの少年らしい悲しみと悔しさの浮かんだ顔を見ていると、不意にトーマの心は凪の湖のように冷めた。もう、自分にはこんな風に誰かを哀れむことなど許されないのだと悟ったからだ。悲しみや苦しみより先に、諦めがトーマの心を支配した。
「どうして……」
なおも悔しさを吐露するイザイに、トーマは優しく語りかけた。
「星見の結果なんだろう? 僕は、選ばれてしまったんだね……」
一瞬呆然としたイザイは、不意に顔をゆがめて大粒の涙をこぼした。
「だって、だってトーマ。成人の儀式をどちらが先に行うか、競争しようと言ったのは君なのに……」
目覚めて半刻しか過ぎてはいないのに、既に全ては遠い過去の話ででもあるかのように思った。すすり泣くイザイの声を聞きながら、トーマは光が移っていく天井を見上げた。ただ、腕がないという事だけで、こんなにも世界が一変するなどとは思わなかった。
3年前、先代のエラン(瞳を潰されたもの)が永眠した後に現在のエランが選ばれたとき、一夜にして豹変した村人の態度と鮮やかなほど白い包帯で瞳の部分を覆われた細い容貌がトーマには信じられなかった。彼の優しい湖のような青い瞳はもうそこにはないのだと教えられても、実際に傷口が露わにされるまでは、それが本当に自分を良く可愛がってくれた優しい従兄だとは思えなかったのだ。彼も同じ苦しみを味わったのだろうか。この、恐ろしいほどの喪失感。既に聖なる者と崇められることだけが自分を支えることになるだろうと確信さえしていた。他に、何も自分を支えるものなどないのだ。
「もう、泣くなよイザイ……。早く自分の家に帰らないと、見つかると叱られるよ。ここはいつもは入っちゃいけない場所だから」
そうだ。入ってはならないはずの場所に呼び出されたときに、きっと心のどこかではこれからのことを理解していたのだ。いつも以上に優しい父の掌を感じたときに、たぶん、これからの自分のことも。
トーマは微かに笑うと、瞳を閉じた。ジリジリと焼くような痛みが体を襲った。視界の歪みが消えるにつれ痛みは増していく。きっと薬が切れようとしているのだろう。
閉じた瞼に、イザイの指がそっと置かれ、ゆっくりと汗ばんだ額をイザイが袖口で拭いた。両手がトーマの頭を抱き、トーマは嫌というほどその10本の指の優しい感触を感じとった。
「さよなら……」
囁くような声にトーマは応えなかった。ただ、不自然なほど凪いだ心のなかで、何かが軋んだ音を立てて崩れていった。もう二度と、誰かを抱くこともない。神に差し出された両手は、二度と人を抱くことなどありえないのだ。
走り去っていく足音を聞きながら、トーマはゆっくりと暗い闇の中に落ちていった。ゲダの余韻が瞼の裏に美しい緋色の夕焼けを映し出していた。