『雪の蝶』
それは そのとしはじめてのゆきがふったひ
いろいろなおとはゆきにきゅうしゅうされて そとはいちめんのむおんのせかい
なぜかしら ちちもははもないていて きんじょのひとがたくさんうちにきた
ふみかためられたゆきはどろみまみれてちゃいろににじみ おさなごころにさみしくて
ちいさなにわのすみっこ まだ だれにもふまれていないしろいせかいがあって
わたしはそれがうれしかった
きらきらとたいようにひかるゆきはしろく すこしとけてひょうめんが
あらくなっていたけれど それでもじゅうぶんうつくしかった
うれしくなってかけていったさき わたしはおもわずたちどまった
しろいしろいゆきのうえに めにいたいきいろ
つくりもののようによこたわる それはちょうちょう
どうしてゆきのひにとんだものか それはちょうちょう ちょうちょうのしたい
おとのないせかいで しろだけのせかいで めにいたいきいろ
それは そのとしはじめてのゆきがふったひ
や・み
絶え間なく私を包み。苛み。揺れる。
み・ず
鱗を震わせて、哀しみよりももっと愛しい感情で私に触れては去る。
愛しているわ。
囁いたのは誰なの?
分からない。
目の前にある闇。
水底に私を映して、哀しみより深く私を突き貫いて、波音。
あぁ。どうぞ私を見つめてください。
浅瀬に生える水草の林を抜けて鱗を翻すと、そこには切ないほど愛しい影が映る。
煌く銀の翼は愛しいほど月に輝き、尖ったくちばしが鋭く夜気に高い声をあげると、私は水面すれすれまで出ていって、うっとりとその影を見つめる。
あの人は美しい。
強い翼と炯炯とした瞳が。
頭上の下つ弓張見上げて、その矢の先を見届けるように。
鱗は煌く。
愛しく思っております。あなたさま。
届かぬ言葉を泡に変え、邂逅のときを待ちつづける。
冴え冴えとした月の氷は掠れはじめ、空には月痕。
明の鶏鳴いて、夜露に濡れた翼をばさりと振ると、水面が揺れて恐ろしい。
あぁ、旅立たれますか。この夜明けに。
薄明の空が恨めしい。
どうぞもう一度お姿を。ただもう一度。
瞬く間の別れ。曙光、湖を貫いて。
パリパリと音を立てて端から凍りつく湖に、ちらりと一度だけ視線を投げると銀の翼は飛び立つ。ちらりと見えた白い鱗は凍った水面の下で不鮮明になり、きらりと余韻を残して消えた。
夜明けに凍る湖。ただ一人白い魚を中に閉じ込めて。
もしも、愛がすべてを許す術ならば、
私は私を永遠に愛する事が出来ないのでしょうか……。
ゆっくりと溺れるような自分の内面から身を起こすと、放課後の誰もいない教室に目を走らせた。壁の時計を見ると5時半をさしている。
これくらい時間をずらせば、きっと出会わないはずだわ……。
のろのろと腰を上げると、鞄を持ち上げた。
誰もいない夕暮れの教室はがらんどうで、ただの空間より虚無に近いように思える。巨大な生物の胃の中にいるようで少々不快。乱れた机の列を抜けて後ろの扉に足を向けると、不意に扉が開いた。
「あ、ごめん」
ぶつかりそうになった影が慌てて脇によける。
「ごめんなさい」
応えながら見上げた先にある笑顔がとても意外。
「あまね、今が帰り?」
ちょっと首を傾げて小さく頷く。屈託ない顔は汗に濡れている。そうだ。陸上部は試合が近い。
「近藤君は部活?」
ロッカーからタオルを出しながら、少年はいつもの笑顔を見せる。
「そう」
入学のとき席が前後で、初めてのホームルームの時、彼は振り向いて私のネームプレートを指しながら聞いた。
『天音』ってなんて読むの?
『あまね』だと言うと、笑って綺麗だと言い、屈託のない笑顔で自分は『天』と書いて『たかし』というのだと言った。
乱暴に髪を拭くと、タオルを肩に掛けてぼんやりと立っている私の隣りに来た。
「あ〜ぁ。記録ってなかなか伸びないよなぁ」
不貞腐れているようで、変わらない笑顔。
下駄箱までの短い距離を、私の歩みに合わせてゆっくりと歩いてくれた。
「じゃぁ、暗くなるから気を付けて」
グラウンドに走り去る影、すらりと伸びた足、大地を蹴る瞬間のはりつめた筋肉。
私には、与えられなかったもの。
私はため息をついた。
何が羨ましい、というわけではないのだけれど、不意に自分の持っていないものを見せられると、切なさのようなものがわく。
もしも、自分が男だったら、こうして会いたくない人がいるからと、帰る時間をずらさなくてもいいように感じるから。
薄暗くなり始めた門までの道を、いつものようにゆっくりと歩きながら、ぼんやりとさっきの白昼夢を思い出した。
夜明けに凍りつく湖……。朝を喜べない魚。闇の生き物。
あれは、誰?
私、なの?
門をくぐりぬけ、車の少ない道を抜け、角の文具屋を曲がると、だらだらとした下り坂が真っ直ぐに続く。その一番頂上に立つと、何故だかいつも、眩暈がする。高所恐怖症、というわけではないのだ。高い所は好きなほうだから。ただ、このだらだらと続く下り坂は私を不安にする。恐怖というより嫌悪に近い。
何度目かのため息をついて、私はゆっくりと坂を下りはじめた。
定期券をポケットに入れながら、正直ほっとしていた。
時間をずらしたのがよかったのか、今日は出会わなかった。今でも初めて追いかけられたときのことを思い出すとぞっとする。
男はまったく知らない顔だった。変に近付いて来て、じっと見るので恐ろしくて、別の車両に逃げた。男は追ってきた。どんなに車両を変えても追ってくる。恐くて、恐くて、駅につくなり家に電話をした。慌てたようにやってきた母の車に乗りこみながら、私を追っていた男がじっと物陰からその様子を見ていることに気が付いた。
私を追って、降りていたのだ。この駅で。
母は心配してしばらく迎えに来てくれていた。
その後も何度か列車の中で男を見たが、最初の日のように執拗に追ってくることはなかった。ただ、いつもその視線を感じてはいたけれど。
ロータリーを過ぎて、街灯の灯りはじめた歩道を歩く。ただ、毎日のように続く恐怖に遭わなかったというだけで、こんなにも心が安いらいでいる。気にしているつもりはまったく無かったけれど、実はかなりの負担になっていたことが分かった。
明日からは時間を潰すためのものを持っていかなくっちゃ。
家々の窓に灯る明りを見ながら、ふと、虚しくなった。
私が男なら、こんなこと、考えなくたっていいはずなのに……。
不意に近藤の少年らしい姿が思い出された。
あぁ、あの大地を駆ける足があったならば……。
私は間に合ったかもしれないのに……。
ぎくりとした。
間に合ったとはどういうことなのか。
思い出そうとして、不快感。回線はショートし、私はぴりぴりとした痛みをこめかみに感じながら思考を遮断した。
やみ。ひかり。
ひかり。やみ。
鱗を翻して、水草の塔。
あの御方はまだかしら。まだかしら。まだかしら。
二十三夜の月待てば願いが叶うというけれど。
銀色の細い光に祈りましょう。
どうかわたしをあの方のお傍に。
羽根を濡らす露でもよいから。
夕日に染まった教室で、私は読んでいた本をそっと置いた。グラウンドからは野球部のものらしい歓声が上がり、遠くから合唱の少し上擦った声が聞こえている。
時計の針は5時20分。もうじき学校を出よう。
ぼんやりと夕焼けの空を見上げながら、合唱の声に合わせて小さく歌を口ずさんだ。
なれしこきょうを はなたれて
ゆめにらくど もとめたり
なれしこきょうを はなたれて
ゆめにらくど もとめたり
流浪の民。
私達は帰る故郷も家も持っているくせに、どこか帰るべきところがないような気がする。
いつも心は漂白。
もう、馴れてしまっているのか、それを疑問にも思わないけれど。
急に寂しさが込み上げた。
全身を夕日で真っ赤に染めながら、がらんどうの教室で、私は独りだった。
帰ろう……。
暖かな家へ。
誰も私を傷つけない家へ。
誰も私に石を投げない家へ。
鞄を掴むと、ほとんど走るようにして私は教室を出た。
下駄箱で靴を履き替えるのももどかしい。
門への道を走り、門をくぐりぬけ、車の少ない道を抜け、角の文具屋を曲がり、だらだらとした下り坂の頂上で。私の足は竦んだ。
何かが重なる。
灰色に沈んだ記憶が私の中で奇妙な符合を見せる。
いやだ。おもいだしたくない。
そう思ってしまった直後に気がついた。
思い出したくないということは、私は知っているのか。
このだらだらと続く坂道。
おそらくここで見た、思い出したくもないような光景を。
なれしこきょうを はなたれて
ゆめにらくど もとめたり
私を追うように歌が流れる。
私は追われる。
なぜ。なぜ。
「どうしたの?落としたよ?」
細い声に我に返った。
目の前に自分と同じくらいの背丈の少年が鞄を持って立っている。
「忘れ物でもしたの?」
白いシャツにジーンズ。柔らかそうな髪。目元にポツリと黒子が見える。
「ごめんなさい。ありがとう」
鞄を受け取る手が震えていた。
「大丈夫? 駅まで、送ってこうか?」
私は断ろうとした。そのとき、少年の肩越しに男の姿が見えた。
こんなところまで。
言いようのない恐怖が襲った。私が侵略されていく。こんな、名前も知らない、男に。
独りでは、帰れない。
「ありがとう……」
少年はそっと私の鞄を取ると、ゆっくりと私に合わせるように歩き始めた。
「俺、大樹っていうんだ」
彼は名乗った。私は『あまね』だと言った。
坂をゆっくりと下りながら、彼は自分のことを語ったが、私の事は聞かなかった。
学校に行っていないこととか、家は少し遠いこととか、たまに学校の塀越しにクラブ活動の音を聞くことが好きだとか。
別れ際、ちょっと首を傾げて大樹は私を見た。
今度はあまねのことも教えてね。
手を振って、独りになって、考える。
身長は同じくらいだけど、たぶん年下だろうと思う。学校に行っていないなんて、病気でもしているのだろうか。
初めて会ったはずなのに、なんだか懐かしい子。
おとうと。
もしも弟がいたならば、あんな感じがするのだろうか。
何気ない考えに、ふと笑みが漏れる。
それと同時に何故か、胸が締めつけられるほどに痛かった。
今日は二十六夜の月。東の空の月剣。
いっそ胸に抱きましょうか。
この胸刺して死ねるよう。
けれども水面の月は揺れ、私は鱗を鳴らすだけ。
炯炯としたあの瞳。空の彼方に揺れる星。
あぁ何故に、私は空などに恋をしたのか。
叶うはずもなかろうに。結ばれるはずもなかろうに。
それでも夢見る愚かな魚をどうか哀れと思し召せ。
共に飛ぼうなど、願ってはおりませぬ。
ましてや水中に招こうとも。
けれども恋慕は募り、私は二十三夜に願い出た。
どうか、突き貫いて下さいませ。
命など要りませぬ。
あの方の嘴で、突き貫かれて、この世界の贄になりとうございます。
あぁ、曙光の貫く前に、この湖の凍る前に。
私の鱗を突き貫き、私を連れ出して下さいませ。
揺れる月影淡くなり、きらきらと夢のように水面に揺れ。
あの方は来た。あの方は来た。
曙光にパリパリと音を立てて端から凍りつく湖。
すばらしい早さであの方は垂直に水面に飛び降り、私の鱗を引き裂いた。
痛み。痛み。
ほんの僅かな血の濁りを残して、凍った水面の下は不鮮明になり、ぴたりと世界を閉ざしてしまった。
私から流れた血が、ほとりの緑にばら撒かれ、小さな赤い斑点になった。
夜明けに凍る湖。ほとりには赤い花が咲き。
もう、白い魚はいない。
だいきちゃん だいきちゃん どうしてなの
ははがないている
うそのようにちいさなしろいぬのにつつまれたはこが げんかんからはこびだされると
うちにあつまっていたひとがみんな いっせいにしくしくないた
くろいふくをきたひとたちのむれがいっせいにうごきはじめた
わたしはめにいたいきいろのちょうちょうをみつめた
しんでしまったちょうちょう
ゆきをほるとちょうちょうをそっとそのあなにいれ うえからしろいゆきをかけた
ちょうちょうはゆきのなか ちょうちょうはしろいゆきのなか
かわいそうなしんだちょうちょう
ちちがわたしをみつけると だきしめた
ないているほほをみて おどろいて わたしはあたまをなでた
ちちがそんなわたしをみて もっとひどくないた
だいきちゃん だいきちゃん
ははのこえ
それはそのとしはじめてのゆきがふったひ
まっしろいせかいのなかにちいさなまっしろいはこ
ぶくぶくと規則的な音を立てるエアポンプをぼんやりと眺める。水面に浮いた餌は上がってくる泡に押されて小さく踊りながら水面を滑った。
ぴちゃり、と音がして、小さな尾びれが水面をたたき餌を飲みこむ。
きらりと蛍光灯の明りを鱗が反射して飛び出した意識を呼び戻す。
私はため息をついた。
部屋の中は水槽の灯りで蒼い。
水草が揺れる水槽。それはまるで森のようだ。水草を育てるためだけの水槽には、ネオンテトラが5匹ほど居るだけ。
最初は魚など飼う気はなかったのだ。けれど、新しい草を買いに行った店の小さな虹色の魚の水槽には、大きな群れからはぐれて泳ぐことさら小さいネオンテトラがいた。
小さな子っていうのは、結局食べられちゃうのよね……。
そんな声が背後で聞こえた。既に多くの魚を買っているらしい女性は、連れの男性に笑いかけながら言葉を繋いだ。
可愛いけど、うちの水槽にはもう入れられないわね……。
私ははぐれている魚を見つめた。
帰り、私は大きなビニールの袋に水草と5匹のネオンテトラを入れて歩いていた。
同情なんかではなかった。ただ、そのけして群れの中に入ろうとしない姿が、愛しくなったのだ。
僅かな餌を水面にばらまいてやりながら、無意識に数を数える。
1匹、2匹、3匹、4匹、5匹。
魚が起こした水流で、葉の裏についていた空気の泡がぷくりと水面を目指す。
魚の餌、養分、光、空気、呼吸。
そこには、とてつもなく人工的で美しい完結された世界があった。
ぶくぶくと響く音。
緩やかな水流。
それはそれが完結しているがゆえに、私に違う連想をさせた。
緩やかに丸くなり、始りの形になっていく私。背を丸め、膝を抱き、両手でしっかりと肩を抱きながら、無重力の水槽を緩やかに緩やかに回転して。
どくんどくんどくん。
鼓動。
不鮮明な喘鳴ような音。規則的に。
あぁ、血管壁を擦っていく、赤血球の規則的な揺らぎのリズム。
これは、母の音。私を作り、私を育てている音。
どうか、わたしを小さく小さくして、その温かさの中でだきとってください。
水槽に飼われている小さなネオンテトラのように、全ての敵を私から遮断して。
私は、たぶん、子宮に帰りたいと願っているのだわ。
その願いは、ただ癒されたいというよりは自分の存在を消してしまいたいと願っている気がして、浅ましい自分の思いに涙が出た。
私は忘れることで己を偽り、時を重ねて生きていた。
けれどもそれはたぶん、生きているとは言わない。
全身を刺す針のような痛み。鱗は剥がれ、無残に風にキラキラと花のよう。
雄々しい羽ばたきが体を打ち、腹に食い込む爪が臓腑を抉る。
あぁ、この痛みは。
耐えがたいほど歓喜に似ていて……。
木々の梢を下に見て、痛いほどに風を裂き、目の前一面に広がる空。
空。空。空。空。
あぁ、これが空というものか。
月と星とに支配された夜と違って、この太陽のなんという熱さ。
この風のなんという痛み。
乾いたのどの奥から搾り出すような叫び。
私は、私は、私は、わたしは。
昏い産道を抜け、押しつぶされた胸で鼓動を打ちながら、私は必死で身体を捩った。
網膜を焼く痛みの果てに、ポカリと開いた空。
初めて吸い込む乾いた大気は胸を焼き、痛みの絶叫がほとばしる。
私は、わたしは、ここ!
雨が降っていた。この季節には珍しいしとしととした雨。
雨は嫌いではないのだ。心まで濡れるような心地がするから。
ヴェルレーヌだったか、雨と心を歌ったのは。
Il pleure dans mon coeur
Comme il pleut sur la ville……
けれど、傘のない仔羊には冷たい雨だわ……。
私は文具屋の軒先で、滴り落ちる雨の音を聞いている。
雨はたいして強くはなかったけれど、これから先雨宿りできる場所のない駅までの道は少し長すぎる。雨の勢いは変わらない。早く帰って、塗れた髪と服を乾かしたいのだけれど、学校に居残ったせいで知った顔を見ないのだ。
次第に暗くなっていく空に、濡れて帰ることを決意しようとしたその時、不意に懐かしい声がした。
「あまね? どうしたの?」
大きな白い傘を差して、小さく首を傾げているのは、あの、少年。
「傘忘れたの? 駅まで、送ろうか?」
「大樹くん……」
私は思わず大きな声を出した。
彼は困っている時に必ず現れる。恋愛小説ならここから恋がはじまるのだけれど、なぜだかこの子とはそんな気はしなくて。
差し掛けられた傘の中に入りながら、小さく、ありがとう、ごめんねと言うと、屈託ない笑顔が見えた。
肩を触れ合わせるようにしながら、だらだらとした坂を下る。近くに居すぎているせいなのか、ぎこちない空気が流れてしまう。
なにか話さなければと思い、口を開こうとした時に、先に話題を振られた。
「この近くにある池の昔話、知ってる?」
近くに池があることは、知っていた。確か、古い池で、戦国時代に白拍子がどうしただとか、そんな伝説があったような気もする。けれど、正確なことなど、知らなかった。
「知らないわ」
彼はくすりと笑うと、聴きたい? と聞いてきた。
そう言われると、聞きたくなる。とても。
正直にそう言うと、彼はすこし勿体をつけて話し始めた。
それは、遠い昔の話。
戦乱の世。強い武将に浮いた話は当たり前。白妙という白拍子と鷹狩が得意な若武者も、一時の恋情に身を焦がす、そんな恋人達の一つだった。
栄華が移るのは世の習い。人が死ぬのもそう。特に戦乱の世ならば。
若武者は死に、白妙は残る。
恋に狂った女の情が熱いのは今も昔も同じで、白妙は黄泉から若武者を呼び戻そうとする。
深い黄泉の坂、駆けあがり、駆け下り。
愛しい人。愛しい人。ただ、ひたすらに愛しい人。
人に見つかることを恐れ、小高い丘の池の傍に庵を構え、ままごとのような若武者との生活。
それでも幸せだった。二人して、池辺に咲く水仙を愛でようとさえしなければ。
鏡のように澄んだ池。映る姿。
暴かれた死んだ身体は浅ましく、あがる白妙の絶叫。
黄泉の坂に引き寄せられ、一時の夢を残して、若武者は引きずり戻される。
それでも白妙は恋に狂った女だった。
若武者を求めて、黄泉の坂駆け下る。足は破れ、血にまみれ、髪を振り乱し、暴かれた浅ましい恋人の姿をそれでも追い求める。
哀れで、哀れで。
とうとう白妙は息絶える。黄泉の坂の途中。瓦礫の中に、死ぬ直前まで必死で追いかけ、這いずったような跡を残して。
生きているものは誰も、白妙の最期を知ることもなく。
ただ、白妙の母だけが、池を眺めてはその恋情を思って泣いたと。
それから幾年か過ぎ、その池に白い魚が住むようになったと、人は言う。
そして、昼、鏡のように穏やかな水面に面を映すと、「本当」が見えるとも。
「こういう、話……」
信じる?
悪戯な顔、話された伝説は本当のことだったのか、それとも全部作り話だったのか。
思わず苦笑した。
もう、駅は目の前だ。最寄駅についたら家に電話すればいいから、もう、濡れることはないだろう。ほっとする。
曖昧に笑って見せると大樹は続けて質問した。
「あまね、兄弟は?」
ちりりとこめかみが疼いた。
「私? 一人っ子よ」
一瞬、彼の歩みが止まった。
「……そう」
そこで駅についた。
礼を言って、改札で振りかえると、降り注ぐ雨の中で、白い傘をさして立っている姿は少し霞んで見えた。
ありがとう。
そう口の動きだけで伝えると、彼は小さく首を傾げて、笑った。
哀しそうだ、そう思って、何歩か歩いてもう一度振りかえってみると、もう、そこに白い影は見えなかった
駅に迎えに来たのは、母ではなかった。ちょうど遊びに来ていた叔母がとりたての免許が嬉しくて迎えに来てくれたのだ。叔母の家は近いが、近いと逆にあらたまった用事でもないと遊びには来ないもので、前に会ったのはお盆の時だったような気がする。
「傘、もってくの忘れたんだって?」
ハンドルを危なっかしく握りながら、叔母は笑って訊ねた。
「えぇ、天気予報を見ていくの、忘れたの」
そう応えて、私は疑問を投げかけた。
「今日は、どうしたの?」
叔母はちょっと黙った。そして、静かな声で言った。
「あまねは小さかったから、覚えていないかもしれないけど、あまねの2つ下に生まれた男の子の13回忌の相談……」
おとうと。
2つ下の、本当なら13才くらいになる、おとうと。
死んでしまった、おとうと。
忘れていた、おとうと。
おとうと。
おとうと。
こめかみが痛む。
きりきりと、螺子を回すように痛む。
私は間に合わなかった。
私は間に合わなかった。
私は、だいき、を、助けてあげられなかっ、た。
灰色の街、真っ直ぐに続く下り坂。
だいき。だいき。だいき。
走る。胸が痛い。
まって、とめて。だれか、とめて。
足がもつれる。転ぶ。痛み。
だれか、そのうばぐるまを、とめてよう。
灰色の視界の中で、しだいに小さくなっていく乳母車。
音のないモノクロのフィルムが不意にコマ送りになると、背後から、恐ろしい母の叫び声が聞こえた。
だ・い・き
大きな音がして、道から飛び出した乳母車をトラックが跳ね飛ばした。
世界は、白く壊れた。
おとうとよ
わたしのうしなったおとうとよ
わたしのおかしたつみをゆるしてくれるだろうか
わたしはあなたをころした
そしてあなたをわすれた
にどくりかえされたさつじんを
ゆるしてくれるだろうか
おとうとよ
過去を取り戻すことは出来ない。
私達の中に宿っているのは生まれてくる子供。
未来。
坂の上、母は友人と談笑していた。乳母車には可愛い弟が乗っていて、私は昨日買ってもらったゴムのボールで大人しく遊んでいた。壁に打ちつけたボールを取りに行こうとした時、私は乳母車の影になにかが動くのを見た。それは猫だったかもしれない、犬だったかも、それともなにか禍禍しい、この世のものではないものだったのかもしれなかった。
ことり、と乳母車が動いた。母は気付かない。私は走った。子供らしい興味からだった。
乳母車は坂の上にあった。ゆっくりと、坂の下に向かって動き出そうとしていた。
私は走った。手が届きそうになったとき、乳母車はとうとう坂を下り始めた。
私は間に合わなかった。
そこで、私は叫ぶべきだった。
声が出なかった。
必死で走った。
追いつくはずがなかった。
弟は1年にも満たない命を終えた。
葬式は雪の降った日だった。
雪の上に、蝶が死んでいた。黄色い、鮮やかな蝶。
私は蝶の墓を作った。雪が冷たかった。
私は3歳だった。
「あまね、大丈夫?」
放課後の教室で不意に声をかけられて、私は現実世界に引き戻された。
目の前にやさしい顔。
「顔色、悪いね」
叔母の話を聞いてから、甦った記憶が繰り返し繰り返し心に流れて、あまり眠れなかった。思い出してしまった記憶も衝撃ではあったけれども、忘れていたという事実、否、忘れようと努力していたという事実が一番私の心には重かった。
そう、たかしのような足を持っていたら、私は弟を救うことが出来たのかもしれなかった。
だから、あんなにも、私は……。
「あまね?」
私は笑って見せた。大丈夫。大丈夫。まだ、大丈夫。
私は笑った。
「部活、遅れちゃうよ?」
心配そうな顔で、去っていく。そう、私は大丈夫。大丈夫なはず。
その背中を見送ると、私はいつものように本を開いた。5時半まで時間をつぶす為に。
生まれ出でるということは、こんなにも痛いのですか。
私は、もっと早くに気が付くべきでした。
過去の哀しみや怨みに身を凍らせるのではなく、
明日を見つめていられるのはどんなに幸せでしょう。
痛みすら喜びです。
私は生きているのです。
私は生きているのです。
開いていく花を見つめるように、私を見つめて下さい。
その愛しい光の瞳で。
夕焼けが私を染めた。
血のようだと思った。
教室はがらんどう。
私は独り。
帰ろう、帰ろう家へ。
早く、隠してしまおう。
罪にまみれたこの姿。
なれしこきょうをはなたれてゆめにらくどもとめたり
あぁ、私を追うのを止めて。
ひんがしそらのしらみてはよるのすがたかきうせぬねぐらはなれとりなけば
どうか、私を許して下さい。
いずこゆくかるろうのたみ
トンネルの中で叫ぶように声が反響して、私は私で居ることが出来ない。私の声は繰り返され、裁きの声までもが私の声を真似る。
忘れていた。忘れていた。忘れようとしていた。思い出すまいとしていた。
わたしのおとうと。
剥離した心を抱えて、私はゆっくりと下駄箱をでた。なにか、声が後ろの方でしたけれど、私の脳にはなにも入ってはこなかった。
私は機械のようにいつもの下校ルートをたどり、坂の上で止まった。
乳母車、乳母車、止めなければ。
おとうと、わたしのおとうと。
私が救わなければならない、わたしのおとうと。
ばたりと音がして、鞄が地面に落ちた。それを合図のようにして、私は2、3歩走った。
乳母車が転がる。この先には道路。止めなければならないの。私。
私は走りだした。
間に合うわ。間に合う。
あの時のように私は幼くないし、私はあの時よりも強くなっているはずだわ。
だって、私は姉なのよ。私は姉なのだもの。
息が上がる。
胸が痛い。
走らなきゃ。走らなきゃ。
あぁ。もうすぐそこ、間に合うわ。
後ろの方で叫び声がした。
だいき
私は乳母車に手を伸ばした。取っ手に手がかかろうとした瞬間、乱暴に身体を止められ、罵声を浴びせられた。
「あまね!なにやってるんだよ」
けたたましいクラクションが鳴って、私の横をトラックが通りすぎた。
電柱に押しつけられるような格好で、私はたかしを見つめた。
陸上の練習の格好のまま、汗に濡れた顔で。
「様子が変だと思ったら……。死ぬつもりだったのかよ!」
あぁ、そうかもしれない。
もしかしたら、私は。
乳母車を追って、黄泉の国へ行きたかったのだ。
「あまね?」
私は泣いていた。
いまさら、どう足掻いても間に合いなどしないのだ。
分かっている。分かっている。
でも、追っていきたかったのだ。わたしのおとうと。
たとえ、許されぬことでも。
だいき。だいき。
「あまね?」
優しい声がした。
大樹は小さく首を傾げて心配そうに見つめている。
私は確かめるように手を伸ばした。確かな質量で、大樹の手は私を握り締めた。
「池に行こう?」
縋るように私は大樹を見た。そんな私を怪訝そうにたかしは見つめたが、大樹の優しい笑顔を見て、少し安心したらしい。なにか一言二言大樹と言葉を交わして、私を見た。
「あまね、無理、すんなよ」
大樹に助け起こされるまで、私は去っていくたかしの足元を見つめていた。
生まれ出る。花開く。夢見る。
あなたを呼ぶ。光の中に居る。
柔らかな花弁に押し包まれ、おしべの甘い花粉の中で
私はあなたを待って眠っている。
あぁ、どうぞ舞い降りて、私の全てを差し上げましょう。
私は花開く。あなたを待つ。
ここは夜明けに凍る湖のほとり、私は赤い花。
あなたを待つ。
あなたを待つ。
綺麗な水だった。思っていたより大きな池だった。風はなかった。水面はゆらゆらとかすかに揺れていた。
「わたし、おとうとがいたの」
池の周りには小さな赤い花が咲いていた。
「だいきっていったの」
「うん」
控えめな返事が聞こえた。
「ずっと前に死んじゃったの」
涙が流れた。
後ろの方で、大樹が立ち止る音が聞こえた。
「大樹?」
「振り向かないで!」
声は厳しかった。
「大樹?」
そっと、背後から大樹が包み込むのを感じた。
「僕ね、僕……」
はにかんだような声。
「ずっと、大好きだったよ。初めて、僕の顔を覗き込んで笑ってくれた時から」
だからね。守ってあげたいって、思ったんだ。
優しい声。
懐かしい声。
だいき……。
だいきっていう名前の由来、知ってる?
私は聞いた。
知らないと、大樹が言った。
天からの声を一番に聞けるように、大樹ってつけたんだよ。
そう、私の声を一番に聞けるように。
兄弟で、いつも仲良く居られるように。
赤い花弁の中、私は眠っている。
柔らかな花弁をそっとめくって、あなたが私をノックする。
私はからだを開く。
零れるような優しい香りの中で、私はあなたを迎える。
ひらひらとあなたは私に舞い降りる。
光の中で、私達ははじめての抱擁を繰り返す。
ひらひらと夢のようにあなたは舞う。
私は花。あなたは蝶。
私はあなたを待つ。
あなたも私を待つ。
そうして私達は命を繋げていく。
明日へ。明日へ。
ちょうちょう。あの雪の日。あなたがくれた手紙。
目に痛い、はじめての手紙。
「大樹……?」
私は振りかえった。
大樹の姿はなかった。
ただ、黄色い蝶の死体が、緑の草の中で鮮やかに目に痛かった。
おとうと。わたしのおとうと。
そっと、その蝶を手に取ると、私は池のほとりに小さな穴を掘った。そこに草のベッドを作り、蝶を横たえると、そっと土を盛り、花を供えた。
さようなら、わたしのおとうと。
暮れはじめた空に掛かる地球照の月。
もう白い魚の居ない水は澄んで、水草だけが森のようにゆらゆらと揺れている。
私はその日、私の中に、初めて子宮があることを感じた。