第一章『真実の扉』 [ 4 ]
壁にもたれたまま、フォルマティオは自分の混乱した頭を整理しようと努めた。今思い返してみれば確かに、マティスが女性だったとするならば、あの体の細さも美しさも、抱きかかえた時のあの軽さも頷けるのだ。また、一人で旅をするには確かに、男性の身なりをし、男性のような言葉遣いをしていた方が安全ではあろう。
すっかり騙された。まったくそんなことを考えもしなかったから。明日にでも女将に言って部屋をもう一つ借りなければ。フォルマティオは頭を抱えた。
程なくして、小さく遠慮がちに扉が開いた。
「フォルマティオ、終わったわ。着替えもさせておいたわ……」
マイアは奇妙な表情をしたままフォルマティオを見上げた。僅かに躊躇った後、彼女は問い掛けた。
「私、あの人を彼女と呼べばいいのか彼と呼べばいいのか分からないのだけど……」
フォルマティオはマイアの言葉の真意を掴みかねて、首をかしげた。マイアは奇妙な表情をしたまま、言葉を繋いだ。
「あの人、両性体だわ。私、話には聞いたことがあったのだけれど、初めて出会ったから、ちょっとびっくりしてしまったの…。フォルマティオが『彼女』と言っていたから、最初はてっきり女性だと思っていて……」
確かに、この世の中には男性と女性の体を同時に併せ持つ人々が居る。だが、それは稀だ。神話の中では主要な十神のなかの五神までが両性体なのだが、両性体が比較的多く生まれるという首都付近でも数年に一人、フォルマティオの生まれた砂漠の町にいたっては数十年に一人生まれるか生まれないかというくらい稀なことなのだ。また、両性体として生まれた子供は体が弱く、総じて高い精神感応性を持っていて、普通の生活は営むことが困難だ。その為、その多くが神官となる道を選ばされることが多かった。
マティスが両性体であると分かってみれば、生まれてすぐエクリヴィアラの神殿の前に捨てられていたという事実も納得がいくように思える。
稀な体に、稀な才能、そして稀な美貌……。何故、そんな希少な偶然を神は作り出したのだろう。いや、そのほとんど存在し得ない確率を引き当てたからこそ、マティスは『神の器』という運命を与えられてしまったのだろうか。
「まるで、美の女神シャトアのような人……。あんな人もこの世には居るのね…」
マイアの瞳は夢みるように伏せられた。白い肢体はどこまでも美しかった。魔から身を守るために体中に巻かれた銀の鎖すら、その体を美しく飾るためにあるかのようだった。
「マイア……、このことは……」
フォルマティオの口を小さな掌で塞ぐと、マイアは分かっているというように微笑んだ。
「内緒、なんでしょう?分かっているわ」
信頼してくれてありがとう、と言ってマイアは笑った。
「マイア、多分、今晩中、熱はひかない。もう何度か体を拭いてやって欲しいんだ。もちろん、君の時間を使ってしまう分、代価を払う」
マイアは頷いて、今まで応対していた客に断りを入れてくると言ってゆっくりと下の酒場に降りていった。フォルマティオは一瞬周囲を見回した後、ゆっくりと部屋に滑り込んだ。
マティスはさっきよりいくらか楽になったような寝息を立てていた。マイアの手で今まで身に付けていた汗ばんだ衣服は部屋の片隅に畳まれ、湿らせた布がマティスの額に乗せられている。全てを露わにしてしまうのは気が咎めたのか、布は大きめに畳まれ、半ば瞼を覆うようにして置かれていた。
フォルマティオは再び薬草を手に取ると、揉み解し、布団の裾を捲り上げて包帯を取った。カラカラに乾いた先ほどの薬草を取り除き、傷口の様子を確かめる。
傷は深かったがもう血は止まっていた。新たに揉んだ葉を傷口に押し当てると、再び布で縛った。これで朝までは替えなくてもいいだろう。布団を元に戻して、今度は手首の脈を取った。比較的早いが、力強く、規則正しく響いていることを確認し、ようやくほっとする。
さすがに疲れた。まだ、ようやく日が落ちて、月の女神ルカの支配する薄闇が訪れたくらいの時間だというのに、石のように体が重い。崩れるように椅子に腰をおろして、フォルマティオは天井を見上げた。
眠りに吸い込まれる直前にマティスは確かに『カノーリアの将軍ジン』と言った。その名は忘れもしない、この右目から光を奪い、レイアの命を奪ったあの魔王のものだ。今マティスを狙っているのがそうなのだとしたら、9年前に滅びたとばかり思っていた魔都はまだ存在し、その支配者ジンもまた生きているのだ。運命とは皮肉なもので、再びその名を聞くことになるとは思わなかった。
――そう、初めてジンの名を聞いたあの時、フォルマティオも今のマティスと同じくらいの年だったのだ。
控えめなノックの音が響いて、小さく扉が開いた。滑るようにして入ってきたマイアは疲れたように椅子に座り込んでいるフォルマティオを見ると笑った。
「女将に事情を話して部屋の都合をつけてもらってきたわ。右隣の部屋よ。この人は私が見ているから、どうかフォルマティオも休んで……。疲れているんでしょう?」
マイアは小さな手桶に氷を入れていた。少し時間がかかったのは、わざわざ氷室までこれを取りに行ったからに違いなかった。
「すまない……」
疲れた体を引きずるようにしてフォルマティオは立ち上がった。
「何かあったら、すぐ……」
「ええ、大丈夫よ。すぐ隣ですもの……」
安心させるように笑って見せて、マイアはフォルマティオを扉の向うまで送った。その姿が隣の部屋に吸い込まれたことを確認して、マイアは音を立てないようにしながらそっとマティスの横に座った。
「本当に、綺麗な人。全てが……」
そっと額に当てておいた布を取ると、氷を入れた水で温くなった布を冷やし、絞って再び額の上に置いた。その唇が乾いているのに気がつくと、そっと小さな氷の欠片を取ってそっとその隙間に滑らせた。
ふわりと、焦点の合わないままマティスの瞳が開いた。今の氷の冷たさで目が覚めてしまったのだろう。
「お眠りなさい……。まだルカのソリが空を滑る時刻。太陽神ハロの愛馬はまだ遠くで飼葉を食べているわ……」
そっとその髪を梳きながら、マイアは幼い日に母が子守唄のように聞かせていた言葉を繰り返していた。
ぼんやりとした視界に何か優しいものが映ったような気がした。高い柔らかな声が優しく響いて、そっと髪を梳かれた。途切れ途切れに覚えている悪夢の感触を拭い去っていくような、そんな優しい響きだ。
「目が覚めたの?」
それが夢の余韻ではなく、確実に自分の目の前にいて、そして優しげに自分の髪を撫でていると悟り、マティスは驚いたように飛び起きた。
服が、変わっている。目の前にいる女性の横には、幾度か取り替えたらしい汗に濡れた衣服が畳まれて置いてある。
「君、誰?」
大きな眼をさらに丸くしてそんなマティスの様子を見つめていたマイアは困ったような微笑を浮かべた。
「私の名前はマイア。フォルマティオからあなたの看病を頼まれたの…。――ごめんなさい。どうしても汗に濡れた服を着替えさせなければならなくて……、私……」
俯くと美しい艶のある素直な黒髪が肩から落ちて揺れる。長い睫毛が伏せられて、瞼の下に濃い影を落とした。
「あ、ごめん。そういう意味じゃ、ないから……」
チクリと小さな罪悪感がマティスの胸に湧いた。マイアは小さく笑うと、ごく自然な動作でマティスの額に自分の額を押し当てた。
「熱、下がったのね」
焦点の合わないほど近くにあるマイアの黒い睫毛をただ呆然とマティスは見つめた。彼女のその行動が熱を測るためのものなのだと、その言葉を聞いて初めて分かる。
「フォルマティオを呼んで来るわ……。もう少し、横になっていて」
出て行く後ろ姿を見送って、マティスはそっと自分の額に左手を押し当てた。間近に彼女の顔があった時、素直な黒髪が頬に触れて、甘い化粧粉の匂いと、花の匂いがした。白く自分を映す闇のような瞳は、不思議と暗いという感じを抱かせない。そして、髪を梳く指は細くて、どこまでも優しかった……。
マイア……。海の女神の名前だ……。
マティスはそのままゆっくりと掌を落とした。指先に一瞬、塞がれた瞼の上の戒めが触れ、マティスは瞳を閉じてその手を握り締めた。
「マティス、傷を見せてみろ……」
扉を開けるなりフォルマティオは大股でベッドに近付き、マティスの布団を剥いだ。足に巻かれていた布を解くと、薬草はカラカラに乾いていたが、血は完全に止まりぱっくりと開いていた傷口は既にかさぶたでつながっていた。
「乱暴にさえ扱わないなら大丈夫そうだな……」
手にしていた白い布を細く裂くと包帯代わりに器用に巻きつけ、指先に当たるところにだけ比較的薄い皮の当て布を中に巻き込んだ。
「今日一日はこのまま我慢していろ。俺はちょっと町に出てくる……」
後のことは女将に任せてあるとだけ言って、フォルマティオは急ぎ足で出て行った。傭兵には傭兵独自の情報屋がいるという話を昔聞いたことがある。大抵、どこかの宿屋や店の主人がその町を訪れる傭兵から情報を仕入れ、それをまた別の傭兵に伝える。南の方の小さな諍いから国王の機嫌まで、集まる情報は種々多様で、その情報を元に傭兵は自らの次の進路を決めるのだ。きっとフォルマティオはその情報屋に昨日の刺客と関係することを確かめに行ったに違いない。
結局、巻き込んでしまったなと、マティスは溜息をついた。不意に昨夜の悪夢が思い出されて、小さく身震いすると、マティスは膝を抱えた。
「――砂漠の星……っか……」
自分の運命を握るその言葉を小さく唇に乗せて、マティスはまた、大きく溜息をついた。
広場へと向かう細い道の片隅に、染みのように暗い影が立っていた。じっと広場を見つめて、そのまま背後を振り返る。男には連れがいた。暗い色合いのマントが風に靡き、その下に使い込んだ剣の柄がちらりと見えた。
「今日はさすがに来ないよな……」
呟いた男の背後で、似たような背格好の男が溜息をついた。
「ま、昨日の今日でのこのこと広場に出てくるようなバカなら、とっくに捕まえてるさ。町の玄関口はガナに見張らせてる。まだこの町を出ていないならしらみつぶしに捜せばいいことだ……」
「そりゃ、そうだが、イルの兄貴。俺はどうも昨日一緒に逃げた奴が気になってしょうがねぇ……」
不機嫌そうに口を結んだままのイルと呼ばれた男の顔を少し不安げな面持ちで見つめながら、男は言葉を続けた。
「ありゃ、絶対に傭兵だぜ。しかも、たぶん、それなりに使える奴だ…」
「なにを神経質になってんだ、デン。ふん、たかが傭兵一人増えたからって変わるかよ。俺たちがやることは町から追い立てて街道脇で魔道士を呼びつけることだ。後始末は奴らがやるだろう。餓鬼は生け捕りにしなきゃならないが、連れは関係ないんだろう?奴等は研究材料に飢えているから大喜びだろうぜ……」
イルは小さく額に十字を切った。
「不信心者の俺でさえ、エクリヴィアラに祈りたくなるぜ。死人を切り刻んで研究の材料にするなんざ、魔道士が同じ人間なんて思えないね……」
デンも慌てて額に十字を切った。
「でも、兄貴、この町が小さいとは言っても宿屋は30軒はある。しけこみ宿まで入れたらその倍だ。しかも同じ宿に居続けているとはかぎらねぇ」
イルはゆっくりと立ち上がり、マントについた埃を払った。
「傭兵なら傭兵が集まる場所へ行ってみればいい。人手が必要なら、昨日傍にいた成金のデブを使えばいい。あのお綺麗な餓鬼にご執心のようだったから、ちょっとつつけば食いつくだろ……」
「傭兵の集まるところ?」
「お前は夜盗あがりだから知らなくてもしょうがないか。どの町にも一箇所は傭兵の溜まり場ってもんがあるのさ」
にやりとイルは笑った。
「ガナを呼んでこい。もう、昼過ぎだ、これからの出発じゃ日のあるうちに次の宿までたどり着けない。今日は多分、町から出はしないだろ。あの成金デブを捜すぞ。そして連れの特徴を聞き出して、餓鬼捜しを焚きつける」
弾かれたように飛び出していくデンの背中を見ながら、イルは小さく笑った。
「餓鬼一匹に大クリアス金貨500たぁ、ぼろい儲けだなぁ」
口元に冷たく微笑を浮かべながらそのまま視線を広場に移し、そこで忙しく働く人の群を、どこか遠い景色でも眺めるかのように、イルはただ見つめていた。