『月鏡』 [ 1 ]
小さくため息をつきながら後ろ手にドアを閉めると、ふと何かに導かれるようにして充樹は空を見上げた。
薄暗く青く染まった中空に半月がかかっていた。青白い光は薄闇に沈みはじめた世界を見下ろし何処か謎めいて、まるで美しい顔の半分を隠すようにしながら、冷たく微笑んでいる。
充樹は無意識のうちにそっと左の頬に手を当てた。
もう、痛みは無い。けれど触れられているという感覚も無いそこは、見た目には普通の皮膚と何ら変わりない。しかし、その下に焼け爛れてもう機能しない皮下組織が隠されていることを充樹は自分でよく分かっていた。
どんなに1年前と変らないつもりでいても、明らかに自分の身体は変ってしまっているのだ。半身に生め込まれた異物を自分は一生背負って生きていかねばならない。
充樹は乱暴に髪をかきあげた。さりげなく、けれど入念に皮膚と皮膚との境を化粧で隠した顔を無意識のうちにいつも髪で隠してしまう。そんな自分が小さく哀れで、とても嫌いだ。
充樹はもう一度空を見上げた。世界の全ての音を止めているかのように、ただ、月だけが何も知らぬげに輝いている。けれどたぶん、月は全ての現象を見つめている。そして、けしてそれとは分からない形でその全てを自らの満ち欠けとして顕しているのだ。
そうでなければ、痛みを感じないはずの左頬がこんなにも痛いはずがない。
月から目を背けて、充樹は薄暗い道を歩き始めた。
花を買って帰ろう。こんな、痛みを感じる日は。散ることをあらかじめ悟っているかのように、見事に咲き誇る花を。
その花屋は、半年ほど前に偶然見つけた。
いつもは入らない路地に入り、突然あたりに漂った花の香に導かれて道の奥まった所までふらふらと歩いていった先、まるで故意に隠されたような小さな花屋があった。趣味でやっているのだという小さな花屋は顔なじみしか来ないまるで隠れ家のようなもので、それ以来よく足を運ぶようになった。
ことさら散りやすい花種の切り花しか買わない充樹に、店長だという初老の女性は幾度かさりげなく鉢物を勧めたが、不意に何か悟ったのか何も言わなくなり、充樹の為にその季節に一番美しく咲く花を置いてくれるようになった。
そして、充樹はその行為に甘えている。
「こんばんは」
店を閉めるために、表の花を片付けていた店長が振り返って笑った。
「あら、今日は遅かったのね。もう、こないのかと思ったわ」
笑うと、すぐ店の中へ招いた。
「すてきなバラがでていたの、思わず仕入れてしまったわ。見て」
彼女が示した、柔らかな青い光の中に、小さな青いバラがあった。
「青、なの?」
青と言う色素は植物の中には稀である。特に青いバラは古くから多くの人間が誕生させようとした花でもあるのだ。近年遺伝子操作でかなり青に近い色のものも出回っているが、どれも「青」というよりは「碧」に近い色合いをしている。
「正確には白よ。でも冷たい白だから、白色光の中でも青っぽく見えるの。特にこの青色光の中では青いバラのようにしか見えないでしょう?」
彼女はうれしそうに笑った。
あなたに絶対見て欲しくて、売れてしまうのが心配だったの。彼女はそういって、いつものように私にハーブティーを勧めた。
「今日の、月みたいだわ」
夏の暑さが嘘のように消え、澄みわたった空に輝く月は蒼い。ふと、月を見上げるために店の表へ顔を向けた瞬間、何かが視界の隅にひらめいた。
髪?
疑問に思うよりも早く、その影はまっすぐに充樹を見た。
少女だった。長くやわらかい髪を風になびかせて、真っ白い肌をした少女が、驚いたように充樹の顔を見つめていた。
おそらく一秒にも満たないわずかな時間だったろう。少女は身を翻すとわずかな白い軌跡を残して駆け去った。
花のようだと思った。花だとしたら多分、どこか遠いところで咲いては散る、そんな花だと思った。
「充樹?」
問い掛けるような店長の声に我に返った充樹は勧められたハーブティーを口に運んだ。
「美味しい。店長が自分で作っているの?この紅茶」
「いいえ、近所に野草園があって、そこのオーナーが作ってくれるのよ。今度充樹も行くといいわ。場所、教えてあげるわね」
日常の会話へ戻りながら、充樹は蒼いバラを見つめた。いつの間にか少女の残像をそのバラに重ね合わせていることに、充樹は少し戸惑いを覚えていた。
音が消えた。
静寂の中に、極彩色の花びらが舞う。
オカアサン。ドコ?
風が巻き起こり、髪を竜巻のように空へ舞い上げた。
イ・タ・イ。
目を閉じた。花びらは網膜の奥まで追ってくる。
イヤ。マブシイ。
音が聞こえたような気がした。
振り返った。
何かが床の上で燃えている。花びらが散る。はらはらと、雨のように。
助けを求めるように伸ばされた指。痛みに絶叫する形のまま固まってしまった唇。
アァ、ワタシノタイセツナトモダチ。
半身の痛み。花びらが私を飾り立てる。紅く。紅く。
アツイ。アツイ。アツイ。アツイ。
痛みすら感じないほどに、燃え上がる身体。私の身体。
アツイ。オカアサン。
何かが割れる音がした。窓ガラスが鏡のように私達を写していた。
極彩色の花。驚き見開かれた瞳。私。
めらめらと燃え上がる半身。私の。
ブスブスといやな音を立てながら、失われていく、私。
アツイ。イヤ。オカアサン。ドコ?
炎が視界を埋め尽くした。
ちりちりとする痛みが全身を覆い、感覚がなくなっていく左手が力を失ってだらりと下がったことが感じられた。
悲鳴をあげた。そして、そのまま窓にわが身を叩きつけた。
割れるような痛みとともに、私は私が失われていくのを感じていた。
自らの悲鳴に驚いて目を開けると、見慣れた天井が視界に入った。白い天井、白い壁、柔らかな夜具。
そう、ここは私の部屋。
恐る恐るあたりを見合すと、ふと、テーブルに飾った蒼いバラが目に入った。
「夢……」
びっしょりと汗にぬれた額を拭って、充樹はベッドから立ち上がった。
フラッシュバックは珍しいことではない。最近少なくなっていた矢先だったので、どうしてもダメージを強く感じずにはいられないが、入院中は毎日のように悪夢にうなされ、寝る前の安定剤は欠かせなかった。
大丈夫。大丈夫よ。ここは私の部屋。
視線の先に咲く蒼いバラを見つめる。
ほら、花びらも青い。青い。青いでしょう?
一年前、友人と旅をした。友人の独身最後の楽しい旅行のはずだった。楽しい夕食を終え、ひとしきり思い出話に花が咲き、翌日の観光の備えて寝静まったその夜、悪夢は起きた。激しい物音に気がついて飛び起きた時、既に扉の隙間から煙が部屋を侵略し始めていた。何事かと扉を開けると、既に火は廊下を埋め尽くし、新たに拓かれた新しい侵略の地へ、ごうとものすごい音を立てて忍び込んできた。
「あぁぁ!」
掴んだ扉の取っ手が掌に火傷を負わせるほどに熱されていたことに、充樹はその時初めて気がついた。火事だ。火事なのだ。
退路はない。ここは5階。非常扉は廊下の向こう。
「充樹……」
呆然と呟く友人の優菜と無意識のうちに身体を寄せるようにしながら、部屋の一番隅まで逃げ込んだ。じりじりと侵略してくる炎を見つめていると、それだけでもう、狂ってしまいそうだった。
最初に崩壊したのは優菜だった。
婚約者の名前を叫んで、彼女は駆け出した。まるで、可能な限り早く走りさえすれば、火は追いかけることをやめてくれるとでも思ったかのようだった。
「優菜、ダメ!」
掴んだと思った彼女の腕はするりと抜け、炎の中で舞った。めちゃくちゃに振り回される優菜の腕に幾つもの紅い花びらが散った。伸ばした腕に不意に火がついた。服が燃える。まるで巨大な炎を招き寄せるように。
アツイ。イヤ。オカアサン。
不意にガラスが割られ、力強い腕に抱きかかえられながら、そのまま充樹の意識は途切れた。
そして、充樹は半身を失い、優菜は全身の熱傷で病院に運ばれたが、火傷の面積が広く、そのまま病院で息をひきとった。
充樹の病院での最初の記憶は、自分の半身が自分を戒める重い感触と、顔を覆う奇妙な異物感だ。それが人工皮膚の感触だったことを充樹はかなり後になってから知った。
ゆっくりと部屋を歩き、ドレッサーの前までくると、鏡を覆ってある布をゆっくりと剥ぎ取った。
皮膚。皮膚。皮膚。つなぎ目。人工。人工。
額を滑らせる指先がいやななるほど正確にその感触を伝えてくる。
ぱっと目には判らない。特に入念に化粧をしている昼間はじっと目を凝らしてみても判らないほどだ。
判らないのだから気にしなくてもいいじゃないかと人が言う。
けれど、判らないからこそ、心の奥でそれは燻り、濁った澱となってあたりを腐食し、本当の私を奥深くへと沈めていくのだ。
充樹は顔を覆った。
私は、本当の私を失ってしまった。もう、何も知らなかった無知だからこそ美しかったあの私へは戻れないのだ。
この、半身が私を戒める。おまえは作り物だと。
崩れるように床に座り込みながら、充樹はテーブルのバラを見上げた。
月の光のようなそれは、夜の闇の中で青白く、幻の中の少女の肌のようだ。
「私を返して」
意味のないつぶやきが不意に口をついた。
何も答えを返さないその呟きを、充樹はただ繰り返しつづけた。
何気ない日常を消化し、ようやく訪れた土曜の休みに充樹は待ちかねたように野草園を訪れた。とりたててあのハーブティーに惹かれてしまったわけではないのだが、ふと体を温めてくれるやさしい香りの液体は妙な懐かしさを持って充樹を満たしてくれるのだ。
うっそうとした荒れ野の道のような、曲がりくねったレンガの筋を伝っていくと、いくつかのガラスの温室と小さな木の小屋が見えた。
「こんにちは」
充樹は声をかけた。返事は返ってこない。
「誰かいませんか?」
しばらく耳を澄ましても、鳥の声しか返ってこないことを確認すると、充樹は小さくため息をついた。
誰もいないのかしら。残念だわ。
本当に誰もいないのかと周りを見渡したそのとき、視界に白い軌跡が走った。
「誰?」
軌跡を追い、視線を走らせると、四角いガラスの温室の中で何かが動くのが見えた。充樹はゆっくりと足を進めた。
「誰か、いますか?」
きしむような音を立てて温室の扉を開けると、ガサリと音がして茂みから白い顔がのぞいた。
「だぁれ?だいち?」
少女がいた。充樹を見つめて驚いた顔をした少女は、そのまま少し泣きそうな顔をした。
「あなたは……」
あの、少女だった。白い顔。色素の薄い髪。整った顔。日本人離れした、薄い赤茶色の瞳。
「花屋さんで会ったわよね?」
充樹は努めて少女を怖がらせないように笑った。少女は、少し怯えた顔をして充樹を見上げている。
「あの、小さな花屋さんを知っているでしょう?」
こくんと少女がうなずいた。
「お名前は?」
茂みからゆっくりと這い出してきながら、少女はおずおずと答えた。
「みう」
「みうちゃんは、お花が好きなの?」
小さくうなずくと、みうと名乗った少女はそっと試すように充樹の指に触れた。見た目の年齢よりもはるかに幼い動作に、充樹はある確信を抱いた。
知能の遅れ。おそらく、普通の学校に通えないくらいの。
少女を怖がらせないように、充樹はゆっくり少女の頭を撫でた。
「おうちは何処?近く?」
少女は少し考え、充樹の左側を指差した。
「おうちはあっち」
指差された方向を見つめた充樹はふと、疑問を抱いた。その方向は民家が少なく、確か、あまり一般人を受け入れない研究所があるだけだったような気がする。
「今日は一人できたの?おかあさんは?」
少女はまっすぐに充樹を見つめると、小さく答えた。
「みうにはおかあさんはないの」
まるで今日はお散歩に来たの、という言葉と同じように語られた言葉に、充樹は絶句した。
「美雨?」
不意に若い男性の声が温室に響いた。
「だいち」
少女は飛びつくように温室に現れた青年のところへ走った。
「心配するでしょう?離れてはいけないと、あれほど……」
充樹に気がついた青年は、言葉を切って、まっすぐに充樹を見た。それに気がついた美雨が嬉しそうに笑った。
「おはなやさんでもあったの。おててがね、やわらかいの」
青年はゆっくりと充樹に向かって会釈をすると、そっと美雨の背中を押して帰りを促した。
「もう、お散歩は終わりだよ。さぁ、帰ろう」
美雨は名残惜しそうに充樹の方を見ると、小さく手を振った。その別れの挨拶に応えながら、充樹は悲しみに似た感情を感じていた。
……みうにはおかあさんはないの……
悲しそうな様子も見せなかった、彼女。悲しいと思えないと言う事実は、彼女がおそらくは生まれたときから母親というものの存在を知らなかったのだと容易に想像できた。
青年が、なにか確認するように充樹の顔を見つめた。そして、もう一度会釈をすると、ゆっくりと美雨の背中を押しながら歩き去っていった。
充樹はそっと髪をかきあげた。そして小さなため息をついた。
少女が現れた茂みにもう一度目を向けると、そっと温室の出口へと歩き始める。
そういえば、お母さんにこの頃電話もしていないわね。
少し自嘲気味に笑うと、充樹は温室の扉を閉め、もう一度木の小屋の中を覗いてみた。
「誰か、居ませんか?」
「はい?」
温厚そうな老人が慌てたように奥から顔を出した。とりあえずハーブティーを100gだけ買い求めて、充樹は家路をたどった。
充樹はポットの中にお湯を入れると、そっと揺らしてみた。透明の耐熱ガラスでできたポットの中で、ゆっくりとあめ色に色づいていく暖かな液体がやさしげな香りを漂わせる。
気持ちを落ち着かせる効果があると、言ったっけ。
充樹はカップにそっとその液体を注いだ。
お母さん、紅茶が好きだったな。
ふと、そんなことを思い出した。
電話、してみようかな。
少しためらって、そっとカップを置くと、受話器に手を伸ばした。一瞬手を止め、確認するように目を閉じた後、受話器をはずすと、ゆっくりと確かめるように番号を押した。
お母さん?
ん、私。
元気よ。
大丈夫。心配しないで。
え? 別に用事ってわけじゃないけど。
美味しいハーブティーを見つけたのよ。
そう。お母さん、紅茶好きでしょう?今度、送るわ。
何よ。たまには親孝行だってするわよ。
いやね。
ん。そうね。
次のお正月には帰るわよ。うん。
本当。大丈夫。
帰るから。
ん。
ん。大丈夫。ちゃんと食べているわ。
それじゃ。
大丈夫ったら。もう。
ん。それじゃ、ね。
ん。
数分の会話。こちらがいらいらするほど何度も大丈夫かと確かめる言葉に、今までなら乱暴に受話器を置いていたような気がする。けれど、今日はどうしてかそんな気にはならなかった。
火事の後、病室で母はゆっくりとりんごをむきながら泣いた。まだ、自分の身に起こったことに向き合えず、呆然と天井を見つめるばかりの充樹のために、お茶を入れ、りんごをすり、充樹の代わりに泣いた。
ゆっくりと小さなスプーンですったりんごを飲ませてくれたとき、充樹は遠い昔、熱を出したときに母が同じようにしてりんごを飲ませてくれたことを思い出した。そしてはじめて泣いた。
火事のとき、お母さんを呼んだの。
どうしてそんな言葉を言ったのか分からなかった。母は充樹を抱きしめて、ごめんねと言った。
旅先にいた充樹を母が守れるはずもないのに、母は充樹に謝りつづけた。
そんなことを思い出しながら、充樹は受話器をそっと撫でた。そしてゆっくりとあめ色の液体を飲み干した。
次の週末がくるまでの一週間はとても長く感じた。
いつもの花屋に通いながら、ふと、またあの少女が顔をのぞかせるのではないかと思ったりもした。ついついよそ見が多くなる充樹に店長は笑いかけた。
「あらあら、人待ち顔ね」
「そんなんじゃ」
そう言って思わずはにかむ充樹に、店長は意味深な言葉を投げかけた。
「昨日だったかしら、充樹のことを聞きにきた男性がいたわねぇ」
そんな男性に心当たりはない。一瞬、充樹は眉根を寄せた。
「どんな人?」
店長はその問いを充樹が興味を持ったのだと思ったらしく、くすりと笑うと、少し勿体をつけて話し始めた。
「ええと、年は充樹よりもほんの少し上かしらね。顔立ちは割と良かったんじゃないかしら。名前は、ええとなんだったかしらね。下の名前は珍しかったから覚えているんだけど。確か、大地さんだったわ」
だいち。
少女の舌足らずの声が思い出された。美雨と呼ばれた少女は青年を「だいち」と呼んだ。
「大地……」
覚えがあるの、とでもいいたげに店長は充樹の顔を覗き込んだ。
「知らないわ、そんな人。いったい何かしら」
充樹は、不思議な予感がした。必ず彼は私に会いに来るだろうという予感。
楽しげに会話をすすめる店長に相槌を打ちながら、充樹は青年の姿を思い出そうと試みた。けれど、逆光にぼんやりと浮かぶ背の高い影が思い出されるばかりで、それ以上のはっきりとした姿を思い出すことはできなかった。
「あぁ、明日の土曜日、充樹は野草園に行く?」
母へ送るためのハーブティーを買いに行くつもりだと応えると、店長はメモを取り出した。
「私も買いに行きたいのだけど、明日どうしてもはずせない用事があるの、もし行くんだったらこれも買ってきて欲しいのよ」
充樹はメモを受け取った。いつもここで飲ませてもらっているものばかりだ。
「えぇ、買ってきます。月曜に持ってきますから」
それからひとしきり世間話をして、充樹は家路についた。久しぶりの月のない夜は、星の小さな光が綺麗で、たまにはこんな夜もいいと思った。
夢を見た。美しい夢だ。
淡く青く澄みわたる水。くるくると螺旋を描きながら上昇していく泡。
じっと見つめていると、自分の体がゆっくりと静かに沈みこんでいくように感じる。
オカアサン。
呟くと、ごぼりと吹き出した泡が顔を覆った。
オカアサン。オカアサン。オカアサン。
ただ、そう呟いているだけなのに、どうしてこんなに心が温かくなるのだろう。
オカアサン。
あぁ、あなたは風邪をひいた私の額をやさしく撫でてくれましたね。
けがをした私の膝にそっとバンソウコウを張ってくれましたね。
我侭を言う私を叱りつけてくれましたね。
失恋して泣く私を慰めてくれましたね。
オカアサン。オカアサン。
渦巻く螺旋にとらわれながら、思い出す。暖かな羊水。規則的な音。時折歌うように響く、声。
オカアサン。
オカ…ア……サ…ン。
やさしい水の感触。固く全身を覆った透明なうろこがざらざらと剥がれていく。
アァ、ウマレイデル。ワタシ、トイウ、ジガ。
ゆっくりと充樹は身を起こした。満ち足りた夢を見た朝はいつもどこか悲しい。
伸びをして、立ち上がる。花瓶に唯一残っていた最後の蒼いバラが、朝の光の中で淡く象牙色になって散っていた。
充樹はその脆い花びらをそっと手のひらに乗せ、窓を開けた。一瞬頬を打った風が、手のひらから花びらを巻き上げ、遠く窓の下へバラの残り香を奪い去ってしまった。
土曜の朝は、まだ、誰も夢から覚めていないように静かだ。
鳥の声さえ、どこか別の世界で響いているように細く、そしてやさしい。
「さぁ、出かける支度をしましょう」
自分に言い聞かせるように呟くと、充樹はタオルをとり、バスルームに向かった。
自分の裸は嫌いではなかった。シャワーを浴びるたびごとに充樹は鏡に自分の体を映し、その体に起こった痛みと現実に向き合うことを自分自身に強制していた。
細くつながる人工皮膚のつなぎ目は顔の半分を多い、首筋を這い、ほのかに膨らんだ乳房を掠め、脇腹から太ももへと続いていた。この姿になって、充樹はまだ誰にも肌を見せたことがなかった。病院で看病されるときでさえ、充樹は母ではなく看護婦に介助を頼んだ。
誰にも見られたくなかった。哀れまれたくなかった。
醜いと思われたくなかった。
自分はけして醜くないと心に念じながら、その言葉を一番信じていないのは自分自身だった。
ゆっくりと指を走らせると、敏感な指先が皮膚の違和感を感じ取る。
悲しい。
充樹はそんな自分の皮膚の継ぎ目を見つめつづけた。
まるでそうすれば魔法のようにその皮膚が元に戻るとでも言うかのように。
「おかあさん」
呟いた。母は人工皮膚を移植するという医者に、泣きながら自分の皮膚を使ってくれと懇願したと聞いた。そんな人工のものを被せられるくらいなら、自分は醜くなってもいいから、この皮膚を使ってくれと。
その行為や言葉を素直に喜べない自分が、この世で一番醜いもののような気がして充樹は悲しくてしょうがなかった。
「おかあさん、ごめんね」
呟いて、気を取り直すように微笑むと、充樹はシャワーのコックをひねった。
髪を乾かして、ピンでとめると、充樹はまっすぐに自分の素顔をみつめた。化粧水を手のひらにとり、そっと頬に広げていく。ひんやりとした感覚が右頬に広がって、充樹は目を閉じた。丹念にベースのクリームをなじませると、皮膚の継ぎ目はほとんど分からない。その上にそっと粉をはたき、目の周りにシャドーを付けて、ゆっくりとぼかしていく。
髪をまとめたピンをはずすとふわりと額に広げた。
これでいい。じっとみつめないと、分からない。
やさしいベージュで塗った唇で微笑む。
大丈夫。
充樹は等身大の鏡の前に立った。今日着ていく服をあてる。淡い象牙色のワンピースは充樹の少し色の薄い髪に良く似合っていた。
「さぁ、行きましょう」
自分自身に呟いて充樹は顔を上げた。ただ出かけるだけのことに、全神経を使わなければならない。いつも隙がないように身構えていなければならない。
それでも、日の光の中に踏み出していける自分が、充樹は好きだった。
「こんにちは」
今日も野草園の主人は出てこない。
「誰かいませんか?」
何度か呼びかけてみて、充樹はため息をついた。
まぁ、急いでいる用事ではないし、しばらく待てば先週のようにひょっこり現れるだろうと、ぼんやりと野草園の中を歩き回ろうとした、そのとき、斜め後ろで人のけはいがした。
「あの、ハーブティーを……」
てっきり野草園の主人だろうと振り返った先、その背の高い影に驚いたように充樹は身をすくめた。
背の高い影。日に焼けていない白い肌。細い印象のする体の線。
「高野充樹さんですよね」
青年は充樹をまっすぐにみつめていた。
「失礼ですが、何人かのお知り会いにお尋ねしてお名前を教えていただきました」
充樹は不意に昨日の夕方の花屋の店長の話を思い出した。やはり、この青年だったのだろうか。
「僕は橘大地と申します」
青年の口調はあくまでも丁寧で、店長がほのめかすような甘さは感じられない。
「先週、ここでお見かけした方ですよね」
充樹はかろうじて口を開いた。できることなら青年の視線を逸らしてしまいたかった。
「そうです。あなたは温室で美雨と話をなさっていた」
美雨。青白い少女。幼く、頼りない、軽やかな悲しみに縁取られている、少女。
「今日は彼女はご一緒じゃないんですね」
不意に青年は微笑んだ。少し、悲しげな微笑だ。
「その美雨のことで、あなたにお願いがあってお探ししていたのです」
充樹は知らないうちに小首をかしげていた。はじめてであった少女のことで、自分が何をお願いされるというのだろう。
「こんなところで立ち話もなんですから、申し訳ありませんが、いっしょに来ていただけますか?」
青年は礼儀正しく一礼すると、そっと充樹を促した。確かに、秋の気候の良い昼間とはいえ、太陽の燦々と照る中で立って話をすることもない。
「かまいませんけど……」
すこし語尾を濁したままの充樹に青年はほっとしたように笑いかけた。
「良かった……。こちらです」
少し遠いのですが、そういいながら、青年はゆっくりと道を歩き始める。野草園の門を出て右に曲がると、その先はあまり人家がなくなっていく。
「この先は……」
この先には研究所があるはずだ。あまり一般人にはなじみのない、生化学系の。
「ええ。その研究所に来て頂きたいのです。僕はそこで、心理学と生化学を中心に研究しているので」
この線の細さは、そういう彼の境遇がかもし出すものだったのか。充樹は妙に納得してしまった。たしかに研究者だといわれると、彼のその風貌はぴったりと来るように思われた。
「先週……」
大地は充樹を気遣うように視線を送ると、少し歩みを緩めた。
「先週、美雨と何を話されました?」
大地よりわずかに遅れながら、充樹はその顔を見上げた。
「別に、おうちはどこか、とか名前を聞いたりしただけです。最初、迷子かと思ったので……」
あぁそれはそうでしょう、というように大地は笑った。
「えぇ、散歩にきていて、ちょっと目を離した隙に美雨がいなくなってしまったので、本当にあの時は焦ったんですよ」
自分は美雨の教育係なのだと大地は言った。
「あの子は、美雨ちゃんは、精神発達遅滞なんですか?」
充樹は大地を見上げた。しばらく、大地は心を決めかめるように黙っていたが、ふと、息を吸い込むと、まっすぐに充樹を見返した。
「正確にはそうではありません。美雨のあの幼さは、接触する人間の数が極端に少ないことからくるものです」
「ご病気?」
充樹は控えめに問い掛けた。見た感じでは、多少青白くはあるけれども健康そうに見えた。
「いいえ」
大地は深く息を吸い込んだ。
「美雨は、研究所で生まれました。研究の対象となっている子なのです」
驚いて歩みを止めてしまった充樹を振り返って、大地は言葉を続けた。
「この話は込み入っていて、そして、ゆっくりと理解できるようにお話したいのです。ですから、こうしてお呼びしました」
そっと、立ちすくんだままの充樹の肩を大地は押した。
「どうして、私なんでしょう。先週、偶然お会いしただけなのに……」
困惑は隠せない。危険な予感さえする。知らぬ間にどこか自分の力の及ばないところにきてしまっているのではないのか?
「そう、先週の出会いは本当に偶然でした。けれど、確かに、あなたは美雨と出会ってしまった」
大地は、再び悲しそうに微笑んだ。
「あなたは美雨が初めて出会った女性なのです」