『夢のレプリカ』 [ 2 ]
「今の、あれ、何?」
赤いユニフォームを捲くった下、Tシャツの上に無骨なほど厚い何かがあった。それが何なのかは分からなかったが、隣で徹が息を飲む音がした。
「コルセット――だと思う。よく知らないけど。腰を痛めたときに付けるやつ。オヤジの友達が付けてるの、見たことある……」
――腰を痛めたときに付ける……?
克己は目の前で既にディフェンスの態勢になっている沖田を見つめた。腰を痛めている人物の動きには見えなかった。仮にそうだとしても、痛めている部分を酷使しながらも試合に出続けるその気持ちが、明確には分からない。
「引退試合って、もしかして、腰のせいなのかな……?」
徹が返事をしないので心配になって隣をうかがうと、徹は拳を握り締め、たまらないようにそれを噛んでいた。
「徹?」
視線を動かさないまま、徹は呟くような声でようやく答えた。
「バスケットは腰を痛めたらもう、出来ないんだ……」
わぁっと響いた歓声で、克己が慌てて視線を戻すと、いつの間にか沖田は相手チームのボールを奪い、ドリブルで攻め始めていた。
選手交代の直後は狙い目だ。テンションが上がりきっていない交代選手は、確かに疲れの面では有利にあるが、試合のペースや波に乗れていない。比較的安易で無造作なパスを回し易くなるし、不用意に攻めたがる。
沖田は交代した選手がパスを出した途端にそのボールに飛びついた。一瞬指先で弾いたボールをそのままドリブルに持っていくと、体勢が作れていないその選手の横をかすめて走り出す。
「速攻!」
声に反応したのは矢ヶ崎だった。すぐにサイドラインを走り始める。脚力がある矢ヶ崎は瞬く間にゴール下に到達してしまうだろう。
沖田はハーフラインを超えたあたりでドリブルにリズムをつけると、一気にスピードを殺してボールを両手に掴み、矢ヶ崎のスピードに合わせて腰を捻りながらパスを出した。その瞬間、腰に激痛が走り、ボールは僅かに失速して目的の場所より手前に落ちそうになる。
飛びつくように矢ヶ崎の腕が伸びてボールを掬い上げると、強引に体勢を崩したままゴール間近でジャンプした。ゴール下を僅かに行き過ぎていて、矢ヶ崎は咄嗟に反対の手にボールを持ち替えてジャンプショットに持っていく。ボールはボードで大きく跳ねた。逆サイドから矢ヶ崎について走りこんでいたチームメイトが、リバウンドを取ったが、既に相手チームのディフェンスがゴール下を固めていてゴールは狙えなかった。
「1本、ファイト!」
ボールは再び沖田の手の中に戻ってきた。捻った時の激痛はまだ腰のあたりに残っている。
「はい、ファイト!」
いつも通りの顔をして指示を出しながら、沖田は無意識のうちに顔を歪めていた。今のシュートが入ったら、同点になっていたのだ。
――くそ。
焦っても無駄な事は分かっていた。焦ったところで痛みは消えない。痛みのためについ腰を庇いがちになる体に鞭を打ち、沖田はフェイクパスを多用した。相手が撹乱された所に矢ヶ崎が攻め込む。パスが通らない。
沖田はパスを出す動作をしながら、そのまま大きくゴールを狙った。3ポイントは得意ではない。だが、リバウンドに入りやすい位置を矢ヶ崎がキープしているうちに自分の意志を示したかった。
――攻めろ。変に守りにはいるんじゃない!
ボールはリングに当たり大きく跳ねた。ゴール下で何人かがぶつかり合い、競り勝って飛んだ矢ヶ崎の指ががっちりとボールを掴んだ。
「1本、ファイト!」
受け取りに走りながら、沖田は足が地面に付くたびに疼くように腰から拡がる痛みを堪えた。目の端に入った時計はまだ後半が始って5分しか経っていないことを示している。
――足が止まったら、死ぬ。
無意識にそんなことを考えた。馬鹿げているが、確かにこの試合で足が止まったらもう、バスケットの選手としては死ぬのだ。走りつづける限り、生きていられるのだと沖田は思っていた。
パスを受け取り、いつものように中心の位置に帰ってくると、合わせたようにゴール側からフリースローラインに上がってきた矢ヶ崎にバウンドパスを出す。ポストの位置でに敵を集めると、矢ヶ崎は目の前のシューターに素早くパスを繋いだ。
「打て!」
声に押し出されるように放たれたボールは、放物線を描いて面白いようにゴールネットの中に消えた。
「ナイスショット!」
ディフェンスラインに下がりながら、矢ヶ崎は沖田の足を見つめた。微かにリズムが狂った足の運び。何よりもすっかり蒼ざめた顔がどれほど沖田が抱えている痛みが激しいかを物語っている。それでも、沖田の足は歩こうとしない。ディフェンスの中腰の姿勢は確実に腰を悪化させる。だが、沖田は僅かも手を抜こうとしない。
――くそったれ!
不意に自分の中にわいた言葉が、何に対しての悪口か矢ヶ崎には分からないかった。だが、矢ヶ崎は沖田がそのつもりならとことんまで付き合うつもりでいた。走れなくなったらかわりにどれだけでも走るつもりだった。沖田がディフェンスで抜かれたらどんな位置にいてもフォローに入るつもりでいた。バスケットはチームプレイだ。何よりもチームプレーとしての面白さを教えてくれたのは、沖田だった。沖田がいなかったら、たぶん、ドリブルでどれだけ抜けるかとか、ゴールをどれだけ狙えるかとか、そんな安易な個人プレーばかりに注目していたかもしれない。――絶妙の位置に面白いようにパスが入ってくる。得点王にはならない、3ポイントを決めるわけでもない、だが、沖田がいると面白いように相手が撹乱され、さぁ入れてくださいというようにゴール下ががら空きになる。
――引退試合だから、最初から最後までフルで出るよ……。
試合前、沖田は事も無げに笑顔で言った。既に足を引き摺っているのに、沖田の口からはリタイアの言葉は出ない。
――絶対最後まで走らせてやる。
目の前でパスを回す相手チームを矢ヶ崎は睨み据えた。
沖田の顔から笑顔が消えた事に克己は気が付いていた。それでも蒼ざめた顔は目の前の敵を見据えたままだ。
「くそっ」
小さく漏れた徹の呟きに振り返ると、泣きそうな顔をしながら徹が必死で沖田を見つめていた。
「もう、限界だよ。あの人、もう、限界……」
せめてタイムアウトとってやれよと、徹が呟いた。克己はその横顔を見て、コイツは本当にバスケットが好きで、そしてあの沖田という選手に憧れているのだと、突然再確認した。
「でも、あの人、まだ攻めるよ。走る……」
元気付けたいと思った。観客席から、おそらくは耳に届かないだろう応援の声を上げることしか自分には出来ないけれど、それでも彼が走るというのならその走りを励まし、攻めるというならその攻める背中を見つめてあげたかった。彼が走りとおせるなら、きっと、自分も走りとおせるような気さえしていた。
残り時間は8分。目の前でボールが大きく放物線を描き、ゴールネットの中に吸い込まれた。相手チームが沸く。同点だった点差は3点に拡がる。
「ファイト!」
克己は思わず叫んだ。いつの間にか徹と二人、立ち上がって身を乗り出すようにして叫んでいた。一瞬、驚いたような蒼ざめた顔がこちらを向いて、必死で叫んでいる姿をみると、鮮やかに笑った。
――笑った……!
急に視界がぼやけた。涙が出ているのだと気がついたのは、隣で徹が小さく啜り上げたからだった。
走るよ――。
事も無げに沖田は言い放った。点差がついた直後に取られたタイムアウトは、既に2回目で、これ以上取る事は出来ない。皆の顔が心配そうに歪む。
「迷惑かもしれないけど、倒れて走れなくなるまで走らせて……。試合、負けるかもしれないけど……」
沖田は言葉を濁した。能動的に頷くものは誰もいない。周囲の目にも沖田の腰が限界にきているのは明らかだった。沖田の気持ちだって分かる。だが、その後の体のことを考えると、否定もできなければ肯定も出来なかった。
「抜かれたらフォローする。パスミスしても取りに行く。全部、俺のできる限りでフォローする!」
不意に矢ヶ崎は頭を下げた。
「最後まで沖田とやらせてくれ」
誰も何も言わなかった。試合開始を促す笛の音がしてコートに歩きかけた沖田の背中に、不意に声がかかった。
「ファイトです!」
神谷の声だった。振り返ると、神谷はまっすぐ沖田を見つめて、小さくガッツポーズをした。
「おす!」
小さく答えると、コートに踏み出す。しっかりとシューズが床を捉えている感触がした。奇妙なほど音が鮮明で、落ち着いていた。走れると、確信した。
ボールはマイボールでサイドからだ。ボールを受け取りやすい位置に移動しながら、沖田はいつの間にか痛みを忘れた。
「はい、1本ファイト!」
いつものようにボールを運ぶ。試合の残り時間が少なくなってきて、相手チームもフルでディフェンスに当たってくる。早い段階からプレッシャーをかけられるのは確かにきついが、逆に早い段階で抜き去ってしまえば攻撃はしやすくなる。
ゆったりと突いていたドリブルのスピードを不意に上げると、一気に抜きにかかる。相手が必要以上に近くなった瞬間にパスを出して、ボールの先にいるディフェンスの体に当たりに行く。沖田についているディフェンスが一瞬コートの状況を見失って、釣られるように沖田に付いてきた。
――かかった!
そのままディフェンスにスクリーンをかけると、一気にパスを受け取ったチームメイトがドリブルで走り出す。ディフェンスが二人沖田に釘付けになり、残りのディフェンスが慌てたようにフォローに走る。攻撃側の人数が多くなったその一瞬を逃さずに矢ヶ崎はゴール下に滑り込んだ。狙ったようにパスが投げ込まれ、相手チームから悲鳴のような怒号が飛ぶ。
「狙え!」
沖田は叫んだ。後から覆い被さるように迫ってきたディフェンスの腕を避けて、矢ヶ崎はジャンプする。高い打点から打たれたジャンプショットは軽くボードに当たるとバサリとゴールネットを揺らした。
「ナイスプレー!」
応援席が沸く。だがそれでも、点差はまだ1点あるのだ。疲れてきた両軍の足は重く、攻撃の流れは遅くなっている。最悪、相手チームが今の点差をキープするために守りに入ることも予想された。
「当たれ! フルコートで、マンツーマン!」
沖田は叫んだ。途中でディフェンスをゾーンに変更したのは、相手の3ポイントが不調だったためであると同時に、自分自身の腰に負担をかけないためだ。だが、膠着しようとしているゲームから勝機を掴むためには、まず自分たちから仕掛けていくしかないのだ。
――終わるもんか……。終わらせるもんか……。
床とシューズが擦れて出る音が、やけに耳につく。広いコートの中で奇妙なほど感覚が研ぎ澄まされ、手を伸ばせばコートの端まで届いてしまうような気がした。熱を帯びたような感覚が指先から広がって、体の熱と肌に感じる空気の感触が一足動くごとに不思議なほど新鮮な気持ちにさせる。
――バスケットを、している。
気持ちの底で今の状況を確認している自分がいる。沖田は小さく笑った。
――バスケットを、している!
――あと一点……。
気がつけば念仏のようにその言葉を繰り返していた。観客席のフェンスに掴まっている手のひらはべっとり汗で濡れてしまっていて、何度もジーンズの尻で拭いてみたが、夢中で試合を見ているうちにまた、べっとりと濡れてくる。斜め後ろの方で、他の中学のバスケ部だろうと思われる集団が、コートの中を指差しながら一生懸命解説をしていた。
「スクリーンからの攻撃の方法、よーく見とけよ」
1点差に詰め寄った時の攻撃が、さっき徹が一生懸命解説してくれていたスクリーンなのだと、そのとき初めて気がついた。魔法のようだった。
「あと、3分……」
徹が時計を見て呟く。何度か攻撃が繰り返されたが、その1点の点差を守るために相手チームも必死だった。
「あっ! ファールだ!」
自分たちが劣勢になると、シュートにいかれる前にファールしてでも止めてくる。攻撃の波は寸断され、なかなか得点に結びつく攻撃にはなっていかない。
「きったねー」
克己は小さく呟いた。だが、ファールになっても止めに行く、その気持ちは分かる。――勝ちたいのだ。勝ちたいというその気持ちが、体よりも大きくなってしまった時に、止めようとするその行動がファールになる。したくてしているファールではなかった。疲れきった体では、もう、自分の体を御することも難しいのだ。
克己は必死で沖田を見つめていた。ボールの行方を目の端で捉えながら、克己は沖田の顔から目が離せなかった。
――笑ってる……。
確かに沖田は笑っていた。満足げな、それでいて瞳は闘志と興奮で燃え上がった不思議な表情で、沖田は楽しくてたまらないように笑っていた。
「うわっ」
小さく徹の悲鳴が上がった。攻撃の途中でボールをスティールされたのだ。ドリブルで相手チームがあがっていく。攻め込んでいたために、ディフェンスのかえりは遅い。
ドリブルのまま相手チームはゴール下に走りこむ。ゴール下に、いつの間に走りこんだのか、沖田がいた。腰を落として、確実に相手とゴールの間に居る。相手の選手は一瞬躊躇したように見えた。だが、パスを受け渡す相手がいない事を知ると、そのままシュート体勢になる。
――打たれる!
克己は小さな悲鳴を上げた。だが、沖田はその姿勢に騙されなかった。一瞬シュートを打つと見せかけた相手は、そのまま後方から走りこんできていたチームメイトにバウンズパスを出す。沖田はその瞬間にボールに飛びついた。指先がボールを弾いてサイドラインを割る。相手ボールだ。
声も出なかった。一瞬遅れて、安堵の声と落胆のため息が同時に両軍のベンチから漏れた。
「できてあと1攻撃だな……」
徹の声で試合の時計を見ると、いつの間にかもう、残り時間は1分なくなっていた。
「勝てると思う……?」
克己は遠慮がちに聞いた。徹は一瞬声を詰まらせ、それでもはっきりと断言した。
「勝つんだよ。勝とうと思っているから、勝てるんだ」
サイドからボールが入った。相手はもう、攻めてこない。今の短い時間の中で、既に試合の残り時間が少ない事を知ったのだろう。ボールが回される。ギリギリまで時間稼ぎをするつもりなのだ。オフィシャルが30秒の警告を出した。相手チームはシュートを打ってくるだろう。リバウンドをとられてもいいように、相手チームの一人が自分のディフェンスラインへと下がっていく。
大きく3ポイントラインからシュートが放たれた。ボードに激しくぶつかり、大きく上にボールが跳ねる。数人の体がぶつかり合いながら宙を飛び、てのひら一つ分だけ高く飛んだ矢ヶ崎がガッチリとボールを抱きかかえた。
「速攻!」
怒鳴るような声が響いて、その集団の中から矢ヶ崎がドリブルで飛び出す。既に相手チームのガードの二人は自分達のディフェンスラインに下がっている。
右側のサイドラインを沖田が走っていた。矢ヶ崎がパスを出すと、沖田はそれを受け取りそのままゴール下に走りこむ。ゴール下で飛び上がると、ディフェンスが二人、同時に沖田に合わせて飛んだ。ゴールを狙うように伸ばした右手にボールを掴んだまま、不意に沖田はその手を背後に回した。
「ノールックパス!」
「え?」
一瞬だった。ボールはいつの間にか左のサイドラインを走ってきていた矢ヶ崎の手の中にあり、そのまままっすぐに伸びた手の先で、軽い音をたててネットの中に沈んだ。
「入……った……」
呆然とした声で徹が呟き、応援席から悲鳴のような声が上がった。
「逆転? 逆転!?」
克己は確認するように徹を見上げた。興奮し、満面の笑みを浮かべて徹が大きく頷いた。
「逆転!」
慌しく動く相手チームがハーフラインまでボールを運ぶ前に、試合の終了を告げる笛が長く体育館に響いた。割れるような歓声が上がり、ベンチからわっと人が飛び出してくる。その輪の真ん中で、沖田は蒼ざめた顔をして、それでも満足そうに、幸せそうに笑っていた。
「腰、大丈夫か?」
控え室は部員でごった返しているので、沖田はまだ片付けられていないコートの横の椅子を横に長く並べて、その上にうつ伏せになっていた。腰にはホットパックが巻かれている。
「ん、温めたら結構痛くなくなったかな。でも、よくホットパックなんて持ってたね」
ホットパックは何故か矢ヶ崎が持ってきていた。試合が終わるとすぐに後輩が体育館の管理室で用意して腰に巻いてくれたのだ。
腰を曲げられないので、沖田は首だけ伸ばし、無理な体勢になっている。その頭の上に矢ヶ崎は持ってきた沖田のタオルをかけた。
「ほら、タオル。――って自分じゃ拭けないか……」
ドカリと矢ヶ崎が隣に腰掛けると、沖田は器用に腕を伸ばしてタオルを取り、そのままズルズルと滑り落ちるように体育館の床に今度は仰向けになった。沖田は自由になった両手で、まだ汗に濡れている髪を拭く。沖田のユニフォームは試合終了後にその場で後輩に剥ぎ取られ、新しいTシャツとジャージに替えられていた。悲鳴をあげながら抗議したが、後輩に大真面目な顔で、風邪をひかせるわけにはいきませんと断言されてしまうと、それ以上抗議するのも馬鹿らしくなり、結局沖田はなすがままになってしまったのだ。――けれど、そんな慌しい雰囲気のおかげで、終了直後に自分の中に湧いた感傷的な気分もすっかり吹き飛んでしまったような気がしている。
「そのホットパックな、俺のじゃないんだ」
意外な答えに沖田はタオルの影から矢ヶ崎を覗いた。まだ少し興奮と熱気の残る赤い顔をした矢ヶ崎は、椅子を軋ませて深く背もたれに体を預けた。
「朝、部室に行ったらな、コールドスプレーやテーピングの予備の上に乗せられてたんだ。小さな付箋に『使ってください』って書いてあってな……」
沖田は怪訝そうな顔をした。たとえそう書いてあっても、普通そんなに素直に使うだろうか。
「知ってる字だったからさ。あぁ、心配なんだろうなと思って……。正直、俺はそういうところまで気が回らないからさ、助かったな」
額にピタリと付箋を貼り付けられ、沖田は慌ててそれを剥がした。小さく几帳面に書かれた文字には見覚えがある。
「あ……」
そのまま動きを止めてしまった沖田に矢ヶ崎は思わず小さく笑う。
「仁科の字だろ、それ、たぶん……。女子部も今日が練習試合だったからな、そうじゃなかったら見に来たかったと思うぜ。勝ったことを知ったら喜ぶだろうな」
沖田は困ったようにその付箋を見つめ、しばらく悩んだ後、小さくたたんでポケットに納めた。
この練習試合を引退試合にすると決めて、最初から最後まで走れる限りフルで出場すると沖田が断言してから、仁科はそれに対して一度も不安の色を沖田自身には見せなかった。彼女の口から出てきたのはいつも肯定的な意見ばかりで、昨夜、電話で話した時も笑って頑張ってねと言っただけだったのだ。
「終わったなぁ……」
この色男――とからかおうとして、とつぜん感慨深げに漏れた沖田の言葉に、矢ヶ崎は思わず口を噤んだ。
額の汗を拭くように腕を顔の上に置いて、沖田は動かなかった。汗とも涙ともつかない煌きが、腕の影から流れて、耳元でタオルに吸い込まれた。
「いい試合だった……」
ゆっくりと噛み締めるような矢ヶ崎の言葉に、沖田は顔を上げた。吹っ切れたようにその顔は明るく、潤んだ眦を隠すように大きく笑った。
「うん、いい試合だった」
横たわった床から直に足音が響く。何かザワザワと騒ぎながら集団は二人を目指してきていた。
「先輩、ミーティングここでやるんですか?」
ひょっこりと扉から覗いた数人に向かって矢ヶ崎は大きく手を振る。
「全員、沖田を目印に集合。試合の反省会やるぞ」
酷いいいぐさだと笑いながら、沖田は再びごろりとうつ伏せになり、顔の下にタオルを挟み込んだ。伝令のように数人が他の部員を集めに走り、思い思いに集まって円陣を組む部員の姿を、沖田はどこか楽しそうに見つめた。
克己は頬杖をついていた。視線の先には興奮気味に身振り手振りを交えながら必死に何かを力説している徹の姿がある。アイソレーション、フェイダウェイ、ハッキングにインターフェア。おそらくバスケットの話をしているのだろうとは推測できるのだが、それがどういうことなのかは判断できない。克己だって最初はもちろん、分からない単語が出てくるごとにその内容を尋ねていたのだが、それでも後から湧いてくる専門用語に、もう、半ば呆れてしまった。ある意味、克己にとっては念仏に近いが、あの試合を見た後にはなんとなくそんなことも許せてしまう気がしている。興奮して一生懸命に話している姿を、ぼんやり眺めているのも悪くない。
ぼんやりと冬の木立に視線を向けると、不意に目の前に最後のシーンが甦る。
嘘のように高く飛んだその背後から矢のようにボールが放たれて、それを受け取った選手はまっすぐにしなるように指を伸ばす。まるで羽根でも飛ばすように、ふんわりと宙に投げ上げられたボールは、はかったようにゴールネットを揺らして落ちる。静寂とため息。割れるような歓声。
――人間の体って、綺麗だったんだ。
それは克己にとっては不思議な感動だった。
「――って、おい、聞いてる?」
拗ねたような徹の言葉に克己は慌てて視線を戻した。
「うん。聞いてる聞いてる。――でも、すごかったなぁ……」
感嘆の声に、徹はすぐに機嫌を直してまた語りに入る。
「俺、絶対高校の部活もバスケにする。絶対この試合の事、忘れない」
――バスケットはさ、楽しいよ……。
何故か徹の言葉が思い出される。
たった一つのボールをゴールに入れるだけのゲーム。なのにどうして、勝利が決まった瞬間にあんなに泣きたくなったんだろう。
克己はまた、ぼんやりと木立に視線を戻した。風の吹かない日溜りは冬とは思えないくらい暖かい。体育館前の通路に植えられた並木はすっかり葉を落としてしまっているが、その木の根元の芝生には斑に冬の暖かそうな太陽が落ちている。
考えてみれば、馬鹿な意地だったのだ。確かに球技大会でバスケットに出場した中では一番背が低かったけれど、わざとジャンプボールをさせられたわけでもない、無理なポジションを任されたわけでもない。じゃんけんに負けてバスケットに出る事になった、それだけの事で。
――あんな顔で笑えるほど、真剣になんてなってなかったな。
点差を広げられた時、思わず叫んだ声援に応えて、あの人は笑った。足を引き摺って蒼ざめた顔で、それでも満面の笑みであの人は笑って、最後まで止まらず、走って、とうとう勝ってしまった。
「あっ……」
急に慌てたような徹の声に顔を上げると、ぞろぞろと体育館からジャージの一群が出て来ていた。その一番後ろに、徹が憧れてやまない選手の姿があった。腰が痛むのだろう、歩みは遅い。数人が気遣うように彼の周囲を歩いていたが、何事か言われてすぐに会釈をして去って行く。
「あれって、最後にシュートを決めた人?」
肩を貸すように隣でゆっくり歩きながら、何か楽しそうに話している。最後のパスは、相手を見て出したパスではない。きっとそこに走りこんできているという確信と、必ずそこにパスがやってくるという確信があってようやく成立したパスだ。お互いに相手を信頼しているからできるパス。
隣で徹が小さく息を飲む音が聞こえた。克己が振り仰ぐと、徹は緊張した表情でしきりに拳を噛んでいる。何度も足を踏み出そうとしかけて、結局出せないまま、爪先が苛立ったように地面を小さく蹴った。
「行こう!」
「えっ?」
克己は徹の手を引くと、勢いよく二人の方に歩き始めた。突然の事に徹は抗う事も忘れて引き摺られる。
「何? 克己?」
二人組と二人組、距離は近づく。
「何って、挨拶くらいするんでしょ!」
大人びた顔で大人びた性格をしている徹は長男気質で、人の世話は上手なくせに自分の世話は下手だ。飄々とさりげなく何でもこなすような振りをして、実のところ人一倍慎重で努力家なことを克己は知っている。
「え? 馬鹿! 迷惑かもしんないじゃ……」
距離が縮まり、ジタバタと奇妙な格好で近付いている二人組に沖田の足は止まる。
凸凹コンビには見覚えがある。点差が開いて、一瞬いやな予感と迷いが心をよぎった時に、まるでその迷いを吹き飛ばすように、絶妙のタイミングでかけられた声援――。
「どうした?」
矢ヶ崎が振り返ると、沖田は笑っていた。視線の先に見慣れない凸凹コンビ。だが、すぐにそのうちの一人が中等部のバスケ部員で何度も練習試合を見に来ていることを思い出す。
「ほらっ!」
ドンと乱暴に背中を押されて徹は困ったように頭を掻いた。克己は焦れたように背中をつつく。
「もう、なに黙ってんだよ!」
徹が観念したように口を開こうとしたそのとき、沖田は笑った。
「応援、嬉しかったよ……」
徹は返事をしようとした口をへの字に曲げた。黙ってしまった徹の代わりに克己は慌てたように徹の背後から飛び出した。
「なんて言っていいのか、分からないけど。あの、すごく、楽しかったです……」
鮮やかに冬の落日に赤く染められて、目の前で沖田は笑っていた。
「うん、俺も楽しかったよ」
ようやく徹は口を開いた。緊張して裏返った声を、でも、誰も笑わなかった。
「俺、高等部に行ったらバスケ部に入ります。卒業なさった後ですけど……」
「待ってるよ」
入れ違いになり、一緒に部活をすることがない徹に、それでも沖田は待っているとはっきりと言った。赤い夕日を受けた徹はへの字に口を曲げて、沖田が笑って差し出した右手をぎこちなく握った。
――バスケットはさ、楽しいよ……。
克己は徹の言葉がストレートに分かる気がした。勝ちたいと思う気持ちは単純なものだけれど、勝利に至るまでのその幾つもの場面の中に、数え切れないくらいのたくさんの感情と気持ちが存在していて、重力に引きずられるようなマイナスの気持ちを振り切って、精一杯高く飛んだ先に、白いボードとゴールネットがある。
「良かったじゃん」
ぼんやりと沖田の背中を見送っている徹に声をかけると、徹は慌てたようにそっぽを向いた。
「……良かったねぇ、徹くーん」
からかうように声をかけると、怒ったように振り向いた徹が何か言おうとして、そのまま困ったように頭を掻いた。
「――サンキュ」
短くそれだけ言うと、くるりと踵を返して大きなストライドでスタスタと歩き出す。徹にしてみれば普通の早足だが、克己とのストライドの違いは顕著だ。克己は精一杯の早足でついていこうとしたが、すぐに挫折した。
――くそ、なに考えてんだよ、早過ぎだって。
心の中で悪態をついて、克己は小走りに徹に近づく。チラリと見上げると、なんだかやけに清々しい顔をした徹の横顔が見えた。
――ま、いっか……。
マフラーを巻きなおすと、克己は徹を風除けにして、長く伸びている影を踏みしだきながら徹に合わせて歩き出した。ひょろりと伸びた黒い影はどこか奇妙な形だ。
「おわっ」
小さな段差に躓くと、徹の足が止まり、呆れたような顔が振り返った。
「だから前を歩け、前を!」
簡単に前に引きずり出され途端に肌に感じるようになった風に身を竦ませながら、それでもなぜか清々しくて、克己はそのまま冷たくなり始めた冬の風を感じて徹の前をズンズンと歩き始めた。
2001.04.07.-2001.04.15.