JSUsed CSSUsed
近未来SF小説:「月鏡」
HOME
ホーム > 小説一覧 > 小説
 
前頁  >>  [ 2 ]
 

『月鏡』 [ 2 ]

 美雨。研究ファイル名「μ」
 12年前、研究所で誕生。養育は10歳まで前任の老人が担当。2年前から橘大地が養育者に就任。維持装置での管理が必要なため社会生活を営むことはできない。
 研究目的は、人工生体の環境適合性の有無。

「人工生体……」
 ピンとこない。それではまるで、美雨自体が人工のものででもあるかのようではないか。話して、笑って、手で触れさえした彼女が、人工物?そんなばかな。
 そのとき、彼女の舌足らずの言葉を思い出した。
 ……みうにはおかあさんはないの……
 彼女は、正確な内容を話したのではないか?「居ない」ではなく、「ない」と。
 ……みうにはおかあさんはないの……
「彼女は、アミノ結合対からDNAを構築し、そこにDNA刺激因子を加え、人工的にDNA二重らせん構造を作り上げられた、完全な、人工生体なのです」
 崩れそうになった充樹を大地は予期していたように抱きとめた。
「ショックだと思います。僕だって、初めて彼女を見たときはショックでした。けれど、あなたは美雨に出会ってしまった。そして、美雨は初めて触れた女性というものに、彼女が持っているはずのない母への恋慕を抱いてしまったんです。あなたの助けが必要なのです。美雨は人工体であるにもかかわらず、『母』という概念を理解し、それを求めています」
 遠いところで囁く大地の声が、幾重にも重なり充樹に襲い掛かった。
「人工生体が『母』という概念を抱いてしまったら、それは、ブラックボックスを開くことにもなりかねない。僕たちは見極めなければならないんです。彼女が、『母』をどう捕らえ、どう理解し、どう関係していくのか」
 ……みうにはおかあさんはないの……
 知らぬ間に、抱えられるようにして、充樹は研究所の門をくぐっていた。色彩をなくした視界の中で、無機的なドアが開き、手近な椅子に充樹は横たえられた。
「水を、持ってきましょう。楽にしていてください」
 消えていく大地の後ろ姿を見ながら、充樹はぼんやりと天井を見上げた。
 幾たびも大地の言葉が頭の中をめぐる。
 冷静にならなきゃ。まず、心を静めるのよ。そして、真実を見つめなきゃ。
 充樹は唇をかんだ。
 そう、まず、自分を見失わないこと。



「それでね、おててがやわらかくてね、かみがふわふわでね。おくちがとってもあかくてきれいなの」
 夢中でしゃべる舌足らずの口は、時折思い出すように閉じられる。それでもけして他の話題にふれようとはしない。
「あかるいふくをきていてね、にっこりわらってみうのおなまえをきいたのよ。きれいなこえなの。すごくきれいなこえなのよ」
 もう、この話を聞くのは何度目だろう。だが、その話題をやめて彼女に課題をやらせる気など到底起こらなかった。
「どんな人だったんだい?痩せていたのかい?それとも私みたいに太っていたかい?」
 少し考えて、美雨は嬉しそうに笑った。
「そばにいると、だいちとおんなじかんじがした」
 目の前の少女は幸せそうに微笑んで、男の袖口を掴む。
「ねぇ、ねぇ、まだおべんきょうをしなくちゃだめ?だいちといっしょに、おさんぽにいきたいの」
「いいよ。お部屋でちゃんと帽子をかぶってから行くんだよ」
 苦笑しながら彼女の我侭を許すと、まるで飛ぶように美雨は駆け出した。その細く頼りない背中を見つめながら山科は机に置かれた美雨のためのテキストを閉じた。彼女が生まれて12年。否、彼女の最初の始まりから数えれば13年になるだろうか。まさかこの手で学問を教えることができるようになるとは思わなかった。

 山科はまだ最初に顕微鏡で覗いたゆっくりと分裂していく擬似卵を覚えている。
 夢のように美しかった。半透明の卵が、ゆっくりとそのうす青く見える内容物を流動させ、いつしか分かたれていく瞬間。
 美雨は山科がこの研究に参加することになって初めての人工生体だった。

 ピンと小さな音がして時計のベルが鳴った。
「主任」
 呼びかけられて、振り向くと、同じく美雨の教育係を努める大地が立っていた。
「連れてきたのか?」
「はい」
 この決断が、正しいものであるかなどということは判断することも出来ない。学術的に追求しなければならないというのは半ばいいわけのようなもので、自分を突き動かしているのは、ただ、もう既に娘のようにさえ思えている美雨を少しでも喜ばせてやりたいという感情があるだけなのだ。
「彼女のことをよろしく頼む」
 強く、大地が頷くのが見えた。



「だぁれ?」
 充樹の耳に不意に小さな高い声が響いた。
 驚き、身を起こした先に、朧な影が立っている。
「美雨……」
 少女は一瞬驚いたように目を見開くと、ためらうことなく充樹の元に駆け寄った。
「みうのあいたかったひとっ」
 投げ出された細い体を抱き返すこともできないまま、充樹は呆然と天井を見上げた。温かな体。柔らかく、いい匂いのする髪。
 これが、人工のものだというのか。
 おかあさん。無防備に、過剰なほどに、そのすべてをかけて私を守ろうとした、おかあさん。わたしに、どうか、道を教えてください。
 ここに、母のないものがあります。生命の輪が絶たれたものがあります。そのすべてが人の手によって作られた、完全な人工体があります。あなたなら、どうしますか?
 母、という狂信的な愛で、愛することにおいては天才的な才能を持つ、あなた。あなたの娘に道を示してください。私はどうすればいいのでしょう。
 美雨は不思議そうに顔を上げた。小首を傾げて呆然としている充樹を不安そうに見上げる。
 色をなくした視界に、不意に思い出がよみがえる。



 遠く幼い日の昼下がり、疲れ切り青ざめた顔で帰ってきた母に充樹は飛びついた。
 身重だった母は一月前に弟を生むために入院していて、寂しがる充樹に祖母は「弟ができるのだから我慢しなくちゃ」と言った。母はなかなか帰ってこなかった。そのうち祖母も留守がちになった。寂しかった。一人だった。我慢をした。弟が生まれたら帰ってきてくれる。弟と一緒に帰ってきてくれる。姉になるという少々こそばゆい気持ちは、充樹にとって慰めだった。
 充樹は知らなかった。弟は生まれてこなかった。死産だったのだ。
 呆然と立ちつくす母を、充樹は見上げた。
 母の視界に自分は映っていない。
 おかあさん、どこにいるの?
 我慢したのよ、誉めて。おかあさん。
 泣きそうになった。涙目になり、潤んだ声で、ためらいがちに母を呼んだ。
「おかあさん?」
 恐怖に近い不安が充樹に襲いかかった。母が私を見ない。母が私に気付かない。
「おかあさん?」
 ゆっくりと視線が降りてきて、うつろな母の瞳に、不意に涙が浮かんだ。
 初めて、母が泣くのを見た。子供のように大きな涙を流して、不意に母は充樹を強く抱きしめた。
 すすり泣く母の背中に手を回しながら、充樹はかすかに安堵した。ここに、母が、在る。
 私の手の中に、母が、居る。



 目の前で、何かが動いた。目を凝らした。暖かな息づかいが聞こえる。
「どうした、の?」
 頼りなげな、細い声。白い肌。目を凝らす。ぼんやりと映る影の薄く白い肌には、しみ一つない。細い髪。整った顔立ち。バランスのとれた体つき。
 そっと、小さな手が充樹の頬に触れた。
「どうしてないているの? かなしいの?」
 はじめて、充樹は自分が泣いているのを知った。なぜ、泣いているのだろう。悲しいのだろうか。苦しいのだろうか。かわいそうなのだろうか。
 いや、そんな高次元の感情ではないのだ。感情ですらないのだろう。ただ、自分の知らなかった、未だ自分の中で名付けられていないものが吹き出し、荒れ狂い、膨れ上がっていく自分自身を留めようがなくて泣いているのだ。
「美雨……」
 名を呼ばれて、美雨がうれしそうに充樹を見上げた。
「美雨……」
 充樹は強く美雨を抱きしめた。暖かな体温が返ってくる。
 全て作られたものよ。私のこの半身のように、作られるという運命を持ってしまったものよ。どうして私におまえを一瞬でも哀れだと思うことができるだろうか。どうして、私がおまえを愛さない、ということができるだろうか。
「どうしたの?」
 小さく問いかける細い肩の向こうに、背の高い影が見えた。まっすぐ充樹を見つめるその影は、静かに充樹に頭を下げた。充樹はその影を見つめた。視線を結ぶだけで、成り立つ会話もあるのだろうか。再び視線が結ばれた時、ゆっくりと大地を見つめて充樹は頷いた。
 充樹は何もいわず、そっと美雨の髪を撫でた。さらさらとした感触が手の平をすべり、くすぐったさそうな小さな笑い声が胸元で響いた。
「会いに来たのよ」
 努めて優しく、美雨の耳元に囁いた。息がかかってくすぐったいのか、美雨はうれしそうな小さな笑い声を止めなかった。
「会いに来たのよ、美雨」
 繰り返す私の言葉にようやく、背中に回された小さな手が、ぎゅっと服をつかむのが感じられた。



 政府に管理された機関というのは、こんなにも迅速に物事を運ばせるものなのだろうか。充樹は次の月曜には努めていた研究所の事務を辞め、この美雨の待つ建物の経理事務という肩書きで迎えられることとなった。充樹には新しい白衣と美雨の部屋の横に宿泊用の部屋を与えられ、専用の端末機から美雨についてのファイルへの全アクセス権をも与えられた。
 そこには美雨という一つの実験個体の今までの記録が詳細に書かれていた。

 そもそも人工生命体を作る計画は人工硬膜・人工皮膚の開発に起因している。既に多くの研究施設において人工臓器の開発は成功しているが、その多くは既にある人工物を再構成することによって成功しているだけであり、正確に言えば人工擬似臓器という表現がなされるであろう。それらは全て、人体の構成物質で臓器を作り上げ、移植の際の免疫反応をなくそうというのが主要な目的だったのである。しかし、その計画は自分のDNAを保管するための保管庫を借りることができる一部の裕福な人間にしか適応されないものであった。
 初めて人工臓器に焦点が当てられたのは15年前、人のDNAを使用することなく純然たる人工臓器を作るということが研究目的であった。すべて人工のものを使うことによって、すべての人に平等な医療を提供する、ということが主たる目的だった。しかし次第に研究目的は微妙にずれ始め、いつしか人工生命体そのものの研究へと発展する。
 第一号実験体αは胎生20週目で原因不明の細胞融解が起こっている。その後、実験は重ねられ、美雨は12番目の実験個体となる。

 充樹は膨大な量のファイルに目を通しはじめた。
 胎生期に細胞融解を起こしたα・β・γは共に男性体であり、ここから実験は女性体へと切り替えられている。ついで、δ・εは新生児期に心不全のため急逝。病理解剖の結果、心筋の一部融解が見られている。その後も実験体のほとんどは心臓の機能不全を生じている。その原因はやはり細胞の融解であり、美雨の前の実験体からは定期的な羊水槽への還元を義務づけている。この作業を「瞑想」と呼び、その間に髪・皮膚・粘膜などの組織から現在のDNA崩壊の度合いを調べ、可能ならばDNA鎖の再構成を行うことになっている。
 前回の美雨の「瞑想」は2ヶ月前、既にDNA崩壊が2カ所で発見されていた。

 充樹はため息をついた。正直言って、今までこのような分野と接することの少なかった充樹にとって、このファイルを通読することは非常な労力を費やす作業だ。だが、美雨という人格を理解し、これから接していく上では避けては通れない作業だった。
 紅茶でも飲もう。充樹は片隅に設置されているミニキッチンへと足を向けた。
 その時、コンコンと控えめなノック音が聞こえた。
「はい。どうぞ。鍵はかけていません」
 そう応えると、ゆっくりとドアが開かれ、大地の顔がのぞいた。
「この部屋はいかがですか?」
 ゆっくりと後ろ手でドアを閉めながら屈託のない笑顔で尋ねる。
「ええ。快適です。ちょうどお茶を入れようと思っていたんです。いかがですか?」
 大地は少しほほえんで勧められるままに椅子に腰掛けた。ふと、端末機に開かれたままの美雨のファイルに目を留めると、お茶を入れるために忙しい充樹をかえりみた。
「美雨のファイルを読んでらしたんですね」
「ええ。でも正直言って内容が私には難しすぎて……」
 カップ類を運んできた充樹の手からそっとそれを受け取ると、大地は充樹にほほえみかけた。
「僕でよかったら、少しは質問にも答えられると思いますが」
 向かい合わせに椅子に腰掛けながら、充樹はほっとしたような表情を見せた。
「お願いします」



「DNAの崩壊は止められないんですか?」
 いくらか大地に基本的なDNAについての講義をしてもらった後、充樹は質問をぶつけた。
「DNAの崩壊は、私たちの中でも起こっていることです。原因は体内にできてしまった有害物質や紫外線・放射線などが原因だといわれていますが、原因の全てが解明されているわけではありません。一番身近な話が、癌ですね。これもDNAの崩壊が原因と考えられています」
 大地は充樹が理解できているかを確かめるように話を切った。充樹は軽く頷いて見せた。
「ええ。発癌については、昔聞いたことがあります。癌になるのを押さえている遺伝子が壊れてしまうと癌になると……」
「そうです。私たちに比べて美雨のDNAはそういう外部の刺激の弱いのです。だから、紫外線を極力浴びないために、夏期は外出禁止、それ以外の季節も、なるべく紫外線量の少ない午前中の早い時間や夕方に外出させるように心がけなければなりません。もちろん食事についても細心の注意が払われています」
 あぁ、だから美雨と出会ったのは日の沈んだ後やまだ日が高くなる前の涼しい時間帯だったのだ。そして、あの肌の青白さも頷ける。健康な子供に必要な太陽に光が、美雨にとっては有害なものとなってしまうのだ。
「充樹さんが今後、美雨と触れあう際にもこのことは十分注意してください」
 大地はちらりと壁の時計を眺めた。
「あぁ、美雨の勉強の時間が終わる頃ですね」
 学校に行けない美雨は専用の教師がつけられ、言葉や計算、ふつうの子供達が学ぶことを取捨選択しながら教えられていた。どうしても研究所の外部に向いていってしまう美雨の好奇心を少しずつずらし、必要以上に外部のことを知らせないようにしながら、それでも最大限の知識を美雨に教えるという作業は簡単なものではいのだが、それでも多くの教師は全ての誠意を美雨に向けて授業を行っていた。
 充樹はそっと立ち上がると端末機の電源を切った。そのかわりオーディオのスイッチを入れると美雨の好きなピアノの曲をながしはじめた。

 ピアノの音は、どうしてこんなにも心に沁み入ってくるのだろう。無機物から発せられる音が鼓膜に伝わるなり、何よりも心の襞を探る。
 ことりと、大地がカップを置く音がした。その音が消えるか消えないかのうちに小さなたどたどしい足音が響いてきた。
「みつき」
 前触れもなく大きくドアが開くと、細い髪をなびかせて美雨が部屋に走り込んだ。
「美雨」
 飛びついて来た美雨を全身で抱きとめ、充樹はそっとその細い髪に指を埋めた。
「みつき、またかみをきれいにして」
 毎日のように、充樹は美雨の髪を梳いてはいろいろな形に編み上げた。男性ばかりに囲まれてきた美雨は髪を結ってもらうという経験がなかったのだ。
「じゃぁ、僕はこのへんで……」
「だいち?」
 その時はじめて美雨は大地の存在に気がついたようだった。
「だいち、もうかえっちゃうの? みうのきれいなかみ、みていってくれないの?」
 その頼りない顔が寂しさに微かに歪むのに、大地は苦笑した。
「わかった。美雨の髪が綺麗になるまで待っているよ」
 その答えを聞いて嬉しそうに笑うと、美雨は椅子に横向きに座った。充樹は鏡台からブラシやピンを出してくると、テーブルの上に並べる。
「さぁ、美雨、じっとしていてね」
 椅子の背後に立つと、充樹はゆっくりと美雨の髪を梳きはじめた。美雨はまっすぐに顔を上げると、どこか神妙な顔をしてじっと充樹の指の感覚を感じている。
 それは、神聖な儀式のようだと、大地は思った。
 髪をすくい上げ、編み込み、充樹の指がおもしろいように綺麗に美雨の髪を編み上げていく。時折、髪を引きすぎ、小さく美雨に謝ると、美雨は頭をけして動かさないようにしながら、大丈夫、と呟いた。
 そのうちに、大地はふと、あることに気がついた。なめらかに、柔らかく動く右手に比べて、左手の動きがぎこちない。利き腕が右手であるからというような、そんな簡単な理由からではないような気がする。
 大地はじっと充樹の左腕を見つめた。まっすぐにのびた無駄なもののない腕、手首、指、爪。いつも綺麗な形に整えられている。
 違和感。
 美雨を世話してもらうに当たって、大地は充樹のいろいろな部分をゆっくりと観察させてもらっている。生活習慣や思考、衛生観念に至るまで、充樹の協力の下、アンケート形式での診断も含めて大抵のことは把握していた。
 爪の形がいつも変わらないのはどうしてなのか。
 どんなに衛生的に気を付けていても、毎日のように爪を切っていなければ、常に同じ長さの爪というのはあり得ない。自分自身、実験のため指先にはかなり神経質だが、それでも、基準以上にのびたら切るようにしている。
 視線を動かすと、すっきりと伸びた首筋に僅かな違和を感じた。
 継ぎ目……。
 ふと、視線を感じて、大地は充樹の指先から視線をあげた。
 まっすぐに充樹が大地を見つめている。どこか思い詰めたようなその瞳は大地にある確信を抱かせた。
「みつき?」
 不意に止まってしまった手を訝しむように、美雨が問いかける。
「あ、動いちゃダメよ」
 充樹は再び指を動かしはじめた。明らかに最初とは違う充樹の表情に、大地は、そっと立ち上がると、オーディオの前に進み、何かのレコードを捜す振りをした。



 結局、美雨が毎日の日課にしている日記を書く時間まで、大地は美雨の相手をさせられた。最近、大地には充樹と研究所の橋渡しの仕事が多く、今までのように一緒にいられなかったことが、やはり美雨には不満だったようだ。たわいないおしゃべりやクイズ、今日習ったことのおさらい、そんなことを楽しそうに話す美雨を見ていると、帰ると言い出せなかったということもあった。
「遅くまで、おじゃましてしまって、すみません」
 カップを片付けようとする大地の手をとめ、充樹はそっとカップをとった。
「いいえ、ひさしぶりに大地と話せて、美雨、楽しそうだったわ」
 そのまま背中を向けてミニキッチンの方に行ってしまおうとする充樹を不意に大地が止めた。そっと手が上がり、左の頬に指が触れる。
「イヤ」
 大地の手を払いのけようとして、充樹の手からカップが転がり落ちた。ガシャリとイヤな音がして、床の上でカップが崩れた。
 左頬を両手で覆ってしまった充樹を大地はまっすぐに見つめた。
「その皮膚は、美雨のものと同じですね」
 充樹はうつむいたまま、首を振った。
「私のこの皮膚は、美雨の皮膚のように生きてはいないわ」
 そのまま、ゆっくりとかがみ込むと、充樹はそっと右手でカップの破片を集め始めた。
「私のこの左指は、感覚がないの。だから、こんな時も左手は使えない。切れても痛くないのよ」
 大地も同じようにかがみ込み、カップの破片を集める。
「火事で、私の半身は燃えたのよ……」
 大地に聞かせるためというよりも、自分自身に言い聞かせるように充樹はゆっくりとしゃべった。小刻みにふるえる指先が、ふとした拍子に破片の先に当たって、切れた。
「いた……」
 ぷっくりと血色の玉が指先で膨れる。悲しいものを見るような瞳で充樹はそれを見つめた。
 血の通った右手。血の通わない左手。私の、壊れてしまった、半身。
 大地はそっとその右手をとると、指をくわえた。微かに広がる鉄の味が、不意に涙を誘った。
「大地……」
 右目だけで、充樹は泣いた。もう、左目からは涙が出ないのだ。
 大地は、そっと唇から指を外すと、充樹の泣かない左頬を両手で挟み込んだ。
「すみません……」
 触れられたくないことだったろう。まだ若いこの女性にとって、けして知られたくないことだったろう。美雨を見つめながら充樹が何を感じ、何を考え、そして、どんなにか傷ついたかと考えると、大地は自分には想像のつかない痛みに、俯くしかなかった。
「すみません……」
 何に対してか、謝罪の言葉を繰り返す大地に、充樹はほほえんだ。
「ごめんなさい。隠していたわけではないの。でも、まだ……」
 まだ、私にとって、この傷は癒えてはいないから……。どんなに表面が美しく整っていても、この傷は私の中で、まだ膿をはきつづけているから……。
 そっと、充樹を怖がらせないようにそっと、大地は充樹を抱きしめた。一瞬強ばった体は不意に弛緩し、充樹は子供のように声を挙げて泣いた。



 数日後、仕事の整理を終えようとしていた大地の元に一本の電話があった。
「はい。大地ですが……」
「充樹です。ちょっと美雨のことで気になることがあるのだけれど、私の部屋まで来てもらっていいかしら」
 声が沈んでいる。すぐに行くとだけ短く伝えて、大地は受話器を置いた。書類の整理もせぬまま、すぐに部屋を後にする。
充樹の部屋のドアをノックすると、ずっとドアのそばで待っていたのだろう、誰かと問う間もなくドアが開かれた。
「これを見てほしいの」
 テーブルの上に今日使ったのであろうブラシが置いてある。ブラシに残る美雨の髪の多さに、大地は一瞬息を呑んだ。
「こんなに髪が抜けるなんて。しかも、毛根を見て。皮膚が剥がれているのよ」
 充樹の様子は半狂乱といってもいいくらいだ。大地はブラシを手に取ると、眉をひそめた。
「知らせてくれてありがとう。すぐに対処しないと」
 すぐに出ていこうとする大地を充樹は止めた。
「待って。どういうことなの?」
 答えはたぶん、もう、予測しているのだろう。まっすぐに見つめる充樹の瞳は既に涙が浮かんでいる。
「融解が、始まっているかもしれない。一刻を争うんだ」
 走り出ていく大地を充樹はもう止めなかった。ドアの向こうに背中が消えるのを見届けると、充樹はゆっくりと崩れ落ちた。無意識のうちに左の頬を押さえる。
 細胞融解。早すぎる。次の「瞑想」まではあと1ヶ月はあるはずだ。美雨の体の中でいったい何が起こっているのか。
「美雨の、美雨のところへ行かなくちゃ」
 誰にともなく、そう呟くと、充樹は立ち上がった。おぼつかない足取りで、ドアを開けると、美雨の部屋の前に立つ。
「美雨?」
 中から返事はない。
「美雨、入るわよ」
 ゆっくりと充樹はドアを開けた。明かりを付けていない、暗い部屋の片隅で美雨が膝を抱えていた。
「美雨?」
 入ってきた充樹に、美雨は抱きついた。
「みうをひとりぼっちにしないで」
 美雨の手には自分で抜いてしまったのだろう、髪の束が握られていた。
「美雨」
 ただ、抱きしめることしかできなかった。全てから、守ってやりたい。出来得ればこの、運命から。
「みつき、みうをひとりにしないで」
 その時、扉が叩かれた。
「美雨、僕だ」
 大地の声がする。
「いや、はいってこないで」
 美雨は充樹の腕を振り払い、ベッドの影に隠れた。
「みうをみないで」
 充樹はゆっくりと立ち上がると、ベッドに座り、美雨を抱え上げ抱きしめた。
「美雨」
「みうは……」
 美雨が頬をすりつけた。
「みうが、ほんとうはみつきとおなじじゃないこと、しってる」
 愕然とした。幼い思考の中で、美雨は本能的に違いを悟っているのだろうか。
 でも、それでもみうはみつきといっしょにいたいんだよ。
 強く美雨を抱きしめた。
 扉がゆっくりと開かれて、大地の影が見えた。
「美雨、おいで」
 小さくうずくまり、美雨は充樹の腕の中に隠れようとしてみせた。
「いや。みうはひとりぼっちはいや」
「美雨!」
 相手を思いやるが故の怒り。充樹には大地の気持ちがよく分かる。しかしこの場合、美雨には逆効果だ。
「美雨、大丈夫よ。傍に居るわ。一人になんてしないわ」
 充樹はつよく美雨を抱きしめた。
「みつき、みう、ひとりぼっちになるのは、いや」
 宥めるように美雨の髪を梳いた。
「でも、このまま美雨がここに隠れていると、美雨は一人ぼっちになってしまうのよ」
 わかるでしょう、というように充樹は美雨の顔を覗き込んだ。
 観念したように、美雨は頷いた。
「美雨。ずっとそばにいるわ。だから、いきましょう」
 行きましょう。生きましょう。作られるという運命を背負わなくてはならなかった私たち。
 美雨の姿を守るようにしながら、充樹は立ち上がり、大地と向かい合った。
「私が、連れていきます。いいでしょう?」
 小さく頷くと、大地は歩き出した。充樹の胸で美雨が小さくしゃくり上げるのが聞こえた。



 充樹が研究所内部にはいるのは初めてだ。薄く流れる消毒薬の匂いが鼻を突いた。いくつもの自動扉を越えた先にその部屋はあった。
「ここが『瞑想室』。手前にコントロールルームがあって、奥に前室がある」
 大地は白衣のポケットから三角のカードを出すと、扉の横にあるデコーダーに通した。軽い電子音がして、ゆっくりと扉が開く。
「前処置をはじめる。準備して」
 既にコントロールルームで準備をはじめていたらしい数人の白衣の人物が、大地の声で振り返った。
「充樹、入って」
 大地に促され部屋の内部へ進むと、一人の白衣の人物がゆっくりと近づいてきた。
「前処置をはじめます」
 少し悲しげな顔をしながら、そっとその白衣の腕が美雨の頬に触れた。ほんのりとバニラの匂いがして、すっと美雨のからだの力が抜けた。
「美雨?」
 驚いた充樹に大地がよりそう。
「揮発性の固形の麻酔薬だよ。大丈夫。眠っただけだ」
 充樹の腕からそっと美雨を抱き寄せると、大地は充樹に椅子を勧めた。
「今から、僕も前処置に入るから、少し、ここで待っていてくれないか?落ち着いたら充樹も瞑想室に入れると思うから」
 大丈夫だよというように大地は充樹の頬を撫でた。そして、美雨をゆっくりと抱きかかえると、奥の二重扉の向こうへ消えていった。
 その背中をぼんやりと追いながら、充樹は目の前の大きなガラス窓の向こうを見つめた。
 丸い円筒形の水槽には、さまざまな機械がついている。十分に水に満たされて、時折ふちを伝って這い上がってくる気泡がとても美しかった。
 これが、美雨の子宮。この無機質な子宮。
 カタリと小さな音がして、瞑想室の中に数人の人影が現れた。すべて同じように白い帽子をかぶり、マスクをしている。一番背が高いのがおそらくは大地だろう。しっかりと美雨を抱きしめていた。
 美雨の顔に大きな黒いマスクがかぶせられた。口と鼻をすべて覆う形のそれが、美雨の呼吸を維持する。細い腕に針が刺され、テープで固定され、その上下がベルトで固定される。これが美雨の体を維持するのだろう。
 大地がGOサインを出した。
 ゆっくりと水槽の上部が開かれ、眠ったままの美雨がゆっくりとその中に落とされた。細い髪が緩やかに水中に広がり、水藻のようにゆらゆらとゆれた。
 美しかった。ごく自然に膝を曲げ、自分自身の体を抱きしめるような姿勢になった美雨は、美しいオブジェのようだ。
 瞑想室の中で、大地が充樹を手招きした。ジェスチャーで前室に入るように充樹に指示すると、大地は急いで充樹の元に向かった。
 前室の入り口は二重扉で、その間はエアーシャワーが30秒間出るように設定されている。嵐のような風の中で、充樹はようやく事の重大さを感じ始めていた。
 全室への扉が開くのを待って、大地はマスクをはずすと、入り口に立つ充樹に向かって、靴を履き替えるように指示した。
「ここは一応準清潔区になっているんだ。靴を履き替えて、白衣に着替えて」
 帽子をかぶり、マスクをし、手を洗ったら、ようやく瞑想室の二重扉の中に入ることができる。そこで再びエアーシャワーを浴び、ようやく瞑想室に入ることができるのだ。
「美雨は眠っているだけで、声も聞こえるし、夢も見ている。だから、もし、時間があるなら美雨に話し掛けにきて欲しい」
 嵐のような風の中で、大地は充樹に言った。
「午前中は美雨の調査と治療があるから、午後からになってしまうけど」
「治るの?」
 一瞬大地の瞳が苦しげに俯いた。
「分からない。発見は早かったけど、進行がいつもより早い」
 不意に風が途切れた。ゆっくりと開く扉の中に歩き出しながら、大地は立ち止まってしまった充樹の背中を押した。
「さぁ、行こう」

 深海のよう、と表現したらよかっただろうか。そこは明かりを抑え、時折水の流れる音がするだけの、無機質な部屋だった。いくつかの大きな水槽が何本ものチューブにつながれて、ぼんやりと淡く光っていた。
「美雨」
 美雨が浮かぶ水槽のガラスにそっと指をつけた。ひんやりと指先が冷える。
「水槽は34度に保たれています。体を低温に保つことで脳を保護しているんです」
 美雨の瞑想を今まで幾度も管理してきただろう白衣の人影が、そっと充樹に語りかけた。
「あなたが、美雨のお母さんですね。よく、嬉しそうに話してくれましたよ」
 オカアサン……。
 そっと大地が充樹の肩に触れた。
「美雨、毎日会いに来るわ」
 ゆらゆらと美雨の髪がゆれた。ゴボリと泡が巻き上がり、一瞬目を閉じた美雨の顔が淡い光の中に照らされた。
 まだ幼い顔。実際の年齢よりも幼く見える。
 ……みうが、ほんとうはみつきとおなじじゃないこと、しってる……
 幼い微笑みの下で、本当はすべてのことを知っていた美雨。
 彼女は母を知らない。
 私は母を知っている。私は無条件に愛されることを知っている。
「充樹」
 やさしい大地の声に充樹は振り返った。涙が盛り上がっている右目を見つめて、大地が微笑んだ。
「大丈夫」
 やさしげに目元を緩ませながら、それでもけして笑っていはいない大地の瞳を見つめて、充樹は無理に笑顔を作ろうとした。とたんにぽとりと音もなく涙が頬を伝った。
「大丈夫……」
 ゆっくりと抱きしめられながら、充樹はどこか遠いところで何かが剥落していく音を聞いていた。



 美雨の治療は難航した。
 DNAの修正作業が進むにつれ、そのわずかな間にまた別の場所が崩壊する。誘発されていく火事のように加速度的にDNAの崩壊は繰り返されていた。
 美雨の治療開始から10日目、その日は冷たい雨が降っていた。

 傘を持っていけばよかった。
 そう考えながら、充樹は濡れた髪をハンカチで拭いた。そっと大事そうに胸元から包みを取り出すと、濡れていないかどうか確かめた。
 どうやら大丈夫だということを確認するとそのまま美雨の部屋へと急いだ。
 柔らかな香りがした。細く窓から差し込む光に淡く蒼くバラの花が咲いている。包みをテーブルに置くと、充樹は花瓶の水を替えた。そして包みを開け、小さな錠剤を入れる。
 今まで切り花を長持ちさせるために活性剤を入れることなどなかった。散る花を、散るからこそ愛しいと思っていたのだ。なのに、最近花が散ると心が痛む。どうしてだろう。
 頼りなく、それでも力いっぱいに咲いているバラを見つめて充樹は溜息をついた。
 美雨……。
 人工的な海の中で眠りつづける美雨を思った。青ざめた皮膚は淡い光の中でわずかに発光しているようにも見えた。
 もしかして、もう、このまま……。
 嫌な考えが胸のうちをかすめることも少なからずあった。
 その度ごとに弱気になる自分自身を戒め、ガラス越しに美雨に話しかけ、時折びくりと動く体を見つめつづけた。
 さぁ、行かなければ。
 瞑想室へ行くことはすでに日課となっている。午前中の多くは治療の時間となっているため、充樹に与えられた時間は昼からの5時間だ。ただ、5時間ずっと、美雨に話しかけ、物語を読んでやることにそのすべてを費やしていた。
 小走りに充樹は美雨の部屋を出た。廊下に出るとすぐ、研究所のほうから歩いてくる大地を見つけた。
「大地」
 ぼんやりと視線を宙にさまよわせながら歩いていた大地は、はっとしたように充樹を見つめた。青ざめた顔、小刻みに唇が震えている。
「充樹……」
 不意に大地の顔がゆがんだ。悲しみとも怒りともつかない表情で、大地はこぶしを握り締めた。
「どうしたの?」
 尋常ではないその様子に充樹は思わず立ち止まった。
 大地はいつも、どんな苦しいときでも、悲しいときでもどこかに冷静さを保っていた。しかし、今、大地はおよそ冷静さというものからかけ離れた表情をしている。
「どうしたの? 何かあったの?」
 充樹は思わず大地に駆け寄った。震えているこぶしにそっと触れてみる。
「大地?」
 突然引き寄せられ、力いっぱい抱きしめられた。容赦なく力のこめられる腕から、悲しみが染みとおってくる。
「大地、何があったの? 言って」
 問いかけに応えるように、苦しげなうめき声が耳元で聞こえた。それが嗚咽だと気づくのにはすこし時間がかかった。
「美雨が……」
 息が耳元にかかった。熱い息。それは怒り。
「美雨が抹消される……」
 世界からすべての色と音が消えた。



 どうやって自分の部屋に入ったのか、まったく覚えていなかった。ただ、剥離している感覚の中で、落ち着きなさいと誰かの声がしていたことだけは覚えている。
 椅子に大地を座らせると、まずお湯を沸かした。機械のように手が動いた。落ち着きなさい。まず、何をすればいいの?どうしたいの?
 ポットにお湯を注ぐと柔らかなハーブの香りがした。

 美雨が抹消される。ドウシテ。
 もう、DNAの崩壊を止められないから。ダカラ?
 美雨の体を維持するには莫大な研究費がかかるから。オカネ?ソレダケ?
 美雨は作られたものだから。ツクラレタモノダカラ?

「助けなきゃ……」
 充樹の声にはっとしたように大地が顔を上げた。
「助けても、美雨の運命はもう決まっているのでしょうけど、それでも、美雨は生きているのだから」
 助けなきゃ。作られたものだから、作ったものが壊していいとでも言うのか。
 ふらふらと充樹は歩き出した。
 ひとりぼっちが嫌だと泣いた美雨。傍にいたいと泣いた美雨。
 それなのに、もう10日もの間、美雨を独りぼっちにしてしまった。
「充樹」
 大地が腕をつかんだ。
 強い瞳が大地を見据えた。悲しみに我を忘れているわけではない、狂気じみた思いに支配されているのでもない。まっすぐに、決然とした瞳をして、充樹は大地を見つめた。
「私は美雨をひとりにはしないわ」
 思わずつかんだその手を大地は緩めた。
 止めさせない。そう、瞳がいっている。
 強い瞳。
「僕も行こう」
 ゆっくりと充樹は頷いた。



 通い慣れた道だった。
 しかし、消毒薬の匂いの中、こんなにも長い距離だったかと思ってしまうほど、瞑想室までの距離は長く感じられた。
 デコーダーにカードを通すと、静かに開いたドアの先に数人の白衣の姿が見えた。
「充樹さん?」
 その中の一人が驚いたように充樹を振り返った。そして慌てたようにやってくると、充樹の手を握り締めた。
「充樹さん。美雨が……」
 彼にとっても寝耳に水の話だったに違いない。顔が青ざめている。
「聞きました」
 いつもならまだ忙しく治療の後片付けをしている時間だ。なのに今日は誰一人として動いているものが居ない。どこか諦めたような顔で、じっと悲しげに水槽で揺れる美雨を見つめている。
「美雨を連れに来たの」
 驚いたように、その場に居るすべての人間が充樹を見つめた。
「研究所には美雨はもう、必要ないのかもしれないけれど、私には美雨が必要なの」
 私は美雨のためにここに連れてこられた。私は美雨のためだけに存在していた。
「美雨を連れて行きます」
 慌てたように何人かが私の手を握り締めた。
「気持ちはわかります。けれど、もし、今、美雨を水槽から出したら……」
 細胞融解。もう、止められないところまで来ていることなど分かっていた。
「分かっています。でも、このまま、美雨を一人水槽に閉じ込めたまま、美雨から未来を奪うことが私には出来ません」
 最初に私の手を握った人影が、そっとパネルの前に立つと、カチリとボタンを押すのが見えた。
「主任?」
 慌てたように解除ボタンを押そうとする手をその人影が止めた。
「主任、そんなことをしたら……」
 静かな音を立てて、美雨の水槽の中から水が抜き取られていく。
「そうだ。分かっている。水を抜けば、美雨の身体はいつか外気にさらされて壊れていくだろう……」
「分かっていながら、主任、どうして!」
 人影は真っ直ぐに充樹を見つめた。
「私は、美雨がたった一つの小さな卵細胞だったときから、美雨を見つめている。美雨が字をかけるようになったら、美雨の教師の一人として、美雨の傍にいた」
 彼女が来てから、美雨が私にする話はすべて、彼女のことだった。
 ……みつきはね、いいにおいがするの。てがね、やわらかくてね、いつもみうのかみをきれいにしてくれるの……
「美雨はよく笑うようになった。青白かった頬を上気させて、いつも美雨は彼女のことを話していた。私は、美雨のその様子を見て、母を思い出した。もう、数年前に死んでしまったのだがね」
 美雨は、母を知らないはずだった。人工的に作られたDNAしか、美雨に与えられていたものはなかった。
「嬉しかったんだよ、私は。私が作り上げた小さな命が本当の生命になっていくような気がして」
 充樹は黙ったまま、マスクで隠された頬に涙が伝っているのを見つめた。
「私にとっても、美雨は娘だ」
 この世で、娘の幸福を願わない父があるものか。
 たとえ、この感覚が傲慢極まりないものであったとしても。生命を作り上げるという、神への冒涜だったとしても。それでも、笑い、走り、歌う美雨が、幸せで在れるのであれば。
「私が責任を取ればいい。みんなははやく、ここから出なさい」
 ゴボリと大きな音がした。美雨の水槽の水は半分ほどまで減ってきていた。
「早く、急いで。滅菌ガーゼと滅菌服を」
 気おされるようにわらわらと人が動き始めた。立ち尽くした充樹と大地の前に主任が立つと、そっと右出を出した。
「大地、充樹さんと美雨を頼む」
「主任は……」
 問い掛ける大地に何も応えず、彼はただ優しく微笑んだ。
「この住所に私の友人が居る。報道関係の人間だ」
 大地の拳が固く握られるのが感じられた。
 この人は、すべての罪をかぶるのだろう。美雨をここから出したと言う罪ばかりでなく、命を作り出したという罪までも。美雨を守るために。
「美雨の最期を、もし可能ならば教えてくれ」
 滅菌ガーゼと滅菌服で包まれた美雨が、そっと大地に渡された。
「大地さん、早く」
 白衣の影が、私達の背中を押した。
 ドアが閉まる寸前、振り返った視界の中で、美雨を娘だと言ったその人は、とても小さく見えた。



 花屋の店長に無理を言って車を貸してもらい、渡された住所に転がり込んだのは、もう、夜になろうかという時間だった。
 突然訪れた私達を、その人はまるで最初から知っていたかのように家に招きいれた。
「話は聞いていた」
 美雨を奥の寝室に寝かせると、大地と充樹にお茶を勧めながら、不意にその人は話し始めた。
「彼は、高校の友人でね、取り立ててべたべたした交友をしていたわけではないんだが、僕が行き詰まると彼が相談に乗ってくれて、彼が行き詰まると、なぜだか、僕と呑みにいくことが多くてね」
 ずっと悩んでいたようだったと、その人は言った。もう、10年来の悩みになるだろうか。
 こんな日が来るのではないかと、恐れていた。
「この部屋は好きにつかっていい。僕にできることはそれくらいだ」
 それだけ言うと、その人は不意に席を立って、静かにドアの外に出た。充樹は追いかけようとしたが、その手を大地に止められる。
 ただ、黙って大地が首を振った。
 ドアの外で、微かにその人の嗚咽が聞こえた。

 美雨の眼はなかなか覚めなかった。
 そっと髪を梳くと、束になって髪が抜けた。柔らかなガーゼで肌を拭くと、小さな水疱が破れる感触がした。
「美雨……」
 充樹は語りかけた。
 大地は美雨の状態のすべてを常にノートに書き込み、美雨が生きているすべてを書き残そうとしていた。
「美雨……」
 何度目の呼びかけだったろうか、薄く美雨の瞳が開くと、カサカサになった唇がゆっくりと開いた。
「みつき……」
 掠れてしまった声。
「美雨……」
 充樹の微笑を見ると、美雨は安心したように小さく微笑んだ。
「ゆめを、みてたの……。みつきがおかあさんになってくれるゆめ」
 そうして、ずっと、そばにいてくれる、ゆめ。
 充樹は、そっと美雨の頬を撫でた。
「傍にいるわ」
 美雨は笑った。天使のようだった。
 髪が抜け、火ぶくれのような水疱が皮膚のすべてを覆っていた。
 それでも美雨は美しかった。
 美醜を超えて、彼女は彼女であるからこそ美しかった。
「美雨?」
 微笑んだまま、小さな彼女の身体は時間を止めた。研究所を出てから2日。美雨の時間は止まった。




「充樹、大丈夫かい?」
 電車の着くホームで充樹を迎えてからずっと、うるさいくらい何回も大丈夫かと繰り返す母に、充樹は苦笑した。
「大丈夫よ、予定日までまだ一ヶ月もあるのよ」
 そんなこと言ったって、と、顔をしかめながら、母は充樹の荷物を奪い取ると、車に運ぶ。ぶつぶつと、身重の身体でこんな重いものを持って、と呟いているのが聞こえる。
「大地さんは何時こっちに来るんだい?」
「今度の仕事が終わってからだから、2.3日後じゃないかしら、その後、また仕事に行ってしまうけど」
 よいしょと大きな腹を守るようにして車に乗り込むと、充樹は笑った。
「忙しいのよ、いろいろと」

 大地の書いた手記が反響を巻き起こした今、人工生命に対する世論の反応は激しく、当時の責任者に対して事実の公開を求める声も大きい。一度は法で裁かれた研究所の主任、山科も、その罪を社会や政府、企業そのものに求める世論も多く、街角のそこかしこで署名運動が繰り広げられていた。
 美雨の時間が止まってしまった後も、静かに時間は流れ、小さな天使に導かれた大地と充樹は、この秋、小さな命の親となる。
 充樹は、ふと、車外の空を見上げた。
 夕闇の空に半月。

 初めて美雨とであった時も、こんな月がかかっていたわ。

 ゆっくりと滑り出した車の中で、充樹はそっと盛り上がった腹部を撫でた。
 美雨……。
 この体の中心で小さな鼓動が刻まれている。
 まるで、祈りのように。

 
前頁  >>  [ 2 ]