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現代スポーツ小説:「空からの眺め」
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『空からの眺め』 [ 1 ]

踝に翼を持ったイカロス

どうか
私に与えられることのなかったもの全てを手中に収めて
笑ってください

シャツを脱いだその背中に
抜け殻のように残っていた翼の跡

私はもう
いかなければなりません

だから

踝に翼を持った私のイカロス

貴方の目指すその空の蒼さを
忘れないでください


さようなら

ありがとう

 

 いつもの年より肌寒かったせいで、普通ならとっくに散っている桜がまだ花をつけていた。合宿中もこの肌寒さのおかげでいつもよりは楽なんだぞと、何度も先輩陣に言われたものだ。
 初めての春合宿は、新入部員を初めて迎えることになる新2年にとって、もっとも実力向上を求められる時期だ。特に鷹野は持ち前の負けん気で、先輩に追いつけ追い越せとばかりに、この10日を我武者羅に頑張ってきた。そして、最後の練習試合をこなして合宿がおひらきになったこの日であってさえも、他の部員達のようにお気楽に遊びまわるつもりなどない。

「鷹野、お前マジ?せっかく今日で合宿が終わって明日は唯一の春休みだっていうのに、これから公園で1 on 1なんて冗談だろう?」
 背後から追いかけてくる神谷の悲鳴のような声に笑って返事をすると、鷹野は傍らに抱えていたボールを神谷に投げつけた。
「立派な『リードマンさま』になって頂きたいんだろう?」

 新入部員は夏の合宿終了時に初めて自分のポジションを言い渡される。それまでは基礎的な練習や体力つくりが中心で、あまりポジションを意識した練習はないのだ。その期間はポジションを決めるに当たっての観察期間でもある。それ以降のポジションの変更はほとんどないと言っていい。
 鷹野は自分で予想していたとおりリードマンのポジションになった。鷹野の身長はそう高いほうではない。リバウンドを取りに行ったり、ゴール下で敵と接触したりしたら弾き飛ばされてしまう。センターはもってのほかだし、フォワードも辛いだろうと思っていたからだ。
 『鷹野、神谷にもいろいろ教えてもらいな。神谷は中学時代リードマンだったから』先輩にそう言われて初めて、鷹野は神谷が中学時代からそれなりに名の知れた選手だったということを知った。
 リードマンに必要なのは的確な判断力と確実な指示、敵コートにボールを進めていけるドリブルの技術はもちろん、パスの正確さも要求される。中学時代バスケットから遠ざかっていた鷹野は若干ドリブルが弱かった。ドリブルの練習のために二人で練習後の1 on 1をするようになり、いつのまにか休みの日には必ず公園で1 on 1をやるのがあたりまえになった。

「なんだかなぁ……」
 投げつけられたボールを器用に受け止めると、神谷は、練習着の入ったリュックを肩に引っ掛けて前を歩く鷹野の背中を見つめた。
 鷹野には驚かされる。入部した頃は、小学校時代にバスケをかじっただけの多少運動神経のいい奴という認識しかなかった。だが、ひょんなことから練習を見てやるようになり、試合中の視野の広さ、熱くなればなるほどに冷静になってくその頭脳を知り、驚愕した。神谷は試合で興奮すると目の前しか見えなくなる。ただコートの中を跳ね回るボールを奪い取り、ゴールの白いネットを揺らすことだけが頭を支配してしまう。個人的にどんなテクニックを持っていても、熱くなった瞬間に敵と見方すら分からないようではリードマンとしては失格だ。

 神谷は周囲を見渡して人影がないことを確認すると、手の中で遊ばせていたボールを構えた。
「鷹野、速攻!」
 不意にかけられた鋭い声に鷹野が振り向くと、神谷が片手で高くボールを押し出しそうとしているのが見えた。頭の上を飛んでいくボールを追って、鷹野は慌てたように駆け出した。途中で邪魔になったリュックを放り出し、落下寸前にボールを受け止めると、すばやく視線を横に走らせる。神谷は適度な距離をおいて、鷹野の左を走っていた。にやりと笑う口元を目掛けてパスを出すと、神谷は受け取りざま左手にボールを移し、鷹野のほうをまったく見ずに背後へ左腕を勢いよく回した。ボールは力強く空を切り、呆気に取られた鷹野の腕に計ったように収まる。
「いつの間にバックビハインドパスなんて……」
 思わず足を止めて鷹野はにやついている神谷を呆然と見つめた。背中側から打つパスは『騙す』パスで、もちろん通常のパスに比べて難易度は高い。
「お、成功。まだ時々変な方向に飛んでいくんだけどね。ま、夏までには十分使えるようにしたいね」
 神谷はそんな鷹野の様子をものともせず、ひょいとボールを奪い取ると背後に置き忘れられたリュックを指差した。
「忘れ物。俺、先にリングのところに行って、ライン書いているから」
 頭ひとつ高い神谷の体が軽く地を蹴って走っていくのを、鷹野は黙って見つめた。
 どんなに筋肉をつけてもどこか華奢な印象が拭えない骨の細い自分と違い、神谷の体はもうバスケットプレーヤーとして必要なものを全部備えている。恵まれた身長、長い手足、中学時代からバスケットをやりつづけ、必要な部分にだけついている筋肉。おそらく同じ学年の部員の中で唯一神谷だけがスターティングメンバーの座を勝ち取るだろう。

 鷹野はひとつ溜息をつくと、クルリと踵を返し、道端に置き捨てられたリュックの方へゆっくりと歩き始めた。



 ボールが動き出すと、もう、ただそのボールを奪い取ってゴールを揺らすことしか考えない。誘うようにことさらゆっくりとドリブルを打つ腕に騙されて、相手が懐に見飛び込んでくるのを待つ。敵はどちらの足を浮かせているのか、どちらの足から走り出すのか、それは戦いの勘のようなもので、全身を研ぎ澄まして敵の思考を読むのだ。
 神谷は自分の前にぴったりと張り付いている鷹野の顔をじっと見つめた。鷹野の細かなステップが自然に自分の心拍数と同化していくような不思議な感触に襲われる。

 ダメだ。このままでは、振切れない。
 大きく息を吸い込むと、神谷は振り切るようにドリブルを止め、背筋の力をフルに使ってショットの体勢に上半身を持っていった。わざと大きめに頭をあげてゴールを見つめると、鷹野がシュートを阻止するために伸び上がったのが見えた。

 読まれた……。
 ジャンプシュートを打ちながら、神谷はそう思っていた。頭ひとつ分だけ背が高いことは、試合の上で有利だが、絶対ではない。微妙にジャンプのタイミングをずらしても、鷹野はその動きをフェイクだと見破ってしまう。
 右手から放物線を描いて投げ出されたボールを下からはじくように鷹野の指先が捉えた。軌跡を邪魔されたボールはリングのふちに当たって、大きく横に跳ね上がった。
「くそ。また読まれた」
 神谷は力が抜けたようにしゃがみこんだ。ジャンプシュートのフェイクを見破られたのはもう5回目だ。うち1回は身長差にものを言わせて無理やりゴールにねじ込んだのだが、後はことごとく指で弾かれてしまった。
「神谷、熱くなりすぎ。その大げさな顔の上げ方じゃフェイクですって大声で言ってるようなもんだぞ」
 熱くなればなるほど、神谷の思考は面白いように読めるようになる。もちろん、そのプレーを誰よりもよく知っているからこそ読めるのではあるが、もしも対戦校にデータを集められて攻略法を考えられたらと思うと、鷹野は不安になる。
「休憩。水飲んでちょっと頭冷やす……」
 鷹野の返事も聞かず、神谷は大股で少し離れたところにある水飲み場へと歩いていく。その背中を見送りながら、鷹野は溜息をついた。

 神谷の欠点は何度も繰り返す日々の練習だけでは克服できない。神谷も分かっているからこそ、鷹野との練習のときに敢えてフェイクを多用するのだ。
 水飲み場で乱暴に頭に水をかけている神谷の姿から目を逸らすと、跳ねて何処かへ行ってしまったボールを探すために鷹野はゴールの横にある草むらに入っていった。

 まだ下草は伸びていないのだが、木立に囲まれた場所ではなかなかすぐには見つからない。しかも、いくらか地面が凸凹しているので、どっちに転がっていったのか見当がつかない。
「鷹野!見つかったかー?」
 草むらからなかなか戻ってこないので心配になったのか、神谷が叫んでいる。
「見付かんねー!神谷、お前も手伝えよ!」
 駆けてくる神谷の足音を聞きながら、鷹野は目の前の大きな木を迂回した。その裏はちょっと窪みになっていて、前回ここにボールが入ったときもその辺りで見つかったのだ。
「あ……の……」
 窪みにだけ気を取られていた鷹野は、急に少し離れたところで聞こえた小さな声に、驚いたように顔を上げた。公園と言ってもただバスケットのゴールと水飲み場と木立があるだけの、空き地に毛の生えたような場所なので、たまに犬の散歩に来る人がバスケットに興じる二人を横目で見ながら通り過ぎていくだけで、今まで一度も人と面と向かって出会ったことなどはなかったのだ。
「え?」
 鷹野は思わず間の抜けたような声をあげた。
 少女だ。赤いバンダナの下からは肩までの長さのみつあみが覗いていて、細い体を踝まで隠すような長いスカートが覆っている。そのスカートの下から見える頑丈な運動用のシューズだけが、華奢な印象のするその姿との間に違和感を伴っていた。
 鷹野に声をかけた少女は、自分の足元にあるボールを少し困ったような顔で見つめると、傍の木に手をかけながら用心深くしゃがみ始めた。
 まるでようやく歩くことを覚えた幼子が初めて動くときのように、ぎこちなく時間をかけて少女は足元のボールを拾い上げた。
「これ……探しているんでしょ?」
 片手でゆっくりとボールを差し出して、少女は笑った。
「あ、ありがと……うございます」
 肌が白い。どぎまぎしている鷹野を見つめる目は落ち着いていて大人びて見えるが、目元に笑みが浮かぶとあどけない表情になる。差し出された手からボールを受け取ると、彼女は今までボールを支えていた腕を振りながら笑った。
「バスケットのボールって、重いのね。知らなかった」
 凹凸の激しい地面を彼女はゆっくりと、一歩一歩を確かめるように歩いた。歩みを進めるごとに大きく上体を揺らし、上半身を使って脚を動かしているのが分かる。膝を痛めたときの歩き方と似ているような気がして、思わず鷹野は手を貸そうとした。
「どうしたの?足、痛めたの?」
 差し出された手を困ったように見つめて、彼女は小さく溜息をついた。
「歩く練習をしているの。だから、ゆっくりで付き合っていられないだろうけど、大丈夫だから……」
「ごめん……」
 ようやく無骨な運動靴の謎が解けたような気がした。
「鷹野―?」
 さすがに遅いので心配になったのだろう、神谷の声が間近で聞こえて、こちらに向かってきているらしい足音が聞こえてくる。
「あ、神谷、ここ。ボールあったよ」
 ガサリと大きな音がして、神谷の大きな影が不意に背後から現れた。水を浴びて濡れた髪が乱れて額にかかっている。いつもは整髪料で固めて上にあげているので、なんだか別人のように見えた。
「なんだ、なかなか帰ってこないから転びでもしたかと思って心配し……」
 見慣れない人影に神谷は一瞬声を詰まらせた。
「森川……さん?」
 少女は驚いたような顔をして神谷の顔を見上げると、不意に思い出したように大声をあげた。
「神谷って、あの神谷くん?坂下小学校だった?」
 男の子って背が伸びると分からなくなるものなのね、と感慨深げに言いながら彼女は笑顔を見せた。
「知り合い?」
 神谷は訳がわからないという風に首をかしげている鷹野に慌てたように説明した。
「小学校が途中までいっしょだったんだ。森川……、えと多佳子、だったっけ?」
「森川多佳子です、どうも」
 彼女は笑顔のまま名乗ると、小さくお辞儀をした。
「あ、どうも。鷹野真尋です」
「まひろ?」
 大抵、鷹野の下の名前を初めて聞いた人はその聞きなれない響きに首をかしげる。幼いときは変な名前だと言っていじめられた事もあった。
「うん。真実の『真』に、尋ねるの『尋』で『まひろ』って読むんだけど。変な名前でしょ」
 高野の言葉に含まれる微妙な言い回しに気がついたのか、多佳子は小さく笑った。
「そんなことないです。素敵な名前。知っている人と名前が似ていたからびっくりしただけなんです」
 真実の『真』に『人』と書いて『まひと』と読む人を知っているのだと、多佳子は笑いながら言った。そして、不意に何かに気がついたような顔をすると、慌てたように背後を振り返った。
「噂をすれば、だわ」
 背後から小さく、彼女の名を呼ぶ声が聞こえた。
「先生、ここです」
 大声で返事を返して、多佳子は二人を促すようにしながらゆっくりと木立の間を縫って公園へと戻り始めた。多佳子の足をかばうような歩き方を見て、神谷が問いかけるような顔を鷹野に見せたが、鷹野は曖昧に笑って返事をしなかった。

「あぁ、居た居た。何処かで転びでもしたかと思ったよ」
 薄手のセーターにジーンズの少しやせた青年が、多佳子の姿が見えると安心したように笑った。その手元には折りたたみ式の車椅子が握られている。
「すいません。偶然、同級生に遭ってしまって」
 そのとき初めて気が付いたように青年は多佳子の背後から現れた二人に目を向けた。二人に屈託のない笑顔を向けて小さくお辞儀をすると、青年は車椅子を広げる。
「とりあえず座って。あんまり無理をしすぎると逆効果だよ」
 慣れたように車椅子に座る多佳子を、二人はただ呆然と見ていた。多佳子の屈託のない笑顔からは考えもつかなかった光景だ。
「ええと、はじめまして。斎藤真人と言います」
 青年は改めて二人に向き直るともう一度頭を下げた。人の良さそうな笑顔が周囲まで和やかにする。
「斎藤先生は、医大の学生さんなの。同級生の神谷くんとそのお友達の鷹野真尋くん。さっき、先生と名前が似ているという話をしてたのよ」
 医大はこの公園からちょうど高校とは反対方向にある。付属病院もあって、部員の多くは故障を抱えるとそこの整形外科に通院することになる。鷹野も膝の靭帯を痛めたときに通った覚えがあった。
 多佳子の紹介に二人は順番に頭を下げた。斎藤は鷹野が抱えていたボールを見て、笑顔を作る。
「バスケットをしていたんだね。確かに、バスケットのゴールがある公園なんて珍しいよね。バスケットブームの時にはここで月一回のストリートバスケの試合なんかもやってたみたいだよ。僕の友人も何人かでチームを作っていたから」
 僕は運動はからきしダメだったから、もっぱら応援部隊だったけどねと、笑って、斎藤は肩をすくめて見せた。
「あぁ、僕も出てましたよ。中学の時でしたけど……」
 神谷が応えると、ひとしきりストリートバスケの話題で盛り上がった。どうやら毎回優勝候補となる有名な男女混合の社会人のチームがあって、斎藤はその中の一人と偶然病院で出会ったらしかった。
「びっくりしたよ。男顔負けのプレーをしていた彼女が、いまやお母さんで、赤ちゃんを抱いているんだから……」
 斎藤はバスケットを見るのは好きらしい。NBAが深夜に放映されるときはビデオを撮っているとも言った。
「知らなかった。先生、バスケに詳しかったのね」
 多佳子は意外そうな顔をして、斎藤を見る。少し疲れたのか、顔色が悪かった。
「あ、もう、こんな時間か……。そろそろ帰らないと夕回診に遅れるね」
 不意に多佳子の顔色に気が付いたのか、斎藤は少し慌てたように言葉をつないだ。
「練習の邪魔をしてしまったみたいで、ごめんね。いつもここでやってるのかな、また、見にくるよ」
 休日の午後は大体いつもここに居ますと鷹野が応えると、斎藤は小さく笑って手を振った。
「楽しみだな、最近、忙しくてスポーツなんて見ている余裕がなかったから」
 名残惜しげに何度も言葉を交わして、斎藤は多佳子の車椅子を押し始めた。身をよじるようにして振り返った多佳子は大きく手を振って笑って見せた。
「頑張ってね……」
 笑顔で叫ぶ多佳子に手を振り返しながら、鷹野は唐突に肌寒さを感じた。汗をかいたまま冷えてしまった体は硬く強張って、もう練習再開どころではない。
「体、冷えたな。今日はもう止めとくか……」
 半ば乾いた髪をかきあげながら、神谷は鷹野の言葉に黙って頷いた。視線の先で多佳子と斎藤の姿が曲がり角を曲がって見えなくなった。



 小学校の卒業間際に多佳子は突然入院して、そのまま卒業を迎えてしまったのだと神谷は言った。
「明るいし、クラスの人気者だったかな。どちらかと言うと姉御肌で、よく男女とか言われてたけど、めげなくて。まさか、あんなふうに華奢な感じになっているとは思わなかった……」
 ゆっくりと最寄駅まで歩きながら、神谷は思い出すように言う。
 どうやらあの場所で歩く練習をしていたらしいと高野が言うと、神谷は首をかしげた。
「骨でも折ったのかな……。でも、骨を折っただけなら車椅子ってことはないよな、普通……」
 車椅子に乗っていて、医大生に押してもらっていて、夕回診に間に合わないという言葉から想像するのは、彼女が今現在、入院しているということだ。笑顔は元気そうだったが、疲れが見えてくるにしたがって顔色は悪くなっていった。あまり、健康そのものという感じはしない。日に焼けていない青白い肌や華奢な指も、病の重さを思わせた。

 だらだらとした長い坂をゆっくりと下りながら、話題はもっぱら多佳子のことだ。妙に詮索するようで、あまり好ましいこととはいえないのだが、鷹野は多佳子のことが気になってしょうがない。
「でも、話しやすい兄ちゃんだったな。医大生って、もっと取っ付きにくい本の虫かと思ってた」
 神谷は至って暢気なもので、片手でくるくるとボールを回しながら、これからお世話になることもあるかもしれないから仲良しになっておいて損はないよなと、冗談とも本気ともつかないことを言っている。
 鷹野はぼんやりと別れ際の多佳子の顔を思い浮かべた。
 少し青ざめた頬、睫毛が長くて、一重の瞼が重たげだった。笑顔は明るかったが、足を痛めたのかと問いかけた瞬間の表情は硬く、返事には、どこか拒絶するような印象さえした。
「どうした、ぼんやりして」
 不意に顔を覗き込まれて、鷹野は目の前にある神谷の顔を黙って見つめた。
「なんでもないよ」
 ボールを奪い取って、鷹野は小さくドリブルをついた。
 遅い桜の花弁がちらちらと風に乗って目の前を流れ落ちていった。



 新学期が始まってしばらくは、新入生の勧誘やクラス替え、委員会の交代などの雑多な行事が重なって雑然とするが、一週間もすればおのずと落ち着いてくる。
 今年のバスケ部の入部人数は20人。去年とほとんど変わらない。しかし、夏合宿を過ぎると部員数は半数にまで減少する。練習の辛さと競争の激しさについていけなくなるのだ。去年は入部者が21人、だが現在選手として残っているのは僅か8人、マネージャーへ転向したものは3人、中学時にバスケットをしていなかったもので選手として残っているのは既に鷹野だけだ。

「集合!」
 部活が始まる前から思い思いに体をほぐしていた部員たちが、キャプテンの号令で集められる。
「これから2年のチーム分けを伝える。ゲーム組は3年と混じって試合の練習がメイン、教育組は1年の面倒を見ること」
 この時期に2年のメンバーが二つに分けられることは噂では知っていた。先輩陣が春合宿中に、こっそり教えてくれたのだ。教育組に振り分けられたものは、夏を越えるまでは試合に参加できないと言い渡されるようなものなのだと。
 キャプテンの手にはメモが握られている。一瞬、体育館の中に張り詰めた空気が流れた。
「ゲーム組は3人」
 あまりの少なさに、一瞬驚いたような声が漏れた。一人は誰しも分かっている。神谷だ。既に神谷はスターティングメンバーの候補にさえ上がっているのだから、教育係に回されるはずがない。
「神谷……、市川……」
 溜息に似たどよめきが流れて、2年の部員の幾人かは肩を落とした。神谷も市川もポジションはフォワードのため、他のフォワードのメンバーは教育係が決定したようなものだ。3年のポジションのバランスからいけば、残る一人はガードの中から選ばれるだろうと思われる。
「で、鷹野……」
「え……?」
 思わず声を出してしまって、キャプテンをはじめ先輩陣の苦笑の混じった視線が鷹野に注がれた。
「何?疑問?」
 一番頑張っている自信はあった。だが、一番実戦で使えるガードであるという自信はなかった。
「いえ、なんでもありません……」
 尻すぼみになった鷹野とは裏腹に、選ばれなかった選手の何人かはどうにも解せないというような顔でキャプテンを見つめている。
「今年のチームの攻め方は速攻をメインとした速いプレーが中心になる。速攻に必要なのはまずスピードと体力、スタメンだろうがなんだろうが、足が止まったら即代える。根性振り絞って走れよ、鷹野」
 キャプテンは納得しない部員に対してというよりも、これから試合への練習を始める3年に対して喝をいれているようだ。その言葉を聞いて鷹野はようやく合点がいった。どんなギリギリの状態でも速攻を指示する叫び声があがったら倒れるまで走る自信はある。

「じゃ、アップ開始。並んで、ダッシュから。ハーフでフロントターン、戻ってバックターン、あとは向こうまでのダッシュ。一番遅かった奴はペナルティでもう一回!」
 ぞろぞろと体育館の端に3列に並んで、マネージャーの吹く笛に合わせてダッシュを始める。コートの半ばまで走ったらターンして帰り、もう一度ターンして向こうの壁までダッシュする。スピードと同時にターンのときのボディコントロールも必要になる。
 いつものように神谷が鷹野の隣に陣取って、スタートのために構えた。
「次っ」
 ちらりと神谷に目をやると、汗が目に入らないように額にバンダナを巻いて腰を低く落としたまま、まっすぐ睨むように前方の壁を睨み据えていた。鷹野は足元に視線を落とすと、ゆっくりと意識を足先に集中した。
「ピッ」
 だれよりも速く笛に反応して、だれよりも速く走る。ハーフラインで今までのスピードを一気に殺して床に足先を叩きつけると、ゴムと床の擦れる嫌な音がして、確実に足先が硬い床を踏みしめているという実感。視界にちらりと入った神谷の体は自分とほとんど同じ位置にいる。スタートしたエンドラインで再びターンしたとき、僅かに神谷の体が自分の後方にあることを知った。反対側を走る同級生とは既に数歩の差がついている。スピードそのものは神谷より鷹野のほうが速い。しかし、反対側のエンドラインに飛び込んだとき、神谷との差は一歩あるかないかだった。
 既に到着していた前の組の何人かが、感嘆するような溜息をついた。
「速いよなぁ」
 当たり前だ。中学時代は陸上部にいた。県大会にも出た。
 耳に入った小さな囁きを鷹野は黙殺した。
 高校に入って陸上をやめバスケットを始めたのは、陸上には壁があったからだ。超えられない肉体的な壁。中距離に転向を進められたが、短距離に拘り続けた。柔道のように階級制があるのならば話は別だ。だが、結局体そのものの持つポテンシャルの違いは、どんな努力よりも大きなものだった。今はもう、悔しいとは思わない。だが、恵まれた体を見ると、やはり、微かに心は痛んだ。
「次っ」
 走ってくる他の部員たちを眺めながら、鷹野はゆっくりと屈伸を繰り返した。がっちりと足首をサポートする靴紐に手をかけ、緩んでいないことを確認する。そして、そのまま手を両膝に持っていって骨の両脇の靭帯の辺りを撫でた。
「どうした、痛むのか?」
 心配そうな神谷の声に、鷹野は笑って見せた。
「いや、マッサージしてるだけ」
 最後の組がエンドラインに飛び込んできて、2本目のダッシュが始まる。
「次は負けないからな……」
 独り言のように呟いた神谷の声に、鷹野は小さく笑った。
「な、神谷」
 ターンで折り返してきた前の組の人間の邪魔にならないように壁際に逃げながら、鷹野は話し掛けた。
「ん?何」
 同じように壁際に寄り、神谷は軽く首を回す。少しでも早く体を柔軟にするのが、怪我を防ぐコツだ。
「1 on 1やろうぜ」
 前の組の連中がハーフラインを超えて走り去ると、マネージャーが向こう側で手を上げたのが見えた。用意しろと言う合図だ。
「いつ?」
 スタートのためにエンドラインに並びながら神谷が短く問いかけた。
「明日っ」
 短い笛の音に反射的に体が飛び出す。見えるのはただ、目指す壁だけだ。だれよりも早くあの壁を超えよう。陸上しか知らなかった自分と今の自分、目指しているものに大差はない。白いテープが白いゴールネットに変わっただけのことだ。
 エンドラインに飛び込んだ鷹野の体は、自分でも信じられないほど軽かった。



 その日は晴れていた。空は青いのだと改めて思い知らされて、鷹野は不思議な気持ちがする。公園で何度もゴールを見上げながら、それでも、空は青いのだと気づかなかったような気がした。
「暑……。夏だね、こりゃ」
 鷹野につられるように空を見上げた神谷が、眩しそうに目を眇める。土曜の練習は隔週だ。これは日頃は外で練習を行うハンドボール部に体育館を譲るためと、夕方から地域の社会人のために体育館が貸し出されてしまうためだ。体育館を中心に使うバスケ部にとっては隔週に一度の休みはいい骨休めにもなっている。もちろん、大会が近くなってくると部長達と事務の間で話し合いが行われて、各部活が不公平のないように使用時間が分配されるのだ。
「まぁ、もうじき5月だしな」
 応えながら鷹野は手に持っていたボールを軽く空に放り投げた。くるくると回転しながらボールは空を割って落ちてくる。
「いつ頃、試合日程が発表されるんだろう?」
 最初の試合は高校総体の予選も兼ねている。例年5月の終わりから6月にかけて行われるのが常だ。トーナメントで県大会を勝ち上がれば、夏に全国大会へ進む。
「さぁ。去年はベスト8だったらしいから、シードは無理てことくらいしかわからないな。たぶん、例年通り5月の最後の土日から1ヶ月間くらいだろ?」
 神谷の答えを聞きながら、鷹野は小さく溜息をついた。1ヶ月。試合メンバーの中に組み込まれたからといって、1ヶ月でいったい何が出来ると言うのだろう。
「ま、とりあえず俺はフェイクの練習。鷹野は速攻とボール運びの練習、かな」
 鷹野の気持ちを知ってか知らずか、神谷はなんでもないことのように言葉をつないだ。公園の入り口が見え始めると、鷹野はボールを神谷に手渡した。
「ま、頑張るとしますか。根性振り絞れと言われたことだし」
 そう。頑張るしかないのだ。スタートダッシュだけがレースの見せ場じゃない。ラストスパートで決まるレースだって、幾度となく経験したのだから。
 鷹野は走り出した。空にそびえるような白いゴールのネットを揺らすのだ。
「くそ、待てよ」
 悪態を吐きながら追いかけてくる神谷の足音を聞きながら、鷹野は絶対に後ろを振り返ったりはしなかった。



 目の前にそびえる体を、純粋にただ、でかいなぁとそう思った。長い手は思った以上にすばやく鷹野のドリブルをカットしようとする。幾度となくターンを繰り返してその手を避けながら、鷹野は舌打ちした。神谷は懐が深い。並みの人間が相手なら持ち前のスピードと小回りの利く体で相手の脇を潜り抜けて行くことだって出来る。幾度となくフェイクを仕掛けても乗ってこない。
 思い切って腰を低く落とすと、誘うようにわざと左手を垂らした。自分の左側に入り込みやすくしておいて、神谷が僅かに上体を揺らしたその瞬間に左手を叩きつけるようにして懐に飛び込んだ。
 ダッシュ。左へのバックターン。追いついて目の前に立ちはだかった神谷を見上げると、再び右へターンするように体を捻った。そのスピードに騙されて神谷の体が大きく右に振れた。
「頂きっ」
 振れた体の横をギリギリですり抜けると、もう、目の前にゴールが見える。思いっきりジャンプして、左手で高くボールを押し出すと、柔らかな放物線を描いてボールは白いネットの中に吸い込まれていった。
 瞬間、青い空を背景にその落ちていくボールが目に焼きついた。
「くそっ」
 背後で悪態を吐く声が聞こえる。
「やっと入った……」
 シュート体勢にまでいけたのは今のをいれて3回。それ以外はことごとくカットされた。悪態を吐きたいのは本当は鷹野のほうだ。
幾度か地面に跳ねてコロコロと転がりだしたボールを慌てて拾い上げると、神谷が拗ねたような顔をしてその様子を眺めている。
「3回に1回は抜かれるようになっちまった。鷹野、やっぱお前、フェイク巧いよ」
 神谷は、ボールを片手に戻ってくる鷹野を眺めながら、汗に濡れて落ちてくる前髪をかきあげた。そして、燦々と照りつける太陽を恨めしげに見上げる。
「馬鹿暑い……。も、茹りそう……」
 シャツを脱ぎ捨ててTシャツだけになっているにもかかわらず、二人とも頭から水をかぶったように汗でびしょ濡れになっている。
「ちょっと休む?」
 鷹野からパスされたボールを受け止めて、その問いかけに頷くと、神谷はボールを地面に置き、その上に腰を落とした。鷹野はそんな神谷には頓着せずにゆっくりと体の屈伸を始めた。
「膝、気になるのか?」
 それを認めた神谷が心配そうに鷹野の顔を覗き込んだ。
「まぁ、ちょっとはね。どうしても、気にはなるよ」
 左膝内側側副靭帯裂傷。去年の夏に無理のし過ぎで起きた怪我は、致命的ではなかったが長引いている。これから練習が激化していくことを考えると、やはり気にはなる。
「サポーター持ってるんだろ?用心のために付けとけよ」
 返事を濁しながら鷹野はゆっくりと自分の膝周囲の筋肉を確かめた。少し火照った筋肉は、確かな弾力と強さを指に返し、膝の動きに合わせて無駄なく、しなやかに動いている。痛みも違和感もない。
 神谷がじっとその動きを見守っているのが分かった。
「何?」
 しゃがみこんだまま、同じ目線になった神谷に問い掛けると、驚くほど真剣な顔をした神谷が言い難そうに口を歪めた。
「怪我してもらっちゃ困るんだよ……」
 ぼそりと呟くように言葉を漏らすと、神谷はTシャツの袖で額の汗を拭った。そして、照れを隠すように勢いよく立ち上がると、ボールを手に取り下からリンクボードに打ち当てた。跳ねたボールをリバウンドの要領で受け止めると、そのまま勢いよく体を回転させてジャンプショットを放つ。青空を背に、ぴんと張った全身がしなやかな三日月のようにしなって、その手から放り出されたボールはきれいな放物線を描いて吸い込まれるようにネットの中に落ちた。
 地面に落ちて跳ねたボールを掴んだ神谷が、鷹野の背後を見て不意に声をあげて動きを止めた。何事かと振り返ると、遠く、車椅子がこちらに向けてやってきているのが見えた。
「森川……?」
 日除けのための帽子を被って、両手で勢いよく車輪を回しているその顔には、笑顔が見て取れた。
「こんにちは」
 二人の近くまで来て器用に車椅子を止めると、多佳子は屈託なく笑った。
「居るかなと思って、思い切って来てみたの」
 背後に斎藤の姿はない。
「斎藤さんは?」
 問い掛ける神谷に多佳子は小さく首をかしげた。
「斎藤さんは、もう、別の科の実習に行ってるの。病院実習って病院の中の科を順番に一年で回るのよ。だから、今頃はたぶん、内科とかに行ってるんじゃないかしら。この間、お見舞いに来てくれたときには小児科に行ってるって言ってたわ」
 今日は散歩に行くと言って外出許可をもらってきたのだと多佳子は笑った。
「日陰に入りなよ。焼けちゃうよ」
 ゆっくりと近くの木陰に車椅子を押す鷹野に、多佳子は小さくありがとうと呟いた。そして、眩しそうに空を見上げると、太陽に手をかざした。
「今日は、暑いのね。すごい青空」
 つられて空を見上げると、くっきりと雲の稜線を描いた青が、網膜を痛いほどに焼いた。
「青空って、好きなの。あの雲から下界を眺めたらきっと、いい眺めだと思うわ」
 遠く空を憧れるような視線が、ちくりと鷹野の胸を刺した。
「ね、邪魔しないから、練習しているとこ、見ててもいい?それが見たくて、今日、来たの」
 笑顔で多佳子の問いに応えながら、鷹野はその胸の痛みの理由をぼんやりと考えていた。

 ボールを追いかけていると、その瞬間だけは時間も悩みも全て忘れてしまう。この体の全ての器官を没入させてしまうような情熱を、例えばバスケット以外の――一般的に社会の評価が高いような――勉強とか、ボランティアとか、そういうものへと向けることが出来たら、きっと大人の評価は高いに違いない。
 けれども、その情熱は熱量は限界まで高いくせに輪郭は曖昧で、ボールを追う視界の片隅にいつも、細く白い影。その目が目を輝かせてボールの軌跡を追っていくから、やっきになってゴールを狙った。
「くそっ」
 白いネットを揺らしたボールが重力に従って落ちてくるのを真下に待って受け止めると、鷹野は脱力してしまった神谷を振り返った。
「そのフェイク、詐欺だよ」
 フェイクを使って神谷を抜きさる瞬間に、体の奥が燃える。頭の何処かで『勝った』と誰かが叫ぶ。そして唐突に、その熱の中心にどうしようもなく冷えた感覚がよみがえる。
 ――真っ向勝負で立ち向かっていける壁じゃない。
 小さく唇を噛み締めて、鷹野はまだ脱力している神谷にボールをパスした。
「神谷って、どうしてフェイクだけそんなに下手かなぁ」
 パスされたボールを弄びながら、神谷はちょっと困ったような顔をして鷹野を見つめた。短い沈黙の後、神谷は不意にゆっくりと多佳子の膝の上目掛けてパスを放った。
「きゃ」
 一瞬驚いたもののなんとか受け止めた多佳子は、今まで二人の間で激しく争われていたボールを興味深げに眺めた。
「中学の時、TVでやってた試合でバックビハインドパスを見たわけ。で、格好良かったから練習の後に何人かでやってみたんだよね」
 話しながら神谷は大きく両手を広げて多佳子にパスをねだった。多佳子は察してボールを神谷にパスする。
「それを部活の顧問が見ててね、大目玉を喰らったんだ」
 小さく掛け声をかけて、神谷は立っている鷹野の胸目掛けてパスを出す。正確に強く投げ出されたボールは面白いように鷹野の手の中に収まった。
「もう、そんな気障なことをやる暇があったら腹筋でもやれって、すごくてさ」
 今までただ眺めているだけだったボールにやり取りに急に参加したことが嬉しいのか、多佳子の白い頬は上気していた。鷹野はそれを認めて、小さく笑いながらできるだけ取り易い柔らかなパスを彼女の胸元に放った。
「もうね、フェイクどころじゃなくて。いつのまにか一番苦手なものになっていたんだな、これが……」
 多佳子から戻ってきたパスを神谷に返すと、話し終えた神谷が今度は少し早いパスを多佳子に送った。そのまま、語るのをやめてしまった神谷にかける言葉を何か探そうと、鷹野は必死で頭を巡らせた。しかし、言葉は出てこなかった。
 ただ黙々と三人でのパスを続けながら、ちらりと視界に入った神谷の驚くほど真剣な顔に思わず鷹野の手元が狂った。
「あ、ごめん」
 失速したボールは多佳子の車椅子の足元に落ち、跳ねて膝を直撃した。必死で膝をかばおうとした細い手をすり抜けてボールは膝で跳ねた。当たった瞬間にガシャリという金属の擦れ合う音がして、見る見るうちに多佳子の顔が白く強張った。
「大丈夫?ごめん。痛かった?」
 思わず駆け寄った先で、多佳子の左足のつま先が不自然な方向を向いて止まっていた。

 
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