『夢のレプリカ』 [ 1 ]
冬は、寒い……。
そんな当たり前のことを考えながら、克己はむっつりと目の前を歩く巨大な背中を眺めた。
中学生らしからぬ身長と中学生らしからぬ風貌――それが目の前を歩く男の特徴だ。隣同士で歩くとどんなに頑張っても兄弟にしか見えないので、克己は思わず半歩下がってしまう。半歩下がってしまうと、次はせめて後に延びた影を踏んでやれという凶暴な気持ちが出て来て、克己は既に一歩下がって影を踏みしだきながら歩いていた。
影を踏む――そうだ、それ位しないとおさまらない。この寒い日に突然電話で呼びつけて高校生のバスケットの練習試合の見学に付き合えなんて、ご冗談だとばかり思っていたのに、奴は悠々と自転車で玄関口に乗り付け、母親と世間話に興じ、いつの間にかこうしてまんまと自分を連れ出してしまったのだ。
「おわっ」
腹を立てながら歩いていたら、石に躓いてしまった。巨体の後だとおおよそ視界ゼロなので、こういうときに辛い。
「おい大丈夫か? 前が見えないんだろう? 前を歩け、前を」
あっという間に前に引き出される。視界は良好。あらあんな所にお花屋さんがあるのね、という感じだが、当然、後へと伸びている克己の影は巨体――悪友の徹に踏みしだかれている。
風が、寒い……。
巨体はいい風除けでもあったのにと、切なさを噛み締めながら克己はマフラーを絞め直した。
――高等部のバスケットの試合があるんだ。ただの練習試合なんだけど、見に行かないか?
徹の電話でのその呼びかけに、克己は即座に行かないと答えた。クラスで一番背が高い徹と違い、クラスで一番背が低い――もちろん男子の中でである――克己にとってバスケットは鬼門だ。晩秋に行われた球技大会では、じゃんけんで負けたばっかりにバスケットに出るハメになり、当然のように試合には負けた。同時に行われたサッカーのメンバーに散々誰か代わってくれと頼んだのだが、むげに却下され続けたのだ。しかも「一番可愛いオトコノコ」とかいう生徒会の悪ノリのような企画のせいで、冷たい北風も吹き始めた寒空の中、ランニング型のバスケットのユニフォームに短パンというあられもない姿で観衆の目にさらされ、「一番可愛いオトコノコ」という不名誉な賞を頂いた。
背が小さいから可愛いなんて、世の中の認識は間違っている!
克己は人知れず傷ついたりもしていたのだが、背後の悪友はそんなことはおかまいなしだ。
「試合って、わざわざ運動公園の体育館借りるんだ。本格的なの?」
克己はとりあえず仕方がないので、じりじりと後退りして元のポジションに戻ろうと画策しながら、徹に話し掛けてみる。徹は単細胞なので、話していると他の事に気が付かないのだ。
「うーん、練習試合だって話だけれど、うちの高等部は県大会の上位チームだから体育館とか借りれるんだろう、きっと。ユニフォームも格好いいんだよなぁ……」
何とか隣の位置まで下りてきて、克己は徹を見上げた。
考えてみれば、記憶にある限りずっと徹の方が背が高くて、いつも見上げていたような気がする。背が高いっていうことはバスケットにとっては重要なことらしく、中学に入ってすぐ先輩陣を押しのけてレギュラーになったので、かなり徹に対する風当たりが強かったことも知っている。それでもこれだけ頭の中がバスケットだらけなのは、たぶん、徹がどうしようもないバスケ馬鹿だからだろう。
「高校に入ってもバスケットやるのか?」
体育館に向けて道を曲がりながら克己が尋ねると、徹は当たり前だというような顔をして頷いた。
「中学を選んだ理由、高校のバスケットの試合を見たからだもん、俺。小学校のバスケットって、ミニバスケットだろう? 中学になって、顧問の先生がミニバスケットと中学のバスケットは違うんだみたいなことを言ってさ、実は結構混乱してた時期もあったんだけど、高校になってすぐあのユニフォームを着れるようになるんだって思ってたから頑張れたんだよな」
初耳。
克己は恐る恐る徹の顔をもう一度見上げてみた。視線に気がついた徹が、わざとらしくにやりと笑う。わざと頓狂なかおをして見せる時、それは徹がとても真剣な時だということを克己は知っている。
「ふうん……」
とりあえず曖昧に返事をしておいて、克己はため息をついた。
克己にはまだ、これといった夢はない。もちろん、徹の夢だって単に『当面の夢』でしかないのだが、その『当面の夢』さえない克己にとっては、そういう風に真剣な話をする徹がなんだか正視できない。ありきたりの言葉で言えばコンプレックスというものかもしれないが、それに嫉妬や憧れや友情や応援が複雑に絡んで、とりあえず目を見ないようにだけする。
――情けないんだなぁ、なんだか……。
心の中だけで呟いて、克己はこっそり半歩下がった。
「おい、だから後に行くと前が見えなくなるって」
そして再び、克己は簡単に前に引き出された。
運動公園の門をくぐると、手前にバスの為のロータリーとベンチ、そして駐車スペースが広がる。真正面が陸上競技場で、その奥へと歩いていくと体育館とプールがあり、更にその奥に野球場と多目的グラウンドがあった。巡回バスがあったほうがいいんじゃないかというくらいに広くて、運動公園一周ジョギングコースまで設置されている。温水プールの使用料のおかげで、わりに時間ごとのレンタル料が安くて、だいたい週末は何かの試合が行われているようだ。
「うわ、やっぱり結構人が来てるなぁ……」
ただの練習試合なのに人は来ている。中学生らしい人影が多い。
「練習試合じゃないの?」
練習試合という響きは、もっと、ささやかなものなんじゃないだろうか、普通。
克己は徹を見上げた。
「練習試合だけど、中学生にとって高校生の試合はいいお手本だからな。俺もたまに高校生の練習試合見に行くよ。部員全員で見に行ったりもするし」
――じゃぁ今日だって部員と来ればよかったじゃないのさ!
「今日も何人かは誘ってみたんだけど、なんだか予定が合わなくてさ。一人で来るのも侘しいし……」
「ふうん……」
克己はむっつり下を向いた。
バスケットに限らず、スポーツに打ち込んでいる姿は格好いいと思う。克己だって体を動かすのは好きだし、授業の科目で何が一番好きかと聞かれたら体育だと答える。でも、どんなにジャンプしても徹には届かないのと一緒で、バスケットは眩しすぎる。球技大会では、『一番可愛いオトコノコ』を狙うためだけにバスケットに出場させられて、お前の価値なんてそんなもんだと言われたような気がした。だって、試合をするなら、勝ちたい。スポーツは参加することに意義があるなんてことも言われるけれど、でも、やっぱり同じ試合なら勝ちたいと思う。それがまともな感じ方だと、克己はそう信じている。
「バスケットはさ、楽しいよ……」
不意にポツンと徹が呟いた。どういう意味か分らずに克己が見上げると、徹はわざとらしくにやりと笑った。
球技大会のために克己はいくらかバスケットの勉強をした。ボールを持ったままの時は3歩目の足を上げちゃいけないとか、ドリブルの後で一回両手でボールを握ったら、もうドリブルをしちゃいけないとか、わざと手で相手の体を押しちゃいけないとか、そういうことは確かに授業で習っていたけれど、それは基本ルールってもので、戦略とか戦術とかとはほど遠い。もちろん、バスケ部の面々はサッカーの練習の合間にバスケットを教えてくれたし、短期間で身に付くちょっとした小技を伝授してもらったりもした。まがりなりにもポジション分けをして、その役割の練習さえしたりした。克己は当然のようにガードだった。別にガードが向いていたわけではない。センターには身長が必要で、フォワードには切り崩していける脚力と体が必要なのだが、克己にはどれも備わっていなかったのである。
「徹はさ、センターだよね」
体育館の2階の観覧席に腰を下ろしながら、克己は不意に徹に問い掛けた。
「まぁ、中学じゃ背がでかい方だったからな。センターだけど……」
椅子に座ると、徹はそんなに大きく感じない。悔しいことに、足が長いのだ。
「でもさ、本当は俺、ガードやりたかったんだよな」
意外な言葉に思わず克己は徹のほうに体をよじった。尻の下でプラスチックの椅子が耳障りな音を立てた。
「ガード? 徹が!?」
コートの中央、どちらもよく見えるようにと一番前の席に陣取って、徹は既に試合前の練習が始っているコートに視線を落とした。
「俺、ずっと背が高いほうだったから無条件にセンターだったんだけど、本当はバスケットのポジションは身長で決まるわけじゃないんだよ。サッカーとかラグビーと一緒、適性がある人間が一番相応しいポジションをやるのが普通だからな」
徹は体が大きいわりにスピードがあり、小回りがきく。足も速い。
「バスケットで試合の流れを作るのはガードなんだ。コート全体が見えてないといけないし、メンバー全員の得て不得手も、その日の体調までも考えて試合を進めて行かなくちゃならない。巧くないガードに指示されると、時々頭にきたりしてさ、わざと指示に従わなかったりとかして……」
不意に徹はコートの中を指差した。
「克己、あの人。あの人がね、今のところの俺の理想」
コートの中で色の白い線が細い印象のする優しげな人物が、ボールを手にしたまま笑っていた。
「あの人、沖田さんっていう人。俺と同じくらいの身長で、ガード。今度3年になる人だから、高等部に行っても一緒に練習とか出来ないけどね」
集まって練習している中にいると、そんなに低い方ではない。もちろん、高校生ともなればもっと背の高い人もいるので、取り立てて大きいという印象も受けないのだが、ガード=小さいという先入観があった克己には、かなり衝撃的だった。
「上手いの?」
コートの中では、パスを回しながらの練習が始っている。部員全員がランニング型のユニフォームなのに、沖田だけは下に白いTシャツを着ていた。
「特別に何がすごいっていうわけじゃないけど、なんていうのかな、メンバーのことを知り尽くしているって感じがする。特にコンビプレーとかになると後にも目がついてるんじゃないかって思えるくらい凄いよ」
「ふうん……」
目の端で、パスをしながら走ってきた沖田が、流れるようにランニングシュートを決めた。空中で一瞬止まったように見えた後、重力にしたがって落ちていきながら、ボールがゴールネットを揺らしたのを確認した沖田が、鮮やかに笑ったのが見えた。
克己は、既に隣の克己の存在も忘れて食い入るようにコートの中を見詰めている徹の横顔を見た後、もう一度コートに視線を落とした。床に跳ねるボールの音がやけにうるさくて、なんだか自分がここにいるのが場違いな気がした。
――バスケットはさ、楽しいよ……。
不意に徹が言った言葉が思い出されて、なんだかちょっと目頭が潤んだ。
「ナイスショット!」
不意にかけられた声に沖田は思わず笑顔を向けた。解けた靴紐を結びなおしていた矢ヶ崎が手を止めて見ている。まっすぐ、綺麗に紐を通すのが矢ヶ崎の試合前の儀式らしく、一穴ごとにしっかりと紐を引き締めているのが見えた。沖田はバウンドしたボールを手の空いていた後輩にパスすると、そのまま矢ヶ崎の傍の椅子に腰掛ける。背中でギシリと音がして、かすかに腹に圧迫を感じ、沖田の手が思わず腰に行った。
「大丈夫か?」
さするような動作に不安を感じたのだろう、矢ヶ崎の表情が曇る。
大丈夫だと答えながら、沖田はゆっくりと腰を捻った。違和感はない。コルセットの締め付けがいくぶん不自由さを感じさせる程度で、その不自由さすら練習で体を動かしていれば忘れられた。
「無理だけはするなよ。この試合通して全部出るって、そう決めたんだから」
夏の合宿以降の無理がたたり、沖田の腰は限界がきていた。椎間板ヘルニアだと診断され、この冬の大会ではベンチを暖める時間が長く、今日のこの練習試合は選手としての引退試合だ。罹りつけの医者には、コルセットで完全に腰を固定する事と試合後にすぐに診察に来る事を条件に目をつぶってもらった。
――バスケットで身を立てていく訳じゃないんだ。君にはこの言葉の意味は分かるだろう?
医者が言った言葉ははっきり覚えている。それでも、沖田は試合で完全燃焼することを望んだ。そうしないと、好きで好きでたまらないバスケットをこれから先ずっと、楽しめなくなるような気がしていた。
「分かってる。大丈夫、走り通して見せるよ」
矢ヶ崎がそんな意味で言ったのではないことは分かっていたが、沖田は頑固にそう主張する事で自分の意志を貫くことを宣言した。矢ヶ崎は微妙な顔をして一瞬黙ったが、すぐにため息混じりに笑顔を見せた。
「ストレッチ、付き合ってくれよ」
結び終えた紐の端を編んだ紐の下にくぐらせ、解けにくいようにすると、矢ヶ崎は満足したような顔で立ち上がった。沖田には矢ヶ崎の提案が自分自身のストレッチのためだけではなく、沖田の体を気遣っての事だと分かっていた。
――あいかわらず上手に気をつかうよな……。
向かい合うようにしてゆっくりと体をほぐしながら沖田は小さく笑った。キシキシと背中でコルセットが軋む。肌に直には巻けないのでTシャツを下に付けた。コルセットの上のユニフォームは薄くて、かすかにコルセットの輪郭が透ける。時折、後輩が不安げにそのコルセットを見つめる。誰も口に出しては何も言わない。だが、その視線の中にある不安と憐憫を沖田は痛いほど感じていた。
「背中、押すぞ……」
用心深く矢ヶ崎が沖田の背を押す。コルセットの軋みは微かな振動になって矢ヶ崎の手のひらにも響いた。
最初に部活に入ったときはまだ、沖田より矢ヶ崎の方が背が小さかった。比較的遅く成長期のピークが来た矢ヶ崎は、高校に入ってからもかなり背が伸びたのだ。最初は沖田と一緒にガードのポジションを任されていたが、そのうち身長だけでなく体つきもガッチリしてきて、今ではフォワードのポジションを任されている。性格的にも、能力的にもフォワードの方が向いているようだった。ガードとしての適性と能力に恵まれていた沖田に対して、最初の頃感じていた劣等感にも似たコンプレックスも、今はもう消えている。その代わり、考えすぎるほどに考え込んでしまう性格や、一度決めたら限界までその考えを変更しようとしない一途な頑固さに、友人として多少の不安を感じるようになっていた。
思慮深さと意志の強さは沖田の持つ強さだ。だが、全ての長所が見方を変えれば欠点になってしまうように、その沖田の強さも諸刃の剣には違いなかった。
「もう少し、強く押してくれる?」
笑顔を含んで振り返った沖田に小さく笑い返すと、矢ヶ崎は手のひらの下の筋肉を確かめるようにゆっくりと力を込めた。ギシギシと軋むコルセットの音が、沖田の体の中から響いているようで、矢ヶ崎は周りに見えないように唇を噛んだ。
憧れの主が片隅でストレッチをはじめると徹はチラリと克己を振り返り、克己が所在なげにぼんやりとあらぬ方向を見つめている事に気が付いて頭を掻いた。球技大会以来、克己がどことなく不機嫌で、静かにだが執っこく怒りを持続させていることには気がついていた。球技大会の『一番可愛いオトコノコ』という企画が気に入らなかったのだろうし、また、その企画のために半ば晒し者のような扱いを受けた事にも腹を立てているのだろう。
克己は自分の背が小さいから『一番可愛いオトコノコ』の候補者にされてしまったのだと思い込んでいるが、仮に克己の身長がクラスの平均でも、おそらく克己が候補者になったに違いないのだ。克己はその性格や動作全てを含めてどこか小動物的で、取り立てて何か印象深い個性があるわけでもないのに、何故か人の注意をひきつける。本人は全く気がついていないが、どんなに収拾のつかない状況になっていても、克己が何かを主張すると不思議とクラスがまとまってしまうようなところがあった。克己が困っていれば誰かが協力しようと申し出るし、克己が正しくないと発言すれば、なんとなくそれを支持する意見が多くなっていく。
もちろん、球技大会の事に関して悪ふざけめいた思惑が全くなかったわけではなかったけれど、静かに怒りを持続させる克己にクラス全員が手を焼いていた。
――スポーツっていうのは、勝つために努力するんだろう!?
球技大会が終わった後、克己が怒りにまかせて言った言葉を聞いたとき、徹は自分達の悪ふざけが過ぎた事を知った。克己は勝ちたかったのだ。純粋に、誠実に、ただ全力を尽くして勝ちたかったのだ。
それ以来、静かな怒りに気がつかないふりをしながら、ずっと謝る機会を伺ってきた。
「なぁ、克己……」
不意にかけられた言葉に、克己は訝しげに振り向いた。ちいさく下唇を噛むのは、克己が何か不満を持っている時の癖だ。
「ごめんな……」
思ってもみなかった言葉に、克己は一瞬ギョッとしたように目を剥き、その後首を傾げた。疑り深いさぐるような顔をして見せ、それでも徹の真面目な顔が崩れないのを見て取ると、ようやく徹が本気なのだと悟って、小さく問い掛けた。
「何が?」
なんとなく、含みがあるような気はしていた。徹は確かにもともと傍若無人な行動は多かったけれども、頑固に克己が拒否する事に対して無理強いした事はなかった。徹が無理強いするのはいつも、克己が絶対に克服しなければならないような事柄の時か、そうでなければ他にいい方法を見つけられないような時ばかりだ。徹が言うことに大きな間違いはない――その信頼感は、オネショの時代まで知っている悪友だからこそ持てる強いもので、徹が口に出した事全てに対して、全霊をかけて責任を全うしようとする性格であることも克己には十分分かっていた。
「球技大会……」
ポツリと徹が言った単語は、想像通りだった。今さらなんだというような顔をして見せようとして、克己は躊躇った。大抵、徹は真面目な話をする時照れたように滑稽な顔をしてみせる。だが、今回はそんな余裕がないのか、強張った顔のままだ。鼻の頭に汗まで吹いている。
「別にいいよ……」
拗ねたように俯いて克己はようやくそう言った。
――バスケットはさ、楽しいよ……。
知っていたよ、そんな事はさ。まがりなりにもコートの中を走って、ボールを追って、必死でゴールを目指していたその瞬間はさ、楽しかったんだよ。
克己は心の中で呟いていた。半分は周囲の扱いに怒っていた。でも半分は自分に怒っていた。ゴールネットは高かった。飛んでも飛んでも届かなかった。悔しかった。中途半端にしか出来ない自分の、その中途半端さが嫌だった。
「うん……」
諦めたのだろうか、徹の小さな返事が聞こえて克己は顔を上げた。泣き笑いのような奇妙な表情をして、徹が見つめていた。
「あの人さ、今日が引退試合なんだって……」
一瞬『あの人』が誰なのか分からずに克己は首を傾げた。そして、それが徹が『理想』だと言ったあの選手の事なのだと気が付いて、驚いたようにコートの中を見た。試合開始の準備がすすめられているコートの中で、その人は明るい笑顔で周囲と何かしゃべっていた。
「一人じゃ、来れなかったんだ……」
聞こえるか聞こえないかという小さな声で、徹は独り言のように呟いた。気弱な横顔は、まだ幼稚園の時に悪戯で叱られたときのままで、どこか頼りなかった。克己は聞こえなかったふりをして、円陣を組んで掛け声をかけているその人を、ただじっと見つめていた。
「すっげぇ」
ハーフタイムを告げるホイッスルが響いて、最初に克己の口から漏れた言葉はそんな単語だった。
実力は伯仲していた。どちらのチームも粘り強いチームプレーが得意で、ゴール下で繰り返される攻防にベンチも観客席も一喜一憂していた。特に徹が憧れだと言ったその人とチームメイトのコンビネーションプレーは見事で、完全に体に覚えこんでいるような攻撃の淀みない流れが何度も繰り返された。
「ねぇ、あれ、何? あの、ぶつかって行くようなやつ!」
徹は乏しい克己の説明に首を傾げたが、すぐにそれがスクリーンを多用した攻撃パターンの事だと気がついた。
「スクリーンて言ってさ、自分のチームの人間が攻撃しやすいようにディフェンスの動きをブロックしちゃうんだよ。ええと、例えばな……」
口で言っても埒があかないと思ったのだろう、徹は実際のコートを指差しながら、両方の拳を使いながら動きをシミュレートして見せた。
――バスケ馬鹿だなぁ……。
不意にそんな感想が湧いて、克己は小さく笑った。それに気がついた徹が拗ねたように口を尖らせる。
「おい、解説してやってんだから真面目に聞けよ……」
完全にバスケットに夢中ですという顔をしているのをみて、克己は意地悪な考えが頭に浮かんだ。
「聞いてやってんだから、怒るなよぉ……」
克己のからかうような言葉に一瞬むっとして歪んだ徹の顔が、不意にたまらなくなったように崩れた。二人で腹の底からゲラゲラ笑いながら、克己は自分の今までの怒りがちっぽけで些細な事に思えてきて、笑いすぎて涙が出たふりをしながら、こっそり涙を拭った。
――図体がでかい奴の泣いてるのって、可愛くないなぁ……。
徹も同じようにしているのをみて、不意に感じた感想も、奇妙なほど可笑しかった。
ハーフタイムになるとまず後輩がドリンクを差し出す。スターティングメンバーは一人一人自分のドリンクを用意されていて、間違えないようにマーキングしてある。
「沖田さん、どうぞ……」
すぐに飲めるように気遣われたドリンクには水滴で手が濡れないようにタオルが巻いてある。沖田は軽く笑って手を伸ばした。差し出された椅子に体を投げ出すと、負担のかかった腰が重く痛んだ。
――さすがにきついな……。
お互いにチームプレーを得意としているので、速攻の繰り返しがない分、思ったより腰への負担は少ない。だが、それでもスクリーンを多用した攻撃を繰り返していると、小さな接触の繰り返しが確実に沖田の腰に響いていた。
「大丈夫か?」
矢ヶ崎の声に沖田は笑ってみせる。
痛いと言ったところでしょうがないのだ。痛めるのは最初から分かっていたのだし、周りが心配するのも気遣うのも全部分かった上で、それでも中途半端に気持ちを残したままバスケットという競技をやめることが自分にはどうしても出来なくて、無理を言って心配させてまで試合に出ると言った。
――エゴ、かな、やっぱり。
笑顔は苦くなる。もう少しずつ後悔し始めている気持ちを無理やり前に向けて、沖田はゆっくりと立ち上がりストレッチをはじめた。床に座り、ゆっくりと柔軟を始めると、遠慮がちな足音がしてさっきドリンクを差し出した後輩が気遣うような視線を投げてきた。
「押しましょうか?」
既に手は背中にかかっている。
「うん。ありがと、神谷」
一年の中で矢ヶ崎が一番目をかけているのがこの神谷だ。中学の頃はポイントガードをやっていたと言うが、背も高く体つきにも恵まれている。高校に入ってすぐ、矢ヶ崎と同じフォワードに転向になった。矢ヶ崎には自分が走れなくなったら神谷と交代するように言われている。沖田が抜けた後は攻撃パターンを変えるつもりなのだ。
「神谷、体、冷やすなよ」
ふと漏れた沖田の呟きに似た言葉に、神谷は手を止めた。
「俺、最後まで先輩のプレー見てます。見たいです」
振り返って、必死の形相をしている神谷の顔が目に入り、沖田は小さく笑った。
「うん……」
ゆっくりと、しかし確実に腰を押してくる神谷の力を感じながら、沖田はゆっくりと息を吐いた。不安と後悔で硬くなり始めていた体が、不思議なほど弛緩していくのを感じていた。
試合開始のホイッスルが響くと、ざわついていた会場は一瞬静かになる。バスケットシューズが床を踏む鳴くような音が響いて、思い思いに体をほぐしながら選手がコートに集まってくる。
「あ、ディフェンスの形を変えてる……」
徹が呟いた。確かに前半とは様子が違っていた。
「あれって、ゾーンディフェンス?」
球技大会のときも確か、同じように守った。比較的守りやすい形なのだと言われた記憶がある。
「そう。たぶん、相手チームがあんまり3点シュートを打てないからだろうな。身長でも競り勝ってるし、確実にリバウンドが取れるならゾーンでもかなり効果があるし。何より体力温存できるもんな……」
なるほどなと思う。バスケットなんか嫌いだと思っていたことが嘘のように、目の前のゲームは面白く、しかも徹がブツブツと勝手に解説を漏らしてくれるので、下手な副音声の野球中継なんかよりずっと楽しめる。
「うわっ。すげぇ。あんな位置からランニングシュートするんだ……」
レイアップのシュートは基本だからと言って教えてもらった。徹のようにスピードとジャンプの高さのある綺麗なシュートは打てなかったが、それでも敵の邪魔さえなければ――まずそんなことは皆無だが――克己もシュートを決めることができるようにはなった。だが、目の前で展開されているシュートは、そんな可愛らしいものじゃない。ほとんど全速力で走った状態のまま、パスを受け取りかなり遠い位置からゴールを狙っていく。ストライドが広いこともあるが、最後の踏み切りの時に前に進んでいるスピードを完全に殺して、その力を全てジャンプする力に変えることができる脚力があるからこそなのだろう。その姿はダイナミックで、ゴールが決まると客席から感嘆ににた低いため息が漏れた。
「あの人が、キャプテン?」
ゴールを決めた人物は4番のユニフォームをつけている。バスケットには1・2・3番がなくて4番が一番偉いのだと、これは授業で聞いた。
「そう、矢ヶ崎さん。あの人も今度3年。普通、高等部は秋まで3年が出場するから、この間の冬の大会がキャプテンになって初めての試合だったんじゃないかな」
背が高い。足が速くて、特に徹が憧れている沖田という選手とのコンビネーションはお互いの呼吸まで全部分かっているような気がした。
ボールは今、相手チームにある。ディフェンスを変えたことで、しばらく相手チームの動きは悪くなった。だが、次第にディフェンスの穴も分かってきたのか、攻撃のためにぶつかり合うことも多くなってきている。点数は、まだ2点だけ相手チームが勝っている。
「あっ」
不意に大声をあげた徹の声で克己は慌ててコートに視線を落とした。
相手チームのフォワードがディフェンスの中に切り込み、解けていた靴の紐を踏んで転んだのだ。ちょうどその選手のディフェンスをしていた沖田の上に崩れるようにして倒れている。ボールがラインを割って、審判の笛が響く。途端に二人の周りに選手が集まった。
一瞬だけ見えた沖田の顔は蒼ざめ、辛そうに眉間に皺が寄せられていた。
――もろに腰にきたな……。
体の上にある重みは慌てたように退こうとしたが、転んだ時に足を捻ったのか、うまく体を起こすことが出来ないまま、ズルリと横に滑った。一瞬自分の腰に走った痛みを隠して、沖田は隣の選手に大丈夫かと声をかける。
「ごめん……」
苦しげな息の下で最初に相手から漏れた言葉は謝罪だった。
「足、やばいのか?」
眉を寄せたまま返事はない。沖田は近寄ってきた審判に相手の足の異常を訴えた。すぐに笛が吹かれて、両軍の選手が二人を抱え起こす。相手はすぐにコートから出されて、慌しく交代の選手が用意を始めた。
「沖田。大丈夫か?」
矢ヶ崎の肩を借りながら、沖田はかすかに腰を捻ってみた。微かに痛みが走る。衝撃のせいでコルセットが緩んだのか、違和感ばかりが強い。
「ずれたかも。ちょっと待って……」
審判は試合の再開を促す。沖田は無意識にユニフォームを捲り上げ、コルセットの紐を慌しく締め上げた。白いTシャツの上に固く巻かれたコルセットに、一瞬コートの中の選手の目が釘付けになる。沖田はようやく周りの視線に気がついたが、そのコルセットを慌てて隠そうとはしなかった。
「大丈夫か?」
矢ヶ崎が質問を繰り返す。コートの端で神谷が心配そうに沖田を見つめていた。
「大丈夫、まだ走れる……」
沖田は笑って見せた。コルセットを隠したユニフォームの上から腰の感触を確かめる。捻ると痛みがある。――だが、まだ走れる。
――走れる。まだ、走れるさ。
矢ヶ崎は何かいいたげに口を尖らせた。だが、唇を噛み締め、いくぞと小さな声で沖田を促した。選手交代を告げる審判の声が響いて、試合は何事もなかったように再開された。