第一章『真実の扉』 [ 1 ]
目の前を優雅に歩いていく足首には銀の華奢な飾り輪が付いていて、歩くたびに拍子を取っているかのように小さく硬い響きをあげている。もともと足首の飾り輪は奴隷に付けられるもので、このように人前に曝すような種類のものではないのだが、白い肌に映える紅い宝玉の付いた飾り輪は美しく、誰もそれを見て眉をひそめるものなどいなかった。おそらくはお気楽貴族のちょっとしたお遊びだとでも思っているのだろう。
今、フォルマティオの目の前を歩き、いささか彼を悩ませている人物の名はマティス。細身の身体はどこか儚げだが、その動きは敏捷で、肩にかかる僅かに癖のある細い銀の髪と日に焼けない白い肌は最上級の美を人に予感させずにはいない。
マティスがお気楽貴族なら、フォルマティオはそれを守る騎士とでも思われているだろうか。砂漠のもの特有の浅黒い肌と琥珀の瞳は年の割に落ち着いていて優しげにさえ見えるものを、その右目から頬にかけての引きつった大きな傷がそれを裏切る。
なんでこんなことになったんだか。
フォルマティオは小さく溜息をついた。マティスという一種独特の魅力を持った人物は眺めているだけなら嫌な奴ではない。だが、なにしろ第一印象が悪かった。
半年におよんだ護衛の仕事をようやく片付けて、フォルマティオはしばらくぶりの豪勢な温かい食事にありついていた。
傭兵稼業も既に九年。受ける仕事は辺境の隊商の護衛など比較的まっとうなものが多い。傭兵の中には知らないうちに闇の仕事をつかまされ、事実を知った時には後の祭だったという者も多いのが現状だ。だが、不思議とフォルマティオの周りではそんな妖しげな仕事の依頼は聞かない。闇の仕事の方が金は良いが、一度闇に手を染めた傭兵の末路は悲惨極まりないのだ。
とはいえ、隊商の護衛は気が抜けない。特に辺境の地を行き来する隊商の護衛ではゆっくりと眠る暇さえないく、夜盗、帝国と辺境の部落との小競り合い、夜の闇に潜む禍々しい者達との我慢くらべに似た持久戦など、挙げればきりがない。そんな生活にも慣れたとは言え、仕事明けにはゆっくり宿をとって体を休めなければならない。
疲れた体を引きずって、一番近いタロンの町に早々に宿をとった。小さいながら歓楽街もあるタロンは大陸のちょうど西南あたり、南のヴァイア連邦へと足を進める者、ヴァイア連邦から帝国へ進む者で賑わっている。タロンの住人も半数ほどがヴァイア特有の褐色の肌をした者達で、声が大きく陽気で、その活気だけなら首都エクリアの街と肩を並べるほどだ。
「お兄さん、遊ばない?」
不意に声をかけられて、フォルマティオは口をつけていたグラスを置く。ヴァイアの血の混じった少し浅黒い肌の少女はまだ幼さの残る顔に紅をひき、大人びたしなを作ってフォルマティオの腕にもたれかかった。
「お兄さんもヴァイアの人?」
顔を覗き込んで、少女は微かに息を呑んだ。
その引き締まった背中を見たときから、その人物が傭兵だということはすぐに分かった。大抵このタロンに来る傭兵は隊商の護衛の帰りで、皆一様に埃のついたマントと使い込んだ剣を下げ、少し疲れた顔に開放感を漂わせてやってくる。そして久しぶりの酒を美味そうにちびりちびりとやっているものだ。傭兵の身体の傷は勲章と言ってもいい、大抵はその後の床の中でその傷の自慢を聞かされることになる。だが、今夜の稼ぎと目標を定めたその人物の顔には一目見たら忘れられないだろう傷があった。
右目から頬にかけての大きな引きつれた古い傷跡。それは普通なら醜いものの象徴のようにも捉えられてしまうかもしれない。だが、残った左眼が優しげな琥珀色に輝いているのを見て、少女は不意にうろたえた。
「――あ、あたし、びっくりしちゃって……」
傷さえなければたちどころにここにいる女性全てを魅了してしまうに違いない。特に美しい顔立ちというわけではないが、人を安心させ、信じさせ、夢中にさせてしまう何かがその瞳にはあった。
「驚かせたね……」
笑うと余計に優しくなる瞳に、少女は思わず自分のだらしない身体を立てなおし、大人しくフォルマティオの隣に腰掛けた。
「ううん。大丈夫。お兄さんは砂漠の人なのね」
琥珀の瞳は大陸の東南にある砂漠の民の特徴だ。この大陸の人々は大抵はその瞳の色で出身を知ることができる。
大陸の中央部を占める帝国と北にあるゼアダの民は明るい髪の色と冴えた青空のような青い瞳を。南のヴァイア連邦の民は黒い髪と黒い瞳を。そして砂漠の民は褐色の髪と琥珀の瞳を。ヴァイアを除いた場所では白子も多く、ことに帝国では白子特有の白髪と紅玉の瞳もよく見ることが出来た。
今、フォルマティオの前にいる少女は、ヴァイア特有の艶のある黒髪と濡れたような漆黒の瞳をしている。
「君はヴァイアから?」
少女は恥ずかしげに顔を伏せた。
「そう、3年前にここに来たの。弟と一緒に」
3年前というとヴァイア連邦がようやく連邦国家の樹立に成功した年だ。それ以前はヴァイア国とそれ以外の島々の間で抗争が絶えなかった。この少女もまた、その家族を戦争の犠牲にしただろうことは容易に想像することが出来た。
「名前は?」
「マイアよ」
海の女神の名を彼女は言った。
「父は漁師だったから、海の女神の名を私につけたの」
フォルマティオはひとしきりマイアと言葉を交わすと、黙って少女の掌に小クリアス金貨を握らせた。
「これを持って、今日はもうお帰り」
マイアは驚いたようにフォルマティオの顔を見上げ、微かに目じりを吊り上げた。
「私、施しは受けないわ」
勝気な黒い瞳が半ば怒りに燃えている。
「施しじゃない。これから先の俺の航海が常に恵まれているように、海の女神に捧げるんだよ」
睨み据えていたマイアの瞳に微かに涙が浮かんだ。伏せた睫毛が小さく震えている。
「弟が待ってるんだろ?」
不意にマイアは立ち上がると、その両手を自分の胸に押し当てた。
「海の女神マイアの名に於いて、全ての海の精霊に祈る。このマイアの口付けを持つものを常に助けよ。その者の身が海に落ちる時はその身を陸に導き、嵐が打つときはその船を守り、闇の中ではその道を照らせ」
そしてそっとフォルマティオの額に口付けると、小さく笑った。
「いつも、父が漁に出るときはこうして祈っていたの。父はどんな嵐の中からでも無事に帰ってきたわ」
海の女神の名前は伊達じゃないのよ、と明るく笑うと、マイアは微かに頬を染めた。
「お兄さんの名前、聞いてもいい?」
「フォルマティオ」
フォルマティオ、良い名だとマイアは笑った。
マイアを見送り、その笑顔を思い出しながら呑んでいたら、いつのまにか気付かぬうちに深酒になっていた。宿の女将に促されるようにして部屋に入ったことまでは覚えているが、その後の記憶がない。夜中に誰かに呼びかけられたような気もするのだが、それが夢であったのが現実であったのかさえ定かではなかった。
翌朝、軋む体を起こすと、自分の隣に見慣れない物体がいた。それが今、目の前を歩いているマティスだったのだ。
お前は誰だと問うフォルマティオに、マティスは、あんたが入ってもいいって言ったんだぜと意味ありげに笑って見せた。慌てたのはフォルマティオだ。思わず自分の姿を眺めてその意味ありげな笑みの意味するところを探ろうとしたが、別段服が乱れているわけでもない。マティス自身もほとんど外から帰ってきてそのまま寝ましたというような服装だ。
「くくく。嘘だよ。嘘。宿に転がり込んだのが遅くてね、部屋がなかったから女将に嘘をついたのさ」
「嘘?」
「そう、ここにいる傭兵さんに用があるってね。大抵この時期一人は居るからさ」
フォルマティオは呆れたようにマティスを見つめた。少女とも少年ともつかない中性的な顔立ちに肩までの銀髪、左眼は髪で隠れているが、髪の隙間から覗く右の瞳は驚くほどの透明な紫玉。勝気な少女か、恐ろしく線の細い少年か、ちょっと見では判断がつかない。だが、布団の中で触れた筋肉の感触は、おそらくは少年の持つものだ。だとしたら奇跡のように美しい少年だと言わねばならないだろう。
「僕の名前はマティス、気楽な旅芸人、ってとこかな」
そう言うとふわりとベッドから飛び降り、テーブルに置いてあった銀の飾りを手に取った。それを左眼の上に付けると、外れないように髪に数個所を止める。繊細な銀の輝きに彩られて、不意に白い肌が艶めいた。
マティスはゆっくりとフォルマティオを振り向き、その右頬の傷を見ると笑った。
「まるでこうすると僕とあんたは一対みたいだね。僕のこの左眼も用を成さないのさ」
立ち上がったマティスの姿を見ると、フォルマティオは深く溜息をついた。
細い体は纏いつく布の上からでも均整の取れた美しいものだということが見て取れる、その上に銀で飾り立てられた美しい顔。昨晩の嘘のおかげで自分が女将にどう思われてしまったか、想像がつくというものだ。
「何怒った顔をしてるのさ。大丈夫、女将には仕事の依頼でってちゃんと言ってある。ま、変に勘ぐる分には僕の責任じゃないけどね」
にやりと笑うと、その綺麗な顔に急に愛嬌が乗った。
「で、僕には名乗ってもくれないわけ?」
半ば憮然としてフォルマティオはマティスを眺めた。だが、マティスはそんなフォルマティオの様子など全く気にしていないようだ。
「フォルマティオ」
ぶっきらぼうに名前だけ言うと、フォルマティオはすぐに明後日の方向を向いた。腹が立つ。腹が立つのだが、マティスの姿を見ていると何故かその怒気が萎えていく。それほどに美しいのは奇跡のようなものなのだろうが、今度はそんなことで相手を許してしまう自分にまで腹が立ってくるのだ。
「では、フォルマティオ。あなたに仕事の依頼をしたい」
マティスはふわりと優雅に礼をした。
「仕事の内容は僕を守ること。僕を害する全てからね」
狙われているのだとマティスは言った。
「僕を神から守って欲しい」
普通の人間が神から自分を守れと言ったら、たぶん、頭のネジがどこかで緩んでいるのだろうと思うだろう。だが、ここまで美しい人間にそう言われると何故だか納得してしまう部分がある。だがそのことよりもフォルマティオの気をひいたのは、マティスの優雅な身のこなしだった。
記憶が確かなら、あの礼の作法は帝国のしかも上流の作法だ。少なくとも、こんな安宿の部屋で、しかも妙に世間馴れした若者がする作法ではない。
「狙われているのか?」
マティスはその問いかけに笑った。
「護衛はお手の物だろう?昨日会った隊商の頭が言ってたぜ、今までの傭兵で一番安心できたって」
あんたが泊まった宿を探してたから遅くなったんだ、ベッドの半分を貸してもらったっていいだろう、と言葉をつなぐと、呆気にとられているフォルマティオを後目に宿の扉を開けた。
「今から金を作りに行くから、あんたも付き合え」
「金を作る?」
「言ったろ?僕は気楽な旅芸人、運命と音楽の女神クラヴィアの寵愛を受けている人間。そしてあんたは雇うのに金がかかる傭兵だ」
何を寝ぼけたことを言っているのだと言わんばかりにマティスは傍らに掛けてあったフォルマティオのマントを取り、まだベッドに腰掛けたまま呆気にとられているその顔に投げつけた。
そして、今、そのお気楽芸人の背中をぼんやりと追っているわけなのだが。こうして日の光の中でマティスと歩いていると、その美貌が類い稀なものであることを認めざるを得ない。
マティスの歩く先々、町の時間が止まるのだ。既に日の高く上がった町には行商の者、旅の者、多くの人間でごった返しているが、その全てがマティスを見た瞬間に呆けたように動きを止め、その一挙手一投足を眺める。そして自分の視界から消えると、ようやく我に返ったような顔をして僅かにその姿に名残惜しそうな素振りを見せながら本来の自分の仕事を再開するのだ。そんな風に一瞬一瞬町の時間を止めながらマティスは優雅に歩いている。
フォルマティオは不意に危険なものを感じてマティスとの距離を詰めた。美しいものを見たとき人が感じる感情はある種の感動を秘めている。そして、同時に侵されざる美を見たときに人は恐ろしいほど残虐にもなれるのだ。事実、この数年の傭兵経験の中でそんな場面を何度も見てきていた。この世の全ての事象がそうであるように、美しいということもまた、諸刃の剣には違いない。
「マティス、どこまで行く気だ?」
不意に声をかけられ、マティスは怪訝そうにフォルマティオを振り返った。
「広場さ。芸人が芸をするには場所が必要だからね」
確かに大抵の町には広場があり、その広場には守護神や美の神シャトア、太陽神ロキなどの像が祭られ、そのほとりで吟遊詩人が歌を歌っていたりする。フォルマティオ自身も多くの町でそんな吟遊詩人の歌を聞き、時には自ら頼んで故郷、砂漠の町グラカイエの歌を歌ってもらうこともあった。だが、普通、吟遊詩人はシャタールを持っているものだ。シャタールの5弦をかき鳴らし、古くから伝わる歌やその時その時の自分の感情を詞にこめて歌い、その日その日の路銀を稼ぐ。
「芸って、おまえ……」
マティスはにやりと笑った。
「この体とこの喉さえあれば、僕はいつだって目の前に黄金の山を作れるのさ」
大人しくその様子を見てせいぜい僕の身の安全に気を配っておいてくれよ、と、軽くウインクをして見せて、マティスはようやく目の前に広がった広場を眺めた。広場には既に何人かの吟遊詩人が集い、幾つかの人だかりが出来ている。
「さて、お仕事お仕事」
比較的人のいない場所に陣取ると、マティスはゆっくりと体に纏いつけていた柔らかな布を外した。丈を短く詰めた胴着と腰に申し訳程度に巻きついた短いズボンから、恐ろしく白い肌が覗く。細く鞭のようにしなる体には無駄なものはなく、ただ、その全身に絡みつくように着けられている銀の飾りがキラキラと日の光を反射した。
現れた体に、フォルマティオは思わず目を疑った。その短い胴着の下には微かだがそれとわかる二つのふくらみがある。だが、朝起きた際に触れたその肌も、敏捷に動くその筋肉もけして女性の持つものではない。
「我が名はマティス。運命と音楽の女神クラヴィアの使徒。そして愛と美と星の女神シャトアの寵愛を受ける者」
大声で叫んだわけではない。だが、細く澄んだその声は広場に響き、まるでその登場を全てのものが待ち望んでいたかのように一瞬にして人のざわめきが消えた。
「大地に我が足が触れその鼓動を踏みしめ、その両手が打ち鳴らされ物語を語る。鼓動はリズムに、リズムは言葉に、言葉は舞踏に、そして物語は語られるだろう」
マティスの両手が打ち鳴らされ、その両足が大地を叩く。腕が振り上げられるたびに銀の飾りはキラキラと日に煌き、その細い喉から絞り出される唸るような声が、鼓膜を抜け、直に脳髄を貫いた。しなる指は木々のざわめきを映し、その腕のしなりは時に翼と化す。その僅かな動きだけで世界の一部にマティスは体を変化させた。
フォルマティオはクラクラと網膜を焼くその動きに翻弄されまいと、必死で頭を振った。ふらつく体を立て直して当たりを見回すと、いつのまにかひれ伏すようにしてマティスを見つめる群集の、その容貌の異様さに思わず息を呑んだ。
そこに居る全てのものが、年齢も性別も人であるか人でないかさえも関係なく、およそ声の届く範囲のものは陶然となり、まるでそこに神が出現したかのようにマティスの舞踏を見つめていた。
キラキラと無秩序に瞳を打つ光の反射とマティスの声の微妙な響き、それがまるで魔術のように人の心を捉え、束縛し、魂を奪い取る。フォルマティオは不意に気がついた。その両手足で刻まれているリズムと声の響きそのものが一種の力を持っているのだ。
言霊使い。話には聞いたことがあるが今まで目の前で見たことはなかった。声に不思議な力を持ち、時に魔獣さえも従わせる力を持つという。フォルマティオの憶測が正しいとするならば、おそらくマティスは滅多に存在しない言霊使いなのだ。
不意にマティスの足元に投げられていたマントの上に初老の女性が自らの財布をそのまま置いた。それが合図だったかのように人々はうっとりとした表情のまま自らの持てる全てのものをマティスのために投げ出した。異様な光景だった。明らかに懐の豊かなものを狙うために広場を訪れていたと分かる町のチンピラさえ、惜しげもなく自らの稼ぎを投げ出していた。
「震える魂を持つ者達よ、その身に運命の女神クラヴィアの恵みがあるように……」
ゆっくりと夢のようにマティスの白い両腕が動きを止めた。群衆の中には既に自分の力で立つことが出来ないものさえ居る。マティスの前には群集によって積み上げられた金の山が出来ていた。