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学園コメディオカルト小説:「ご相談承ります! 〜怨霊少年〜」
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『ご相談承ります! 〜怨霊少年〜』 [ 1 ]

 この世に秋という季節がある限り、そして、青少年の文化の祭典などという美しき煽り文句が消えない限り、文化祭というものは存在するのだろう。たぶん。
 それにしても、なぜ人というものは「肝試し」なるものを好むのか、僕には皆目分からない。別に好き好んで怖い思いなんてしなくてもいいではないか、そうは思わないかな、生徒諸君!
 中学2年、ようやく成長期に差し掛かった、まだまだクラスでも背の低い方から数えた方が早い少年、重浦克己は心の中だけで高らかに意見を述べていた。もちろん周囲の人間は克己のことなどほとんど眼中に無い。
 克己はどちらかというとあまり目立たない種類の人間で、お頭の出来も中程度、走らせても平均値、外見もまぁ人並みで、ただ背だけは小さい方なので、周囲の認識が『あぁ、あの小さな克己くん』というものだという、ちょっと可哀想な気もする少年だ。没個性という言葉がとても当てはまる。もちろん克己本人もそういう自分の特性はよく理解していて、派手すぎず地味すぎず、日々周囲の認識のまま生活していてもこれといって不満は無い。
 文化祭かぁ。
 ふうと克己は溜息をついた。
 何を好き好んで、既に涼しくなったこの季節に肝試しなんぞをやるんだろう。幽霊なんかさぁ、別に見たいものじゃないんだと思うんだけどねぇ、僕はさ。
 学校近くの心臓破りの坂道を、とうの昔に自転車で登ることを諦めて、克己はもう一度大きく溜息をついた。
「克己〜。っはよ〜」
 どこか間延びした朝の挨拶を投げかけながら、隣を自転車で駆け上がっていくクラスメイトの後姿を見つめて、しみじみと克己は呟いた。
 君達は元気だねぇ、今日も。
 秋の晴れた空はいつものように高く、雲はいつものように白い。日常万歳。
 重浦克己、今日も普通に生きてます。

 坂もようやく終わりが見えてきた頃、克己は向こう側からのんびりと歩いてくる背の高い人影を認めて、思わず足を止めた。彼の周囲の空気はのどかだが、それよりさらに回りにある空気は色めいている。大抵の高校生は思わず自転車をこぐ足を止め、重力に従って坂を下りかけているし、ゴミを出しに表に出た主婦はボトリとゴミ袋を落とした。カツンという硬い音がしたので、今日は缶の収集日なのだろう。
 そんな周囲の雰囲気を気にもとめず、あくまでものどかに歩いてくる人物の名を克己は知っている。
「蛍さん?」
 そう、彼の名は一条蛍。職業は探偵。黒猫と同居していて、たいそうな美形だが盆栽が趣味だ。しかも引っ越した際には向こう三軒両隣に贈り物も忘れない律義者。何故こんなにも詳しいのか疑問だろうか。この一条氏、克己の比較的新しい隣人である。もともと先祖はこの近くに住んでいたそうで、ようやくご先祖の供養が出来ますと言っていたから、非常な信心者だろう。
「克己くん」
 笑顔。途端に周囲の人間から感嘆に似た溜息が漏れる。いや、さすがだ。
「どうしたんですか?こんな時間にこんなところで」
 散歩に来るには遠い距離。笑顔のままで蛍は克己の傍で足を止める。
「ん。お仕事」
 見ればうっすらと目の下にクマが出来ている。徹夜でもしたのだろうか。
「あぁ、お仕事ですか、大変ですね」
 周囲からの尋常ではない視線が僕は痛い。日頃、注目されなれていないせいもあるのだが、羨望交じりの視線がじりじりと背中を焼く。うう、蛍さん、よくこんなのに平気でいられますね。
「いや。あ、そうだ。お母さんに『この間はお煮付をありがとうございました』と伝えてくれないかな」
 蛍さんが隣に越してきたことを家族の中では母が一番喜んだ。ちょっと自信作ができると『作りすぎたので』と見え見えのことを言いながら蛍さんにおすそ分けする。そして家に帰るなりしみじみと呟くのだ。あぁ、いい男は目の保養だわ、と。
 蛍さんが引っ越してきて以来、いわゆる『おふくろの味』のような料理ばかりしか作らなかった母が、今ではロールキャベツだのビーフシチューだの若者好みの料理を頑張って作るようになってくれたのには感謝している。蛍さまさまなのだ。
「はい。あんまり無理しないで下さいね。お仕事」
 感謝の気持ちを込めて、僕は精一杯の笑顔を顔に浮かべた。
「うん。克己くんも遅刻しないようにね」
 花のような笑みを浮かべながら蛍はポンポンと克己の頭を叩く。親愛の情から来る行為だとは思うのだが、ちっちゃいねぇといわれているようで少々悲しい。
「あ、そうだ……」
 不意に何かに気付いたように克己を改めて見つめると、蛍はその綺麗な指で額を掻いた。
「あのさ。学校で最近変なこととか、無い?」
「変なこと、ですか?」
 文化祭一色に染まりつつこの時期、もちろん学校全体がお祭り気分になってきてはいるが、別にこれと言って話題になるようなことは無い。というより、文化祭のことに皆が集中しているので、逆に日頃話題になる小さな事件はなりを潜めている。
「特には無い、と思いますけど……」
 歯切れの悪い克己の言葉を聞くと、蛍は笑った。
「そうか、なんか変なこと訊いちゃったね」
「いえ、僕、あまり噂とか敏感じゃないから、もしかしたら僕が知らないだけかもしれませんけど……」
 一瞬、蛍が黙った。そしていつものやんわりとした微笑を向けると、再び克己の頭をポンと叩く。
「もし、変なことがあったら教えてね」
 仕事がらみだろうか、曖昧に頷いてちらりとそう思った。
 別れの言葉を交わして蛍の去っていく背中を見送ると、不意にどっと人が押し寄せた。
「ちょっとちょっと、克己くん今の人、誰よ。知り合いなの?名前なんていうの?ねぇ」
 いつもは挨拶しか交わさないクラスメイトの女の子の鼻息が荒い。まったく見ず知らずの人間まで聞き耳を立てているのが分かる。
「隣に住んでる人……」
 あぁ、僕の目立たない日常を返せ。返して、蛍さん。
 そんな僕の心の呟きも知らず、彼女がぽつんと呟いた。
「いやぁ、いい男は目の保養ねぇ」
 克己は思わず溜息をついた。



 文化祭を3日後に控えた今日からは、午前中だけが授業で、午後からは準備に当てられている。我がクラスは理科室と実験室を借り切っての肝試しを出展。物語のような構成になっていて、その名も「玄奘塚哀話」という野暮ったさ。学校の裏山にある玄奘塚の言い伝えを元にした話だ。もともと玄奘という坊様が魔物に魅入られた、という昔話があるので、それをベースにしている。もう使わなくなった廃品のマネキンを貰ってきたり、血糊の色を工夫したりと準備には余念が無い。
「克己くん、衣装合わせやるからこっち来てくれる?」
 克己は体が小さいという理由だけで狭いところから飛び出す幽霊の役だ。
 まぁ、文化祭の汚れ役なんて男子がやるのが当たり前なのだが、隠れる場所が狭いから小さな克己くんにやってもらいたい、と面と向かって言われるなんて思わなかったよ、委員長。友達だって思ってたのに。
 しぶしぶ重い腰を上げて衣装係の女子の前に行くと、バサリと着物を渡された。
「ちょっと着てみて」
 紅い牡丹の模様の着物。からし色の幅広の帯。ポンと一番上に無造作に置かれたやけに長い髪の鬘。
「これ……」
 絶句。女形だったのか、僕は。
 その微妙な沈黙を控えめな優しい声が破って捨てた。
「私のお古で悪いんだけれど、まぁ、サイズとかはあまり関係ないからちょっと羽織ってみてよ」
 いや、違うんだ。僕はそんなことを気にして絶句したんじゃないんだよ、林田さん。
 克己は気遣うように優しげに自分を見つめて小首をかしげている林田園江を見上げた。そう、見上げたのだ。園江は克己より10センチも背が高い。
「……。分かった……」
 いや。よそう。クラスの大半の女子は僕より背が高いんだ。そうだよ。小さい女の子の汚れ役が必要なら僕になってしまうよね。
溜息をついて克己はブレザーとシャツを脱ぐと、グレーのTシャツの上からおもむろに着物を羽織った。ずるずると裾が足にまとわりつく。
 ええと、着物ってどっちを上に持ってくればいいんだっけ。というよりこの裾はどう処理したらいいんだろう。
「貸して、着せてあげるから」
 てきぱきと園江の指が動いて、裾を揃えて腰紐を結び、パンパンとウエストのあたりにたくし上げられた余り部分を整えた。見事。
「はい、袖持って腕上げて」
 くるくると帯が巻かれ、後ろの方でぎゅうぎゅうと締め上げられる。苦しい。昔の女性はずっとこんなものを着ていたのか。そりゃあ従順な女性が多くて当たり前だ。これじゃぁただ立っているだけで苦しい。
「出来上がり」
 ポンと背中を叩かれて、思わず前につんのめった。めったなことはしないでよ林田さん。君、高校に入ったら砲丸投げの選手になるのが夢なんでしょ。
 恨めしげな克己の視線には気付かず、途端に周囲の少女達が歓声を上げた。
「え〜。可愛い〜。克己くん似合う〜」
 男に、しかも体の小さい男に可愛いは禁句だろう。君達、デリカシーなさ過ぎ。僕、これでも気にしてるんだけど。
 深く二度目の溜息を吐くと、克己は紅い着物を着た自分の体を眺めてみた。
 裾から無骨な黒いズボンがちょっぴり覗いているのはなんだか妙に見苦しい。本番は体育服の上から着よう。うん。そうしよう。
「私がお化粧してあげるわね」
 あなたは何にも心配しなくていいのよと、優しい姉のような顔で園江は克己に笑いかけた。
 いつもは挨拶程度しか交わさない僕と君の仲が、まさか文化祭のせいでそんな関係になってしまうなんて思わなかったよ。人生って不思議だね、林田さん。
「おお、克己、可愛いじゃん」
 そんな克己の気持ちは露知らず、横から野太い声がかけられた。克己の悪友、おしめの頃から事あるごとに克己と運命をともにする唯一の人間、四条徹。悔しいことにいつの間にやら身長差25センチ。牛乳嫌いの癖にすくすくと育った徹は、克己にとってはいささかプライドを刺激されてしまうこともあるのだが。
「うるせ……」
 近づくな、それ以上。それ以上近づいたら話す時に首が痛くなるじゃないか。
「四条くん、大道具だよね。木材集まったの?」
 悔しいかな徹はその身長の高さを買われて大道具だ。なんと言っても脚立を使わずに高いところの作業ができるのはお手軽だ。しかもハンダ付けも大好きなメカマニア、プラモ組み立てを小遣い稼ぎにしている器用さは周知の事実。そう。こいつはもう自分の得意分野を既に確立している奴なのだ。
「ん〜。ベニアとかは大分ね。昨日から何回か裏山に行って枝とか集めてきたんだよ」
「大変だね。言ってくれたら手伝ったりしたのに……」
 園江と徹は仲がいい。背の高い者同士通じるものがあるのか、はたまた赤い糸ひく神様か、実は夏休みに徹にこっそり聞いたことがある。何を言い出したのかと、一瞬だけ世にも無残な顔で呆けた後、徹は爆笑した。園江とは小学校の部活の対外試合で顔を合わせたことがあったのだ。小学生時代から背が高い方だった徹はバスケ部。確かに女子で現在170近い身長を持つ園江がバスケ部に居たっておかしくない。
 徹は笑うけれど、克己にとっては結構大事な問題だ。園江に特別な感情はないのだが、やっぱり女の子は自分より背の高い男の子を好むでしょ。
「いや、先月の台風で倒れた木とか多くてさ、あんまり大変じゃなかったよ」
 頭の上で交わされる会話を耳に入れながら、克己はゴソゴソと園江に気付かれないように帯を解き始めた。
どうなっているんだ、これは。
 ぐいぐいとめくらめっぽうに引っ張ってみても帯はびくともしない。それどころか逆にこれまでないほどに引っ張られて息が吸えなくなる。ばくんばくんと強くこめかみで打つ鼓動が大きくなり、かぁっと顔が紅潮していくのが分かった。
 助けて、こんなことで死にたくない。『中学2年男子窒息死―克己くんは女の子のお化けの役で。まさかこんなことになるなんて……』見出しが躍る。
 その時、園江がその真っ赤になった顔に気付いて慌てて帯に手をかけた。
「克己くん。大丈夫?」
 ありがとう、林田さん。
 怪しい気配を感じて、克己は大人しく園江に帯を解いてもらいながら頭上はるかに震えている徹の顔を見上げる。案の定、口元を片手で覆って、徹は必死に笑いをかみ殺していた。
 お前、親友の苦しみを分け合うことも出来ないのか。いや、おかしいのは分かるけどさ。そりゃ僕だって他人事なら笑うよ。他人事ならね。
「克己、お前、やっぱ見てて飽きな……」
 その時、バタンとすごい音がして扉が激しく開かれた。非難がましい声が扉を開けた少年に注がれたが、彼はひるむことなく声を張り上げた。
「大変だよ! 文化祭中止かもしんねぇ!」
 一瞬、皆が沈黙する。ぴたりと動きを止めてしまった教室に彼の声だけが響いた。
「生徒会長が昨日から家に帰ってないって! 校長室に警察来てる!」
「……え?」
 何人かが聞き返す声が聞こえた。
「事故なのか、誘拐なのか、家出なのか、全然わからないって!」
 生徒会長といえば、昨今珍しい男気のある人物で、家は小さいながら近所には評判のよい八百屋。これが社長の息子だったら誘拐も分かるけれど、八百吉の跡取息子をさらってもあまりメリットは無くないか?
「俺、昨日の夕方、生徒会長見たぜ……」
 ポツンと信じられない声が頭の上で聞こえた。克己が見上げると、呆然とした顔で徹が呟いていた。
「どこで!?」
 およそクラスの半数はハモっただろうか。困ったようにちょっと首をかしげながら徹は言葉をつないだ。
「昨日の夕方、裏山で……。後姿だったけど、たぶん生徒会長だったと思う。俺、あぁ会長のクラスも何か裏山で集めるんだろうな、と思ったから……」
「会長のクラスは展示じゃなくて合唱よ。裏山なんかに用事は無いはずだわ。部活で『俺が指揮するんだ』とか言ってたの聞いたもの、私」
 あぁ、そうか。生徒会長は陸上部だ。中距離選手で、大会にも出た。
 克己の視線の先で園江が信じられないと言うように声を震わせた。顔が青ざめている。無意識に胸の前で組まれた指が小さく震えていた。
「でも、あれ、会長だったぜ。俺、目は良いからさ」
 皆の視線を浴びて困ったように頭を掻きながら徹は独り言のように呟いた。

 結局『生徒会長失踪』の知らせの為に、準備作業は一時中断となった。クラスの代表者が職員室に事の真実を確かめに行くと、学年主任は苦い顔をしながら「君達には君達のすべきことがあるでしょう」と言ったらしい。
「やっぱりそうなんだよ。だって否定しなかったし、それどころか触れられたくない話題だって事が見え見えだったぜ」
 すぐにその話題は校内を飛び回った。中には尾びれがついてたいそう深刻な話にまで発展してしまったものもあったらしいが、ついに観念した職員側の告知によって、会長失踪の全貌は明らかにされた。
 昨日、いつものように家を出た会長はいつもとまったく変らぬ日常を過ごし、クラスの合唱の練習に参加、その後文化祭実行委員との打ち合わせをクリア。終わったのは夕方の6時前で、会長一人文書整理の為に残ったらしい。その後、家には何の連絡も無いまま夜になっても帰宅せず、午後11時に家族が警察に届け出、今日の朝から警察が学校で事情を訊いている、ということだ。もちろん身代金の要求なんかはないし、また、昨日から今日にかけて、このあたりで事故等は起こっていない。家出という線も消えないのだが、それにしてはあまりにも会長の様子がいつもと変らなかったので、警察も疑問を残しているらしい。
 そこに昨日の徹の目撃を当てはめると、午後6時過ぎに裏山に入っていく姿が最後の目撃証言となるのだ。
「裏山に行った会長は何処に行ってしまったのか。それ以前に、なぜ会長は裏山に行ったのか、か」
 うーん、とみんなで頭を抱える。
「逢引?」
「あんな草ぼうぼうの裏山でか? 夕方のデートっつったら普通、ハンバーガーくらい食べに行かない?」
「呼び出し?」
「誰が? 品行方性、性格良し、諍いは治め、弱きは助け、強きからは自慢の足で逃げる人だぜ?」
「じゃぁ、忘れ物?」
「裏山に何忘れんだよ……」
 確かに。
 だが1つだけはっきりしていることがある。会長は理由はわからないがとにかく夕方一人で裏山に行き、そのまま行方をくらましたのだ。つまり、発見の糸口は裏山にある。
「ねぇ、徹。会長を見たの何処さ……」
 そっと声を潜めて尋ねると、徹は思い出すように目を細めると呟いた。
「俺が見たのはつつじの遊歩道の学校側。会長は楓の遊歩道を頂上の方に歩いてた」
 裏山には3本の遊歩道がある。学校の横の道から入り、10メートルのところで3つに分かれる。つつじの遊歩道は裏山の低い場所をぐるりと一巡りする一番長い遊歩道で、楓の遊歩道は直線的に頂上を越えて裏山の反対側にでつつじの遊歩道と再度合流する。その二つの間を螺旋を描くように、上から見るとちょうど数字の8のように取り巻くのが紅葉の遊歩道だ。もちろんどの遊歩道も名前になっている木が所々に植えられている。
「楓の道を歩いていた、ということは頂上の方に用事があった、ということだね」
 あの道を通ってどこか目的地に行くのなら、目的地は何処になるだろう。
「会長が行くとしたら……」
 いつの間にか徹は紙とペンを用意してぐるりと丸を書き始めた。
「つつじ道・楓道・紅葉道っと。で、ここが学校……」
 がたがたとした線で書かれた裏山の地図。そして小さな丸で頂上と、そこをさらに進んで中腹あたりまで降りていった場所にある記念碑を囲む。
「楓道を行くなら、こことここかな……」
「もう一ヶ所あるよ」
 そこで書くのを止めてしまった徹からペンを取り上げると克己はもう一箇所、頂上から西へ行く紅葉道に入った場所に印をつけた。
「玄奘塚……」
 ぼんやりと徹がその場所の名前を呟く。はっとしたように数人がその徹の言葉に息を呑んだ。
「四条!居るか?」
 不意に開け放たれた扉の外から学年主任の声がした。
「はい!」
 思わず徹は勢い良く立ち上がる。
「生徒会長を昨日見たそうだな。ちょっとそのときの事を聞きたいそうなので校長室に行きなさい」
 徹は立ち上がったその足でゆっくりと教室を出て行った。
 玄奘塚……。
 玄奘塚のいわれって、お坊様が魔物に取り付かれて、最初は嫌がっているんだけどそのうち魔物の身の上に同情してしまって、取り付かれたまま身を捨てて供養した、とかいうんじゃなかったっけ。学校横のお寺に玄奘堂とかいう小さな祠まであって、妙にその話に信憑性を持たせていて、苦手なんだよね。
 嫌な気分がして、克己は眉をひそめた。
「会長、何処に行っちゃったの……?」
 今にも消えそうな声で園江が呟くのが聞こえた。

 

 僧、玄奘。戦国末期にこの地に生まれた。寺の境内に捨てられてた子だったので、そのまま寺の下働きをするようになり、その優しさと真面目さから和尚の好意を得てそのまま僧になる。18の時にふとした事で和尚が病を得て、山に薬草を探しに行った際に魔物に魅入られた。必死で魔物と対峙するが、その魔物の身の上を知り、あまりの哀れさに同情し、一人山に入り、自分の命を捨ててその魔物を静めようとした。程なく和尚は回復したが玄奘は寺へ戻らず、探しに入った山の中、念仏を唱えた姿のままで口元に微笑みさえたたえて息絶えていたという。和尚はその場に石を積み、いつしか玄奘塚という名で呼ばれるようになった。また、自分の病の為に命を失った玄奘の供養の為に和尚は寺の境内に祠を建て、小さな仏を祀るようになる。寺としては異例の事であった。

 克己はバタンと大きな音を立てて読んでいた本を閉じた。どうしても玄奘塚のことが気になって仕方なくなった克己は、ざわめく教室をこっそり抜け出し図書室に来ている。そして日頃は足を運ばない「地域図書」というコーナーの古ぼけた分厚い町史を繰り、玄奘塚の謂れを調べていたのだ。
「あれ?克己くん?」
 不意に声をかけられて驚いて振り向くとそこには見知った影が立っていた。佐藤基樹、ただ一人の文芸部員。そして、今回の「玄奘塚哀話」のシナリオを書いたクラスメート。それよりなにより自分の次に背の小さい男子なので、そちらのほうでより親近感を持っている。
「基樹くん、ちょっと聞きたいんだけどさ……」
 言葉をつなごうとした克己をさえぎるように、小さく笑って基樹ははっきりとした声で言った。
「玄奘塚のことだね」
「どうして分かるの!?」
 基樹は黙って克己の手元にある厚い本を指差した。
「僕も、シナリオを書いたときにそれを読んだよ」
 納得。確かにこれが僕の愛読書です、なんてこと言うわけもないような本だね。こりゃ。
「それより詳しく書いてある本もあるけど……」
 読む? というように本棚の一角を指差した。そこに並んでいる古ぼけた本の表紙にあまりに画数の多い旧漢字が多用されているのを認めるや、克己は大きく頭を振った。一文読むのに漢和辞典と国語辞典に古文の辞典も必要だろう。そんな暇はないのだよ。
「基樹くんは読んだんでしょう?教えてよ、内容……」
 だろうね、というように眉をひょいと上げて見せると、基樹はここじゃなんだから、と言って克己を促した。確かに図書館は静かに本を読む所。しゃべるには不向きだ。
「屋上にでも行こうか……。裏山の様子も見えるし」
 基樹の言葉に頷いて、とにかく手探りながらも克己はこの漠然とした不安と対決すべく、努力をすることに決めた。

 秋の空は高い。もう涼しくなった風が袖口から入り込んで、階段を上がったせいで少し汗ばんだ身体を冷やしていく。
「玄奘というお坊さんはね。どうやら実在した人らしいんだ……」
 そりゃぁそうだろう。塚だってあることだし。
 当たり前だ、というような顔をしている克己を見て、基樹は小さく溜息をついた。
「いや、あのね。世の中の伝説っていうのは、政治や社会の為に捏造された事実であることも多いんだよ……」
 あぁ、そうか、そうだね。そういうこともあるね。
「ってことは、基樹くんは『玄奘塚』の伝説は嘘だったかもしれないって、そう思っていたって事?」
 そうだよ、とこともなげに基樹は頷いた。
「あの塚が出来た年代は、ちょうど仏教の流派間の勢力争いのようなものがあったんだ。だから偉い人を捏造して皆の人気を引こうとしたのかな、とも考えたわけ。でも、シナリオを書くためにいろいろ調べていて、祠と塚の両方から実際の人の骨の一部が発見されていて、しかもそれが同一人物のものである可能性が高いこと、両方からその年代に書かれたらしい経典が見つかっていること、同時に発見された仏像もその年代のものであることが分かっていることなんかを知ったんだ」
 人の骨も出たのか。クワバラクワバラ。
「和歌がね、残されているんだ。玄奘が最期に書き残したものといわれているんだけどね。『真澄鏡 面影去らず 君見ての紅葉の淵に我落ちるとも』ってやつなんだけど……」
 意味わかる? ってちょっとイジワルだね、基樹くんは。そりゃ君は古典が学年で10本の指。でも僕はね、これでも一応は理系の方が得意なの。総合得点で5点くらいの差だけどさ。
 ぶんぶんと首を振ると、べつにそれを笑ったりせずに基樹は克己にも分かるようにずいぶんと意訳して解説してくれた。
「澄んだ鏡のように私の心にはあなたの面影が消えてなくなりません。あなたの目の前にあるこの燃え盛る紅葉のように私の心も燃え、その恋の狂気に私が狂ってしまっていても。わたしにはあなたしか居ないのです」
「恋の歌じゃん」
 拍子抜けした。最期に書き残したのが熱烈なるラヴレターだなんて。 
「そう、恋の歌だよ。でもね、なんだか釈然としないんだ。普通は仏道に入った人間が恋をして命を絶つのはいい事じゃないでしょう? なのに玄奘は祀られている……」
 玄奘は『あなた』に恋をして、そして死んだのだとすれば、なぜ和尚は塚を作り祠を作ったのか。どうしてそうまでして玄奘を弔ってやらなければならなかったのか。
「塚と祠に分けられた玄奘の骨、内訳を教えようか?」
 嫌な予感がした。首を振って結構ですという前に既に基樹の口は動き出していた。
「塚には頭と身体の骨、祠には手足の骨だよ……」
 手足だけを別にするなんて悪趣味な。
「そして、玄奘堂に祀られた仏像には手足が彫られていないんだ。おそらくは故意にね……」
 ぞくりと克己の背後に悪寒が走った。
 そう。祠に手足の骨だけを移したのは、仮に玄奘が恨みで復活しても歩いてこられないようにするため。仏像に足を彫らなかったのもたぶん、同じ理由。つまり、その和歌は玄奘が最期に書いたのではなく、玄奘に宛てた何者かの和歌なのだ。おそらくは。
「僕が推論した内容が今回のシナリオだよ……。教室にあるけど、読むかい?」
 再び首を横に振ろうとした克己には目もくれず基樹は当然読むよねといわんばかりに克己の腕を引っ張る。
「君に当てた役はすごく重要なんだから、読んでくれなきゃ困るって。本当に大事なんだからね」
 知るか、そんなもの。僕は嫌だ。断固として嫌だぞ。女形だという事実だけでも僕を打ちのめしているというのに、その上、重要な役だぁ? だからシナリオ読め? マジ? しかもここまで怖い前振りしておいて?
「克己くんにはその和歌を残した張本人の役をしてもらうんだから……」
 張本人、って? まさか。
「玄奘を憑り殺した怨霊の役なんだからね……」
 勘弁して。マジに。お願いだから。
 そんな心の声など基樹に聞こえるはずもなかった。



 教室に入ると、嫌でもその奥にある異常なほどの人垣が目に付いた。その大半は女子のようだったが、数名の男子もその輪の中に入って、なにやら机の上にあるものを凝視している。ふと視線を巡らすと、そんな人垣を半ば呆れて眺めている徹の姿が目に入った。
「徹、あれ、何やってるワケ?」
 とりあえず傍に走っていって問い掛けると、苦笑しながら徹がポツっと呟いた。
「天子さま、だとさ……」
「は?」
 天子さま、というとそれはつまり、白い紙に大きくひらがなで50音を書いた紙を置き、500円玉を使って『天子さま』にご質問して答えてもらうという、昔はやった集団催眠のような交霊術のことデスか?
「ばっかみてぇ」
 こういう、徹の持っている常識バランスのいい所、好きだね、僕。
「生徒会長は何処にいますか?」
 誰かが真剣な声でそう尋ねている声が聞こえる。そんなこと聞いたって無駄だよ。だって、それは本当の交霊術なんかじゃないんだから。ただ、自分の無意識が500円硬貨を動かすだけなんだよ。
 克己はそっとその人影を伺い見て、そして絶句した。
 園江だった。
 その青ざめた顔が、必死に500円硬貨の行方を見守っているのが分かった。
 何か声をかけようとしたその時、徹がそれをそっと制した。
「気休めでも、やらせておけよ。心配なんだろ……」
 労わるような徹の声に、克己は小さく溜息をついた。
「ま・す・か・か・み・お・も・か・け・さ・ら・す……」
 しかし、不意に聞こえてきた500円硬貨の行方を読み上げる単調な言葉に、次の瞬間、克己は目をむいた。
「き・み・み・て・の・も・み・し・の・ふ・ち・に・わ・れ・お・ち・る・と・も……」
 何、これ、と誰かが戸惑ったような声を出すのが聞こえた。500円玉はただ、同じ文字列を繰り返し繰り返し紡ぎだしていた。
「ま・す・か・か・み・お・も・か・け・さ・ら・す・き・み・み・て・の・も・み・し・の・ふ・ち・に・わ・れ・お・ち・る・と・も……」
 真澄鏡 面影去らず 君見ての紅葉の淵に我落ちるとも
 思わず基樹と顔を見合わせると、基樹の唇がかすかに震えていることが分かった。
「どうして……」
 震える声が呟く。
「あの和歌は、誰も知らないはず……。だって、シナリオにはあの和歌は登場してこないんだから……」
 では、その長い単語を誰が意図して紡ぎ出しているというのか。
「止めろよ!」
 克己は堪えきれずに叫んだ。一瞬しんとなった教室の中で、不意にチャリンと小さな音を立てて500円硬貨が床に落ちた音がした。
「どうかしてるよ!」
 一瞬しんとなった教室は、すぐに我に返ったようなざわめきに包まれる。
「確かにね。まだ文化祭が中止と決まったわけでもあるまいし……」
「こんなことばっかやってて、文化祭に間に合いませんでしたー、じゃ済まないもんね」
「ひょっこり返ってくるよ絶対。あの会長なんだし」
 ざわざわと人並みが散っていく。その中で園江だけが机の前で、ぼんやりと座っていた。いつも落ち着いて少し笑っている顔が微妙に引き攣れて、どこか醜悪な気さえした。
「林田さ……」
 声をかけようとした克己を徹の大きな手が止めて、ポンと頭を叩いた。
「大丈夫。お前は準備をやりな。俺のほうは大方終わってるからさ……」
 そのまま大股に彼女のほうに近付くと、軽く笑いかけながらそっと隣に座り自然な様子で話し掛ける。園江の顔に僅かに笑みが浮かび、そして、悲しそうに顔が伏せられた。
 そうか。林田さんは、会長が……。
 不意に思い至って、克己は頭を掻いた。
 ごめん。ただ、必死なんだよね。本当に、心配で、何かしていなくちゃ、居られないんだね。
 小さく溜息をつく。
 神様、僕はまだまだ人生修行が足りません。
「克己くん、ありがと……」
 不意にかけられた言葉に克己は驚いて振り返った。基樹がまだ青ざめたまま小さく笑って見つめている。
「君が止めてくれなかったら、僕……」
 いや、別に御礼を言われるようなことはしてはいないのだ。自分自身もあんな不気味な言葉を聞いていたくなかっただけなのだから。
「別にいいよ、そんなこと。それよりシナリオ読まして……」
 頷くと、基樹はゆっくりと自分の席への移動する。それについていきながら克己はそっと園江を振り返った。口元に両手を当てて、彼女が誰にも気付かれないように泣いているのが見えた。



 そんなに長くはないから、すぐに読めると思うけど、と前置きしてコピーされた冊子を渡された。文面はワープロで、表紙に小さく『玄奘塚妖綺譚』と書いてある。ページをめくると、第一行に小さくこう書かれていた。
 『心映しの鏡に映るは君の面影 君が眺むる紅葉の如く 狂恋にこの身狂い果てても』
 あの和歌の訳だろう。だが、この訳からあの和歌を逆に作り出すのは困難だ。
 克己はゆっくりと本文を読み進めていった。

 時は戦国の世。貧しい寺の境内に小さな泣き声が響いていた。寺の門をくぐりほんの数歩ばかり歩いた先にある今は盛りと茂る紅葉の下に、小さな小袋が捨ててあった。いや、小袋かと思えたのは、実はぼろに包まれた赤子であった。その証拠に小袋は泣き声に合わせて小さく蠢き、風にそのぼろの一部が飛ばされると、泣いて真っ赤になった赤子の顔が覗いた。
「なんと、子を捨てるとは……」
 せめて寺であれば慈悲を受けられると思ったのだろう。その小さな手にはせめてもの慰めにと、小さな枝と葉で作った風車が握られていた。
「不憫な……」
 和尚はその子を抱き上げると、小さく溜息をついた。紅葉の下に捨てられていたので、その紅い色から取り、名を茜丸とすることにした。
 茜丸は聡明な子であった。字の覚えも経の覚えも良く、また己の身の上を自覚してか、けして怠けるということをしない子であった。和尚は茜丸を非常に可愛がり、14になったとき、自ら剃髪し、その名を玄奘と改めさせた。
 玄奘が寺で過ごす16回目の秋の夜のことであった。その年は気候が崩れ、夏というのに日が照らず、秋というのに既に冷たい風が吹いていた。そのせいで米は実らず、村には疫病が流行り、幾千もの民が飢えと寒さで死んでいった。
「玄奘、弔いに行かねばの……」
「はい、和尚様」
 寺の暮らしもけして裕福ではなかった。既に食料は底をつき、ここ数日は僅かに米粒の入った汁と野の草の根しか口にしてはいなかった。だが、玄奘と和尚は死んでいった村人のために毎日村へ降りては、道端に捨てられた死体を埋め、経をあげた。時には死に行く人の手を握って、経を唱えた。ただ、祈り、経を読むことしか今の玄奘に出来ることはなかった。この飢饉が早く終わり、再び村が活気を取り戻す事を祈ることしか出来なかったのである。
 ある夜、雪が降った。まだ、紅葉がようやく色づき始めた時期にも関わらず、雪は降り続き、紅い葉の上に白く降り積もった。
「この寒さにまた、凍えるものが出るだろうのう……」
 恨めしげに和尚は空を見上げて呟いた。
 その夜のことである。
「玄奘、玄奘……」
 小さな呼び声に玄奘が身を起こすと、いつ降り止んだか雪は止み、代わりに月の光が降っていた。
「玄奘、玄奘……」
 声は庭から響いてくるようだった。そっと床から這い出て庭を眺めると、紅葉の木の下になにやら小さな影が澱んでいた。
「我を呼ぶはそなたか?」
「玄奘、玄奘……」
 声は何も応えず、ただ名を呼びつづけた。そして、悲しげにすすり泣くと、ふと、消えてしまった。
 狐につままれたような気持ちで、玄奘は紅葉の木の下に行ってみると、はたしてそこにはなにやら蛇のようなものが這いずったような跡があり、ポツンと紅い紅葉の葉が落ちているばかりであった。
 しかし不思議なことに翌日から空は晴れ、和やかな気候になり、ついには疫病さえもなりを潜めたのであった。
「なんと仏の慈悲か……」
 玄奘は、喜ぶ和尚にその夜のことを話そうかとも思ったが、日頃からの不安に怯え、おおかた夢でも見たのだろうと自分を得心させ、ついにその夜のことは誰にも話さなかった。
 そして2年の月日が経とうかという日のことであった。村へ降り経をあげていた和尚が、不意に頭をかきむしり、苦しげな息を吐くと昏倒した。別の家で経をあげていた玄奘はその知らせを聞いてすぐに和尚の元を訪れた。浅く小さな呼吸をしながら和尚はどんな呼びかけにも、どんな問いかけにも応えようとはしなかった。
 村人が和尚を運ぶのを手伝ってくれ、なんとか寺まで連れ帰ると、まだ浅い秋の日に真っ赤に色づいた紅葉の木が玄奘の瞳に映った。
 ふと、2年前のあの夜のことを思い出したが、今は和尚のことが先決、とその不可思議を心にとどめたまま、床に和尚を寝かせ、寺の裏山に薬草を取りに出かけた。
 ガサリと音がした。ようやく目当ての薬草を手に入れ、帰ろうとした矢先のことだった。ガサガサとのたうつように揺れる草むらに、ふと不安になり、狐でも罠にかかっているのかもしれぬと思い覗いてみると、ぶよぶよとした茶色の塊が蠢いていた。一瞬それが何かわからず、玄奘は目を凝らした。そしてそれが明らかに人の赤子の形をしているにもかかわらず、ぶよぶよと不定形に蠢いているのだと知るや、恐怖に悲鳴をあげた。
「玄奘、玄奘……」
 聞いたことのある声が、玄奘の耳を打った。玄奘は後ずさりすると、悲鳴をあげて駆け去った。瞼にくっきりと刻み込んでしまった異形が、常に背後から追いすがっているような気さえして、玄奘は必死で走った。
 その夜。和尚に薬草を飲ませると、玄奘は床についた。
 玄奘と呼ぶ異形の声が耳に付いて離れない。あれはなんだったのだろうか。赤子のようだったが。
 もしや、と玄奘は考える。
 あれは水子の霊だろうか。2年前の飢饉で多くの村人が死んだ。中には腹に子を持った母もいた。手厚く母は葬ったけれど、その中にいた子供までは気を回してはいなかった。
 そう考えると、2年前のあの声も納得いくような気がして、それならば供養をせねばと、そのまま身を起こすと、蝋燭に火をともし、暗い山道を必死で歩いた。
 謝罪して、経をあげてやろう。我にはそんなことくらいしか出来ないから。
 やがてその場所へ着くと、玄奘は静かに手を合わせ、経を唱え始めた。ガサガサと茂みが鳴る音が聞こえ、押さえがたい恐怖が玄奘を支配しようとしたが、それでも経を読むことを止めようとはしなかった。
「玄奘、玄奘……」
 あの声がした。
「なんだね……」
 経を止め、問い掛けると、初めてその声は応えた。
「玄奘、お前を恨む、お前が憎うてならぬ……」
 それは呪いの言葉であった。
「お前が捨てられたあの日、泣いていたのはお前ではなかった。お前は既に声さえもあげる気力はなかった。だが和尚はお前に気付き、本当に泣いていた我には気付かなんだ。我はそのまま次第に泣く力もなくなり、やがて息絶え、誰にも知られることなく犬に食われた。我が死んだはそなたのせいだ……」
 愕然とした。拾われた子であった故、その命に感謝して念仏に一生を捧げるのだと誓っていた。だが、既に生きるという最初の瞬間に犯しがたい罪を犯していたというのか。
「我は淋しい……淋しい……。誰も我が生きたということさえ知らぬ……」
 すすり泣く声が聞こえた。
「お前さえいなければ、お前さえ……」
 ガサガサと草むらが鳴った。茶色い肉の塊が、跳ねて玄奘の膝に乗った。
「淋しい……淋しい……」
 玄奘はただ、念仏を唱えた。それしか、玄奘に出来ることはなかった。
「傍に居ってくれ……傍に添うてくれ……」
 あぁ、これは我の姿なのだ。
 玄奘は理解した。けして一度も口には出せなかった、我の、我自身の恨みだ。何故生きているのだろうと、仏に仕える身にはあるまじきことを考える、己自身に違いない。
「我がずっと傍に居れば淋しくはあるまい……」
 そっと膝の上の肉隗に触れると、びくりとそれが震えるのを感じた。
 淋しい、淋しいと泣く心は、子が母を呼ぶ心。見たこともない母を、必死に池に映る自分の顔に重ねていた幼い日を我は忘れることも出来ぬ。まるで恋のように。恋のように。

 心映しの鏡に映るは君の面影 君が眺むる紅葉の如く 狂恋にこの身狂い果てても

 
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