『ご相談承ります! 〜怨霊少年〜』 [ 2 ]
「ただいまぁ」
がらんとした声が響いた。中古で買った一軒家は二階建てで狭いながらも庭付き。念願の犬も飼えるが、買うためには親との約束『学年成績100番以内』をクリアしなければならない。ちなみに克己の学年は総数300余名、現在の順位は180番前後である。いやぁ、前途多難なのである。
「あれ?かーちゃん、僕、帰ったけど?」
いつもなら馬鹿みたいな大きな声で、おかえり、と返ってくるのだ。大抵声がひっくり返っていて、あぁ今まで昼寝していたな、と分かるのだが。
克己はもぞもぞと靴を脱ぐと、とりあえず台所を覗いてみた。
流しに今朝使った食器がたまったままだ。テーブルにポツンと紙と封筒が置かれていた。
「なんかあったかな……」
紙を取り上げると、急いで書いたらしい乱れた字が綴られていた。
――田舎のおじいさんが危篤だということなので行ってきます。父さんも会社からそのまま来てくれるそうです。明後日には帰るので、それまで大変ですが一人で留守番していてください。食事は封筒に入っているお金で食べてください。また、電話します。母――
田舎のじいちゃんと言うと、ずいぶん昔、小学校の低学年くらいまでは夏休みに遊びに行っていたので、うっすらと覚えがある。温厚そうで、細かいところにくよくよしない、とぼけたおじちゃんで、一緒に悪さをしたもんだ。
そうかぁ、考えてみればもう、70を越してるんだもんなぁ……。
体の調子が悪いという話はずいぶん前から聞いていた。
なんとなくぼんやりと立ち尽くしたまま、田舎のじいちゃんとの悪さを思い出していると、不意にくう、と自分の腹が空腹を主張したのが聞こえた。
「めし、めしっと」
封筒の中には6000円。一食1000円で済ませなさいということだろう。とりあえず全部を財布に移し変えて、克己は服を着替えに二階に上がった。
「何、食べよっかなぁ……」
わざと声を出してみる。実はちょっと淋しいのだが、そんなことはこの年の男の子が口に出すことじゃないしね。日頃うるさいと思っている母親の声、なんてのも、実はいいものなのかもしれない。
「あっ」
ふと、振り返ってベッドの上を見て絶句した。隠しておいたはずのアイドルの写真集がきちんと整えられて布団の上に鎮座している。
「やられた……」
前言撤回。部屋には入るなって言ったでしょ、おっかさん。くそう。
とりあえず写真集を机の下に隠すと、克己はジーンズのポケットに財布をねじ込んだ。
思いっきり羽根を伸ばしてやるんだからな。
結局、夕飯は学校近くの定食屋にした。安くて量があると評判の店だ。試験で学校が早く終わった時はいつもここのランチに駆け込んで、ご飯おかわり自由&学生割引の甘い汁を啜っている。
「なんだい、夕飯に来るのは珍しいね」
顔も覚えられて、すっかり仲良くなったおばちゃんは陽気で明るくて気風がよくて、チッコイんだから量を食え、とばかりにおまけのおかずまでサービスしてくれる。
「田舎のね、じいちゃんが危篤だからって両親揃って出かけちゃったんだ」
理由を言うと、急にしみじみとした顔になって、溜息をついた。
「そうかい……。みんないろいろ大変だねぇ……」
その視線が壁の一点を見つめているのに気付いて追いかけてみると、一枚の手書きのビラが張ってあった。
――見かけた方はご一報ください――
下に会長の顔写真。一枚一枚書いて、そこに焼き増しした写真を貼って、きっと会長の両親が必死で作ったに違いない。作るだけでも大変なのに、それをこうして一枚一枚配って回ったのだ。
克己がぼんやりとそのビラを眺めていると、ポンと頭におばちゃんの厚い掌が降りてきて、たくさん食べるんだよ、と声が降ってきた。不思議と全く嫌な気がしない。
「っらっしゃい……」
「こんばんは」
聞きなれた声に克己が戸口を見ると、今朝見たときとは違う格好で蛍が笑っているのが見えた。
「ほひゃるひゃん……」
口に詰まったトンカツのせいで変な声になってしまったが、蛍に対しての呼びかけとしてちゃんと通用はしたらしい、笑った顔が振り向いて、そのまま固定した。
「克己くん? 珍しいね……」
そのまま優雅に狭い定食屋のテーブルの隙間を歩いてくると、克己の座っているテーブルに向かい合うようにして腰掛けた。
「どうしたんだい?」
さっきおばさんに説明したのと同じ言葉を繰り返すと、同じような言葉が返ってきた。
「いろいろ大変だね……」
そして視線は克己の食事に降りてきて、よくそんなに入るねぇ、としみじみと呟いた。
食事を終え、のんびりと歩きながら蛍と道を歩いていると、話題はどうしても今一番の関心事、生徒会長行方不明事件のことになってしまう。蛍の職業は探偵だし、もしや何か知っているかもしれないとちょっとカマをかけてみると、蛍はあっさりと肯定した。
「うん。今朝、学校の傍で会ったのはそのことを調べていたからだよ」
やっぱり。なるほどそれなら学校の近くであったのも納得がいく。
「学校を調べていたんですか?」
「ううん、裏山をちょっとね……」
「玄奘塚?」
言ってしまってからしまったと思った。言った瞬間、蛍の目がきらりと光ったように見えたのだ。
「玄奘塚って、克己くんは何かを知っているの?」
いや、止めよう。幽霊騒ぎなんて馬鹿げている。何も自分から進んで蛍さんに馬鹿にされることをしなくてもいいじゃないか。
「いや、べつに、そうなのかなぁ、と思って……」
言葉を濁す。怪訝そうに蛍が見つめているのが分かって、克己は冷や汗をかいた。
「友達が裏山を登っていく会長を見たって言っていたから……」
これは嘘じゃない。ホントウノコト。そこまで考えて、はたと気がついた。
なんで蛍さんは学校じゃなくて裏山を調べていたんだろう?その頃はまだ、徹の目撃証言だってなかったはずだ。
得体が知れない人だ。ちょっと不気味。
「克己くん、本当に変ったことないかい?」
蛍は今朝聞いてきたのと同じ事を繰り返す。克己は首を傾げて見返した。
「別に、変わって事なんて、ないですけどねぇ」
「そう……」
蛍は克己を見つめて溜息をついた。呆れている、といったふうに感じてしまうのは、克己の劣等意識のなせる技だろうか。
次第に口数少なくなってしまって、だんだん沈黙が耐えがたくなってくる。何か話さなければと、まるでパーティーの太鼓持ちのような気持ちで克己は口を開いた。
「そういえば、僕のクラス、文化祭でお化け屋敷をやるんですよ。で、題材が玄奘塚なんです……」
必死に言葉をつないだ。シナリオを書いたクラスメイトの話に、自分が怨霊の役だということ、しかも女形だということまで笑いしゃべって、次第に自分が情けなくなってくる。
「なんか、僕、和歌を詠まなきゃいけないみたいで、五七調でやらなきゃいけないんですよ〜。ますかがみ〜おもかげさらず〜、きみみての〜もみじのふちに〜われ〜おつる〜とも〜、って」
はっとしたように蛍が克己の顔を覗き込んだ。
あれ、どうしたんだろう。蛍さんもこの和歌に覚えがあったのかな。
バシン、と近くで何かが倒れる音がした。
誰か自転車でコケタかな。すごい音だったから、怪我をしたんじゃないだろうか。
「その和歌、何処で知ったの?」
まるでその音には頓着せずに蛍が真剣な顔で問い掛ける。
「シナリオ書いた奴が、玄奘の残した句だって言って……」
ドシン。まただ。すごいなぁ、誰だろう。自転車に乗る練習でもしているんだろうか。
「いい? その和歌は詠んじゃダメだよ。そして、これを持っていること!」
不意にポケットから小さな白い小袋を出して、蛍は克己の手に握らせた。
「ずっとだよ。いいね。無くさないようにして」
やだなぁ、まるでお守りでも持たせるように。
笑って、そして不意に気がついた。この一本道は両脇は家が並んでいて、何処にも自転車を練習できるような場所なんてない。ましてや体のすぐ横で聞こえるような音のくせに、何で振動も人影も何もないのさ。
ま・さ・か?
「あぁ、家に着いたね。じゃぁ、本当にその袋を離しちゃダメだよ」
いやです。うそです。いっちゃうんですか?
蛍の背中にすがろうとして、僅かながらプライドが邪魔をする。
何でこんな日に限って誰も居ないのさぁ。じいちゃんの馬鹿。
涙目で去っていく蛍の背中を見つめながら、明かりの消えた我が家を仰ぎ見る。
あぁ、恨めしいぞ。本当に。
とにかく駆け足で家に入ると、玄関から台所、居間、自分の部屋、トイレに至るまで全部の明かりをつけた。そしてずるずると布団を居間に転がり落とすと、テレビをつける。
そうだ。明かりをつけて、テレビをつけてそのまま寝ちゃえばいい。明日は徹の家に泊めてもらえばいいし、明後日には帰ってくるって言ってたし。
そうだよ。それがいい。決めた。そうする。絶対そうする。
テレビではお笑い芸人が体を張って笑いをとっている。そう、これはいつもの日常。大丈夫。大丈夫。
布団の中で蓑虫のようになりながら、克己は必死でテレビに集中した。いつもは笑えて仕方のないギャグもどこか上滑りしていくけれど、とにかく笑う。そう、笑う。
汗ばんだ手にしっかりと蛍にもらった袋を握り締めて克己は引きつった笑い声を響かせた。
ま・す・か・か・み・お・も・か・け・さ・ら・す・き・み・み・て・の・も・み・し・の・ふ・ち・に・わ・れ・お・ち・る・と・も……
やだな、冗談よしてよ。誰だよ。
ま・す・か・か・み・お・も・か・け・さ・ら・す・き・み・み・て・の・も・み・し・の・ふ・ち・に・わ・れ・お・ち・る・と・も……
視線の先、人垣があって、誰かが機械のように500円玉の行く先を読み上げている。
止めろってば。集団催眠じゃないか。そんなもの。
違うわよ。
一人が立ち上がった。園江だ。まっすぐに克己を指差すと、にやりと笑う。
ま・す・か・か・み・お・も・か・け・さ・ら・す・き・み・み・て・の・も・み・し・の・ふ・ち・に・わ・れ・お・ち・る・と・も……
私、あの子でもいいわ!
金縛りにあったように体が動かない。
(ま・す・か・か・み・お・も・か・け・さ・ら・す・き・み・み・て)
(うらんでやる)
(そばにいて、そばに)
(お前のせいで)
(も・み・し・の・ふ・ち・に・わ・れ・お・ち・る・と・も)
(うらんでやる)
(そばに)
(げんじょう げんじょう げんじょう げんじょう)
視界の端で何かが飛んだ。
うわぁぁっぁぁぁぁぁぁぁ。
叫ぶと、不意に体が軽くなって、思い切り人垣めがけて手の中にあった小袋を投げた。
途端に視界が白壊して、ガバリと起き上がると、既に放送の終わったテレビから不規則な砂の流れる音がしているばかりだった。
夢……。
投げつけたはずの小袋は、テレビに当たって跳ねたのだろう、居間の入り口にポツンと落ちていた。溜息をついて、モゾモゾと小袋を取りにいくと、不意にピンポーンと能天気な音でチャイムが鳴った。
誰だよ、こんな時間に。夜中の2時ですよ?
夜中の2時。自覚して愕然とする。丑三つ時って今くらいの時間じゃなかったですっけ?
「克己くん……」
聞き覚えのある声。
「蛍さん!」
慌てて玄関に走ってドアを開けると、蛍が妙に神妙な顔をして立っていた。
「やっぱり心配になって。大丈夫?」
「蛍さぁぁぁん」
半泣きである。プライドなんて、そんな食べられないものに拘るからいけないのです。そうです。
「あぁ、やっぱり何かあるんだね。僕でよかったら相談に乗るよ。ね?」
優しいお言葉ですね。ありがとうございます。得体が知れないなんて、失礼なこと言ってごめんなさい。
「とりあえずうちにおいで、コーヒーを煎れてあげようね」
ずりずりと鼻を啜りながら、克己は大人しく蛍の後に続いた。克己の足元で、蛍にくっついてきたらしい猫がにゃーんと気遣うような声で鳴いた。
蛍の家は一人暮らしのくせによく片付いていて、なんだか落ち着く。ようやくソファの上で気持ちを落ち着かせ始めた克己の前で、蛍はコーヒーメーカーに豆を入れていた。
しかし、変だ。
新しく封を開けたコーヒーの袋の切れ端は、ポンと床に捨てられたままだし、勢い余ってこぼれた豆もそのまんま。こんなに綺麗に片付ける人のすることじゃないでしょう。
「克己くん、ちょっと待っててね……」
本人はそんなこと全く気にせずに、ただもくもくとコーヒーを煎れることに熱中している。
ふと、居間の片隅に置かれている碁盤に目が行った。
「蛍さん、囲碁できるんですか?」
囲碁は父の道楽で見たことはあるのだが、難しすぎてよく分からない。
「うん。源三郎さんと、たまにね……」
源三郎さん? はて、そんなおじいさんこの辺に住んでいただろうか? あ、それとも親戚か何かかな。
「さて、入ったぞ、と。じゃぁ、話を聞こうか?」
コーヒーを持ってテーブルまで歩いてくると、ふと、自分がこぼした豆の惨状を見て眉をしかめた。
「あぁ、やっちゃった。ゴメン、恋、掃除しておいて……」
恋? あ、蛍さん一人暮らしじゃなかったの?
まるで返事のようにふにゃぁと鳴いて、黒猫が床に飛び降りると、自慢の長い尻尾をブワリと膨らませて、ぱっさぱさと床を掃き始めた。
「あ、あれが恋ね。黒猫。メス」
はい? あの、掃除しているように見えるんですけれども。
「綺麗好きだからね、彼女……」
目が点。片づけをなさっているのは、蛍さんじゃなくて、彼女でしたか。はぁ、そうだったデスカ。
「で、聞かせてくれるかな。ご相談承ります」
なんとか意識を猫から自分に戻して、克己は今日の一部始終を語って聞かせることにした。
「なるほど、玄奘塚の隠された真実、ね」
一気に語り終えた克己はもう冷めてしまったコーヒーを口に運ぶ。横で考え込んでしまった蛍は、綺麗な指でトントンと額を叩いた。
「歴史と言うとやっぱり源三郎さんに話を聞くしかないかなぁ……」
おもむろに立ち上がって戸棚の方に歩いていく蛍を見て、克己は壁の時計を眺めた。まだ3時過ぎだ。いくら年寄りは早起きと言ってもまだ寝てらっしゃるでしょう、蛍さん。
だが、蛍は戸棚を開けると、一本の小さな竹の筒を取り出し、人型に切った和紙を床において、そこにしゃがみこんだ。
「源三郎さん、出番です……」
竹の筒に付いていた栓をポンと抜くとポヨンと頼りない煙が出てすっと和紙に吸い込まれていく。そして次の瞬間。
「はい?」
和紙は人になった。ダンディな背広を着て、恰幅のいい腹を多少もてあまし気味。年のころは50過ぎ、いいところの旦那さん、という感じ。だが、そのきっちりとした背広の上にある頭は。
「ちょんまげ〜?」
それはあまりにミスマッチ。
「あぁ、はじめまして源三郎です」
握手なんか求められても困ります。貴方は何処の誰ですか。
「源三郎さんは、呉服屋の旦那さんで、曾じいちゃんのじいちゃんの親友でね。悪ふざけで閉じ込められちゃったんだよね、竹筒に」
お言葉ですが、説明になってません。
「あぁ、ごめん、先に説明しておくの忘れたね、僕、探偵兼霊媒師なんです」
あぁ、そうですか。なるほど。ってやっぱり納得できません!
「ええと、つまりですね……」
克己の様子をみて、とにかく納得させるのが先決とばかりに源三郎は克己の顔を覗き込んで説明を始めた。
「私は蛍くんの曽祖父の祖父の友達で、ええと、江戸の世に生きておったわけですが、ひょんな事から閉じ込めの筒に入り込んでしまいまして、魂だけこの世に繋ぎとめられているんですよ。で、まぁ、ただぼうっと筒の中に居るのも暇ですから、蛍くんのお仕事の手伝いをしたり、囲碁の相手をしたりしているわけです。お分かりですか?」
克己は首をかしげた。
「つまり、一般的な言葉で言うと幽霊と非常に近いのですが、まぁ、いい事をしている幽霊とでも言いますか、そんな感じだと思ってください」
ね、分かったでしょ、とでも言うかのようにニコニコと笑って克己を見ている、ちょんまげ紳士。しかし、その姿はあまりにも……。
まぁ、いい。
克己は考えるのを諦めた。嫌な人ではなさそうだ。とにかく真剣に目を見て話す人だし。でも、まっすぐその様子を見るとどうしても笑ってしまうけど。
小さく克己の顔に笑みが浮かんだのをみてようやく安心したのか、源三郎はソファに座りなおすと、蛍を見上げた。
「さて、蛍くん、用事はなんだろう?」
これでようやく話が進む、蛍は克己が語ったことを掻い摘んで源三郎に聞かせることにした。
「玄奘塚ですか、なるほど。謂れについては私が生きておった頃と変りませんな」
話を聞くと源三郎は腕を組んだ。
「あの土地は寺の所有地でですね。私も昔、遊びに行ってはよく叱られておりました。何度か神隠しもありましてね。近所のものたちには近付いてはいけないと耳にタコができるほど言われたものです」
落ち着いた源三郎の語り口は、どこかほっとさせるものがある。
「して、その和歌ですが、それは確かに玄奘が残したものですな。玄奘に宛てたものではないでしょう」
「どうしてですか?」
何故そんなことが分かるのか。
「骨が見つかったのが、ちょうど私が40を過ぎた頃のことでしてね。もちろん重さん――あぁ、失礼、蛍さんの曽祖父の祖父の名前ですがね――も当時から有名な霊媒師でしたから、一緒に見に行ったんですな。で、そのときにその和歌の紙を見ましてね。字が同じなのですよ、玄奘が写経したという経典と。ですから玄奘が書いたもので間違いないですな」
うーん、と蛍が唸った。
「でも、生徒会長の事件と関係があるんですか?」
とにかく一番の疑問はそれだ。なんで今なのか。
「あぁ、そりゃありますわ。玄奘さんの血筋ですからな、あのボンボン」
玄奘が死んだのは数えの18つまり満17才の秋。会長はというと、そう、つい先日の誕生日で17才になったのだ。
「気になりますなぁ、私はちょっと重さんにでも話を聞いてきますよ」
源三郎さんはそのままポンと煙になって筒の中に去っていった。なんでも、一応あの筒は霊界とも繋がっていて、蛍さんのご先祖様ともお話が出来るのだという。嘘か本当か知らないが。
「あぁ、恋、ありがとう大変だったね……」
忘れていたが黒猫の恋は自慢の尻尾で豆類を掃き集め、塵取りにしっかり移した後、自分の尻尾も舐めて綺麗にしてしまっていた。
「この猫って……」
思わず尻尾を確かめてみる。猫又は尻尾が二つに割れてるって聞いたけど。
「恋も一度は死んでしまった猫だけれど、でも化け猫とかそういうのじゃないから」
失礼ね、とでも言うように尻尾をぶるんと震わせて克己の指から逃れると、恋はトンと蛍の膝に乗り、ゴロゴロと喉を鳴らした。
「この二人だけなんですか?蛍さんのお友達は」
どういう言い方をしていいのか分からないが、まぁ、こんな言い方しかできない。
「ん、まだまだ居るけどね。ご先祖様は大抵、呼び出せば手伝ってくれるし。でも、依り代がないとダメだけれどね。ご先祖様は普通の幽霊だから」
普通と普通じゃないのの違いってなんでしょうか、蛍さん。素直に疑問をぶつけてみると、簡単なことだった。
つまり、いったん成仏してしまっているのが普通の幽霊。成仏できていないのが普通じゃない幽霊。ちなみに源三郎さんや恋のように『使われる事』を了承していると成仏しないでいられるのだそうだ。
なんか、不思議な感じ。
「ほら、よく『死んでも天国から見守っているからね』ってあるでしょう?あれは成仏した普通の幽霊なわけよ。ただの気の塊みたいになってるから依り代が必要なんだよね。でも、成仏してないのはちょっと肉が残ってるから紙とかそういう人形を使ってあげればいいんだよ。あ、恋には猫型を使ってるけどね、ちゃんと」
なるほど。
「あぁ、朝だねぇ……」
カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。今日も空は高く、雲はいつものように白い。だが、ちっとも日常なんかじゃなかった。
「えと、基樹くんだったっけ、シナリオを書いて、あの和歌を知っている子。どうやらあの和歌は玄奘塚の怨霊を呼び出す歌みたいだから口にしないように言っておいてね。できればシナリオもその部分だけは書き直すようにお願いして」
とにかく源三郎さんの情報収集を待って、それからこれからの計画を立てる算段らしい。でも、そんなに悠長でいいのだろうか?尋ねると蛍はこともなげに言った。
「まだ紅葉が色づいていないでしょう?だから大丈夫」
蛍は伸びをすると、克己の頭をポンと叩いた。
「まだ学校に行くまでには時間がかかるから少しでも仮眠を取ったら?起こしてあげるから」
克己は甘えることにした。
心臓破りの坂を今日も克己は自転車を押して歩いている。いつもと違うのはほんのちょっぴりいつもより時間に余裕があるくらいのものだ。さすがにひとさまの家、我が家のように「あと五分〜」なんて駄々はこねられなかったのだ。
「っはよ〜」
今日も学友は自転車を漕いで登って行く。日常である。
だが、そんな日常は教室に入ってすぐに打ち破られた。
「克己、基樹の昨日の様子、どうだった?お前、珍しくいろいろしゃべってたじゃん」
駆け寄ってきた徹に朝の挨拶をされるより早く質問される。なんか、嫌な感じがする。
「別に普通だったけど、基樹くん、どうかしたの?」
「家に帰っていないって言うんだ」
やっぱり。
生徒会長行方不明事件は、我ら東上学園生徒連続失踪事件へと発展した。
玄奘塚をやけに気にしていた基樹、もしかしたら昨日の放課後に裏山に行ったのかもしれない。そして、消えたのだ。
基樹はあの和歌は玄奘に宛てた和歌だと考えていた。そして、玄奘そのものを祟り神だと思っている。骨は玄奘が恨みに思っても復讐しに来れないように手と足を分けられているのだと。そう考えているならば、玄奘塚に行ってまず最初に何をするだろうか。
そう、和歌を詠むのだ。それは玄奘に宛てた和歌だから。玄奘を呪縛するための歌だと思っているから。
悠長に授業なんか受けていられない。はやく蛍さんに知らせなくちゃ。
「徹、今日、僕欠席だから。適当に担任に言っといて」
後ろの方で徹が何か叫んでいたが、そんなものには頓着せず、廊下を駆け下り革靴に足をねじ込んで、止めたばかりの自転車を引きずり出すと、心臓破りの坂めがけて今来たばかりの道を駆けていく。
「ありゃ〜いっちまたよ……」
呆然と窓からその様子を見送った徹は肩をすくめて、そのままひょいと空を見上げた。そして、異常な光景にその瞳を奪われた。その視線の先で、昨日までは青々とした緑の葉で彩られていた裏山が、螺旋を描く紅葉道に沿って異様なほど紅く色づいていた。
駆け上がる時は心臓破りの坂。では駆け下る時はどうだろう?
分かりきったこと。重力の法則に従い走る凶器と化すのである。
「止めて〜」
悲鳴のような声をあげて、狂ったように落ちていく自転車にしがみつき、ハンドルを何とか切っていけるのはまさに奇跡。
重浦克己、意外な才能を発見いたしました。
「誰か〜」
克己はどんなに握り締めても効かないブレーキを握り締めて、ただただハンドルを切る。人影がないのが幸運なのか不運なのか、克己は結局片足を地面に擦り付けて、なんとか自転車を制御した。
こんなことをしている場合ではない。はやく蛍さんちに行かなければ。
速度の落ちた自転車の上ではたと気付き、またおもむろにこぎ出す。怨霊にはとっとと成仏してもらうのだ。精神衛生上それが一番望ましい。
「頑張れ〜」
意味もなく自分を叱咤激励すると、克己は自転車をこぐ足に力を込めた。
「じゃぁ、克己くんが語ったシナリオって言うのは、真実に近いって言うの?」
腕組みをしてソファに座る源三郎に蛍は問い掛けた。
「重さんにいろいろ聞いてもらったんだが、玄奘塚の主は『童』と呼ばれているらしいんですな。年の頃は5つばかりの童で、捨て子だとか……」
浮かばれぬまま幽体になって500年あまり、その間に次第に力を貯めていき、突然こんな騒ぎを起こしたとでも言うのだろうか?
「重さんの話では、玄奘の骨が分けられたのは、村人のせいだということでした。即身仏のような玄奘を見て、和尚が止めるのも聞かず尊いものとして骨を分けたのだと。和尚は手足を取られた玄奘を不憫に思って、祠に足りない部分を補うように仏像を彫ったようです」
はぁと、蛍は溜息をついた。なんともかわいそうな話だ。
「重さんに口を酸っぱくして言われたのですが、その『童』が引き起こした騒動なら、おそらくは捨て身だから気をつけろと。できれば関わって欲しくないそうですけどね……」
蛍の曽祖父の祖父である重蔵は一族きっての霊能者で、生前はかなりの活躍をした人だ。今なお、子孫の家業を思って、注意忠告、調査の手伝い、悩みの相談まで請け負っている。もちろん、親友であった源三郎をこの世にこんな形で繋ぎとめてしまった自責の念もあってのことなのだが。
「シナリオを書いた子は、どうして、あんな話を思いついたんだろう……」
想像だけであのシナリオを考えたのだとすれば、逞しい想像力だ。だが、あのシナリオを無意識のうちに書かされていたとしたら?
「その子、危ないな……」
小さく呟いて、考え込んだ時、悲鳴とともにガチャンと何かが門柱にぶつかる音がした。
門柱の傍には大事な盆栽があるというのに。
蛍は慌てて玄関を飛び出した。
よかった。盆栽は無事だ。せっかくここまで手塩にかけた大事な松を、台無しにされたら哀しい。
「蛍さん……」
哀しくも無視された克己は、崩れた自転車の下から蛍の顔を仰ぎ見た。
「基樹くんまで、いなくなっちゃったよ……」
主人に付いて飛び出してきた恋が、克己の顔の傍まで行って、気遣わしげに小さく鳴いてみせた。
「大丈夫ですかな」
源三郎に抱え起こされて、克己はほっと溜息をついた。蛍はというと、最初の姿勢のまま考え込むように立ち尽くして全く動く気配がしない。
「蛍さん?」
「しっ」
源三郎に止められて、克己は言葉を飲み込んだ。
「蛍くんの癖です。今、恐ろしいほどの速さでいろんな考えと感覚が頭の中を回っているのですよ……」
しばらくはあのまま動かないでしょうから、その間に傷の手当てをしてあげましょう、と言うと、源三郎は強引に克己を部屋の中に押し入れた。気遣わしげに蛍を見上げた恋は、そのまま蛍の足元にうずくまり、ぴたりと顔を地面につけたまま目をぱちくりさせている。
「蛍くんのことは放っておいて、シナリオを書いた子が失踪したんですね?」
源三郎の口調は優しいが、視線は厳しい。
「ええ。学校に行ったら、友達が昨日基樹くんに変ったことはなかったかって。理由を聞いたら失踪したんだって」
すぐに知らせた方がいいと思って、すぐに帰ってきたんです、と言うと、源三郎は良く出来ましたというように克己の頭を撫でた。
「賢明です。私たちも早く対応しないと、ちょっと面倒なことになるかもしれませんね……」
誉められた。嬉しい。
「その、基樹くんという子について、何か知っていることはありませんか?」
考え込む。もともとそんなに親しいわけではないので、知っていることと言ってもそう多くはない。
「家は、歯医者さんとか言ってたかなぁ、隣町なんですけど。一人っ子で、成績は良くて……」
でも、いつも一人で居る。人好きのする性格だし、几帳面だし、嫌われるタイプではないのに。
「その子のお母さんは?」
不意に横から声がして、克己は飛び上がった。いつの間に来たのか、蛍が厳しい顔をしてそこに立っていた。
「基樹くんのお母さん?たしか、父子家庭だったはずですけど。離婚なのかとか、そういうのは分からないですけど……」
「なるほど……」
源三郎が小さく呻いた。
その気持ちで同調してしまったのか。母を思う子の気持ちで。
「玄奘塚に行こう……」
シナリオを書いている頃から少しずつ同調していたとすれば、既に2週間ほどは同調していることになる。童が基樹を害するつもりで同調しているなら、非常に危険だ。
源三郎はポンと煙になって筒に入った。確かにスーツにちょんまげでは外には出れない。
「克己くんはここで待っていなさい」
思いのほか厳しい蛍の顔が目に入った。けれど、基樹くんはまがりなりにもクラスメイトなわけだし、はいそうします、なんて人非人なこと言えるわけないでしょ。
「僕も行きます!」
怨霊に文句の一つや二つは言ってやりたい。心配している人だってたくさん居るんだぞと。
とにかく克己は蛍の止めるのも聞かず、蛍の愛車、ホンダのお買い物車、旧型シビックに飛び乗ると、ついさっき自転車で駆け下りたばかりの道を、再び学校へと向かったのだった。
山が赤い……。
学校の前で車を乗り捨てて、裏山の入り口まで走ると、その異様なほどの山の赤さが、いっせいに色づいた紅葉のせいなのだということがすぐに分かった。
「昨日までは、まだ、緑のままだったのに……」
一夜にして色づいた紅葉。その色は常の紅葉とは違って、どこか禍々しい。
「克己くん、付いて来るのはいいけれど、これを無くさないように持っていてね」
蛍は昨夜渡したものと同じ小さな小袋を克己に渡した。
「いいね、絶対離しちゃダメだ。離してしまったら、僕も安全を保障できないからね……」
やめちゃおっかな、なんて考えが頭をよぎる。やっぱり相手は怨霊なわけだし、一般人の僕が居ても、ねぇ。
思わず考え込むと、ふと、昨日の基樹の顔が思い出された。短歌が交霊術で紡ぎだされた時の、苦しげな顔。その後、一人で窓に寄りかかって、裏山のほうを眺めていた。シナリオを読み終わって、怖かった、と正直に感想を述べると、小さく笑った。
僕、あんまりやりたくないな……。
曖昧に笑ったまま、そう言った克己の言葉にただ、小さく首をかしげた。どこか遠いところを見ている目で。
「じゃ、行くよ……」
蛍の声に促される。
行かなきゃ。でも、行かなきゃ。
クラスメイトの中で、少なくとも僕だけが基樹くんのその顔を見たのだから。彼は僕を名指しで最初のシナリオの読者に選んだんだから。たとえそれが、僕が怨霊の役だからという、ただそれだけのことだったとしても、彼はシナリオの中にきっと、彼自身が伝えたかったことを書いていたに違いないのだから。
だから行かなきゃ。
いつも一人で居る基樹くんが、そのときだけは、僕の傍に居たんだから。
「はい……」
紅葉の赤く色づいた道を横に見ながら、まっすぐに楓の道を登り始める。ざわりと風が木を揺らした。
怖いよ。怖い。馬鹿みたいに。風に揺れる葉も、枝も、足の下でポキリと折れる小枝の音さえ。耳に聞こえる全てが、肌に感じる全てが、馬鹿みたいに怖いよ。
うっそうと頭の上にかかっている楓の茂みはまるで、何か巨大な生物の胎腔みたいだ。僕達を頭からペロリと飲み込んで、人にそうとは知らせずに存在まで消していってしまいそうで。
ぎゅっと小袋を握り締める。じっとりと掌に嫌な汗をかいているのが分かる。
頑張れ〜。
自分を励ます言葉をただただ頭の中で繰り返して、克己は地面だけを見るようにしながら砂利を踏みしめて楓道を登り続けた
頂上から紅葉道に入ると、ほんの100mも行かないところに玄奘塚はある。紅葉に囲まれた小さな墓標のような塚があって、秋の気候のいい日は赤い紅葉を透かして差し込む光が、優しげに石を染め上げるのだ。
だが、今は違う。狂ったように真っ赤に燃える紅葉が、火のように塚を飾り立てている。
思わず克己はぎゅっと拳を握り締める。右手の中の袋は小さくて頼りない。
「さて、出て来てもらわないことには話が出来ないね……」
塚はしんと静まり返っていて、何の気配も感じない。だが、確実にそこにいることだけは確かだろう。ざわざわと風もないのに揺れる紅葉が笑っているようで、無駄に不安を掻き立てる。
「克己くん、和歌を詠んで……」
古文は苦手だ。なのにあの和歌だけは妙にはっきりと覚えてしまった。
「真澄鏡 面影去らず……」
古文なんて意味も何もわからないくせに、それでも初めて読んだときから、妙にちくちくと胸を刺す言葉の響き。それはたぶん、言葉の中に言語化されない意味があるからに違いないんだ。
「君見ての紅葉の淵に我落ちるとも……」
がさりと紅葉の梢が鳴った。
これは恋の歌なんだよね。たぶん。けして叶わない恋の。だから胸が痛いんだ。
基樹くんと生徒会長を返してよ。おかあさん、心配しているんだよ。手書きのビラまで作ってさ。
「もう一回……」
ざわざわと次第に激しくなるざわめきに眉をひそめながら、蛍はじっと梢の一点を見つめている。
真澄鏡 面影去らず 君見ての紅葉の淵に我落ちるとも……
最後の声が紅葉の葉ずれに消えた時、ガサリと音がして、塚の裏から基樹の顔が覗いた。焦点の合わない目でぼんやりと克己を眺めると、不意ににやりと笑った。
「基樹くん……」
思わず駆け寄ろうとした克己を蛍は慌てたように止めた。
「ダメだよ、そこにいて、近寄っちゃダメだ」
「あたしをつれにきたんだろ……」
不意に小さく笑って基樹は奇妙な声で話しはじめた。
「いやだよ。いかないよ」
歪んだ顔。薄く笑った唇。塚に寄りかかったまま、基樹は狂ったように笑った。
「基樹くん……?」
違う。基樹くんじゃない。
顔の作りは基樹のままだたが、いつもは引き結ばれている唇は薄く笑ったまま仏像のような意味深な微笑を浮かべている。血の気の引いた頬は硬くて、切れ長の目は克己を見つめながら、そのくせ克己の体を突き抜けてどこか遠くで焦点を合わせているかのようだ。
「生徒会長は……?」
克己から視線を移さないまま、基樹は塚のほとりの草むらを指差した。僅かにバスケットシューズのつま先が見える。たぶん、横になっているのだ。
「会長!」
「克己くん! ダメ」
再度、蛍に止められて、克己は慌てて駆け寄りそうになった足を止める。蛍の額にじっとりと汗が浮かんでいる。
「きついでしょう?だってここはあたしの場所だものね。場があたしに味方してくれる。おまえ、強いね。ふつうならもうとっくに気をうしなっているのに……」
基樹はにやりと蛍を見て笑う。唇だけが赤い。視線をちらりと茂みに移すと、満足そうに微笑んで、基樹は再び克己を捉えた。
「げんじょうのバカ、ずっとそばにいるなんて言って、骨まで分けられたくせに、死んだ翌日にはあっさりひとりで成仏して……」
たったひとりで、500年。げんじょうの分けられた骨を取り返そうにも、あいては寺の中。もみじだけがなぐさめで、いつのまにか、げんじょうと似た少年が、近くで笑うようになって。
「欲がでた……」
何を考えているのか分からない無表情。
ずっとそばに居るなんて言って……?玄奘が……?
情況をつかめぬまま首を傾げている克己を見て、基樹は可笑しそうに笑うと言葉をつなぐ。
「きみには読ませてあげたじゃない。あの話はあたしの話。本当のことだよ……」
同じ日に寺の境内に捨てられた、男の赤子と女の赤子。一人は紅葉の木の下、一人は茂みの中、一人は拾われて、一人は犬に食われた。
「ばかな話、生きているなんてことも分からないまま、死んだから、死んだなんてしらなかったんだから」
ぶよぶよと泥の塊に心を寄せて、ようやく自分がこの世のものではないと悟ったのは、もうずいぶん経ってから。小さかったあたしの骨はもう、散り散りになってどこにあるかも分からなかった。あたしを食った犬だって、とっくの昔に飢えて死んでた。げんじょうだけが、寺の中で、笑ってた……。
「げんじょうを憎んでた。そうしないと、あたしでいる意味もなかった。取り殺そうとした。罠をかけて、連れ込んで、呪い殺そうとした」
なのに、あのバカは、あたしのために経なんてあげて、挙句にずっと傍に居るなんて言った。ほだされて、約束までしたのに、あのお人よし、とっとと一人で成仏した。
そして、また、あたしは一人になった。
ずっと、げんじょうが最後に詠ってくれた和歌を詠んでた。
真澄鏡 面影去らず 君見ての紅葉の淵に我落ちるとも
もみじだけが、毎年赤く色づいて、塚の周りに小さな赤い日だまりを作った……。
ぼんやりと基樹の視線が宙をさまよった。無表情なその顔を、克己は淋しそうだと思った。基樹が一人で居る時に、時折横顔の中に浮かべる表情と似ている。
そのとき、不意に風が吹いて、ピシリと耳を打つ音が聞こえた。
「縛!」
はっとして蛍を振り返ると、奇妙な形に両手を結んで、まっすぐに基樹を見つめている。
「蛍さん?」
「場の形が不利で今まで時間がかかったけど、気を抜いたね、今。早速、強制撤去するからね」
強制撤去? 怨霊を?
いや、そもそも、これが怨霊? 本当に?
こんなに淋しそうな顔をして、まるで子供が駄々をこねているようなことを泣きそうになりながら言っている、これが、怨霊?
「強制撤去するとどうなるの?」
「何もなくなるんだよ……、成仏でもなく、地獄に落ちるわけでもない。最初から何もなかったのと同じことになるんだ」
何もなくなる。数日でも生きたという事実も、生まれたということも、悲しんだということも、苦しんだということも、淋しかったということも、全部なくなる。
「ダメだよ!」
可哀想じゃないか。やったことは誘拐だし、やろうとしていることは殺人だけど、でも、だからって、それが存在すら許さない罪なの? 自分達に都合の悪いものを排除することだけが正義じゃないでしょ?
克己は不自然な形のまま動きを止められてしまっている基樹の体に抱きついた。
「克己くん? このままじゃ、基樹くんも生徒会長も……」
分かってる。基樹くんも、生徒会長も救いたい。助ける。だってそのためにここに来たんだし。でも、だからって、またこの子を一人にするの? ただ、淋しいと泣いているだけのこの子を。
「僕の中に入ればいい」
基樹くんと生徒会長を返して。その代わり、僕が傍に居るから。
「そばに、居る?」
きょとんとした顔で、基樹が呟く。不思議なものを見るような顔で、克己を眺めると、首をかしげた。
「僕の中に、君の居場所を作るから。だから、君は僕が死ぬまで、僕の体の中にいっしょに居てもいいから」
世の中には、心が幾つにも分かれて、幾つもの人格と共存して生きてる人が居る。だったら、最初から違う人格でも、共存をお互いが許せば、一緒にいられるかもしれないじゃないか。
「きみ、怖くないの? あたし、きみから全部取っちゃうかもしれないよ」
いや、それは困る、それは大変困るんだけど。でも。でもさ。
「君、生まれて、そして、生きようとしたんでしょう? なのに、何にもないのと一緒になるなんて、僕はいやだよ」
克己は右手を高く差し上げると、掌に握り締めていた袋をポトンと落とした。もう、克己を守ろうとする力は、何もない。
「克己くん!」
驚いたような蛍の顔が、視界の隅に見えた。
ごめんね、蛍さん。無茶言って付いてきた挙句、我侭なことばっかり言って、仕事の邪魔ばっかりして。でもね、嫌なんだ。
そういうふうに、ただ、力で正義を押し付けるのは、すごく、嫌なんだ。
ありがと。
小さな声が聞こえて、不意に基樹の体が崩れ落ちた。視界の端で、蛍が何か叫んでいるようだった。
おかあちゃん。留守番ちゃんとできなかったかも。ごめんねぇ。
炎のように燃え上がった紅葉の葉が、はらはらと風に舞って、瞼に幾つもの赤い筋を残した。
赤い赤い、雨が降る。
そして、目の奥に熱い光が浮かぶと、ガツンと脳天を突く痛みが走って、克己の意識はそこで途切れた。
か……く…。
かつ……ん。
かつみくん……。
誰、呼んでるの。あと5分寝せて。
おねがい。かあちゃん……。あと5分だけ。
「克己くん」
あれ、かあちゃんじゃない?
そうだ。かあちゃんは、じいちゃんの病気で田舎に。
克己は飛び起きた。
裏山に行って、紅葉が散って、気を失って。ここはどこ。私は誰?
目の前に心配そうな蛍の顔がある。見回すと、どうやら蛍の部屋らしい。
「蛍さん、僕?」
(ねぼすけだなぁ、起きろよ!)
耳元で聞く大声。誰? そんな大声出さなくっても聞こえるって、年寄りじゃないんだから。
振り返ると、白々とした空間がそこに広がっている。
(バカだなぁ、あたしだって、あ・た・し)
この声は、体の中で響いている。ということは、この声は僕の声である……。
思い出した。一緒に居ようと言ったんだ。体の中に居場所を作って。
「あ〜。えーと」
君、じゃ変だし。名前を呼ぼうにも、名前を知らない。
「なんて、呼べばいいんだろう……?」
不意に、元気だった声が途切れた。
(……。あたし、名前、ないよ。付けてもらう前に、死んだから……)
あ、悪いこと言っちゃった。そうだよね。そうだったよね。
一番最後の記憶、視界を埋めるように散る紅葉。赤い、赤い雨。誰かを思う気持ちと同じ色だよね。
「もみじ、は、嫌?」
(もみじ?あたしの、名前?)
あ、ダメかな。こういうの、センスないし。僕。
(……。うれしい……)
かぁぁっと眦に熱が集まってきて、意志とは全然関係なく、ぽろんと涙が落ちた。
「バカっ。泣くなよ」
慌てて自分で自分の涙を拭きながら、苦笑する。これは慣れるまで時間がかかりそうだ。
ま、いいか。
視線を蛍に戻すと、蛍は困ったような顔をして、その様子を眺めていた。
「基樹くんと、生徒会長は?」
今、ここに、もみじがこうして居るということは、もちろん、二人が無事であるということに違いないのだけれど。
「近くに小さな窪みがあったから、そこに足を滑らせたということにして、警察に届けたよ。もう、二人とも家に帰ってる。大丈夫、二人とも、あまりその時期のことを覚えていなかったから、誰も不審に思う人は居ないよ」
よかった。
「提案があるんだけど……」
提案?なんでしょ。
「もみじ、成仏したい?成仏して、玄奘に会いたい?」
「できるの?」
(できるの?)
ハモると、頭の奥がガンガンする。お願い、もみじ、もう少し声は小さく。
「今すぐに、っていうのは無理だけど、もし、もみじが使い魔として働けば、いつかは成仏できるんだ。今のままでは、ちょっと悪行の方が多すぎて無理なんだけどね」
使い魔として働くということは、つまり、源三郎さんや恋のように働くということで。もみじが働くということは、即ち僕が働くということで。
(……。でも……)
もみじが黙っている理由がわかる。玄奘に会いたいくせに。きっと、僕のことを気にしているに違いない。
「いいよ。蛍さんの手伝いをすればいいだけでしょ?」
バイト料くれるかなぁ。無理かなぁ。
(克己、いいの?)
「同じ体の中に居る仲でしょ?」
こういうことも全部含めて、傍に居ようと思ったんだよ。僕には、今まで持っているものが、持っていて当たり前だったから。でも、当たり前じゃないことが、よく、分かったから。
(ありがと……)
眦の熱感。
「だから、そう、すぐ泣くなって!」
泣き虫幽霊め。
柱時計が鳴る。外の光明るい。カーテン越しの光は朝の色。
「9時って、僕、まさか、一日寝てたの?」
「うん。熱も出てたし。あぁ、学校には連絡してあるよ。文化祭はいろんなことがあったから、一週間延期」
取り憑かれると熱が出ることはよくあることらしい。知恵熱のようなものだと、蛍が笑った。体の中でもみじが申し訳なさそうにごめんねぇ、と言った。
しかし、まる一日近く寝つづけるなんて。あぁ、見たいテレビだってあったのに。
まぁ、いいか。天気のいい土曜日。今日はかあちゃんも帰ってくる。
そして、はたと気付いた。
電気が全部付けっぱなし……。テレビさえ……。布団は居間に放りっぱなしだし。
「僕、いったん家に帰ります〜」
帰ってくる前に、なんとしても片付けるのだ。たった二晩の留守番が怖くてたまらなかったなんて思われたらそれこそ男の沽券に関わる問題だ。
玄関で靴に足をねじ込むと、かなり大破した自転車を押して、隣の我が家に帰る。その背中を、あっけに取られたような恋の鳴き声と蛍の笑い声が追いかけてきた。
とりあえず不要な部分の電気を消して、布団を抱えあげ、部屋に運び入れた。シーツの皺を伸ばして、整えると、机の下に隠しておいたアイドルの写真集を布団の下に入れ込む。
やっぱりここじゃないとね。
階段を下りて初めて留守電の点滅に気がついた。
『あぁ、克己?お母さんだけど。明日、10時くらいには家に着くから。まぁ、学校に行ってるだろうけどね……。それだけ。ちゃんと戸締りしてね』
昨日の夜の電話。
声が明るい。きっとじいちゃんの容体が少しは良くなったんだろう。
(これ、克己のおかあちゃん?)
「そうだよ。昨日、電話してくれたみたい」
(ふうん……)
そのとき、ガチャリと鍵の音がした。かあちゃんだ。
「かあちゃん、鍵、開いてる」
「克己?」
驚いたような声。当たり前か、普通、学校に行っている時間だから。かといって、いまさら学校に行っている振りなんて出来ないわけで。
「あんた、学校どうしたの?」
買い物袋と小さなボストンバックを両手に下げて、母が玄関で絶句している。息子は、寝崩れた普段着で、寝癖さえ直していない。
「あ、あのね、昨日、熱出ちゃって。蛍さんが、いろいろ世話してくれたんだけど、今日も休んだ方がいいって、学校に連絡してくれて……」
嘘じゃない。全部嘘ではないぞ。
「熱って、ちょっとあんた」
慌てて靴を脱いで、袋を床に置くと、こつんと額が押し当てられる。あぁそういえば、小さい時から、熱出した時は体温計より何よりこれだったっけ。最近は熱なんて出さなかったからすっかり忘れていたけど。
熱を測るこの行動は、絶対かあちゃんにしか許さなくて、とうちゃんが同じことをしようとしても逃げ回っていた。そして、よくかあちゃんに叱られた。でも、幼いながらに、それはとても神聖な儀式で。
「今は、なさそうね。とにかく、具合悪いなら寝てなさい。ご飯は?食べてないんでしょう?」
すぐ作るから待っていなさいと、声がする。
じわじわと、記憶に新しい感覚が胸のあたりから湧いてきて、ゆっくりと眦に集まりだす。
やばい。やばいって、もみじ。
「あ、うん。僕、寝るね」
慌てて階段に走る。
気持ちはわかる。分かるんだけどね、もみじ。
部屋に滑り込むと、途端に気が抜けて、ベッドに座り込んだ。
眦に盛り上がった涙が、ポツンと頬を伝って落ちてくる。
「バカだなぁ、泣くなよ」
枕を膝の上に置いて、顔を埋めてみた。
嘘、泣いていいよ。しょうがないから。
「克己〜?ヨーグルトとプリン、どっちがいい?」
階下で母の声がする。いつまでも子ども扱い。でも、いいか。
重浦克己、中学2年。頭の出来は中程度、走らせても平均値、外見もまぁ人並みで、ただ背だけは小さい方。
そして、今日から怨霊少年。
窓から見える秋の空は高く、雲は白い。
そう。今日もまた、日常の断片。