第一章『真実の扉』 [ 3 ]
宿屋の扉をくぐると、女将が驚いたように奥から飛び出してきた。
「ティオ、いったいどうしたの?」
抱きかかえられている少年の足に血が滲んでいるのを見るや、女将は慌てて手当ての道具を取り出した。
「護衛の仕事を受けたんだが、なんだか人相の悪い男たちに追われているようだ。もしも誰かが尋ねてきても、知らぬ存ぜぬで通してくれ」
その道具を受け取りながら部屋で手当てをするからと言うと、女将は承知したというように大きく頷いた。
「食事も部屋に運ばせるわね。すぐにお湯を持っていくから、傷口を洗うといいわ」
そのまま両手が塞がっているフォルマティオのために部屋の扉を開けてやると、すぐに女将は手桶に入れたお湯と清潔な布を数枚持ってきた。
「血で汚れた布は処分するからあとでまとめて渡してちょうだい」
比較的平和な街とはいえ、訪れる傭兵の数も多いこの街で長年宿屋を開いていれば、年に数回はこんな出来事にも遭遇する。ましてそれがフォルマティオの頼みとあれば、否やはない、自分の身を危険に曝してでも出きる限りの事はすると、そう言い残して女将は出て行った。
フォルマティオはマティスをベッドに腰掛けさせると、足袋を脱がせ巻いておいた包帯を取った。思ったよりずっと傷は深いらしく、まだ血は止まっていない。湯に浸した布でこびり付いた泥を落としそっと傷を湯に入れると、傷口から滲み出た血でゆっくりと手桶の湯が赤く変わっていく。
「っ……、痛い……」
十分に傷口を洗うとざっと回りの湯を拭き、傷口を布で押さえる。
「自分で押さえてろ……」
マティスに傷口を押さえさせると、フォルマティオは女将から渡された手当ての道具を広げ、幾つかの薬草を両手で揉み始めた。
「それ、何?」
「リョウヅルランとシケイ、そしてヤマギの葉だ。しみるし、一晩ほど熱は出るが、傷は確実に早く治る」
布を取ると幾分か血は止まったようだ。ぱっくりとあいてしまった傷の上に揉んだ葉をのせると、布できつく縛った。マティスの顔が苦痛に歪む。揉んだことで十分に絞り出されてきた薬草のエキスが直に傷口に付き、激しくしみるのだ。
「食事をもらってくる。薬が効き始めると熱が出てくるから、その前にできるだけ腹に入れておくんだ」
フォルマティオは汚れた布と手桶を取り上げるとゆっくりと扉の向うに消えていった。その後姿を見ながら、マティスはそっと溜息をつく。
フォルマティオには感謝すべきだろう。矢で襲われた時も、追っ手に見つかりそうだった時も、彼が居てくれたからこそ逃げ延びてこられたのだ。つい問われるままに自分の生い立ちの一部を話してしまったが、逃れられなくなると言っても、彼は顔色も変えなかった。全て話すべきなのだろうか。
確かにフォルマティオは稀に見る剣士だ。右目を潰されていながら傭兵としてやっていけるだけでなく、優秀であるということは非常に稀なことだ。加えて人望もある。味方にするには心強い存在だ。だが、だからといってフォルマティオを巻き込んでよいものか。
まさかこんなに追っ手が迫っていたなんて。次の町に行くまでの、ただそれだけの護衛を頼むつもりで居たのに。自分の、この血なまぐさい逃走劇に何も知らない彼を巻き込んでもいいのか。
「砂漠の、星……」
マティスはゆっくりと自らの封印された左眼に両手を押し当てた。
忌々しい太古の封印め。何故、自分が器として選ばれてしまったのだろう。
その時、ゆっくりと軋む音を立てて扉が開いた。女将が両手に盆を持ち、そっと気遣わしげにマティスを覗き込む。
「痛むかい?消化のいいものばかりを選んできたけど、もし、夜中に何か欲しくなったら、遠慮せずにね。私は大抵、夜は起きているから」
マティスは小さく頷いた。母が居るとすればちょうどこれくらいの年だろうか。ベッドの傍らに持ってきたものを置くと、女将は体を起こそうとしたマティスをそっと支えた。
「後で氷を持ってきてあげよう。シケイを使うと熱が出るから……」
温かな肌だ。柔らかく、微かに甘い化粧粉の香りがする。
「すいません……」
そっと銀の髪を幾度か梳いて、女将は立ち上がった。ゆっくりと扉の前まで進んだ後、不意に思いついたように女将は振り返った。
「まだ、名前を聞いていなかったね。私はアザラ。この『カナリの家』の女主」
「マティス。マティスと言います……」
アザラはただ小さく笑って頷くと、ゆっくりと扉を出て行った。入れ替わるように入ってきたのはフォルマティオだ。フォルマティオはベッドに置かれた食事にマティスがまだ手をつけていないのを見て取ると、小さく溜息をついた。
「食えるだけ食っておけ。食ったらすぐ横になるんだ」
そして、自分も持ってきた盆をテーブルに置くと、まだ湯気を立てているスープを啜り始めた。マティスもゆっくりと木の器を手にして甘い野菜の香りのするスープを口に含んだ。しばらくはお互いが食事を摂る音だけが響いた。
「何故狙われている?お前はいったい何者なんだ……?」
不意に思い出したようにフォルマティオが呟いた。マティスは手を止めて、しばしフォルマティオの問い掛けるような顔を眺めた。そして、心を落ち着かせるようにひとつ、深く溜息をつくと、そっと、スープの器を盆の上に置いた。
「僕は、まだ臍の緒も付いたままで、エクリヴィアラの神殿の前に捨てられていた。包んでいた布は貧しいもので、最初は神殿が関係する孤児院に収容されるはずだったそうだ。ところが、当時、神殿には光の魔女と呼ばれるほどの偉大な魔道使いがいて、僕を見るなり彼女に神託が降りた。『この者は器となるだろう。その器に満たされるものを我々は選ばねばならない』彼女はそう言って、僕の左眼に口付けたという。僕はそのまま神殿の奥深くに隠された……」
マティスは無意識のうちに、封印された左眼を確かめるようにその細い指で刺青をなぞった。
「幾人もの偉大な魔道使いが僕を占った。皆、口をそろえて僕の未来は白紙だと語った。僕は魅入られやすい者として、全身に銀の戒めを受けることになった」
フォルマティオはベッドから投げ出されている細い足に、蛇のように巻きついている銀の鎖に思わず視線を走らせた。それに気がついたのか、マティスは微かに唇を歪めた。
「物心ついても、僕は神殿の奥から出ることを許されなかった。僕は単なる器で、もしもそこに闇の神カノープスや戦いの女神クラシアが宿ったならば大いなる災厄となるだろうと、神官たちがそう告げたためだった。12になって、ようやく少しずつ神殿以外の場所を教えられはじめたけれど、その矢先のことだったよ。彗星が空にたなびいて、そして神殿は燃えた。大神官は僕の左眼を封印し、僕を炎の中から逃がすために命を落とした。世界をよく知らされないまま、僕は放り出されたんだ…」
マティスはそっとフォルマティオの顔色をうかがった。フォルマティオはじっと身動きもせずにマティスを見つめている。
「最初は、その炎が誰の仕業かなんて分からなかった。けれど、それ以来、僕は常に身の回りに邪な空気を感じるようになった。その邪な空気が魔都カノーリアからの刺客だと気付いたのは、2年前。僕は極力、力を使わないようにしながら、大神官が最後に言い残した『砂漠の星』を見つけるために旅している…」
マティスは急に寒気を感じてブルリと震えた。ゾクゾクと背筋を這い登るような寒気が体を襲う。
「熱が出始めたか、横になれ」
フォルマティオはマティスを横たわらせ、首まですっぽりと布団をかぶせた。
「カノーリアの将軍ジンは魔王と呼ばれる男だ。追っ手がもうここまで来ている。今日は助けてもらって助かった。だから、どうか、明日にはこの町から離れて……」
マティスは重い頭痛を感じながらなおも言葉を繋げようとした。フォルマティオはそんなマティスを落ち着けるように軽く布団を叩いた。
「依頼は受ける。報酬は後払いだ」
「ダメだ……。ダメだよ、フォルマティオ……」
うわ言のようにマティスは呟いた。クラクラと眩暈がする。こめかみのあたりでガンガンと銅鑼を打ち鳴らすような音がして、ガタガタと震える指先の感覚がもうない。
「寝ろ…。今晩一晩の辛抱だ」
遠くでフォルマティオの声を聞きながら、マティスの意識はゆっくりと闇の中に沈んでいった。
四角く切り取られた空が紫に染まっていた。シャトアの一番星だけが、その薄明るい空の中でようやく輝いているのが見える。本当に今は夜なのだろうか。闇を照らす月の陰さえないのに、空は不思議な明るさが宿っている。
「彗星の長い尾は魔を下界に落とすためのカノープスの策略だというのは本当なのかな……」
石で出来た窓から身を乗り出すようにして少年が呟いた。細く白い足には銀の鎖が巻かれている。それは物心つく頃から体を取り巻いていた。魔を払うためだと、嫌がって外そうとする度に神官から聞いた覚えがある。
『あれは、僕だ。5年前の、あの夜の僕だ』
マティスは少年の方に手を伸ばした。炎がやってくる。その前に気付くのだ。いま少し闇からの刺客に気付くのが早ければ、大神官はその命を落とさなくても良かったのだから。
『熱い……』
マティスは掌に燃えるような熱を感じて、不意に伸ばしたその手を引っ込めた。
「マティス、逃げるのだ。その左眼の封印をといてはならぬ。神から逃げよ」
熱い炎の壁。大神官の唱える清めの水の呪文だけが低く神殿に響いている。不意に低い地鳴りが響いて、ゴウと大きな炎の柱が立った。
『大神官さま……』
「神から逃げるのだ。砂漠の星を拾い、その身を光の中に置くのだ。お前の魂に刻まれた名前を間違えてはならない」
柱は大神官の姿を飲み込み、その体をゆっくりと黒く変えていく。全身を炎に巻かれ、既に形さえ変えながらも、大神官は呪文を唱えることを止めようとはしない。
『大神官さま……』
マティスの伸ばした手は空を切った。無情な炎がマティスの指を舐め、痺れるような熱さにマティスは悲鳴をあげた。
「お前はエクリ……」
黒く、形を変えた大神官の姿が、炎の中で音を立てて崩れた。崩れてもなお、その執念の力は幼い少年の退路を確保するために炎に穴を穿っていた。
『大神官さま。魂に刻まれた名前とは何ですか?砂漠の星とは?僕は、ただ、逃げ続けるしかないのですか?』
不意に頬に涙が落ちた。夢の中でさえ、自分は大神官を救うことは出来ないのだ。誰かの命を犠牲にしてまで、どうして自分は生きていなければならないのだろう?
「逃げろ……」
誰かが叫んだ。
「逃げろ、マティス」
『フォルマティオ!』
逞しいその褐色の体が炎の中に飛んだ。チリチリと髪が焦げる嫌な匂いがする。
『フォルマティオ、嫌だ!僕は……』
「逃げろ!」
フォルマティオの剣が炎を切りつける。火の粉は赤い雨のようにフォルマティオの体に降り注いだ。切れば切るほどに増えていく炎の数はフォルマティオの体を取り巻き、今にもその体を飲み込みそうになる。
「マティス、逃げるんだ!早く!」
フォルマティオの体が不意に炎の中に消えた。それでもその影は剣を振りつづけている。
『フォルマティオォォ!』
フォルマティオはうなされているマティスの顔を覗き込んだ。じっとりと浮かんだ汗がその銀髪を額に張り付かせている。上気した頬と対照的に唇は乾き、白く色がない。
体を拭いてやるか。
フォルマティオは女将が新たに持ってきた手桶に入れておいた布を取り出し、固く絞った。ゆっくりとまずその頬を拭き、額に浮かんだ汗を拭い取る。
「フォルマティオ……」
うわ言で小さくマティスがその名を呼んだ。フォルマティオは小さく笑うと、そっとその乾いた唇を拭ってやる。眠っているマティスの顔はまだあどけなくさえある。どこか人をくったような生意気な仕草も、長い放浪の旅の中で身につけてしまった所作に違いない。
そっと布団をはぐと、フォルマティオはその体に身に着けた衣服に手をかけた。短い胴着を脱がせようとしたその時、思いもよらないことに気付いてフォルマティオは慌てて手を止め、再び布団を掛けなおした。
確かに、非常にささやかではあるが、短い胴着の下には乳房があった。広場でその細い体を半ば露にしたときも、確かにそう感じて違和感を思えたのだが、その身のこなしや言葉遣いですっかり少年と思い込んでいたのだ。
困った。困ったぞ。
フォルマティオはしばし腕を組んで考え込むと、不意に思いついて慌てて部屋を出た。だが、下の酒場についたとき、フォルマティオは夕食の客あしらいに忙しい女将の姿を見て、再び考え込んだ。
女将に頼めれば何とかなると思ったんだが。
迷惑は掛けたくない。既に多大な迷惑をかけている身だ。
困ったフォルマティオは所在なげにその瞳を彷徨わせた。酒場の端から、誰かが小走りに近付いてくるのが見える。流れる黒髪に漆黒の瞳。その瞳はどこか嬉しげに輝いている。
「マイア!」
少女は名を覚えていてもらえた嬉しさで、破顔した。
「フォルマティオ」
フォルマティオはそっとマイアを傍らに寄せ、あたりに怪しげな人物が居ないことを確認した。
「マイア、頼みたいことがあるんだ、ちょっと部屋に来てもらえるかな……」
マイアは小さく首をかしげ、それでも微笑んだまま頷いた。その背中をそっと押して促すと、フォルマティオはざっとマティスのことを説明した。
「仕事の依頼人なんだが、怪我をして熱を出している連れが居るんだ。君に彼女の看病をしてもらいたいんだが……」
部屋にマイアを通すと、フォルマティオは絞った布を彼女に持たせた。
「体を拭いてやって欲しい。俺は外に出ている」
マイアはフォルマティオの後姿が消え、扉が閉まったことを確認すると、そっとマティスの顔を覗き込んだ。
「綺麗……」
熱にうなされ、髪を乱していても、その白い顔は見たこともないほど美しかった。マイアは微かに震える手で布団をはぐと、そっと首筋に浮いた汗を拭った。
「フォルマティオ……熱い……」
小さなマティスの呟きを聞き取ると、一瞬その手を止め、マイアは再びしげしげとマティスの顔を再び覗き込んだ。苦しげに寄せられた眉、熱でカラカラにひび割れた唇、動いた拍子に額を覆っていた髪がバサリと落ちて、その封印された左の瞼が露わになった。
――なんて、残酷な。こんなに美しいのに、こんなことをされているなんて。
そっと額の汗を拭ってやりながらマイアは呟いた。