『夜啼鳥』
鳥は飛び去る。羽根があるから。――否、飛び去るのは訪れるためだ。喪失を、不在を魂に刻み込ませるために。再会の歓びを高らかに歌う為に。
雨が降っていた。夜の、ほの暗いライトの下でも雨の地面は白く、靄のかかったような湿った大気が私の服を重く濡らした。当てのない散歩だった。もう、どうでも良かった。
私はゆっくりと紅い傘を地面に放り投げた。雨が頬を叩き、髪が瞬く間に首筋に張り付いた。私は濡れた髪をかきあげ、纏い落ちてくる冷たい雫を肌で感じた。
――お前に分かるもんか。
そうだ。私には分からない。明日をも知れない病を持っている人の心なんて、私にはわからない。
私は健康な体をもって生まれた。健全な両親と健全な友人の中で育った。私の周りに居るものは、ささやかな悩みを持っているにしろ、多くの人間が前向きで、積極的だった。私はそれが正しい姿だと思っていた。それ以外は修正すべきものだった。けれど……。それは、ただ、そう在れるだけの温室の中に私が居たというだけなのかもしれなかった。
――お前に分かるもんか。
彼の軽蔑と嘲笑の混じった冷たい視線に、私は反論することも出来ず、開き直ることも出来ず、ただ、どうしていいかも分からずに突っ立っていた。
同じ痛みを感じてみたい――不可能だ。私はただ、思いやることしか出来ない。それは、単に私が一番軽蔑していた興味本位の視線だった。恥ずべきは私だ。
私は雨の中に飛び出した。冷たい雨に打たれたかった。でも、それすら、もしかしたら、こんなにも傷付いたのだと見せるためだったのかも知れない。
彼はピアニストだった。私は彼のリサイタルを見た。彼の指が紡ぎ出す、恐ろしく透明な旋律に私は心を打たれた。そこには哀しみがあった。高らかにピアノを歌わせながら、彼の精神は誰にも見えない場所で泣いていたに違いなかった。あの時、確かに、私の心は痛んだ。私は傷ついた。彼の痛みを痛みとして受け取った。もう一度、彼に会いたかった。もう一度、幼馴染として。
彼はそのリサイタルを最後に音楽活動を止めた。癌という病魔に冒され、彼は最期の時をホスピスで迎えようとしている。
ホスピスと言う場所を私は悲しみの場所だと思っていた。確かにそこには哀しみがあった。全ての人が、自分の秒刻みで減っていく余命を思いながら生きていた。――そう、しかし、そこは「生」の場所だった。生きるための場所だった。
私は彼の病室のドアを開けた。彼は空を見上げていた。
「貴之くん」
私は幼いときにそう呼んでいたように彼を呼んだ。振り返った彼は痩せていた。細い指で私に向かって手を伸ばすと、小さく私を呼んだ。
「美佳ちゃん?」
幼いときの呼び方そのままに。
「お花を持ってきたの」
彼が好きだったカラーの花束を見せ、私は微笑んだ。彼は笑った。私は、その笑顔を美しいと思った。
私が彼に感じた感情は、何だったのだろう。今になっては、それが何だったのか、自信を持って言う事が出来ない。愛だと、私は思っていた。彼の細い背中を見つめて、彼に寄り添って一緒に空を見上げた。彼は笑っていた。だから、私は――。
彼は何のために笑っていたんだろう。あの笑顔は彼の為のものだったろうか?
――今日は空が綺麗だね……。
彼の笑顔。常に私に向けられていた、彼の笑顔。
私は拳を震える歯に押し当てた。冷たい指が色をなくして、彼が綺麗だと言ってくれた、彼の看護のために短く切りそろえた爪が青かった。彼のために犠牲にしたものを、彼は美しいと言ってくれた。
「もう行くの? あれは夜啼鳥(ナイチンゲール)よ……」
彼の好きなシェークスピアの一節を、私たちはよくおどけては演じあった。私が家に帰るためにドアを開けると、彼は裏声を使い、私に手を差し伸べた。私はもう一度彼の元に飛び帰って、差し出された細い指に恭しく口付ける。そして二人で笑うのだ。私はロミオで、彼はジュリエットだった。
「もう行くの? あれは夜啼鳥よ……」
私は繰り返す。雨の音が私の声を掻き消した。 街頭のぼんやりとした光の中で、木々が亡霊のように長い影を落としている。私はその影を睨みつけた。
ふと、ピアノの話をした。最後のリサイタルを見に行ったことを話した。些細な私の一言だった。
「ピアノ、弾けばいいのに……」
――お前に分かるもんか。
突然の彼の激昂。初めて彼の本当の顔を見たような気がした。
彼の細い指は、もう、以前のような透明な音を奏でることがないのだ。一気に筋力が衰えた腕では、ソナタ一曲、弾き通すことは出来ないのだ。私は愚かだった。彼はどこまでもピアニストだからこそ、頑固なほどピアノに触れることを拒んでいたのに。
「それでも私は貴方の音でいっぱいになりたい。あの音は貴方そのものだから……」
私たちは体を繋ぎあうことが出来ない。彼の体はもう、限界なのだ。戯れるような口付けだけを繰り返して、私たちはおとぎの国に居る。誰も傷つけるものの居ない、ただ美しいだけの、ただ優しいだけの世界に。
私は濡れたままもう一度病院へと歩き出した。彼は生きなくてはならない。それがどんなに辛いことであったとしても、彼は生きなくてはならないのだ。そして、私も生きなくてはならないのだ。
私は覚えていたい。魂に刻み付けてしまいたい。彼の音を。彼の証を。
明かりを落とした玄関に彼は立っていた。細い肩に上着をかけ、点滴の棒を握り締めて、直ぐ脇にある椅子に座ろうともせず、彼は立っていた。
「美佳……」
怒りも悲しみも笑顔も、およそ感情のない透明な顔で彼は私の名を呼んだ。 彼はゆっくりと私の手を取った、そして、誰も居ない廊下をゆっくりと歩き始めた。
彼の背中は小さかった。張り詰めた細い糸の上を滑るようにして私たちは歩いていた。入院棟から離れた、昼間は憩いの場所となっている小さなホールに着くと、彼はポケットから鍵を取り出した。そして、迷うことなく片隅に置かれたピアノに歩み寄ると、鍵を開けた。
「何がいいの?」
紅い布を剥ぎ取ると、真っ白い濡れたような鍵盤が光った。艶やかな鍵盤を愛しそうに指で触れると、彼は私に尋ねた。
「ショパン……」
私は彼を見つめた。彼の指がゆっくりと鍵盤に触れ、最初の一音がホールに響いた。
彼はワルツを弾いた。柔らかな音が歌うように鍵盤から流れた。透明な音だった。あの時と同じように、透明で哀しい、私の心に突き刺さるような音だった。
それから一ヶ月、彼は毎日ピアノを弾いた。時には周りからのリクエストで、懐かしい演歌を即興で弾いた。懐かしい歌が流れると、時に大合唱になった。彼は笑っていた。けれども、最後に必ず彼はショパンのワルツを弾いた。いつもその音を聞くと、私の心は痛んだ。
その黒いピアノに真っ白い百合が飾られたのは、やはり、霧雨の降る日だった。
――もう行くの? あれは夜啼鳥よ……。
私は小さく呟く。ロミオは帰ってこない。私はそれでもピアノに囁く、あれは夜啼鳥なの、行かないでと。
もうピアノはワルツを歌わない。
彼は生きた。ピアノを歌わせ。彼は生きた。
いつか、また、このピアノが歌う日、夜啼鳥は帰ってくる。そして、小さく鳴くだろう。
――もういくの? あれは夜啼鳥よ……。