『空からの眺め』 [ 3 ]
練習して、寝て、また練習する。授業も受けているはずなのだが、そういう記憶はあまりない。
鷹野は部活の練習以外に自分だけで走り込んでいた。もちろん部でも走り込みをするのだが、かつての陸上時代から考えるとまだまだゆとりはあったのだ。ランニングシュートの成功率は9割を超えた。中屋はそれでも、試合になると2割は確率が落ちるから安心するなと言う。確かにその通りだと思う。
神経が研ぎ澄まされているくせに妙に落ち着く。陸上の時のような不安はあまりない。個人競技と団体競技の差なのかもしれないが。
ミーティングの終わったその足で、多佳子の病室に急いだ。突然の検査で多佳子が部屋にいなかったので、隣の女性の知恵で、置手紙をすることにした。
読んでくれただろうか。
鷹野は日頃使っているバスケットシューズの紐を全部外し、一つ一つ丁寧にもう一度結び始めた。陸上時代から試合前には必ず行う儀式。フィールドに立った後、自分を助けてくれるのはもう、この靴しかないのだ。
「鷹野、アップだって」
一試合目が終わってようやく20分ほどコートの半面を練習用に使えるようになるのだが、その前に確実に体を温めて動けるようにしておかなければならない。幸いこの会場は隣に小さな体育館がもうひとつあり、そこで準備をすることができる。
「すぐ行く」
締まった靴紐と膝のサポーターを確認して、鷹野は立ち上がった。入り口のところで、神谷は待っていた。
「気合、入ってるんじゃない?」
「緊張は、してるよ。でも、陸上のときほどじゃないな」
今回はベンチに入れない部員たちも、練習のときは協力する。マネージャーを手伝って飲み物の用意をしたり、救急用品のチェックをしたりするのだ。数人がばたばたと隣を走っていく。
「あ、アップ始めるそうです。急いでください」
新入生だろう。両手にドリンクの入れ物を握り締めて慌てている。
ガラリと体育館の扉を開けると、見慣れたユニフォームの一群と、既に走り始めている見慣れないユニフォームの姿があった。
「あ、敵さん、もう始めてるんだ」
確かに、特に注意しろと言われたフォワードの10番は膝にサポーターをしていて、それ以外のメンバーはあまり動きがよくない。かっきり半分のコートを使用しているのは、スポーツマン精神だろうか。
「集合!」
キャプテンの掛け声に鷹野は中央に急いだ。
「怪我している奴はストレッチを十分にな。まずはいつものように各自のストレッチから始める。その後アップ。ランニングシュートの練習をして5対5のセット練習。その後は各自に任せる」
壁際にストレッチのために退きながら、鷹野は練習を続けている相手チームを眺めた。マネージャーらしい数人が、メンバー表を片手にこちらを見ながら何かを書いている。
「早速偵察ね。ま、メンバー表だけじゃ、本当の体格とか分からないからね」
隣に座り込んだ神谷はそういいながらもじっくりと相手チームを眺めている。
「向こう、平均身長高いな。ま、センターはうちが競り勝つだろうけど、中屋さんがちょっと心配かな、やっぱり」
確かに、一番背が低いメンバーでも鷹野より少し高い感じがする。鷹野自身はジャンプ力があるのであまり心配はしていないが、中屋は膝の怪我があるためにあまりジャンプは期待できない。
「神谷、押して……」
背中を押してもらいながら、ちらりと視線を走らせると、沖田が大きなクーラーボックスを運ばせていた。怪我が心配な人間がいるとき、沖田は必ず氷を用意する。コールドスプレーで患部を冷やすことはできるのだが、十分にアイシングするためにはやはり、氷が一番だからだ。
「集合!」
いつものように神谷と並んでエンドラインに立つと、練習を一時中断して、何事か集まっている相手チームが見える。
「ダッシュ。ターンしてここに帰ってきて。最初はフロントターンから」
腰を低くする。僅かに後ろに下げた足ががっちりと床を掴んでいる。
「ピッ」
笛の音に反応して体が前に飛び出すと、体に感じる風の感触が前へ前へと誘うようで、瞬く間に到達したハーフラインで体を翻すと隣に神谷の躍動する体が見えた。青空が見えたような気がした。突き抜ける、雲の稜線を際立たせた、青い、空。
(はえーよ、あの二人)
(かたっぽ、スタメン?もう一人の方はたぶん、ガードだろ?)
(まじ?)
小さく囁いている声がここまで聞こえる。最初っから飛ばしすぎたかなと反省したが、エンドラインで待っていた矢ヶ崎はにやりと笑って鷹野を迎えた。
「いいインパクトだな。びびってるぞ、相手」
不意に陸上の試合を思い出した。準備で体をほぐしているとき、単にグラウンドを歩いているときから勝負は始まっていた。ノマれた方が負け。そ知らぬ顔をしながら、どうにか相手より優位に立とうと画策する。
「次、バックターンで」
再びエンドラインに並ぶと、隣の神谷と顔を見合わせた。
「ピッ」
笛の音に反応しながら、鷹野は笑っていた。今、ここにこうして立っているということ自体、嬉しくてしょうがなかった。
思った通り、試合はこちらのペースだった。矢ヶ崎によって完全に牙を抜かれた形になった相手の10番は、何度かファールを繰り返し、用心のためにベンチに下げられてしまった。彼が抜けてしまうと、かわいそうなくらいに精彩を欠く。前半12分を過ぎて17点差、安心は出来ないが、点差はよくついているほうだ。
「鷹野、じゃ、いってみようか。速攻に失敗してもセット攻撃の練習だと思ってじっくりやっていいから」
試合で監督の立場を取るのはいつも沖田だ。自分自身がプレーヤーではないから冷静でいられるし、判断を間違えるということも少ないのだろう。
「はい」
ちょうどボールがサイドラインを割って試合の時計が止まったため、交代を告げる笛が吹かれ、察した中屋がゆっくりとベンチの方に歩いてくる。コートの中と外で一礼してすれ違うと、小さく中屋が囁いた。
「あいつら必死。ディフェンスべったり付いてくるから、セットになったらパスで振り回して、神谷のカットインと渡辺のポストプレーを有効に使って」
小さく頷いてコートの中に駆け出すと、神谷がにやりと笑った。不思議と緊張はなかった。
サイドから相手ボール。上手くゲームを作れずに躊躇うように繰り返されるパスをカットするのはたやすい。何気なく不用意に出されたパスに飛びつくと、両手の中にがしりと喰いこんだ感触がした。
「速攻!」
叫んでドリブルで駆け出した。すぐに逆サイドを神谷が上がってくる。完全に敵は走り負けしている。
大きく神谷の前方にパスを出すと、長い両手がそのパスを拾い上げて、空を飛んだ。まっすぐに伸びた体が一瞬頂点で静止して、全身のバネで神谷はシュートした。面白いようにすっぽりとネットの中にボールが吸い込まれて、ベンチから歓声が上がる。
ちらりと相手ベンチを眺めると、うずくまるようにベンチに腰掛けた10番が苦しそうに天井を見上げていた。
相手チームはガタガタだった。後半も同じようなゲーム展開で、結局37点もの点差がついた。
試合終了の笛が鳴り終って相手チームへの礼が終わると、鷹野は観客席を見上げた。すぐに隣に神谷がやってきて、同じように観客席を見上げる。
「来てそう?」
鷹野は小さく首を振った。
やはり、無理だったのだろうか。この会場まで見に来てくれということは。
不意に、白い長袖が目に入った。大きく手を振り、笑っている。
「あ、由佳だ……」
神谷は小さく呟くと、応えるように手を振った。
「由佳……?」
「あ、妹。試合のときは見に来てくれるんだ」
印象が良く似ている。特に笑ったときの顔が。
鷹野はゆっくりと視線をめぐらせて、観客席を眺めた。多佳子らしい人影は見えない。
「おい、ミーティング始めるってよ。アップした体育館に集合だって」
入り口近くで中屋が振り返っている。サポーターを外した膝には氷を当て、上半身は冷やさないように上着を羽織っている。
「しょうがない、行こう……」
神谷に促されるようにしてコートを後にした。公園に来るのだって最初は斎藤がついて来ていたくらいなのだ、そんなに簡単にここまで来れるはずがないと思い直して、鷹野は諦めたように溜息をつき、タオルと上着を肩にかけて神谷の背中をついていった。
観客席に多佳子の姿を見つけられなかったことで、多佳子の膝にボールをぶつけてしまった時のように自力で修正できないほど悩むかと思ったら、意外と変化のない日常を送っていて、鷹野は驚いていた。というよりも、目の前のバスケットで一杯になってしまったのかもしれない。
クタクタになるまで体を動かして、泥のように眠り、頭の中で幾つもの動きをシミュレーションする。そうしていると、もう、他のことが入ってくる隙間はない。
例によって沖田が入手した対戦校のデータは豊富で、次の相手がいかに戦い難い相手かということはよくわかった。確かに神谷が言ったように突出した選手はいない。だが、一人一人の実力は平均して高く、バスケットの有名校ということでメンバーの層も厚い。
いつもより早く着いた部室の扉を開けると、明かりの点いていない部屋の片隅で誰かが動いた。
「鷹野か……」
声はほっとしたような響きを持っていた。うずくまっていた影は鷹野を見上げている。中屋だ。床に腰を下ろしてサポーターを外した膝に何かを塗っていた。
「中屋先輩?」
明らかに脹れていると分かる少し赤らんだ膝。無造作に置かれた携帯用の小さなバッグからは、今服用したらしい薬の箱が覗いている。
「痛み止め……飲んでるんですか?」
中屋は小さく笑った。
「周りには内緒な」
慌てて扉を閉めると、鷹野は中屋の脇に座り込んだ。消炎鎮痛剤の中でも強い部類に入る薬は、以前、膝を痛めたときに中屋が教えてくれたものだ。
「でも、無理したら……」
分かっているというように中屋は笑って見せて、サポーターを巻き始めた。
「我侭、きいてくれよ。これが最後の試合なんだから」
時々痛みに顔を歪めながら、中屋はがっちりと膝を固定した。心配そうに無言で抗議している鷹野の顔を見ると、そのまま俯いた。
「バスケットをして生きていくわけじゃないから、最後は完全燃焼したいんだ。我侭は百も承知。俺が走れなくなったら、鷹野、走ってくれるだろ?」
止めなければいけないのは分かっていた。この状態で休息を取らずに酷使するのは間違っていた。だが、鷹野は何も言えなかった。鷹野の気持ちが分かったのか、中屋は項垂れている鷹野の頭を軽く叩いた。
「アホ。何、辛気臭い顔してんだ」
次第に近づいてきた部員らしき足音に鷹野は慌てて立ち上がり、何もなかったかのようなそぶりをした。数秒後に開いた扉から見えた顔が神谷のものであることを認めて、鷹野はかすかに安心したような顔を見せた。
薄闇にまぎれると表情が読めない。それが今、鷹野にはありがたかった。練習中、どうしても中屋の膝が気になり、時々気がそがれた。他の部員はともかく、神谷には気付かれているに違いないのだ。練習中に何度も問いかけるような視線が降ってきた。
「鷹野、お前さ……」
隣を歩く神谷に不意に声をかけられて、鷹野は一瞬身構えた。
「あんな態度じゃ、周りにバレバレだろう?」
何を言っているのか、しばらく判断がつかない。神谷も既に知っていたのだろうか?
「神谷、知ってたの?」
しょうがないなと笑うと、神谷は大きく溜息をついた。
「みんな言わないだけで知ってるさ。故障の程度とかまでは分からないけど、だいたい顔見てれば分かるし。今日、部室に入ったら、微かにだけど薬の匂いしたし」
知っていたのかと考えるとどっと力が抜けてしまう。鷹野は溜息をついた。
「先輩たちなんて、全員どこかに故障持ってるよ。あの矢ヶ崎先輩だって、右肩を痛めてるんだから。それでもみんな知らせないように、知ってることを気付かせないようにしてるのは、表に出てしまうとどうしても、やめておけと言わざるを得なくなるから。大学に行って部活で続ける先輩もいるだろうけど、サークルみたいなところしかない場合もあるだろうし、大学進学しない先輩もいるし。本当に、バスケットのことだけを考えられるの、最後かもしれないから……」
神谷はただ、淡々と言葉を続けた。まるで、来年の自分に語りかけているようだ。
「実を言うとさ、スタメン選ばれたとき、ちょっとは悩んだんだよね。最後の3年差し置いて、いいのかなって。でも、そんな理由でスタメン譲るの失礼だしさ。俺ときたら、体頑丈だから故障、なかなかしないし」
思わず鷹野は神谷を見上げた。思ったよりずっと真面目な顔をして、神谷はただ前を睨みつけていた。
「でも、それ、神谷のせいじゃないじゃん……」
鷹野の呟きにそうなんだよな、とぼやくように応えて、神谷は空を見上げた。
「先輩たちが最後の最後まで根性振り絞るなら、俺も付き合おうかな……って、ハードな練習にもめげずに頑張ってみてるわけよ、真面目な神谷悠一くんは、さ」
茶化した風に言葉を切って、神谷はいつものようににやりと笑って見せた。不思議な安心感が胸に広がるのを感じながら、鷹野は小さく笑った。
次の試合会場は前よりもさらに使いやすかった。準決勝や決勝も行われる予定になっている会場は広く、アップをするための施設も整っている。だが、まだ、試合そのものの数が多く、会場の中はごった返していた。
「うへ、凄い数だね」
思わず口をついて出た神谷の呟きに思わず笑いが出た。ちらりとそんな様子を眺めた沖田が会場の何箇所かを指差す。
「鷹野、神谷。アレが去年の優勝校。で、あっちが二位。階段のところにいるのが今回の対戦相手だし、その奥が明日、優勝校と当たる学校だよ」
今日試合がない学校まで来ている。しかも部員全員で。
「偵察か……。まぁ、週一で試合があるようになると、下手に練習するより相手を良く知っておいたほうが有利になるからな。まして、シード校はこれが最初の試合になるわけだし、試合のテンションに慣れておく必要もあるし……」
矢ヶ崎の声に振り向くと、いつもの苦笑いに似た笑みが見えた。
「油売ってないで、アップするぞ。ここまで人が多いと、先に場所を見つけたほうが有利だから」
そのまま大股で歩き出した矢ヶ崎を追って部員たちが移動を始める。新入生たちにいつものクーラーボックスを運ばせながら、沖田がそっと気遣うように中屋を見つめた。少し血の気のない唇に笑みを張り付かせながら、中屋はその視線に気付かない振りをした。
「強いな、さすがに……」
思わず漏れてしまった呟きを隠すことも忘れて、沖田は試合に見入っていた。
後半16分を過ぎて32-35、両チームとも得点は伸び悩んでいる。どちらも試合の流れをうまく掴めないままでいるのだ。中屋を代えるべきか否か沖田は悩んでいた。前半フルに走った中屋の膝は既に限界に近いはずだ。だが、今のディフェンス力でようやく均衡を保っている、ここで中屋を鷹野と交代させるとディフェンス力は確実に落ちる。だが、今のままではオフェンスに爆発力がないことも事実だった。
相手チームのリバウンドを取って、中屋がボール運びを始める。巧みにフェイクパスを入れながら、相手のディフェンスを撹乱する。
「神谷!」
不意に鷹野が叫んだ。一瞬、神谷についていたディフェンスがそのフェイクに騙されて体が傾いたのだ。
次の瞬間神谷の体は前に出ていた。応えるように中屋からバウンズパスが出されて、群がるディフェンスの隙間を半ば強引にかき分けて、神谷はゴール下に体をねじ込んだ。そのままシュートに飛んだ体に相手チームのセンターが体当たりをした。
「ピッ」
笛が吹かれて試合が止まる。審判はボールを受け取って、ゆっくりとディフェンスに対してファールの動作をした。
「すいません。交代お願いします」
弾かれたように沖田は叫んだ。もしも、試合の流れを変えることができるとすれば今しかない。このファールで貰うフリースローを決めれば点差は1点差になる。
「ディフェンスファール、赤、6番。白、8番、2スロー。白、交代認めます。入って」
察して中屋がコートを出てくる。
「鷹野、あと3分。べったりくっついてディフェンスできるね?無理にパスカットに行かなくていいから、リバウンドが取れたらとにかく速攻でガンガン走って」
沖田の言葉を受けて、鷹野は中屋と視線を交わした。既に言葉を発することも出来ないほど、中屋は疲れている。
「氷取って。椅子とタオル。サポーター外してすぐ冷やすんだ」
沖田の声がする。やっぱり、全部分かっていたんだと、鷹野は溜息をついた。
フリースローラインには既に神谷が立っている。鷹野はハーフラインの辺りに立ってスローが決まらなかったときのカウンター攻撃を防ぐ。
審判が神谷にボールを渡し、ワンスロー目が始まる。いつもとまったく変わらない綺麗なフォームで神谷は迷いもなくスローを決めた。これで33-35。審判から再び渡されたボールを神谷は見つめた。
ゆっくりとショットの体勢に持っていくと、リバウンドを競い、全員の体が張り詰める。無造作ともいえる自然なフォームで放たれたボールは綺麗な放物線を描いてネットに吸い込まれた。スパンとキレのいい音がして、ネットが揺れた。
歓声が沸く。
弾かれたようにディフェンスの位置に戻ると、鷹野は両手を広げた。確実に相手は自分を狙ってくる。最初を止めなければ、相手のペースになる。
腰を落とすと、不意に腹が据わった。指先からつま先まで神経を研ぎ澄ます。片方の指先でボールを、もう片方で自分がディフェンスする敵を指し示すと、鷹野はいつでも飛び出せるように重心を落とした。技術では確実に相手が上。だが、相手も疲れは溜まってきている。パスを回しながら、切り込むタイミングをなかなか掴めないままじりじりと時間が過ぎた。ちらりとコートの端のオフィシャル席を見ると、既に30秒ぎりぎりの赤旗があがっている。そのとき、不意に相手のフォワードが切り込んできた。ディフェンスを避けて不自然な体勢から打ったシュートはリングに当たり大きく跳ねる。待っていたように矢ヶ崎の体が飛んだ。
「速攻!」
その声を待たずに鷹野は駆け出した。逆サイドを神谷が同じように走っている。大きくパスが出た。だが、相手の戻りも早い。パスを受け取った神谷はこのまま速攻で突っ込むことを無謀と感じて、すぐにスピードを落とし、鷹野にパスを回した。
「はい、1本!」
焦らずにゆっくりセット攻撃すればいい。強く当たってくるディフェンスは、さっき神谷がやったようにファウルを誘ってやればいい。上手くいけばフリースローが貰えるし、ファウルがたまってくればその分ディフェンスの当たりは弱くするしかない。
鷹野はフェイクパスを多用しはじめた。フェイクに慣れていないのはさっきのプレーを見ても明らかだ。上手く神谷のカットインと渡辺のポストプレーを使って中を掻き回し、行けると思ったら強引にシュートに持っていけばいい。
「鷹野、30秒ケア!残り5秒!」
沖田の声が背中で聞こえた。次の瞬間飛び出した神谷にパスを出し、すぐに返ってきたパスを鷹野は本庄に回して、そのまま自分は本庄の前に飛び出した。
「打て!」
綺麗なフォームで本庄の腕からボールが放たれた。僅かに勢いが足りなかったボールはリングで高く跳ねる。
予測していたように渡辺が中へ入り込んでいた。僅かに身長差で敵に競り勝った渡辺がリバウンドを保持する。
「はい、1本!」
渡辺からボールを返してもらって、鷹野は再び攻撃の態勢を整えた。目の前の敵には焦りが見える。鷹野は小さく笑った。焦り始めたらこちらの思うがままだ。何を考えるのか、手に取るように分かるようになる。
硬直状態のまま、試合は進んだ。30秒の攻撃時間ギリギリにシュートを打つと、リバウンドのためにドッとゴール下に人が固まった。
――取られる。
渡辺と矢ヶ崎はリバウンドに対して完全にマークされている。鷹野は後ろ向きにじりじり下がり始めた。
「速攻!」
敵の声が聞こえる前に、鷹野はディフェンスに走っていた。ちらりと目に入った試合の時計は残り時間が僅かしかないことを示している。自棄のように長いパスを出したのが、敵の過ちだった。速攻で走ってきた敵のガードがそのボールにたどり着く前に鷹野はがっちりとそのボールを抱きとめていた。
「神谷ー!」
ドリブルで敵をかわして叫ぶと、敵コートの嘘のようにすっぽりと開いた部分にパスを出した。必ず神谷ならそのパスに追いつくと信じていた。神谷の長い両手はサイドラインギリギリでボールを掬い取り、腕だけでボールをコートに投げ入れる。勢いを殺しきれなかった体は宙に浮いたまま既にサイドラインを超えていた。
悲鳴のような歓声が上がった。投げ出されたボールに飛びついた矢ヶ崎が、いつものダイナミックなフォームでランニングシュートを決めた。終了間際、36-35。
慌てたように敵がエンドラインからボールを投げ入れた次の瞬間、試合の終了を示す笛が長く吹かれた。
信じられないと言うように相手チームはコートの上で立ち尽くしていた。
まだ、呆然とした表情のままの相手チームと礼をかわすと、鷹野はすぐにベンチの中屋のところへ飛んでいった。
「先輩!」
中屋は泣き笑いのような顔をして鷹野を迎えた。膝にはビニール袋に入れられた氷をしっかり当てている。
「最後の最後で逆転なんて、かっこいいことしやがって……」
微かに震えた語尾を隠すように、中屋は開いていた手で鷹野の頭を軽く叩いた。
「アホ。人を泣かすな」
周囲で数人が吹きだした。膝に負担がかからないようにマネージャーに抱えられるようにして中屋は立ち上がった。
「どうせ、すぐミーティングだろ。先に外に行っとくから」
痛みはあるだろうに、中屋の表情は明るかった。鷹野はベンチから自分のタオルと上着を取ると、その背中を追っていこうとした。
「おい!鷹野、あれ……」
叫ぶような神谷の声に振り返ると、指差された方を見上げた。
午後の明るい光が差し込む2階の観客席に、上気した頬を輝かせて、多佳子は居た。そして、二人が気付いたことを知ったのか、まっすぐに万歳をするように両手を上げてみせた。
「ごめん。ミーティングがあって遅くなって……」
最初に見つけた場所に多佳子は待っていた。ここまで斎藤の車で連れてきてもらったのだと言う。
「この前の試合は、ちょっと具合が悪くなって来れなくて。後で、試合に出てしかも勝ったって聞いて、すごく残念だったの。だから今日は無理言って連れてきてもらっちゃった」
頬はまだ上気している。明るい顔色に比べて、頬が少しこけたような気がした。
「具合が悪くなったって、大丈夫なの?」
多佳子は明るく頷いた。
「もうすぐ斎藤先生が迎えに来てくれるの。試合のこと話したら、絶対自分も見たかったって残念がるわ」
周囲の人間は、車椅子の多佳子とその脇に座って話すまだユニフォームを着替えてもいない鷹野と神谷の姿を遠巻きに見つめていた。興味と、いくらかの憐憫のこもった眼差し。鷹野は微かに胸の痛みを覚えながら、明るい多佳子の笑顔に必死で応えていた。
夕焼けの赤い色に染まった空を多佳子は見上げた。まだ、興奮が抜けない体はどこか熱っぽい。帰り道では斎藤に散々頬が赤いとからかわれた。
「羽根があるみたいだった……。地に足がついていないみたいに……」
目の前に繰り返し、走り、飛ぶ鷹野と神谷の姿が浮かんだ。
車椅子でもバスケットはできるんだよと、別れ際に鷹野は言った。今度は一緒にバスケットをしようと。
ゆっくりと視界がぼやけて、眦からゆっくりと涙が伝い落ちた。
「ありがとう……」
小さな呟きは誰にも聞きとがめられることなく、涙と一緒に布団の沁みの中に消えていった。
その日は晴れていた。くっきりと青い空に薄い雲が筋のように浮かんでいた。
中屋の膝は良くなるでもなく、悪くなるでもなく小康状態を保っていて、練習後のアイシングとマッサージは欠かせない。救急セットの中身の補充が増え、沖田から手ほどきを受けた一年の数名はテーピングの腕が上がった。練習ごとにがっちりとテーピングで固定しサポーターをつける部員の数も増えていった。
「これに勝てば準決勝。ベスト4進出だからな……」
矢ヶ崎は厳しい顔をしている。
「とりあえず目の前のこの試合。貰うぞ」
相手はやはり去年もベスト8までは残ったチーム、体格のいいセンターが脅威だ。
「でけぇよな」
神谷が小さく呟いた。
「とにかく、当たられたら確実に飛ばされるから、なるべく用心して。特に中屋と鷹野、絶対に逃げろよ。怪我をしちゃ元も子もない」
同じセンターの渡辺であってさえも当たり負けするかもしれない。巨体の癖にスピードも併せ持っていて、一番の曲者だ。アップのときも、かなりいい動きをしていた。
『Aコートで第四試合を始めます』
小さくアナウンスが流れて、両軍の選手にコート内に入るように指示される。足を引きずるようにして中屋はゆっくりとコートに向かった。
スタメンで出たい、走れなくなったらすぐに代えてもらっていいから。中屋はそう言った。そして、沖田はそんな中屋の背中を何も言わずに見つめている。
「鷹野、いつ交代してもいいように体は冷やさないようにしとけよ」
ベンチに座る鷹野の肩に沖田は上着をかけた。ゆっくりと試合の開始を告げる笛が響いた。
苦しい試合だった。前半で10点差だった試合は、後半12分を過ぎて点差が16点へと開いた。中屋は傍目で見て分かるほど足を引きずり、そのディフェンスの穴を埋めるために神谷にはファウルがかさんでいた。
「鷹野、出れるか?」
できれば最後まで中屋を走らせてやりたかったに違いない。だが、このままでは神谷がファイブファウルで退場になりかねない。
「出れます」
鷹野は短く答えた。体は熱いほどだ。
「交代をお願いします」
オフィシャルに伝えると、沖田は厳しい目をコートに向けた。
「市川、体を温めといて。ことによると神谷がファイブファウルになるかもしれない……」
市川は短く返事をすると、素直にベンチの傍らに行って、ストレッチを始めた。
ボールがサイドに出たのをきっかけに交代が告げられる。中屋は足を引きずりながら鷹野の前に立った。
「後は、頼む……」
鷹野は頷いた。残りあと7分。点差は16点。勝てるとは思わない。だが、負けると決めて試合などしたくはなかった。
ボールは相手ボール。腰を落としながら、鷹野は迫ってくる相手を睨みつけた。パス回しも、フェイクも巧い。点差の開きで余裕があるのか、ロングショットも恐れず打ってくる。守り難い相手だ。
不意に鷹野の目の前に巨体が立ちはだかった。次の瞬間胸に鈍痛が走った。
「すまん、大丈夫か?」
一瞬何が起こったか分からなかった。ディフェンスしようとして、相手のセンターの肘が当たり、吹っ飛んだのだ。派手に飛んだので、試合が止まってしまったらしい。
申し訳なさそうな顔が目の前にあった。審判はファウルではないと判断したようで、鷹野に体の具合を尋ね、大丈夫だと分かると、再び試合を進めた。
ただ、ぶつかっただけでこれだ。鷹野は唇を噛み締めた。
ゆっくりと焦らすようにパスを回していた相手は、不意に構えるとロングショットを放った。完全に軌跡がずれている。狙い済ましたように神谷がジャンプしたのが見えた。
「速攻!」
鷹野は走った。だが、完全に相手も速攻を読んでいる。
「1本!」
神谷が背後で叫んだのが聞こえた。鷹野は足を止め、すぐにボールを受け取りに行く。相手は完全に戻って、ディフェンスを固めていた。普通のゾーンディフェンスのはずなのに、高い壁がそびえているように見える。
「はい。1本!」
パスを回しながら、鷹野は神谷が足を引きずっているのに気がついた。顔には明らかに焦りが浮かんでいる。パスを受け取った神谷が一瞬大きく顔を上げゴールを見つめた。
――無理だ。神谷!
一瞬浮き上がったディフェンスを縫って、強引とも言えるカットインを神谷は行った。まるでその動きを待っていたかのように相手のセンターは神谷の前に立ちふさがった。
「神谷!」
ベンチで沖田が叫んでいた。
「ピッ」
笛が鳴って、審判の腕が上がった。
「チャージング!オフェンスファール、白8番。白8番、ファイブファール!退場!」
審判は神谷の退場を告げた。
呆然としたように神谷は一瞬立ち尽くした。そして、唇を噛み締めると、一礼してコートを去った。
「市川、すぐコートに入って」
市川は弾かれたようにコートに入ってきた。相手ボールになったために、急いでディフェンスに戻ると、ベンチの片隅で神谷がうずくまったのが見えた。
これを機に相手は思いっきり攻めてくるだろう。完全に試合の流れは相手にある。だったら、意地でも止めるしかないのだ。鷹野は思いっきり腰を落とした。試合終了まで後5分。
市川は完全に舞い上がっていた。矢ヶ崎の肩は悪化し、既に左右の肩を水平に保つことが出来ない。本庄のシュートも勢いがなくなり、手前で落ちることが多くなっていた。
ボールは相手ボール。目の前にはドリブルを打つ巨体。
鷹野は冷静に相手を見ていた。パスを出す動作をしながら、巨体はカットインしてきた。目の前に迫ってくる体に鷹野は腰を低くして体を張った。
誰かの叫び声がした。それが神谷のものだと気付いて、鷹野は振り向こうとした。
鷹野の目の前が一瞬暗くなった。叩きつけられる衝撃が体を襲い、一瞬後に痛みが走った。左肩で嫌な鈍い音がして、嫌に耳に響いた。
「鷹野!鷹野?」
耳鳴りがする。耳元で叫んでいるらしい神谷の声は妙に間延びして聞こえる。
「折れてる!担架を持ってきてくれ!」
――いやだ。試合はまだ終わっていないのに……。
担がれるようにしてコートの外に出され、沖田の青い顔が覗いた。
「鷹野、大丈夫か?」
「試合、終わって、ない……」
泣きそうな中屋の顔が崩れた。
「アホ。後は俺に任せて救護室に行け!」
――嫌だ。
鷹野は叫んだつもりだった。しかし、鞴のような荒い息が唇の隙間から漏れただけで、言葉にはならなかった。鷹野の視界はゆっくりと歪み、遠くで試合の再開と交代を告げる笛の音が聞こえた。
27-52。試合は完敗だった。
ボロボロになった体を引きずった部員たちは涙さえ出なかった。
最初に視界に入ったのは、白い天井と窓から見える明るい青空。そして、不意に柔らかな花の匂いがして、安心したような溜息が聞こえた。
「鷹野くん?」
多佳子だった。傍に心配そうにしている神谷と、安心したように笑った斎藤の姿も見えた。
「あ、れ?俺……」
すぐに思い出した。相手チームの選手に吹っ飛ばされ、腕を折ったのだ。
「試合は?」
神谷は俯いた。鷹野はそれ以上何も聞かず、ただ小さくそうかと呟いた。重苦しい沈黙が流れた。最初に耐えられないように口を開いたのは多佳子だった。
「何、男の子のくせにうじうじしてるのよ。来年があるんだから、来年見返せばいいじゃないのっ」
何も言い返せないまま、鷹野は怒ったように頬を染めている多佳子を見つめた。唇を噛み締めて、多佳子は泣いていた。
「ごめん……」
鷹野が小さく呟くと、多佳子は俯いた。
「来年、絶対、勝つから。もっと頑張って、絶対勝つから」
鷹野は慌てたように言った。だから、来年も応援に来てくれと。
多佳子は小さく首を振った。
「私、来週、転院するの。東京の病院に移るのよ……。それに、私……」
「え?」
多佳子は俯いたまま小さく首を振った。
「なんでもない……。東京に行ったら、バスケットも見れなくなるし、試合の応援だって……」
語尾が微かに震えた。どうして多佳子が泣いているのか分からずに、鷹野は困ったように微笑んだ。
「総体の全国大会、来年は東京かもしれない……」
呟くように神谷が言った。
「いつも、3年に一度は東京で開かれているんだ。その順番からいけば、来年は東京かもしれない……」
鷹野は笑った。そして、多佳子の顔を優しく覗き込んだ。
――もしも、もしも全国大会が東京で、全国大会まで勝ち残ったら、応援に来てくれる?
多佳子は一瞬戸惑ったように笑って、首を傾げた。そして、頬を濡らしたまま笑みを作ると、小さく頷いた。
「待ってる……」
綺麗な笑顔だった。
一週間後、多佳子は東京へ発ち、鷹野は腕の治療に専念することになった。
ギブスが取れたのは1ヵ月後で、体力の回復とリハビリには2ヶ月以上の時間がかかった。ようやく、試合形式の練習にも参加できるようになって鷹野が最初にしたことは、神谷と公園で1
on 1をすることだった。
まだ、左手でのドリブルには不安が残っていた。鷹野は確かめるように何度もドリブルを繰り返すと、目の前にそびえている神谷を見上げた。
「病み上がりなんだからさ、ちっとは加減しろよ……」
神谷はにやりと笑って見せて、長い腕を伸ばした。
「そんなこと言ってるといつまでも回復しませんよ。タカノくん」
ボールを弾かれて、鷹野は不満げな声をあげた。
「リハビリ兼ねてんだぞ、このドリブル。邪魔すんなよ!」
ボールは草むらの方に跳ねていく。空は晴れていた。鷹野は不意に多佳子と初めて出合った時の事を思い出した。あの日もこんな風に晴れていて、草陰から不意に現れたのだ。
鷹野は思わずボールの行く先を見つめた。今日もまた、空を見上げているのだろうか。
そのとき、神谷が鷹野を突付いた。
「鷹野、あれ、斎藤さんじゃない?」
細い影が二人の姿を見つけて、小走りに近づいてきた。確かに、その姿は斎藤のものだ。
「斎藤さん、お久しぶりです……」
斎藤は息を切らして二人の前に立つと、口を開きかけて、不意に押し黙った。
「どうかしたんですか?」
斎藤は黙ってポケットから手紙を出すと鷹野に差し出した。への字に噛み締めた唇が震えていた。
「俺にですか?」
封筒の裏には見慣れない名前が達筆な字で書かれている。
「森川さんのお母さんからだよ……」
嫌な予感がした。
用心深く手紙を開けると、中からキーホルダーが二つ、転がり落ちてきた。銀色の小さな月のモチーフのついたキーホルダーだ。
「森川さんのお母さん?」
鷹野は震える手で手紙を開いた。そして、絶句した。
鷹野真尋様、神谷悠一様
突然のお手紙、さぞびっくりなさったことと思います。お二人のご住所がわかりませんでしたので、ご迷惑かと思いましたが、斎藤先生を経由して届けていただけるように致しました。
お二人に、どうしてもお礼が言いたかったのです。そして、もしもご迷惑でないならば、多佳子のことをお話して、時には思い出していただきたかったのです。
10月17日、晴天の中、多佳子は逝きました。手術のために私と二人で東京に引っ越しましてから、ちょうど3ヶ月になる朝でした。
多佳子は骨肉腫という、骨の悪性腫瘍――癌のようなものなのですが――を長い間患っておりました。
多佳子が発病したのは、小学校の終わり。中学2年のときに、左足を切断しました。その後は体に微細に散っているかもしれない転移巣を治療するために、病院で点滴を繰り返しました。
切断後、多佳子は外に行くことを拒みました。私にもその気持ちは痛いほどよく分かりました。できるなら自分が代わってやりたいと、何度思ったことでしょうか。病院の皆様の温かい心遣いが、いつしか多佳子の心を溶かし、多佳子が作られた義足を使って病院内を歩くようになったのは、ほんの一年前のことです。
今年の春、不意に多佳子は外に出て練習がしたいと言い出しました。私や先生方は心配もありましたが、斎藤先生が連れて行ってくださいました。その時です、多佳子が初めてお二方に出会ったのは。
それ以降、多佳子の話す話のほとんどはお二方のことになりました。どんな風に走るのだとか、どんな風にゴールを決めるのだとか、バスケットをよく知らない私には難しいことも多かったのですが、それでも多佳子は頬を上気させ、瞳をキラキラさせながら夢中で話していました。
大きな転移巣が見つかり、東京の病院で手術を受けることが決まったときも、多佳子は以前のように嫌がりませんでした。逆に、必ず病気を治して車椅子でバスケットをやるのだと、そう言って笑いました。既にそのとき、治癒の可能性は10%を切っているということを、多佳子も知っていたにもかかわらず。
7月、東京に引っ越してから、多佳子は手術の前にキーホルダーを買いました。同じ物を3つも買うので理由を聞きましたら、こう答えました。
全国大会に来たお二人が、もしもすぐに負けてしまっても、優勝トロフィーに代わってこれをあげるのだと。
手術は成功しました。しかし、既に転移は全身を侵していました。
永眠する3日前、昏睡状態から一時的に回復した多佳子は、窓から空を見上げながら、小さなかすれた声で私に語り掛けました。
イカロスはね、空から落ちてしまうけれども、もしも再び空を見上げることがあったら、また、飛び上がろうとするに違いないのよ。私の大事なイカロス達も落ちても落ちても、踝の羽根で飛び上がるのよ。
多佳子は笑っていました。目前に迫った自分の死を知らなかったわけはないのに、それでも多佳子は笑っていたのです。
多佳子に病気と戦う力をくださったお二人にはどんな感謝の言葉を差し上げても足りないくらいです。
多佳子が買ったキーホルダーを同封させていただきました。どうか多佳子のことを、時には思い出してやってください。そして、多佳子の代わりに青空の下を走り、飛んでいただきたいと切に思います。
突然の長い手紙を読んでくださいまして、ありがとうございます。
お二方のご健康を心からお祈りしております。
森川佳寿子
手紙には一枚の写真がはめ込まれていた。病の重さを示すように痩せた多佳子は、それでも明るい笑顔で笑っていた。
声が出なかった。
不意に別れ際の多佳子の顔が思い浮かんだ。
約束を取り交わし、一瞬戸惑ったように笑って、それでも彼女は優しく微笑んだ。そしてはっきりと言ったのだ。待っていると。
鷹野は空を見上げた。雲の稜線が滲んで、高く澄んだ青は目に痛かった。
―― 一年、か……。
鷹野は小さく呟いた。
彼女が笑ったまま投げるボールの軌跡を見つめているから、躍起になってゴールを狙った。
いつも、さようならを言うとき、彼女はちょっと首をかしげた。微かに上がった語尾が何かを尋ねているようで、それになんと答えていいのかいつも分からなくて、いつもただ、またね、と言った。
彼女は笑って手を振る。夕日に透けた体の線は細く、ゆっくりと去っていくその細い背中をいつもただ見送っていた。
鷹野はゴソゴソとポケットを探った。小さく丸い塊が手に触れると安心したように小さく溜息をついた。
――また、二人のバスケットを見に来るね……。
守られる事のなかった約束を、嘘つきだと責めることができたら、是が非でも約束を守りに来いと大声で怒鳴ってやれたらきっと楽なのだろう。そして深く後悔するのだ。
ゆっくりと鷹野は握った手をポケットから出した。小さな金属音がして、キラキラとその塊が太陽を反射した。小さな月のモチーフの付いたキーホルダー。家の鍵と部室の鍵と、自転車の鍵をつけて、残りの場所は一つ。
でも、ここには鍵は付けないと決めた。
「勝つから。絶対、全国大会行くから……」
小さく呟いて、鷹野はぎゅっとキーホルダーを握り締めた。窓の向こうで、桜の花弁が突然の風に、雨のように音もなく地面に降り注いだ。
「ごめん、鷹野。担任につかまってた」
ガラリと大きな音を立てて部室の扉を開けた主は、慌てたように鷹野の傍に走ってくる。手に握っているのはこれからはじめようと考えている練習のメニューと、新しく作った速攻の型をメモした紙だ。
「いや、俺もついさっき来たとこ」
慌てて机の上に紙を広げどさりと床に荷物を放り出した神谷に、手近にあった椅子を用意すると、鷹野は広げられた紙に目を走らせた。
「ふうん、ゾーンディフェンスに対する練習を増やしたのか。あ、しかも全体での練習メニュー以外に個人用の練習メニューまで作ったの?」
神谷は昨年の秋にキャプテンとしての仕事を引き継いで以来、精力的に練習メニューを見直していた。今まで顧問だった体育教師が去ったため、神谷の中学時代のコーチに頼んで新コーチを紹介してもらったが、そのコーチは自主性を重んじるタイプで、的確なアドバイスと指導は怠らないが練習自体に無理強いをすることはあまりなかった。
部長としての雑用的な仕事はマネージャーがやっていた。珍しいことだとは思うが、実際、試合の際の事務処理などを行うことの多いマネージャーのほうが何かと雑用の多い部長の仕事には向いていて、その分神谷はキャプテンとして練習に打ち込むことができている。
鷹野はポジションが試合を組み立てるリードマンであり、しかも引継ぎの時期に左腕を骨折して練習ができなかったため神谷のサポートにまわることが多く、その腐れ縁で今でもこうして神谷との共同作業をする羽目になっていた。
「今度の大会、ベスト8に残るだろうと予想されている学校のうち6校がゾーンディフェンスなんだ。うちは今までマンツーマンでのディフェンスがメインだったから不慣れだし。マンツーとゾーンじゃ攻め方も違ってくるからな」
春の合宿から徐々に慣らしていこうかなと思って、と、小さく溜息をつきながら言うと、神谷はペンを握った。
「で、個人練習のほうなんだけど、ポジション重視でメニューを組んでみたんだけど、どうかな」
個人メニューの書かれた紙には何本かの線が引かれ、それぞれにポジション名とそのポジションを担う部員の名前、そして練習メニューが書かれている。もちろん、各ポジションの一番上には今現在スターティングメンバーとなっている5人の名前がある。
どうしても自分のポジションに最初に目が行ってしまい、鷹野はリードマンと書かれた部分を見て、思わず溜息をついた。
「ロングショット一日100本って、神谷、本気?」
神谷はペン先でメニューの紙の中ほどを突付いた。
「これ見てもそういう台詞が言えるかな」
スモールフォワードと書かれたそこには神谷自身の名前があり、ロングショット・ミドルショット各100本、カットイン練習50回とある。
「試合が近づくにつれ、チーム練習のためにショットの練習ができなくなるからね、早いうちからやっておいてもらおうと思って。贅沢言えば、成功率も毎日付けてもらいたいくらいだけど」
なるほど、パワーフォワードの練習はリバウンドの練習がメインで、シューターはショットが中心、そしてセンターにはリバウンドとともにゴール下からのショットの練習がメインになっている。確かに腕が上がれば、直接得点に結びつく練習だろうと思い、鷹野は頷いた。
「まぁ、量に関してはやってみながら変更していったら?合宿の前半はいいだろうけど、後半には紅白戦とか練習試合とかそういうのも入ってくるだろうから」
明日、4月1日から10日間の合宿が始まる。合宿といっても学校の体育館でやるのだが、早朝7時からのロードワークに始まり、夜7時までの体育館での練習は過酷で、家に帰れば味もわからずに夕食をかきこんで風呂に入って寝るという生活が続く。他のことに気を配る余裕もなく、バスケット漬けの毎日となるのだ。
前日である今日は、神谷と鷹野の二人で練習のスケジュールの確認と体育館の装備の確認を行う。合宿中の昼食の内容などはマネージャーが準備しているはずだ。
いつまでも返事をしない神谷を訝しく思い、鷹野はメニュー表から顔を上げた。視線の先で神谷は、ペンの尻を噛んだままぼんやりと窓の外を見つめて動きを止めてしまっていた。
「神谷?」
ちらちらと音もなく降ってくる桜の花びらに神谷が何を見ているのか、鷹野には分かるような気がした。
「今年は暖かいな……」
神谷は窓の向こうの空をみつめたまま小さくそう呟いて、また溜息をついた。
――去年とは、違って……。
神谷が口には出さなかった言葉が、鷹野には聞こえたような気がして、何も応えないまま、散る花の向こうの青空を見上げた。
くっきりとした青い背景にぽつりと、小さな白い月が掛かっていた。