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現代小説:「夢にせめて」
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『夢にせめて』[ 露の歌 ]

夢にせめてせめてと思ひその神に
小百合の露の歌ささやきぬ

与謝野晶子



断章 : 蒼〜あお〜(1)

したぎに ち がついた。
つかまれたうでが いたい。

なきたいのに なきたいのに
くちをふさがれて いきが できない。

どうして
どうして わたしが。

つかまれた てくびが おれそう。

やめて やめて
おねがい やめてよ

お義父さん!



碧〜あお〜

 湖がすき。鏡のような水面がすき。澄み透っているから。
 もしも、底の方が汚く膿んでいても、鏡の水面にはきれいな空しか映らない。
 だから好き。
 出来得れば、私もそうなりたい。
 この汚い中心を隠して。微笑んでいれば分からない?
 本当に分からない?

 今日もあの子が来る。
 幸せな子。
 絵が好きで、自然が好きで。
 きっと、自分を呪ったことなどないでしょうね。
 だって笑顔がまっすぐだもの。
 ああいう風に笑ってみたい。まっすぐに、決して疑わず、迷いなく。
 まるで汚れない子供にように。

 やめて、水面を揺らさないで。
 底の澱が揺らめきたって、水が濁ってしまうわ。
 隠したいの。
 隠したいのに。



断章 : 蒼〜あお〜(2)

やさしいかおをして
かみをなででくれたのは うそなの?
やさしいかおをして
おかあさんをみつめているのは うそなの?

もう やさしいかおなんてしないで
もう かみをさわらないで

ちからずくで ひきさいて
わたしから はねをうばった

あなたのせいで

わたしはもう てんごくへ いけない



 見つめないで。罪が露わになるから。
 描かないで、私の笑顔を。
 微笑まないで、私に。
 そんなに綺麗に微笑まないで。

 私は醜い。
 あなたに、私の罪を知られたくない。
 お願い愛さないで。
 私には羽がない。
 あなたと飛べない。
 だから愛さないで。
 あなたを愛したいと、私に思わせないで。

 私に触れないで。
 私を見つめないで。
 私を愛さないで。
 私に微笑まないで。

 背中が痛い。
 痛い。痛い。痛い。痛い。
 羽がない。羽が。
 私、あなたを愛せない。

 愛したいのに。愛したいのに。
 愛してるのに。愛してるのに。

 もう、愛してしまっているのに。

 つかさ。つかさ。つかさ。つかさ。つかさ。つかさ。
 気付かないでね。
 私に翼がないこと。
 気付かないでね。
 私の罪。



断章 : 蒼〜あお〜(3)

さわらないで
さわらないで

これいじょう わたしを くるしめないで

もういや

いやだよ
たすけて おかあさん

たすけて

おねがい
たすけて おかあさん



 司の笑顔、綺麗ね。
 そんなに絵がすき?
 私を描くのが、嬉しい?
 もしそうなら、私も嬉しい。

 岸辺に薔薇が咲いたの。
 私、薔薇は嫌い。
 愛されるのが当然のようだから。
 人が愛だ愛だと囁くものを、私は愛だと認めない。

 愛は、孤独なの。
 自分の責任は、自分でしかとれないでしょ。
 相手の罪まで全部、愛せたら幸せね。
 あなたが私を愛せたら、幸せね。

 薔薇の花びらを一枚、水面に浮かべましょう。
 これがあなたの愛よ。
 相手の深淵に潜む、濁りを知らないのが、あなたの愛よ。
 気付かないでね、司。私が泣いていることに。
 いま、あなたにそんな愛ですら求めている私が、哀れなの。



断章 : 蒼〜あお〜(4)

あかあさん?

どうしてわたしをたたくの?
どうしてわたしをすてるの?

あぁ
わたしがいけなかったの?
わたしだけがいけなかったの?

わたしだけがつみなのね

だから
わたしのつばさはもがれたのね



 司、微笑まないで。
 お願い、もう私を描かないで。
 私は罪なの。
 私だけが罪なの。
 お義父さんが悪いのではなくて。
 お母さんが悪いのでもなくて。
 私がいけないのよ。

 夢ならいいのに。
 私が生まれたことが、夢ならいいのに。

 夢、なら、いいの に ……



青〜あお〜

 おやすみ司。
 夢の中では、あなたを愛する資格があるかもしれない。

 だから、司。
 私を愛してね。必ず私を愛してね。
 入れ物が変わっても。
 私の魂を愛してね。

[ 風の歌 ]

「司……?」
 いつものように、控えめに祥子は声をかけた。
 この頃、司は物思いに耽る時間が多くなっている。「sora」のマスターの健康がおもわしくないのだ。
「え……。あ、祥子……」
 ぼんやりと空に掲げていた絵筆を膝におく。
「駄目だな……。ぼんやりして……」
 ため息。キャンバスを見つめる。窓によりかかる祥子の輪郭。まだ、完成にはほど遠い。
「お見舞いに、行って来たら……?ここで思い悩んでいても、何にもならないでしょう?」
 司は曖昧に笑う。
 ぼんやりとする理由は二つ。
 マスターのこと、そして奏のこと。
 キャンバスの中の祥子の顔が奏に似てくる。どうしても。
 祥子はまだ、気付かない。気付いたら、不実だと咎めるだろうか?

「そうだな……」
 司は絵筆をおいた。唇をかみしめる。
 対象のない、苛立ち。
 絵の具で汚れたシャツを脱ぎ捨て、祥子が出してくれた白いシャツに替える。脱ぎ捨てたシャツを拾い上げる祥子を盗み見る。
 家を出て一人暮らしをはじめて以来、家事のいっさいをやってくれるので、一緒に暮らそうかと持ちかけたこともあった。祥子は駄目だと笑った。
 祥子は空気のようだ。やることをやって、一人になりたいと感じたときにはそれを口に出す前にふっといなくなる。
「ごめん……。ありがとう……」
 祥子の体を、そっと抱いた。祥子の体が一瞬こわばる。こわばりが溶けるまで、身動きせずに待ち続けた。
 こうやって、少しずつお互いに馴れていく。
 そっと、額にくちづける。
 祥子がそっと頬をすりつける。

 あなたの罪を愛する、という証。

 出会って3年。司は本格的に絵を、祥子は短大で文学を、それぞれの道を見つけてようやく歩き出したところだ。

「じゃぁ、行って来る……」
「気を付けてね……」
 パタンと小さな音を立ててしまるドアを見つめて、祥子はため息をついた。
 マスターが不意に血を吐いて倒れたのが1ヶ月前。もともとお酒もたばこも好きで、健康診断くらい受けたらと皆に言われていた。診断は肝細胞癌。病状は末期。既に有効な治療法はない。
 マスターが倒れた日から、「sora」は閉まったままだ。マスターから鍵を預かり、週に1度は掃除をしに行っている。
 祥子はゆっくりと窓辺に寄った。道を歩いていく司の背中が見える。
 祥子はその背中が見えなくなるまで見送ると、視線をキャンバスに移した。

 司は気付いているだろうか?この頃司が描く自分は奏に似ている。
 気付いているに違いない……。筆が止まっているから。

 サインの色を変えて、自分が変わったつもりでも駄目なのよ、司……。

 悲しげにぼんやりとした女性の輪郭を見つめる。
 祥子はかつて司が語った奏との思い出を思い返していた。
 珍しく強い風が、窓を叩いていた。

--=--

 その日司は風が窓を叩く音で目が覚めた。
 つい一週間前まで残暑の名残があったのに、急に寒くなった。天気が崩れる前の荒い風が吹く。風の日は好きだ。いっそ痛いほどの風が吹くと、心がひんやりとして、少しスッキリする。
 もぞもぞと布団から這い出ると、カーテンを開けた。
 曇天。
 いつもの鳥の声は聞こえない。
 湿った空気が体にまとわりついた。湖に誘われる。湿り気に。

 今朝の目覚めはいい方じゃない。不安な夢を見た後の、変に尖った心が体のすみに残っている。司はパジャマ代わりのTシャツを脱ぎ捨て、大きく伸びをした。朝の空気に晒された皮膚が粟立つ。
 ……ちょっと、寒いな……。
 そのまま、司は窓枠に手をかけて下界を見つめた。
 誰もいない道。誰もいない空。
 その時、厚い雲が不意に途切れた。鋭い日差し。胸を灼く。司は目を眇めた。
 ……朝の光はいつも、裁きの瞬間に似ている……。
 光に晒されて、逃げるように窓から離れた。
 まるで罪人のような自分。軽い自己嫌悪。シャツとジーンズを身につけると、もう一度そっと窓により、カーテンをゆっくり閉めた。

 階下ではさをりが楽しげに朝食の手伝いをしている。
「あ、おはよう。おにいちゃん」
 無垢な微笑み。皿をテーブルに並べながら、小さな声で歌っている。
 さをりは合唱部に入っている。ソプラノの細く高い声で、最初は喉を痛めるのではないかと心配したが、やはり好きであるということは才能の一つらしい。校内発表会では6年生を抑えてソロを勝ち取った。本人はソロに選ばれたことより、大好きなソロパートのメロディーを歌える方が嬉しいらしかったが……。
「さをりがお弁当を作ったのよ。見て」
 アルミの正方形の弁当箱の中に、いびつなおにぎりが並んでいた。それでも一つ一つに違うふりかけがかかっている。
「この間より上手になったでしょう?」
 前回のおにぎりは、本当に「握り飯」という感じだったが、今日は多少は角があった。
「なった。なった……」
 嬉しそうに笑う。
 ふと、胸が苦しくなる。さをりは朝の光だ。朝日を浴び、喜びに震え、精一杯の声をあげて歌う小鳥。さをりに降りかかる朝の光はなんと優しいことだろう。
 さをりに言われるままに素直にテーブルにつき、されるがままに朝食をとる。ままごとのような仕草。ままごとのような会話。
 無垢と言うことはこんなにも美しく、こんなにも醜い。

 いつかこの子も世界を知る。その時世界は優しいだろうか?
 優しくあって欲しい。

 風が強いね、と窓の外を見ながら言うさをりの言葉に頷きながら、兄として、そう願った。

[ 虹の歌 ]

 さをりの作ってくれた弁当と写生の道具を持つと、司はそれを一緒くたに自転車の後ろにくくりつけた。鉄の門を押し開けて、路上に送り出す。雲は少し薄くなっていた。
「なんだ、さをりも出かけるのか……?」
 玄関を開けて出てきたさをりを見て司は声をかけた。
「うん。合唱の練習」
 元気よく、家の奥に声をあげる。
「お母さん。いってきまーすっ」
「いてらっしゃい。車には気を付けるのよ……」
 かすかに、母の声がした。

「気を付けろよ……」
「うん」
 さをりは元気よく坂を駆け上がっていく。一瞬、さをりの背中に虹が見えた。

 虹。あの人も虹を抱いている。
 でも、あの人の虹は七色じゃなかった。目の覚めるような蒼い虹。

「奏……」
 司はつぶやいた。
 名前しか知らない。他には何も。
 ……なぜ微笑むのかを、知りたい。

 司は自転車にまたがり、坂をすべりおりた、そのまま郊外へと走らせる。目的地までは15分。小さな、澄んだ湖へ。
 ……奏。
 笑って欲しい。もっと。


 司の祖父は有名な画家だったが、父は祖父の職業をあまり受け入れておらず、公務員になった。趣味で写真に凝っているが、カメラワークはあまり巧いとは言えない。
 祖父は、そういう父の不器用な部分を理解しているのか、それとも、失望しているのか、写真の話はあまりしなかった。
 祖父は小2のときに、急死した。亡くなる前の晩まで精力的にキャンバスに向かっていたが、祖父には朝は来なかった。早朝、脳内出血で、家族が気付いたときには、すでに冷たくなっていた。
 裁かれたように見えた。小さかった妹は、返事をしない祖父に驚き、そして、泣いた。

 司に祖父の記憶はあまりない。
 幼かったときはとてもかわいがってくれたそうだが、記憶に残る祖父は、狂ったようにキャンバスに向かう背中だけだ。不思議なことに、あんなにも激しくキャンバスに向かうのに、祖父の絵はいつも繊細だった。花びらにフリル一枚一枚まで、丁寧で、繊細で。

 晩年の祖父は、花を描き続けた。
 最期の作は白百合を描いた「無垢」だった。祖父への手向けの花になった。

 司に絵の手ほどきをしてくれたのは祖母だ。祖父の作品を見せながら、幼い司にも分かるように構図のこと、色のこと、手を取って教えてくれた。その祖母も祖父の後を追って2年後になくなった。
 祖母の晩年はすべて祖父の仕事の後始末だった。祖父の作品を整理し、全ての作品に通し番号を付け、リストを作り上げ、画廊や友人に作品の所在を委託し、逝った。使命を果たし終えたような感があった。

 ふと、考えることがある。北向きの絵の具の匂いのする部屋で、祖父の作品と向き合い続けた祖母は、どんな朝を迎えていたのだろう、と。

 奏は……。

 奏はどんな朝を迎えているのだろう……。

 司は必死に自転車のペダルを踏む。目的地は近い。心が急く。早く会いたい。
 後ろで画材がカタカタと音を立てる。

 ……司、この頃つき合いわるいよなぁ。恋でもしちゃってるの?ぼんやりしてさぁ。

 友人に言われた。
 会いたいと願う気持ちは、微笑んでほしいと思う気持ちは、恋なのだろうか?
 少し、違う気もした。
 ガタンと大きな音を立てて段差をおりると、木々の間から湖が見えた。ざわざわと木々の葉が風に揺れた。

--=--

 祥子は窓の外に出してある観葉植物を眺めた。「sora」にあったものだが、世話をするために何人かでわけて自宅に持ち帰っている。
「中に入れておいた方が、いいわね……」
 小さく呟いて祥子は窓を開けた。
 あけたとたんに強い風が吹き込んでくる。髪が風にあおられ、乱れて視界をふさぐ。
「!……嫌な風……」
 祥子は手早く観葉植物の鉢を室内に入れると、急いで窓を閉めた。髪を掻き上げながら鉢を片づけようとして振り返ったその時、キャンバスの中の奏と目があった。
 凍り付いて、にらみ合う。

 ゆっくりと奏の姿が溶けた。

 わたし……、嫉妬している……。
 もう、この世にはいない少女に。

「なんで……」
 祥子は呟いた。
「なんで、死んだのよ。奏……」

 祥子は顔を覆った。嗚咽が漏れた。
「彩。私、もう限界よ……。助けて……」
 助けて……。
 私は、愛したい、だけ、なの。

 ただ、司を愛しているだけなのに。いつの間にか、人を憎む。気付かないうちに、人を縛る。

 彩。あなたは、まだ、私を愛している?
 こんな私でも、好きだと言ってくれる?

 彩。彩。彩。彩。あ、や。
 懐かしい顔が瞼の裏をかすめる。

 ただ、木々のざわつく音だけが聞こえて、答えは何も聞こえなかった。

--=--

 ざわつく木々を抜けると、湖。
 風の強い今日は、水面が角だって、いつもの鏡にような美しさからはほど遠かった。
 水面から離れたところに、まるで荒れた水面をおそれるように、奏は座っていた。

[ 滴の歌 ]

「奏……!」
 司は名前を呼んだ。振り返った奏が小さく笑った。
「早いわね……」
 優しい微笑みなのに、まるで自分が禁域を犯した犯罪者のように罪を感じてしまう、そんな奏の笑顔。風で乱れた髪を掻き上げた拍子に、左手首に白い包帯が見えた。
「手、怪我でもしたの?」
 自転車の後ろから画材を下ろしながら聞いた。
「手首の関節、弱いの……。痛めてしまったみたいで……」
 あぁ、だからいつもサポーターをしているのか……。
「でも左手で良かったね……」
 奏はにっこりと笑いながら、そうねと言った。

 それから、その日もまた、夢中になって奏を描いた。
 奏の微笑みに顔をゆるませ、奏の声に耳を傾け、奏の体を見つめ、奏の目が追うものを見た。
「あら……薔薇が咲いてるわ……」
 小さく奏は呟くと、立ち上がり茨の茂みに足を向ける。くるぶしまで隠れる白い長いスカートが光に透けて、細い奏の体の線が見えた。
 深緑の緑と薔薇の紅と奏の白。
 くっきりとした風景の中で、奏だけが消えていきそうだった。
「奏……」
 思わず後を追った。捕まえていなくては、消えてしまうから。
「奏!」
 奏は無造作に茨の茂みに右手を差し込んだ。音もなくいくつもの赤い線が白い皮膚に走り、小さな赤い血の粒を作っていく。
「だめだよ……」
 とっさに奏の手を守るように司は右手を差し込んだ。ピリピリとした痛みが走る。
「……っ」
 奏はきょとんとした顔で司を見つめる。痛みなど感じていないようだ。
「痛……い?」
 奏の細い手が薔薇を一輪つみ取り、ゆっくりと茂みの中から帰ってきた。
「司の右手は絵を描く手なんだから、わざわざ怪我するようなことをしたら駄目じゃない……」
 微笑み。
 奏がそんなことをするから、僕は……。反論しようとした言葉も溶けてしまう。
「薔薇、好きなの?」
 奏は一瞬手元の薔薇に視線を注ぎ、一呼吸おいて、笑った。
「えぇ、好きよ……」

--=--

「嘘つき……!」
 祥子は奏に向かって叫んだ。
「司の、嘘つき……!」
 絵の中の奏は微笑んだまま、全てを拒絶した瞳で祥子を見返す。
 祥子はテーブルに生けてあったピンクの薔薇を乱暴につかむと、奏に投げた。キャンバスの周りに花びらが散る。司がしまい忘れた絵の具の上に、散る。

 偽らないで、騙さないで。
 私はあなたの鏡。
 私を偽るのは、自分を偽ること。
 そうやってまた、終わりのない罪を贖い続けるの?

 頬を拭おうとしたとき、手の甲に赤い血が盛り上がっているのに気付いた。さっき投げた薔薇の棘のせいだろう。ゆっくりと盛り上がっていく赤い粒を、祥子はただ黙って見つめた。

 これは私の傷。
 司を愛してしまったという私の傷。
 愛おしく、哀しい傷。

 ゆっくりと祥子はその血を吸った。
 鉄の味。
 にがい……。
 キャンバスに近づき、奏の輪郭を撫でた。

 これは私……。そしてあなた。
 私はあなたを憎む。そしてあなたを愛す。

 そっと、奏にくちづけ、祥子は泣いた。
 泣いた。

--=--

 パシャリと水音がして、影が揺らめいた。司はさっきから水辺で戯れている奏を見つめた。
 名前以外のことを聞こうとすると微笑んではぐらかされてしまう。小さく司はため息を付いた。
 細い奏の手がさっきの薔薇を取り上げ、一枚一枚花びらを剥がしては湖に落としていく。風に舞ってひらひらと落ちていく様を黙って見つめながら、司は一瞬その花びらを奏のようだと感じた。
 夢のような情景の中で、くっきりと赤い花びらだけが、血のようだった。

 その日を境に、奏は湖に現れなくなった。
 名前しか知らない司に、奏の消息を知るすべはなかった。


「お兄ちゃん……。今日も行くの?」
 遠慮がちな言葉。さをりが司を悼ましそうに見上げる。奏が姿を見せなくなって以来、司は毎日のように自転車で奏を探しに行く。湖に徒歩できていたからには、奏の家は湖の周辺だと思われた。
「うん……」
 小さな妹は目を伏せた。
 まだ、恋の痛みが解る年ではないが、自分の兄がとても心を痛めているらしいことは解った。できれば何かの手伝いができればいいと、そう思っていることが、その瞳から伺えた。
 既に奏とあえなくなってから3ヶ月が過ぎていた。

[ 藍の歌 ]

 湖で薔薇を手折った姿が、奏を見た最後の姿になったと、司からは聞いている。
 次に出会ったとき、奏は小さな写真の中で微笑んでいた。「sora」の空の空間の中で……。

 マスターの義理の兄にあたる人は牧師をしているのだという。奏は死ぬ前の日に教会に行ったのだ。そして、全てを告白し、逝った。

 母の再婚相手からの暴行。繰り返したリストカット。母への告白。そして拒絶。
 密やかな恋。悲しみ。

 ……私にはもう翼がないのです。それでも私は、愛したいと願い続けるのです。飛ぶ意志を無くす鳥がいないように。
 私は怖れています。彼が私を知ることを……。私を知り、私を拒絶することを。私の母が私にしたように。
 それでも、私は彼を愛したいと思います。
 永遠に愛したいと思います。
 とても今、幸せです。私でも誰かを愛せることができたのだと、わかったから。

 小さな写真の中で、それでも彼女は微笑んでいた。

 マスターは彼女のために紅茶を入れ、そして彼女はおとぎ話になった。


 祥子は散らばった花びらを拾い集める。

 自分と同じ、愛を怖れ続けた少女。そして愛に焦がれ続けた少女。
 彼女は死を選び、私は生きることを選んだ。
 私たちの違いは、ただそれだけ。
 彼女は告白する勇気があり、生き続ける強さがなかった。
 私は告白する勇気はなく、生き続ける意志があった。
 私たちは、哀れにも、片翼ずつしか翼を与えられなかったのだ。

 愛さずにいられるだろうか、この、悲しい私の双子の魂を……。
 憎まずにいられるだろうか、この、愛しい私の双子の魂を……。

 祥子はため息を付いた。
 強い風の日は思い出す、司の思いを。
 どうしようもなく、後悔に苛まれ、傷つき、焦がれ、苦しむ司の背中を……。

 愛しているのだ、自分は司を。
 思い知らされる。傷つくほどに。
 そして、安心する。
 まだ、人を愛せることに。

--=--

 東向きの廊下に面した725号室に、マスターは入院している。マスターは独り身なので、いつも、マスターの姉と義理のお兄さんが見舞いに来ていた。あとはいつも「sora」に来ていた常連の客がたまに顔を見せるくらいだ。祥子が週に1回「sora」の掃除の後に来て、花を置いていくので、マスターのいる部屋にはいつも花が途絶えることがない。花好きのマスターはいつも嬉しそうだった。
 人通りのまばらな廊下を抜けて、司は白い扉をノックした。
「どうぞ」
 マスターの声。
 そっとドアを開ける。
「マスター、調子、どう?」
 入院してから、急にマスターは痩せ始めた。告知はしていないというが、もしかしたら気付いているのかもしれなかった。
「司、顔色悪いな……。どうかしたのか?」
 病人に心配された。
「え、そんなことないよ」
 椅子を引き寄せて座りながら言う。
「祥ちゃんと喧嘩、したのか?」
「……いや……」
 思わず返事が遅れた。しまったと思ったときには、もう、遅かった。
「司……?」
 そっと、祥子が持ってきた薔薇を見つめる。
「こんな風のある日は、さ。思い出してしまうんだ……」
 小さく笑う。
「昨日、奏の夢を見た。夢の中で奏は笑って……、奏を抱きしめると、それは祥子で……、亡くしてしまったものと、手に入れたものと、悲しみと、喜びで、いつの間にか、泣いてた」
 マスターは無言で司を見つめる。不意に視線を逸らすと、ベッドの横の棚から小さな封筒を取りだした。
「横田恭子さんって、知ってるだろ?」
 突然聞いた懐かしい名前に司は目を見開いた。高校の時の美術部の部長だった彼女は、司と同じように青を好んで使っていたが、その青はなぜか、とても暖かかった。
「彼女、今ここでボランティアをしているんだ。精神科らしいんだがね。2日ほど前に来て、その手紙を置いていった」
 読んでご覧、と差し出す。
 黄ばんだすり切れた封筒には、何度も読み返したような、擦れた便せんが入っていた。


夢にせめてせめてと思い
焦がれる我が身かなし
せめて我が器すて
こころにて彼を愛さん
これよりのちの彼の思い人を
こころより守らん
夢にせめてせめてと思い
焦がれる我が身重ければ
全て捨てて、ただ夢のなかに還らん

Kanade



「図書館の本の間に挟まっていたんだと、言っていた。何度も読み返したと」

 見つけたときは奏の死から既に半年以上が経っていて、そのまま、誰にも言わず、誰にも知らせず、その言葉を繰り返し繰り返し読み、感じ、愛してきた。
 でも、もう奏からは卒業だから。

「奏さんのことが、好きだったと、言っていた。祥子さんにそれを渡して欲しいそうだ」

 司は、まだ信じられないものを見るようにして、その手紙を見つめていた。

[ 青の歌 ]

 こんな風の強い日は思い出す。
 まるで自分を愛するように、強く、純粋に愛した少女を。

 恭子は描きかけのスケッチブックを膝に置いて、荒れた空を見上げた。
 奏と初めて出会ったときの空は、もっと澄み切っていた。


 家から歩いて5分だった中学を卒業し、バスで通わなければならない高校に進学してから、もうすぐ1週間になろうとしていた。通学の時のバスの込み合い方も、帰りの寄り道も、ようやく少し馴れてきた。
 クラスメートとはまだ全員とは話していない。もともとあまり人とつきあうのは上手な方ではなく、まあ、少しずつ馴れてくるかな、と思っている。
 部活は美術部に入った。中学の時も絵画部だったので、今更運動部に入る気はしなかった。
 自分が動くより、グラウンドで駆けている人の姿をスケッチする方が楽しかった。

 ホームルームが終わり、担任が教室から出ていくと、恭子は美術室に行こうとして鞄を持って席を立った。いつものようにちらりと 自分の斜め後ろに座っている少女に視線を走らせる。
 彼女の名は工藤奏。まだ、しゃべったことはない。
 初めて見たとき、人形ではないかと思った。
 もちろん、奏は綺麗な子だったし、物静かで、いつも微笑んでいて、男子の間ではすでに話題で持ちきりだった。だが、それ以上に、彼女には意志が見られなかった。悲しいとか、悔しいとか、妬ましいとか、そういう負の感情の少ない代わりに、愛しいとか、欲しいとか、そういう欲求や考えも見えなかった。

 生きてるのかしら……?

 とても気になった。

 初めてしゃべったのは、不意に美術室にやってきた奏が私の書きかけのキャンバスを覗き込んだときだった。
「綺麗な、青ね……」
 細い白い指が、髪を掻き上げたとき、手首に白いサポーターが見えた。
「奏さん……。手、どうかしたの?」
 私はそのサポーターより白い奏の指に見とれていた。
「手首、弱いの……」
 奏はキャンバスを見つめていた。優しい微笑み。
「暖かな、青ね……」
 ただ、それだけの会話。それが最初で最後の奏との出会い。

 その時から、その青は奏の色になった。
 いまでも、その青が私を奏に縛り付ける。
 奏の白が私を絵に向かわせ続ける。

 今だから言える。
 私は奏を愛していた。彼女の全てを理解したかった。
 彼女を抱き、彼女を愛し、彼女と一つになりたかった。
 彼女に見つめて欲しかった。

 突然の彼女の死が、私を混乱に陥れ、突然の彼女の詩が、私を今の人生に導いた。

 そして、再びの、出会い。
 祥子の中に奏を見つけた日を、私は忘れない。

 今まで大切に保管していた、奏の翼を祥子に返そう。
 これで祥子は飛べるだろう。奏の分まで、空の高みを。

 恭子は奏の詩を入れていた小さな文箱を、そっと本棚にしまった。

 さようなら、奏。

--=--

「祥子……?」
 もう、辺りは暗いというのに、部屋は暗かった。自分の家に帰ったのかもしれない、そう思ったが、静かにドアを開けると、躊躇いがちに名を呼んだ。
「居ないのか……?」
 返事はない。ふと足ものを見ると、見慣れた祥子の靴があった。
 かすかに胸騒ぎがして、急いで部屋に入った。

 壁際のソファーに祥子は横になっていた。かすかな寝息が聞こえる。
 祥子がこんな無防備な姿を見せることはあまりない。起こさないようにそっとソファーの横に座った。
 初めて会ったときから伸ばしはじめた髪が、かすかに上下する胸の上にかかっている。意志の強い瞳が閉じられた顔は、とてもあどけなかった。司はソファーから投げ出されている祥子の手をそっと握った。
 床からの冷気にひえて、冷たい。細い指に華奢なリングが光る。司が誕生日に贈ったものだ。かすかに蒼みを帯びたムーンストーンが、涙のようだ。

 夢に、還る……。
 どの夢の中に居るというのだろう、奏……。

 司は祥子の冷たい指にくちづけた。

「祥子……」

 もう、なくしたくない。
 なにも、なくしたくない。
 愛も、希望も、死も。

 失いたくない思うこころは、なんと臆病になるのだろうか。
 祥子を失いたくないばかりに、祥子を抱きしめることを躊躇っている。
 始まらなければ、終わらない。そんなことは間違いだということくらい、とっくに気付いているのに。

 細いリングにくちづけた。
 冷たい金属の感触が唇を灼いた。

 裁かれるのだろうか、人は皆。
 激しい朝の光に向かい合うとき、胸が痛む。

 奏を思い出す。
 なくしてしまったものは、思い出の淵に投げ捨てて、生きていかなければならないものなのか……。
 そうまでして、生きていかなければならないのか。
 何故……。

 声を殺して、司は泣いた。
 ただ、苦しかった。

[ 光の歌 ]

 ゆっくりと意識が浮上してくるとき、なんだか不思議な感触がした。
 夢を見ていたような気がする。かすかな孤独と幸福。昔の感情。

  幸福感。なぜ……?私は私に包まれているから。
  孤独感。なぜ……?私は私にだけしか包まれていないから。

 そう、司と出会った頃の夢。

 祥子はゆっくりと目覚めた。何かが体の横にあることが、その熱でわかった。

「つか……」
 残りの言葉は飲み込んだ。司はソファーによりかかるようにして床に座り、祥子の手を握ったまま眠っていた。祥子の体の横に司 の頭があった。

 眠っている司は、とても頼りなく見えた。
 長いまつげ。そげた頬。柔らかな曲線の唇。額にかかる癖のない髪。絵の具で汚れた爪。
 祥子は司を見つめた。
 シャツの襟元から覗く鎖骨。広い肩幅。筋肉が隆々としているわけではないが、しなやかで無駄のない体。長い足。

 なんて綺麗な獣だろう。

 司を見て綺麗だと感じたのは初めてだった。

 ずっと見つめていたい。
 このままガラスの棺の中に閉じこめてしまえたらいいのに。
 私だけのものにして。全ての思い出を消して。全ての未来を消して。この瞬間だけにしてしまえたらいいのに。
 自分の思い出を消して。自分の未来も消して。今しかないようにしたら、少しは楽になるのかしら。

 そんなことを考えている自分に、気付いて少し腹が立った。
 愚かさは全てに勝る。
 誰かの翼をもいだものに翼はけして与えられない。

 何時の間にこんなに愚かになったのだろう。
 愚かな独占欲混じりの愛を、愛だと押しつけるくらいなら、愛さない方がまだいいのかもしれない。
 本当は司に抱かれたい。
 その1歩目を躊躇うのは、愛がガラス玉になるのが怖いから。
 愚かな弱い心が怖いから。

 祥子はため息をついた。
 少し哀しい。

 司を起こさないようにそっと握られた手を抜こうとする。こわばった司の指をそっと広げさせ、すっと手を引き抜こうとしたその時、不意に再び強く手を握られた。
「司?」
 起きているわけではないようだった。眉間を寄せ、辛そうな顔をしている。閉じられたままの瞳から頬に涙が落ちた。
 夢の中で、泣いている司。
 誰の、ために?

 胸が、痛む。

 祥子は司の頭をそっと抱いた。

 苦しむ度に彼を愛そう。
 悲しむ度に彼を愛そう。
 そうやって、私たちは強くなっていくだろう。
 そうやって、私たちは全てを乗り越えて行けるだろう。
 私は豊かな器になろう。愛を受けるための。

 司の頬に流れる涙を、そっと拭った。

 祥子……。いつも見つめているから……。

 彩の声が聞こえた気がした。
 こうやって、彩は強くなっていったのだろう。
 けして偽らずに。
 哀しいときに泣き。
 苦しいときにのたうち回り。
 見苦しいほどに誰かを憎み。
 それでも誰かを愛して。ただ、愛し続けて。

 薄い色のカーテンを透かして降り注ぐ月の光が優しく奏の上にかかっていた。

[ 時の歌 ]

 暖かいものに包まれて、司の意識は浮上した。裁きのない朝。優しい光。鳥の声。
 罪に震えなくていい瞬間が、こんなにも甘美なものだと、司は今まで知らなかった。

「おはよう……」
 声をかけられてはじめて、司は自分が祥子の手をしっかりと握りしめ、祥子の体に頭を押しつけるようにして眠っていたことを知った。優しい笑み。引き寄せられるように唇をつないだ。
 質量のないものを抱くように、司は祥子を抱いた。
「なぜ泣くの……?」
 尋ねられるまで、泣いていることに気付かなかった。
 微笑む祥子が美しくて、泣いた。生きている鼓動が愛しくて、泣いた。

 カサリと、胸ポケットで奏が主張した。
 不意に思い出して祥子に小さな封筒を手渡す。

「美術部の部長だった、横田恭子さんって、覚えてる?彼女から……」
 祥子は不思議そうにしながら、丁寧に封筒を開けた。
「これ……は」
 署名を見るなり、祥子は弾かれたように司を見上げた。
「図書室の本の間で見つけたんだって。奏が死んで、半年以上経った頃……」
 それから繰り返し読み、感じ、愛し……。

 全て目を通すと、祥子は目を閉じた。
 便せんを握ったその指先から、かすかな波動。柔らかな熱。

 同じ魂を持って。
 同じ境遇を過ごして。
 同じ苦しみを負って。
 同じ人を愛して。
 そして、彼女だけが翼を置いて墜ちていった。

 それは誰のためだったか。

 私のためだったのだ。
 時を越えて、見えない未来を見つめて、彼女は司の愛するものに翼を与えるために、ただ一人で夢の中に去ってしまったのだ。
 同じ魂を持つもののために。

 何故。
 何故、素晴らしいものだけが消えなければならないのだろう。
 何故。

 恭子が描く優しい青が、瞼に浮かんで、消えていった。

 どうすれば、伝えられるだろう。
 夢の中に消えた私の分身に、私のこの愛を。

 愛している。愛している。
 愛している。


 サクリと背の短い草が足の下で音を立てた。
 湖は5年経った今もその姿は変わらない。水は澄み、草は茂り、垣根のような茨が取り巻いて。
「奏は、よく、あの木の下に腰かけていた……」
 司が指さす方に、祥子は歩いた。
「長いスカートに、手首には白いサポーターをして……」

 サポーターは傷を隠すためだったのだろう。
 それでも彼女は笑っていたのだ。傷つき、悲しみながら、それでも彼女は愛することを諦めなかった。

「湖を覗き込んで、空に手を伸ばして……」

 祥子は湖の淵に立ち、そっと鏡のような水面を見つめた。
 奏が、見返していた。水の中の空へ手を伸ばした。
 奏は空へと手を伸ばす。

 私たちは同じ光を見つめている。
 同じ人を夢見ている。
 同じものを必要としている。

 けれど、私は忘れない。
 本当に私たちを導くものは、今、目の前に見える光ではないことを。

 それは私たちの中にある未来。
 それは私たちの中にいる、私たちの子供。

「私は……」

 司がそばに立つ。哀しみと優しさで崩れそうになりながら、そっと、水面に触れて奏を消した。

「私は、私の子供に、奏という名を付けるでしょう……」

 波紋がゆっくりと消え、再び現れた奏は、綺麗に微笑んでいた。

 
1998.05.23-1998.07.05.