『空からの眺め』 [ 2 ]
白く強張った顔が伏せられて、長い睫毛が濃く頬に影を落とした。みつあみの先端が震えるように揺れて、謝罪の言葉も全てが上滑りした。なんでもないからと言って、夕回診を理由に逃げるように去っていった細い背中が、激しく自分を拒絶しているように思えた。
不自然に曲がったつま先。膝で鳴った金属音。悲しそうな、目……。
――どうして。
奇妙な沈黙の後に、神谷に半ば引きずられるようにして家路についた。モノクロに変わっていく視界が歪みそうになるのを必死で耐えていた。それから何をしたのかは覚えていない。連休中、数回の部活があったけれども、何をしているのか、あまり正確には覚えていなかった。けれど、食べて寝て、机にも向かい、クラスメイトと笑いさえしていた。感覚の全ては不自然な分厚い皮に包まれてのことではあったけれども。
規則的に鳴る笛の音を聞き分けて、鷹野は自動的に走り出した。実感のない浮遊感の中でギュと靴底が鳴って体を捻ると、真横に神谷の体があった。風を切る音。近づいてくる壁。ゴールである壁に体を打ち付けそうになりながら、鷹野は走ってきたその手で壁を殴った。
「鷹野……」
心配そうに覗き込む顔。小さく笑ってなんでもないよと言っておいて、鷹野は空を見上げた。そこには晴れた青空も白い雲もなく、ただ、人工的な照明をいくつも内包した分厚い板があるだけだった。
「チーム分け。3年Aに市川入って、Bに神谷と鷹野。5対5でBがディフェンスで練習始めるよ。それ以外はいつものように残りのハーフコート使って一年の教育」
指示されると機械のように体は動く。ゾーンディフェンスの位置まで歩くと、鷹野はゆっくりと腰を落とした。
「1本始め!」
ゴールを取り囲むように攻撃の輪が作られて目の前をパスが飛んでいく。可能ならばその間を飛ぶパスをカットすることを、少なくともシュートを打たせないことを目的に自分が守るべき相手に喰らいつく。
目の前の人物に渡ったボールが胸の前でぴたりと止められて、その足がロングショットの間合いを計るように小さく前に出された。鷹野は大きく前に前進して、伸び上がったその体が打ち出すシュートの軌跡を阻むために飛んだ。次の瞬間、体の横をすり抜けていくドリブルの音に、愕然とした。
いつもなら、けして引っかかるはずのないフェイク。遠くで、ボールがネットを揺らす音がした。
「鷹野!お前、何やってんだよ。そんな簡単に抜かれるんじゃ、オフェンスもディフェンスも練習にならないだろう!」
珍しいくらいに怒気を含んだキャプテンの怒鳴り声に、一瞬、体育館中が沈黙した。
「すいません……」
目の前にちらつく白い背中を必死で意識の底に追いやりながら、鷹野は再び腰を落とした。
「はい!も1本!」
間延びしたように、時間は長く感じられた。必死でボールを追いながら、鷹野は重く大地に縛り付けられている体の重さを感じていた。
ようやく与えられた休憩時間に、神谷は鷹野の姿を探した。片隅の壁に崩れるように寄りかかって座っている姿を見つけると、小さく溜息をついた。
多佳子のことを気にしているのは、分かる。同じ場所にいた自分でさえも、度々意識の上にあの強張った白い顔が思い出されるのだ。ましてや実際にボールをぶつけてしまった鷹野が、気にしていないはずはない。
体を鷹野の横に滑り込ませると、神谷は、そっとその顔を覗き込んだ。
「鷹野……、大丈夫?」
大丈夫なわけはないのに、鷹野は微笑みさえ浮かべて小さく頷く。それが鷹野の持つ強さだということは分かっていても、痛々しい。
きっと何を言っても無駄なのだと、神谷は次の言葉を飲み込んだ。ぼんやりと並んで壁の冷たさを感じながら、神谷は別れ際の多佳子の顔を思いだした。
その表情には覚えがあった。今でもちくちくと胸を責めるその表情は、数年前、妹が見せたものだ。
神谷がまだ小学校に上がる前、神谷は無理をして運んだヤカンを誤って妹の腕に当ててしまった。今でもそのときの大きな悲鳴と泣き声を思い出すことができる。両親はけして神谷を責めなかったが、妹の腕に残された大きな傷を見るたびに幼い胸は痛んだ。次第に成長していった妹は半袖を着なくなり、夏でもしっかりと袖口の止められた白いシャツを見るたびに、神谷は自分が幼い頃に犯した失敗を思い出しつづけた。
それでも、ただそれだけならば、こんなにも遣る瀬無い気持ちにはならなかったに違いない。
中学の時、よく家に遊びに来ていた友人の一人に、妹は淡い憧れを抱いているようだった。兄として、そして友人として、それは喜ばしいことだと、そう思いたくて、神谷は夏祭りに皆で行くことを計画した。友人と友人の兄弟と、そしてもちろん妹も呼んで。
妹は浴衣を着ていた。紺地に淡い水色の紫陽花の模様は妹の白い肌に映えて、赤い下駄の鼻緒も可愛かった。
風で捲れあがった浴衣の袖。屋台のオレンジの光に照らされた傷口を見つめて動きを止めてしまった妹と友人。その強張った白い顔。そこに居た誰もが気付かなかった振りをした。妹も健気にも笑ってさえいた。
しかし、その夜、妹の部屋から小さな嗚咽が漏れていたことを神谷は知っている。切れ切れに漏れてくるその嗚咽を聞きながら、神谷はじっと布団の上で膝を抱えていた。翌朝、泣きはらしたその顔を見る前に学校へ行った。
お兄ちゃんのせいだと責めてくれれば、楽に違いないのだ。どんなに謝っても謝っても、それでは足りない気がする。妹が友人に自分のバスケのことを自慢していると聞いて、神谷はただバスケットに打ち込んだ。夏の暑い体育館の中で、試合の応援で手を振る白い長袖はいつも、簡単に目に入った。上気した顔が、ゴールを決めるたびに輝いた。
「神谷……、俺……」
小さな鷹野の呟きが聞こえた。問い掛けるように顔を覗き込むと、しばらく沈黙した後、鷹野は不意に小さく笑った。
「なんでもない……。ストレッチやるから、体、押してくれる?」
壁際で柔軟を繰り返す背中を押すと、薄い筋肉の下の肋骨の感触が直に掌に伝わった。強く押すと崩れてしまうそうな危機感に苛まれて、神谷は思わず力を抜いた。
「休憩終わり!今度はデイフェンスとオフェンス交代して」
並んで駆け出しながら、神谷は自分より僅かに先を走る鷹野を見つめた。こんなにも自分との体格差を意識したことはなかった。
バスケットに対する鷹野の意地、スピードに対する鷹野の意地、中学時代にやっていた陸上から転向した訳、そんなものが急に分かったような気がして、神谷は唇を歪めた。
部活が終わり、汗に濡れたシャツを脱ぎ捨ててタオルで髪を拭いていると、突然、背後から声をかけられた。
「鷹野、ちょっと時間いい?」
「先輩?、はい、いいですけど」
マネージャーのリーダーである、3年の沖田だ。去年までは選手だったが、椎間板ヘルニアを患ったことでこの春からマネージャーに転向になった。練習内容の把握や面倒見の良さはマネージャーの中でもずば抜けていて、今やキャプテンの大事な右腕となっている。
慌てて着替えのシャツに袖を通した鷹野を促して、沖田は明かりの消えた体育館の前まで来ると、躊躇うように口を開いた。
「鷹野さ、何かあった?今日、変だったよ」
振り返ると、鷹野の戸惑ったような顔があった。
「別に、打ち明け話をしろなんて言わないけど。このまま、ぼぅっとして練習してると、怪我するよ。少なくとも、体を動かしている間は考えるの止めとけよ」
俯いた影が細くて、沖田は一瞬言葉に詰まった。
「膝。練習の最後の方、膝をかばってただろ。病院、行っとけよ。つまんないよ、怪我でバスケ出来ないのって。去年、膝を痛めたとき、身に沁みたろ?」
いっそう俯いてしまった鷹野が、小さく頷くのが見えた。
「すみません。気をつけます……」
風邪をひくなと注意しておいて、去っていく鷹野の背中を見送ると、沖田は小さく溜息をついた。
いつもとは違う方向へ足を進めながら、鷹野はぼんやりと空を見上げた。低く垂れこめた雲に覆われた空は重く、今にも泣き出しそうな天気だ。
今朝、学校へ行く前に病院に寄って、診察券は出しておいた。窓口の看護婦に学校の終わる時間を告げておいたから、行けばすぐ診察してもらえるはずだ。どの運動部でも故障をすればその病院にかかるので、学校名を言いさえすれば多少の無理はきく。医療関係者の中にも高校のOBがいて、たまに教師の話で盛り上がることもあった。
膝はまだ、痛むという感じではなかったが、かすかな違和感が生じはじめていた。
病院の門をくぐると小さな噴水があって、大きな時計が立てられている。もうじき四時半を指そうとしているその針を見て、鷹野は少し足を速めた。まっすぐに整形外科の外来窓口に行くと、中を覗き込む。
「すいません。今朝、診察券だけ出しておいた東上学園の鷹野ですけど。遅くなってすいません」
忙しく書類の整理をしていた看護婦の一人が、気が付いて窓口まで出てきた。
「鷹野さん?今、先生をお呼びしますから、問診表に記入して診察室に入っていてくれますか?」
紙と鉛筆を受け取って診察室の扉を開けると、リュックを傍らに置いてゆっくりと空欄を埋め始めた。午後の外来は人が少なく、遠くで見舞いに来たらしい人々のざわめきが聞こえる。薄く流れる消毒液の匂いと、どこか機械的な呼び出しの声。鷹野は鉛筆を動かす手を止めて、ぼんやりと視線を宙に浮かせた。
多佳子はここに入院しているはずだ。会話の中でポロリと漏らした感じでは、整形外科に入院しているのだろう。なぜ、急に帰ってしまったのか、理由を知りたいと思った。
「ごめん、ごめん。今日はなんだい?膝かい?」
以前も診察を受けたことのある恰幅のいい医師が診察室の扉を開くなり声をかけてきた。
「はい。練習中にちょっと違和感があったので、先輩に病院に行くように勧められて……」
ドサリと大きな体を椅子に預けると、医師はしげしげと鷹野の書いた問診表を覗き込んだ。
「ふん。前痛めたとこか。とりあえず、診てみようか。ベッドに乗って、ズボンまくって」
言われたとおりにベッドに座ると、医師は鷹野の膝を両手で包んだ。
「練習、きついのか?ちゃんとマッサージしてるだろうなぁ?無理はするなよ」
筋肉の走行を確かめるように指先で診察すると、幾度か膝の曲げ伸ばしをさせた。
「ま、今のところは大丈夫だけど、あんまり無理はできないな。サポーターつけて、マッサージを忘れないこと。痛めたときのために消炎剤を出しといてやるけど、できるだけ病院に来なさい。膝は大事だぞ」
処方箋を発行して机の上に置かれていたカルテに何事か記入すると、医師は帰り支度をしている鷹野に声をかけた。
「あ、そうだ。沖田くんに伝言頼めるかい?新しいコルセットが出来たから、診察ついでに取りに来るようにって言っておいてくれないか?」
「コルセット?」
聞きなれない言葉に鷹野は首をかしげた。
「腰を保護するために腹に巻いとくんだよ。これから暑くなるからね、コルセットも少し薄めのと交換するんだ」
「あ、はい。伝えときます」
リュックを背負って、鷹野は扉を開けた。そして振り返ると、躊躇いがちに口を開いた。
――森川多佳子さんって整形外科に入院していますよね?
尋ねるのは簡単なことのはずだった。けれど、意に反して、口はまったく動こうとしなかった。
「あの……」
「ん?」
忙しくカルテにペンを走らせながら、医師はちらりと鷹野を眺めた。
「いえ……。あ……。ありがとうごさいました……」
部屋を出て扉を閉めると、奥から医師の間延びした声が聞こえた。
「おだいじに。無理するなよ」
鷹野は溜息をついて、手に握った処方箋の紙を見つめた。そして、振切るように薬の受け取り口に向かって歩き始めた。
薬の窓口は思いのほか込んでいた。待ち時間30分と書かれた表示を見て、思わずまた溜息をつくと、手近にあった椅子に腰掛ける。こんなときに限って暇つぶしの本を持ってきていない。しかたなく、鷹野は正面に置かれた大きなTVのニュースに目を向けた。
最近はあまりいいニュースを聞かない。ちょっと前までは桜情報と題して各地の桜便りが聞かれていたが、桜も散り、ニュースとして取り上げられるのはすっきりしない事件や経済の話ばかりだ。
生暖かい空気の中でゆっくりと襲い掛かってきた睡魔に、鷹野は目を閉じた。椅子の横にあった大きな柱に寄りかかると、冷えた感触が気持ちいい。少しまどろみかけたそのときだった。
「鷹野くん?鷹野くんじゃない?」
優しげな明るい声には覚えがあった。目を開けると、思った通り白衣を着た斎藤の姿があった。
「どうしたの、どっか故障したの?」
白衣を着ていると、やはり医学を志している人として見えるところがおかしい。手元にいくつかの本を抱えて、ネクタイまで締めている。
「いえ、用心ために。どうしたんですか?ネクタイなんて」
斎藤は鷹野の隣に座ると、照れくさそうに頭を掻いた。
「やっぱり、似合わない?いや、ほら。中身が半人前だからさ、格好くらいはちゃんとしろって、ドクターからいつも言われるんだ。ネクタイ締めろ、革靴を履け、ひげは剃れってね」
高校なんかよりずっと服装規定は厳しいんだよと笑って、斎藤は鷹野の顔を覗き込んだ。
斎藤なら、分かるのだろうか。多佳子の不機嫌の理由も。
「斎藤さん、あのね。聞きたいことっていうか、知りたいことがあるんだけど、いいかな」
何でも聞いてと言うように、斎藤は微笑んだまま鷹野を見つめている。
「先週ね、森川さんがまたあの公園に来たんだけど……」
鷹野は掻い摘んで事情を説明した。膝にボールが当たったくだりになると、かすかに斎藤の顔が曇った。
「そっか。だから、鷹野くんは気にしてるのか……」
斎藤は躊躇うように何度も唇をなめた。迷っているような様子が、鷹野の不安をつのらせる。
「理由が分かればすっきりするし、謝罪もするし。でも、理由がわからなくて……、俺……」
斎藤はしばらく考え込むと、ゆっくりと口を開いた。
「鷹野くんのせじゃないと思うよ。というよりも、誰のせいでもないと思うよ。森川さん、ほら、車椅子で、走れないし、鷹野くんたちのように飛べないし、だから、ボールを受け止められなかったことが、切なかったんじゃないかな。僕の憶測でしかないけどね……」
黙ってしまった鷹野をちらりと眺めて、斎藤は言葉を続けた。
「昨日、久しぶりに森川さんのお見舞いに行ったら、彼女、笑ってたよ。一生懸命、バスケットの話をしてさ。そんなことがあったなんて一言も言ってなかった。凄い、凄いって、そればっかり。足に羽根でも生えてるみたいだったって、笑ってたよ」
気にすることないよと、そう言って、斎藤は笑った。そして、不意にまじめな顔になった。
「彼女も、まだ高校生なのに……」
「え?」
切実な響きに鷹野は思わず問い掛けた。斎藤は、はっとしたように口をつぐむと、取り繕うように笑った。
「彼女、小学校以来、入退院の繰り返しでちゃんと学校に通えていないんだ。もちろん、病院の中にも小さな学校みたいなものはあるけど、同じ学年の友達なんて居ないからね」
そして、時計を眺めて、慌てて席を立った。
「いけね、病棟で準備しなくちゃ……。じゃぁ、気をつけてね」
お見舞いに行くならと言って、斎藤は手持ちのメモ帳に病棟の場所と部屋の番号を書いた。そして、それを鷹野に手渡すとまた、優しげに笑った。
「バスケットを見れて、彼女、本当に嬉しそうだったよ」
小走りで走っていく斎藤の背中を見送って、鷹野はまた小さく溜息をついた。そして手に握らされた紙に目を向けた。
――5階西病棟の548号室。
どうしようかと、鷹野は首をかしげた。多佳子の上気した笑顔と強張った白い顔が目の前に交互に現れては消えた。
ピンポーンと機械音が鳴って、目の前の掲示板に自分の処方箋番号が表示された。窓口に進むと、薬の袋と会計の紙が手渡される。会計へと進みながら、まだ鷹野は決めかねていた。料金を払って、領収書を受け取り、鷹野は数歩歩いて立ち止まった。
――5階西病棟の548号室。
意を決したように鷹野は病院玄関とは逆方向へ歩き始めた。長い外来の待合所を抜けると食堂や売店があって、その奥に病棟へ上がるエレベーターがある。上へ上がるボタンを押すと、ちょうど着いていた無人のエレベーターの扉が開いた。乗り込んで、5階のボタンを押した。ゆっくりと上昇を始めたエレベーターの壁に寄りかかりながら、鷹野は大きく息を吸い込んだ。まだ手に持っていた薬をリュックにしまいながら、鷹野は次第に上の階に移動していく回数表示を睨みつけた。
迷うかと思ったが、意外と早く部屋を見つけることが出来た。事故での骨折などの患者が多いせいか、病院らしくない明るい雰囲気に包まれて、車椅子で元気に廊下を走っている若者さえ居た。
部屋番号を確認して、その下のネームプレートにちゃんと多佳子の名が書かれているのを確認すると、鷹野は扉を遠慮がちにノックした。
「はい。どうぞ」
聞き覚えのない女性の声がした。
「すいません。森川多佳子さんの病室ですか?」
扉を開けると、そこは二人部屋になっていて、入り口の方のベッドに座っていた女性が、小さく笑った。
「ええ、多佳子ちゃんのベッドは奥よ」
奥のカーテンの隙間から、驚いたような多佳子の顔が覗いた。
「鷹野くん?どうしたの?どうして知っているの?」
カーテンを開けて勧められた椅子に座ると、鷹野は多佳子の笑顔を見てほっとしたように笑った。
「今日、病院に診察に来たんだ。前に痛めた膝が心配で。そしたら下で斎藤さんに会って……。迷惑かなと思ったんだけど、せっかく来たし顔でも見て帰ろうかなと思って」
そのとき初めて、鷹野は見舞いのための花を用意していないことに気が付いた。
「ごめん、俺、気が利かなくて。花とか買ってくるの忘れた……」
きょとんとしていた多佳子は不意にそれを聞いて吹きだした。
「やだ。そんなこと気にしないでよ。わざわざ会いに来てくれただけで嬉しいのに」
つられて笑いながら鷹野は車椅子の上に無造作に置いてある物を目に留めて一瞬言葉を失った。
見覚えのあるつま先。足の形を模したそれは、膝から上が無かった。
それに気がついたのだろう、多佳子は不意に笑うのを止め、俯いた。
「わかちゃった?私、義足なの。歩く練習をしていたのは、そのせいなの」
ボールが当たって義足がずれたとき、そのことを笑って話すことが出来ずに、逃げるようにその場を去ったのだと、多佳子は俯いたままそう語った。
「……良かった」
「え?」
多佳子は思いもかけない言葉を聞いて顔を上げた。
「俺、気にしてたんだ。怪我とかしているところに当てちゃったんじゃないかと思って。悪くしちゃったんじゃないかと思って、凄く気になってた。でも、怪我を悪くしたわけじゃないって分かって、良かった」
不意に多佳子の目から涙が落ちた。
「え、あ……。ごめん。俺、なんか、気に障ること……」
大きく首を振って、多佳子は精一杯笑った。
「違う。隠していたこと、馬鹿らしくなちゃって。大抵の人が、足がないこと興味津々っていう感じで見るし、だからそういう風に思われたくなくて隠してたんだけど、なんか、今の言葉聞いて、馬鹿なことしたなって思っちゃって……」
細い多佳子の体は、動くことが出来ないせいだ。白いその肌も、外に出ることがままならないせいだ。踝まで包むスカートに似合わない運動靴も、全部、体の一部が欠けてしまったそのことから来るものだったのだ。
気にならないと言えば嘘になる。もしも、多佳子がまったく知らない人間だったとしたら、興味と憐憫の目で彼女を見なかったかどうかなんて、そんなことは分からない。けれど、そんなことはいつのまにか自分の中で超えてしまっていた。そんなことよりも、多佳子が自分に対して不快な感情を覚えていないことの方がずっと大事で、ずっと意味のあることだった。
「また、バスケ、見に来てよ」
鷹野はこれからの試合のことや練習のことを話しつづけた。一応、補欠に入っていることや、総体に向けた試合の日程、そんなことを話して、強引に試合の応援の約束を取り付けた。
「まだ、出れるかどうかなんて分からないけど、俺、絶対、頑張るから」
多佳子は何度も頷いた。上気して紅を差したように見える頬に、夕日が落ちていた。5月に入って、気付かぬうちに日は長くなっている。外の明るさに騙されてすっかり時間を忘れてしまっていた。
「じゃ、俺、帰る。なんだか、長居してごめん」
鷹野は慌てて立ち上がると、多佳子はベッドの上から手を振った。鷹野は何度も振り返ってそれに応えた。やがて足音が遠ざかると、不意に隣のカーテンが開いた。
「多佳子ちゃん、今のが話してくれた男の子?」
多佳子はまだ頬を上気させたまま、不意に気が付いたように顔を覆った。
「やだ、早川さん、居たの?」
指の隙間から紅く染まった頬が覗いている。
「居たのって、ひどいわ多佳子ちゃん」
口ではそんなことを言いながら、多佳子を見つめる早川の視線は優しい。
「いい人だね……」
思い出すようにそう言った早川に多佳子は小さく頷いた。ゆっくりと紅さを増す夕日が長く多佳子の体に落ちていた。
体育館の中は既に夏の暑さだった。今日の外気温は軽く25℃を超えている。ほこりが入らないように窓を締め切った体育館の中は天井から熱される熱でまだ練習前だというのに既に30℃を超えていた。
「集合!」
珍しくダッシュが終わった後にキャプテンが部員を集めた。
「予選の日程が分かった。昨日、くじを引いて、対戦校と会場も分かってる。今からトーナメント表のコピーを配るので目を通しておいてくれ」
マネージャーから一部ずつ手渡されるとすぐ、自分たちの学校を探した。かなり下の方に名前がある。思った通りシード校は4校、順調に行けば2試合目でシード校と対戦することになる。
「この、シードの第一高校って、去年3位?」
決勝では見たことのない名前だったように思って鷹野は神谷に尋ねた。
「いや、4位。でも、運がいいとは思えないぜ。超高校級の選手はいないけど、ガチガチのチームプレーが十八番だから。逆に去年2位の学校の方が、ワンマンチームだった分、今年はやりやすいはずなんだ」
しかも、1試合目で十分に相手には偵察されるに違いない。
「1試合目は土曜の午後、B会場の第二試合。勝てば2試合目、次の週の土曜、A会場第二試合。それに勝てば準決勝、その次の日曜、A会場の第四試合」
ここでキャプテンは言葉を切った。
「去年はベスト8だった。今年は絶対、その上を狙う」
去年、入部したての試合では何をしていいかも分からず、ただただ応援席で声を張り上げていた。次第に疲労の色が濃くなり、足が止まってくる先輩陣にかけることのできる言葉は『ファイト』という掛け声しかなくなっていった。
「スタメンを発表する。センターは渡辺。パワーフォワードは俺、矢ヶ崎。スモールフォワードは、神谷。ガードは本庄。リードマンは中屋……」
神谷の名前が出たとたんに沈黙が流れた。予想されていたことだったが、それでも、この試合が最後に試合になりかねない3年にとって、スタメンに入れないということは少し酷だ。
「選手登録は現在チーム練習をしている10人でいく。各自、自分のポジションの練習は怠らないように。以上」
いつものように5対5のチーム練が始まったが、今日からはスタメン対ベンチ組という図式になる。できるだけスタメンの間でのゲーム作りをスムーズにするためであると同時に、いつ何時ベンチの人間が代わりに入ることになっても、あらかじめ自分のポジションの人間の動きの癖を掴んでおけばゲームの中に入っていくことが容易だからだ。
「鷹野、しっかり中屋の動きを掴んどけよ。最初は猿真似でいい。誰だって真似から入るんだから」
背後から沖田の声が飛んだ。
「はい!」
深く腰を沈めて、鷹野はそっと膝につけたサポーターに触れた。しっかりと関節を保護するそれは多少大げさに見えなくもないが、徐々に強くなってきていた違和感はない。
「1本、ファイト!」
ゴールを取り囲むように攻撃の輪が作られて目の前をパスが飛んでいく。輪の中心に位置している中屋はフェイクパスが巧い。パスが中屋に回ってくる度に鷹野は全身をその動きに集中させた。
右を向いた中屋が指で何か指示をしながら、その方向に頭の上からパスを出そうとした。しかし、その左の足先はしっかりと左隣の神谷の方を向いている。
――フェイクだ。パスは左!
自信があった。中屋の太腿に力が入ったその瞬間に鷹野は飛び出していた。指先がパスを弾いた感触がして、軌跡を変えたボールを鷹野は両手でがっちりと捕らえた。
「ナイスカット、鷹野。お前、よく読めたな」
中屋が頭を掻く。鷹野の能力を見抜いてリードマンに強く推薦し、そのポジションを教え込んだのは他ならぬ中屋だ。思わず感慨深げに鷹野の顔を見つめると、鷹野からボールを受け取った。
「はい。も1本、ファイト」
数日前までの薄皮に包まれたような感覚が嘘のようだ。ボールの動きさえもがゆっくりと刻み込むように見える。今、コートの中で誰が何処にいるのか、ボールが何処にあるのか、敵は何処から攻めようとしているのか、見える、ような気さえする。
中屋の方に左手を伸ばして、鷹野は構えた。パスはディフェンスを撹乱するように素早く回される。
一瞬の隙を突いて神谷がゾーンの中に切り込んできた。神谷に抜かれたディフェンスをフォローするために鷹野が神谷の進行方向をブロックすると、待っていたかのようにエンドライン側からセンターの渡辺が前に進んでくる。神谷は鷹野の手から逃れるようにボールを床にバウンドさせて渡辺に繋いだ。
「シューター、フォロー!」
鷹野は気付かないうちに叫んでいた。その声を聞いて弾かれるようにディフェンスの一人が本庄の前に飛び出していく。だが、そのときには既にパスが本庄に回り、飛んでシュートをカットしようとしても、美しく高い放物線には指先が届かなかった。
「ナイスシュート!」
スパンとキレのいい音がしてゴールネットが揺れた。
「鷹野、いい読み。ディフェンス次は止めろよ!」
不思議なほど体育館は静寂に包まれていた。シューズのゴムが床に擦れて鳴る音が、時に激しく時に緩やかに響く。研ぎ澄まされた感覚の中でただボールの跳ねる音だけが耳に残った。
「鷹野……」
汗に濡れたシャツを脱いでいると、また、沖田が声をかけてきた。今日からつけはじめた練習用のファイルには選手登録される全員のシュートの成功率、プレーのパターンが記録されている。
不意に鷹野は医師からの伝言を思い出した。
「先輩、整形の先生から伝言を預かったんですけど」
沖田は首をかしげた。
「田中先生から?何て?」
言われた通りに伝えると、沖田は大げさに肩をすくめて見せた。
「自分で連絡しろよ、まったく。あの先生、予約しといた診察日が変更になったときも、たまたま診察にきていた女子バレーの子に伝言頼んだんだぜ。信じられないよ」
いかにもあの先生にはありそうな話で、鷹野は思わず笑った。
「ま、サンキュ。近いうちに行って来るよ」
鷹野は汗が落ちる髪をタオルで拭うと、ゴソゴソと替えのシャツを探し始めた。その背中をしばらく見つめると、沖田は小さく安心したような溜息をついて背中を向けた。急いでこのノートのデータを表にまとめてしまわなければならない。次の練習からはこのデータに基づいて弱点を中心に練習を行う予定なのだ。
まだ明かりの点いている体育館に戻ると、一人で黙々とシュート練習をしている影に声をかけた。
「矢ヶ崎、データまとめようと思うんだけど、気付いたことない?」
ネットを揺らしたボールを受け止めると、矢ヶ崎は振り返り、ゆっくりと沖田の方へ歩き始めた。
「思いのほか、鷹野がいいな。実は、中屋が鷹野にリードマンを勧める理由がよく分からなかったんだけど、確かに、あれはリードマンをやるように生まれたような奴だな。中屋は今、膝に爆弾を抱えているから、疲れがたまってきたらちょこちょこ替えて休ませなきゃならなくて、ちょっと心配していたんだけど、もう少し実践的な動きの練習をさせれば鷹野も十分使えそうだ。逆に足があるから、後半、相手が疲れてきた頃に投入して、ガンガン速攻で走らせてみるのもいいかもしれない」
沖田はしばらく考え込むと、ノートに何か書き込み始めた。
「次から、一年の練習場所を外にして、体育館をフルに使って練習しよう。5対5で、ディフェンスがボールをカットしたらそのまま速攻に入る形でやってみるか?」
矢ヶ崎はちょっと考え、指を折って試合までの練習回数を数え始めた。
「あと、6回か。うち、土曜の練習は1回だけだな。試合直前はあまり無理のかかる練習は避けたいから。そうだな、最初のアップをしたら、一時間くらい試合組に体育館を全面譲ってもらうか。サイドで筋トレを中心にしてもらってもいいし」
本当なら、あくまでも試合組み教育組を分けるようなことはしたくない。今でも、練習の合間合間に教育組みの面倒も見ている。別段、バスケットを生業としているわけではないから、部活動としてのスタンスはあまり崩したくない。けれど、そんな感情を差っ引いても、やはり、ただ純粋に勝ちたかった。高校最後の試合になるかもしれないこの大会を、完全燃焼で終えたかった。
「考えてみるよ。明日の放課後、ちょっと時間いいかな」
「あぁ、ごめん、明日は、ちょっと……」
沖田は言葉を濁した。
「夏用のコルセットを病院に取りに行きたいんだ。だから、5時くらいからでもいいなら、いいんだけど」
矢ヶ崎は微妙な顔をして口を噤んだ。
「あ……。うん。分かった。部室で待ってるから。遅れても無理して急ぐなよ、別に早く帰らなきゃらならない用はないから」
矢ヶ崎はただ一人、沖田の涙を見たことのある人間だった。当の沖田さえ見られたことに気付いていなかっただろう。矢ヶ崎はその涙を見た瞬間に、沖田はきっと選手としてコートに立つことの出来ない部活はやめてしまうだろうと思った。しかし、沖田はいま別の関わり方で、選手のときと同じ目標を見つめている。
だから、勝ちたい。だから、どうしても勝っていきたいのだ。
「練習もほどほどにね。無理をしすぎると良いことはないよ……」
分かったと言うように手を上げて、矢ヶ崎はドリブルで走り始めた。普通よりかなり遠い位置から踏み切る矢ヶ崎特有のランニングシュートは十分な脚力がないと出来ないことだ。3歩目で前へ進んでいた勢いを確実に殺してまっすぐに上に踏み切ると、腕から足までが一直線に伸びきる。いつ見ても綺麗なフォームだ。その動きには不自然さや無理はない。
沖田は安心したように微笑むと、ゆっくりとコートに背中を向けた。
練習の疲れも見せずに歩く背中を、神谷は溜息まじりの苦笑で見つめた。
勝手に悩んで、心配させて、勝手に解決して、安心させる。振り回される自分の方が単なる馬鹿なのかもしれないが、随分と心配してやった割には合わないような気もする。
「神谷、俺さ……」
声をかけようとしたそのとき、鷹野の方から声をかけてきた。いつのまにか進むのをやめた背中は、振り返って足を止め、神谷が自分に追いつくのを待っている。
「森川さんの、見舞いに行った……」
隣あって歩きながら、鷹野はその経緯を掻い摘んで説明した後、小さく息を吸い込んだ。
「森川さんの左足は、義足だった……」
隣で、神谷が小さく驚きの声をあげるのを聞きながら、鷹野は言葉を続けた。
「彼女、斎藤さんに俺たちのことを『足に羽根が生えてるみたいだ』って言ったんだって。俺、試合に出れるかなんて分からないけど、試合の応援に彼女を誘ったから……」
もしも自分が試合に出れなくても自分の代わりに走って飛んで欲しいのだと、鷹野は口には出さなかったが、神谷にはそう言ったように聞こえた。
「そうか……。でも、さすが『タカオちゃん』だな……」
幼い頃、多佳子につけられたあだ名を口にすると、鷹野が思わず吹きだした。
「なんだよ、それ、『タカオちゃん』って」
「いや、彼女、当時は体も大きい方だったし、はきはきしててリーダー格で。かといって、自分が悪いときはちゃんと頭を下げるすごく一本気な性格をしててさ、男子よりずっと男らしいから、ついたあだ名が『タカオちゃん』だったんだ」
なんだか想像がつくような気がして、鷹野は思わず声をあげて笑った。つられるように笑った神谷は、ひとしきり笑うと不意に真面目な顔になった。
「ただ歩いている人を見るだけで嫌になるかもしれないよな、普通。外に出たり、まして歩く練習をしたり、そんなこと、なかなか出来ないって。森川はさ、凄いと思うよ……」
負けられないよな、と、神谷は何かを思い出すような瞳をした。小さく返事を返しながら、鷹野は病室の中の多佳子を思い出した。
小さな花かごとぬいぐるみ、目覚し時計。ベッドの横にある数冊の本と車椅子。たったそれだけの世界。
青空が好きだといった彼女。唯一広く開いた窓から空を眺めては、動かない足をベッドに置いて、心は空を飛ぶのだろう。白い雲の稜線を越え、くっきりと分かたれた地平を目指して。たった一人で。
それはとても強く、そして寂しい姿だ。
鷹野はもう暮れ始めた薄青い空を見上げた。ちかちかと瞬き始めた星が目に痛かった。
総体が始まると、教室は常にない忙しない雰囲気に包まれる。
部の顧問の関係で授業を自習にする教師もいる。多い日には10人以上の生徒が総体のために早退する。応援団はほぼ毎日授業には出ていないと言っていいし、欠席する生徒の手前、授業自体もいつものように進めることが出来ないと言う有様だ。
毎日のように昨日の総体での成績が話題になり、俄仕立てのアイドルも出来上がる。神谷も近頃バスケ部では珍しい2年でのスタメン入りということで、見ず知らずの女生徒から声をかけられる場面が幾度かあった。
ばったり廊下でであった鷹野との無駄話の最中、その間を割るようにして声をかけた少女の握手をしてくださいという、よく真意のわからない要求に応えた後、神谷は大きく溜息をついた。
「もててんなぁ……」
苦笑まじりに茶化す鷹野に向かって、神谷は思いっきりしかめっ面をして見せた。
「矢ヶ崎先輩とか、もともと人気あるらしいけど、最近凄いことになってるらしくて、沖田先輩がバリケード作ってるらしいぞ……」
思わず神谷は吹きだした。総体付近のこの現象は一種の熱病だといってもいい。常日頃は気付かない少年の特技が不意に目の前に現れて、ただ、その意外性やステイタスが彼女たちを動かす。もちろん、それが励みになって頑張ってしまう少年たちは多いのだから持ちつ持たれつと言ったところだろう。
「鷹野だって、2年じゃベンチに入るのだって大変だったんだからそれなりなんじゃないの?これが縁でカノジョ作ったりすれば?」
お返しに茶化したつもりだった。そんな神谷の思惑とは裏腹に、鷹野は急に俯いて黙り込んだ。
「……俺は、そういうの、今は要らないし……」
クラスこそ違え、ほぼ毎日顔を合わせているといっていいのに、何故かそういう色恋の話を今までしたことはなかった。バスケの話をしていたら時間が飛ぶように過ぎて、それ以外の話題の入る隙間がない。そういう意味では、すべてを色恋に繋げたがる思春期の友人たちの中では異質なのだろう。だが、事実そんな時間がないのだ。頭も体もバスケットだけで一杯で。
「……まぁ、ね。カノジョなんかより、まずは試合に勝つことだもんなぁ」
もちろん、試合に勝った先に何が見えるかなんてことも判りはしないのだけれども。
むっつりと黙り込んでしまった鷹野を見て、神谷は慌てたように言葉を繋いだ。
「今度の土曜の試合に向けて、沖田さんが相手の練習を内偵してきたらしいぞ。明日、その内容を発表しながらミーティングやるってさ」
内偵という不穏な響きに鷹野は一瞬目を剥いた。
「内偵?練習を見ることなんてできるのか?」
にやりと神谷は笑うと、さも重大なことを打ち明けるかのように声を落とした。
「ほら、この時期どの学校も似たような雰囲気だからさ、女バスと結託して女バスのマネージャーにファンの振りをさせて掴んできたらしいんだ。もちろん、女バスの対戦相手には沖田さんが内偵しに行って」
おそらく、第二戦の相手も同様にして情報を掴むつもりなのだろう。
「いや、さすが沖田さんだよな。抜かりないというか、なんというか」
腰さえなきゃ選手としてもピカイチだったのに、と神谷は残念そうな声をあげた。選手として最後の試合は部員の中では語り草だ。冬の大会が終わった後の他校との練習試合、薄いユニフォームの下にガチガチのコルセットを巻き、40分の試合時間全部を走りきった。次第に顔色を失っていく中で、多くの部員は交代を望み説得しようとしたが、矢ヶ崎だけは頑としてそれに反対した。最後の試合だから俺に免じて続けさせてやってくれとまで言ったのだ。僅差だった試合は沖田と矢ヶ崎の最後のコンビネーションプレーで逆転勝利した。青ざめた顔でも、沖田は笑っていた。
そのせいか、沖田には部員全体が多大なる信頼をおいている。沖田さんが言うことだから絶対に間違いないんだと。まるで魔法のように乗せられてスランプから立ち直る部員さえいるのだ。
ふと鷹野は、体育館の人工的な無数の太陽の下で、たった一人で立ち尽くしている沖田の背中が見えるような気がした。その後姿があまりにも多佳子のものと似ていて、鷹野は小さく唇をかんだ。
「明日は放課後に視聴覚室だって。短いけどビデオも撮れたらしいし。やってくれるよな、女バスも」
女バスの方が部員数が少ないので、練習試合のときの審判やオフィシャルの事務仕事の手伝いに行ったりするのだが、なるほど、こういう部分でもギブアンドテイクなのだと神谷は妙に納得したような声を出した。
「じゃ俺、次、移動教室だから」
神谷は壁から背中をはがして、軽く手を振った。ポケットに手を突っ込んでゆっくりと歩き去る背中を見送り、鷹野は窓の外の青空に視線を移した。
理由もなく、ただ悲しかった。
ビデオを見た最初の印象は、それなりだな、というものだった。
完全なワンマンチーム。その一人を止めてしまえば、後のレベルはそう高くない。
守備はフォローしやすいゾーンディフェンス。攻撃は練習を繰り返して条件反射のように体が動くセット攻撃。巧い人間にボールを集める攻撃の仕方で、それ以外の人間のシュート成功率は高くない。
「見てもらって判ったように、このフォワードを止めればいい。ただし、背も高いしジャンプ力もある。足も速い」
沖田はノートを見ながら、淡々とした声で話す。ビデオは巻き戻され、繰り返し流された。ざわざわと部員の間では小さな囁きが交わされる。沖田に代わって矢ヶ崎が立ち上がると、一瞬、部員たちは静かになった。
「次の練習から、ディフェンスの形をちょっと変える。ボックス型にするから、自分の場所を覚えるように」
沖田は黒板に正方形を書き、その四隅に小さな丸を書いた。有り難うというように小さくてをあげると、矢ヶ崎は話を続けた。
「この4人は今までのゾーンディフェンスの要領で各自の場所を守って欲しい。残りの一人は10番をマンツーマンディフェンス。10番が交代して外に出たときは普通のゾーンディフェンスに戻す。このワンマンのフォワードには俺が付く。俺が何らかの理由で交代しなければならないときは、交代で入った奴か神谷が付くようにして欲しい」
矢ヶ崎は神谷と視線を交わして意思を確認しあうと、微かに笑った。
「仁科さん、他に気付いたことはないかな」
沖田の隣に隠れるように立っていた少女に不意に矢ヶ崎が話し掛けた。
仁科は女子部のマネージャーだ。中学時代からずっとバスケ部のマネージャーをしていた彼女は、プレーは出来なくてもバスケットのことは普通以上によくわかっている。この学校のデータを取ってきたのも彼女だ。
「さっきのフォワードですけど、膝を痛めているようです。練習中にもわざわざサポーターを外して膝を冷やしたりしていましたし、ストレッチも他の部員に比べて入念にやっています。他のメンバーの足が速くないので、速攻の繰り返しに弱いんじゃないかと思いますけど」
静かだがしっかりとした口調には、沖田に似た人を説得する力がこもっている。
「なぁ……」
不意に隣の神谷が鷹野の腕を突付いた。
「あの二人、いい感じだよな」
「え?二人って、沖田先輩と仁科さん?」
女子部のマネージャーということしか知らない鷹野は驚いたように神谷を見つめた。
「そ。沖田先輩が怪我でプレーが続けられなくなったとき、支えになったのが彼女なんだって。沖田先輩って医学部志望だし、仁科さんは看護婦になるのが夢らしいから、そのままゴールインなんじゃない、なんて、矢ヶ崎先輩が言ってた」
「へぇ」
鷹野はもう一度仁科をしげしげと見つめた。
沖田と話す時には幾分笑顔を見せるが、ベタベタした甘さを周りに絶対に見せない。神谷に言われなかったら絶対に分からなかった。静かで理知的な横顔は、優しげだ。
「鷹野!」
「え、あ、はいっ」
急に名前を呼ばれて、鷹野は驚いたように矢ヶ崎を見た。苦笑まじりのいつもの顔が鷹野を見つめている。
「ランニングシュートの成功率は、今何%だ?」
鷹野は思い出すように目を細めると、指を折って数えた。
「前の練習ではたぶん、6割くらいです」
「8割にしろ」
厳しい顔。思わず鷹野は俯いた。
「はい」
「速攻でどんなに速く走れてもシュートが決まらないんじゃ話にならないからな」
鷹野は驚いたように矢ヶ崎を見た。笑っている。しょうがない奴とでも言うかのように。
「え?」
「中屋には膝の爆弾があるからな、無理せず勝てる場所では中屋を休ませるようにしたい。前半は中屋を中心にセット攻撃で振り回す、点差がついたら鷹野と交替してガンガン速攻で攻める。OK?」
一瞬、声が出なかった。返事よりも先に考えたことは、多佳子に知らせようということだった。