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現代恋愛小説:「夜啼鳥―別れのワルツ」
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『夜啼鳥―別れのワルツ』

 雪の日、手袋をしていきなさいと母に叱られた。薄い柔らかな綿で出来た手袋をして、その上に分厚い中綿のついた皮の手袋をはめた。華奢なコートの袖から覗く無骨な黒い手袋は無残なほど不恰好で、私は母に分らないように微かに唇をゆがめて、その可愛くない手袋を眺めた。その日から、雪は大嫌いになった――。


「誰もあんたの痛みなんて分からないのよ」
 思ってもいなかった言葉を不意に口に出されて、私は一瞬うろたえた。分ってもらおうとして話した話ではなかったのだ。ただ、彼女があまり優しげに、顔色が悪いと、悩み事があるんじゃないのかと言ったので、ただ、事実をしゃべったに過ぎなかった。
「自分でなんとかするしかないじゃない。」
 違うと反論しようとして、私は口を噤んだ。自分への誤解を解こうという意志よりも先に私に訪れるのはいつも諦めだった。私は諦めることに慣れ、周囲が望む姿を演じることに慣れすぎていた。
「そうだね、ごめん。ありがとう……」
 幼い頃から邪気のない笑顔だと言われていたその笑顔が、私は死ぬほど嫌いだったが、それでもその顔で笑うと彼女は安心したように小さく溜息をつき、元気を出してと背中を叩いて階段へと歩き去った。私は一人屋上に取り残されて、そっと、下界を見下ろした。校庭で、誰かが声を張り上げてボールを追っていた。風が頬を弄って、冷たい冬の兆しを私に与えて去った。
 ――とても好きな人がね、もうすぐ死んでしまうの……。私、何が出るのか、どうすればいいのか、分らないの……。
 もう一度事実を噛み締めて、私は空を見上げた。抜けるように透明な空は、あの人の居る窓からも見えているに違いなかった。

 彼との最初の出会いは、雪の日だった。ピアノのレッスンの日、不恰好な手袋をしていた私の前で、彼は冷たく赤く悴んだ指で立っていた。まだ、前のレッスンの少女が終わっていなくて、レッスンの見学にきたという彼は私と一緒に待合室に通された。
「指、そんなに冷たくてピアノ弾ける?」
 私は暖かい室内で手袋を取ると、そっと彼の指に触れてみた。一瞬、熱いような気さえした彼の指は実際には恐ろしいほど冷たく、時間が経つほどにその冷たさを増した。
「見学だけだから……」
 そう言った彼の視線が無骨な手袋に降りているのを見て、私は慌てたように言葉を続けた。
「寒いレッスンの日はね、手袋をしていないとピアノ弾けないのよ」
 彼は笑った。そして、ひとこと、だから手が温かいんだねと、そう言った。当時6歳だった私は、彼がどんな人なのか知らなかった。彼は早逝したある有名なピアニストのただ一人の遺児で、私より2つ年上だった。
 私は中学に上がるときに父が起こした交通事故がもとで、趣味でしかピアノを弾けない指になったが、その頃から彼は親から受け継がれた才能を開花させ始めていた。
 私が事故にあった日、ピアノの師匠と一緒に急いで病院に駆けつけてくれた彼は、私の包帯のまかれた左手を握って涙を流した。彼は両親を事故で亡くしたのだ。ただ、そっと重ねているだけの彼の手がとても温かかった事を覚えている。その場に居る全ての人が悲愴な顔をしている中で、私だけはとても心が軽かった。これでもう、苦しいほどにピアノを弾かなくてもいいのだと、より高い芸術とより高い技術を目指して、全てを捨ててピアノに向かわなくてもいいのだと、私はほっとしたのだ。しかしそれでも、神経が切れて動かない左の小指を見ると、今でも微かに後悔とも悲しみともつかない感情が、私の中で流れる。
 私は母が是非にもピアニストにと望み、ピアノの師匠からも『素直でいい』と評されていた。指が弱くて筋力がないため、激しい曲には向かなかったが、音を抱くようにして奏でる優しい曲が私はとても好きだった。私の母の夢を潰した事故から半年後、彼はコンクールで優勝した。その時から、彼はピアニストとしての階段を一歩ずつ登り始めたのだ。
 そして――それから5年が過ぎた今、彼は病院に居る。膵臓癌――既に末期だと私は母から漏れ聞いた。彼のように若くして罹患するのは稀なのだと、母は悲愴な顔をした。
 ピアノの師匠が母の友人だったこともあり、私はピアノを止めてからも度々師匠の元を訪れていた。全てのレッスン生が終わった後に彼はよくピアノを弾いていた。日に日に冴えるように輝きを増していく音は、確かに才能だと私は確信していた。彼の音は月の光のようだった。冴え渡り、輝き、冷たく密やかで、その音を聞くと震えるほどに胸が痛かった。
 次第にコンクールだけでなく数名での小さなリサイタルで演奏するようになった彼は、時折音楽雑誌の批評欄に名前が出るようになり、若手のピアニストの中でも特にショパンを得意とする才能あるピアニストとして有名になっていっている。それでも、私を見る彼の視線は優しく、時折私の左手に落ちる悲しげな視線が、どこか私を責めているような気がしていた。
 ――麻衣ちゃんにも是非聞きに来て欲しいの。たぶん、貴之にとっての最後のリサイタルだから。
 師匠は一枚のチケットを手渡して私にそう言った。久しぶりの訪問で彼のピアノが聞こえないことを疑問に思った私が、ふと彼の所在を尋ねた直後に、まるで私が尋ねるのを待っていたように、白い封筒に入ったチケットを私の目の前に差し出しながら師匠は涙目になった。そして初めて知る。彼は既に市内の病院に入院していて、リサイタルを終えたら隣の市にあるホスピスに転院することになると。
 『死』――私はその単語のあまりの現実感のなさに愕然とした。事故にあったその瞬間にさえ、私には明確に見えなかったその言葉。だが、彼の目の前には逃れることに出来ない『死』が待っているというのだ。
 けして嘘ではありえないという事が分っていながら、今この瞬間も私は必死でその事実が嘘であってくれと願っている。

 風に吹かれて冷えた体を引きずるようにして教室に帰ると、未だ教室で時間を潰していたらしい数名がいっせいに私が開いた扉の方を振り返った。その中にさっきまで屋上で話していた友人の姿を見つけて、私は微かに引き攣った笑顔を作った。彼女たちの視線に他意はないのだろうが、不意に静かになってしまった教室が、今まで語られていた話題が私には聞かせたくないものだったように思われたのだ。
 私がいつもの笑顔で笑うと、すぐに彼女たちは興味を無くしたように首をかしげてまた他愛もない会話に戻っていった。私は黙って鞄を取り、別れの言葉を投げかけてきた数名に笑いながら応えて、教室を後にした。
 鞄のポケットにはチケットが入っている。学校から直にリサイタル会場に行くと、母には伝えてあった。家に帰れない時間ではないのだが、大仰な悲しみを見せる母の顔を見たくはなかった。


 彼の音は冴えていた。病院でなかなか練習もままならなかったと聞いていたのに、彼の音はかつて月光のようだと評されたときよりも更に透明感を増し、痛いほどに美しかった。舞台の中央に置かれたピアノとその脇の机に置かれた彼の大好きなカラーの花束。強すぎるスポットライトは敢えて当てず、ステージ全体を柔らかく照らし出す光の中に彼は居た。笑っていさえした。闘病中、なかなか触れられなかったピアノに触れることが嬉しくてたまらないように、指先まで張り詰めながら、愛しげに一音ごとに鍵盤を弾いた。
 ――最後のリサイタル……。
 彼の横顔を眺めていたその時、初めて私には確信が持てたのだ。彼はもう、二度とピアノに触れることがないのだと。ピアノという楽器に触れることはあっても、ピアノという一つの紛れもない芸術に触れることはないのだと。不意に涙が流れた。静まり返った小さなホールの中で、私は顔に大き目のハンカチを押し当て、漏れそうになる嗚咽と吐息を押し殺した。
 彼はもともと線の細い感じのする痩せた人だったが、彼を蝕んでいる病魔は更に彼を小さくした。以前使っていたダークスーツは多き過ぎて貧相なので、今日のために新しいスーツを誂えたのだと、師匠は泣きながら話してくれた。だが、ステージの上で最後の自分の世界を紡ぎ出している彼の頬は輝いて見えた。誰も、この会場にいる事実を知らない人は誰も彼の体の中に病魔が巣食っている事など気が付かないに違いない。私は気が付いてもらいたくなどない。
 最後のリサイタルだと大仰に宣伝したならば、もっと大きなホールで人を一杯にして開催することが出来ただろう。けれど、誰もそれを望まなかった。同情で集まる人ではなく、彼の音だからこそ聞きに来る人に、彼の最後のピアノを聞いてもらいたかった。
「大丈夫? どうかした?」
 曲が終わりいったん彼が楽屋に引っ込んだ途端に、隣の女性が遠慮がちに声をかけてきた。なんでもないのだと答えようとして、私は声すら出なくなっている自分に初めて気がついた。
「何か悲しい事があったのね……」
 女性は小さく頷くようにして私の肩に手を回した。堪えきれなくなり、私はその見ず知らずの女性の胸に頬を埋めた。微かに漏れてくる嗚咽をかき消そうとするかのように、その女性は私の頭を抱き寄せ、そっと髪を梳いた。
「とても冴えた音だったもの。きっと今、あの人は絶望の中にいるのね。でも、光を信じているのよ。だからあんなにも澄んだ夜のような音が紡ぎ出せるんだわ……」
 独り言のように女性が語った。私は頷いた。彼女はそれ以降、何も私に尋ねることなく、短い休憩の間中、私の髪を梳いていてくれた。そして彼が再びステージに姿を現すと、そっと私の泣きはらした顔を見つめて、大丈夫ねと確認した。
 彼はゆっくりと指を鍵盤に置き、最初の一音を奏でた。柔らかに波打つようなワルツのリズムの中を、右手の奏でる柔らかで優しいメロディーが優雅に踊るように流れていく。ショパンのワルツ。作品番号69-1。「別れのワルツ」――若い恋人との別れに26歳のショパンが紡いだといわれる。彼が一番好きだった曲で、私がピアニストの卵として最後に練習していた曲でもあった。
 別れという名を抱きながら、その曲はあまりにも優しい。甘い恋を思い出すようでもあり、別れるまでのこれから残されたわずかな時間を愛しむようでもあり、そして、過ぎ去っていく時間を悲しむようでもあった。
 私は必死で舞台の彼の姿を目に焼き付けようとした。いつか――それが、いつになるのかを考えたくはなかったが、彼の姿を永遠に見る事が出来なくなる瞬間が来る。確信された未来は、私に僅かな甘えも許さなかった。
「私ね、彼とは小さい時に友達だったの。彼はご両親を亡くされて、親類の方も日本にはいらっしゃらなかったから、彼のお父さまの師匠に当たるピアノの先生の所に引き取られたと聞いたわ。何度か手紙のやりとりもしたけれど、私も彼も幼くて、いつの間にか手紙の間隔は長くなって、特に彼がピアニストとして名が売れ始めてからは、ただ遠くから見つめていたの」
 アンコールの小曲が終わって客席にライトが灯された後、先刻の失礼を私が詫びた時、女性は不意にそう自己紹介した。柔らかに波打つ髪が美しく、優しげで屈託のない笑顔を見せる女性は、確かに彼と同じくらいの年のように思えた。
 ――きっと今、あの人は絶望の中にいるのね。でも、光を信じているのよ。だからあんなにも澄んだ夜のような音が紡ぎ出せるんだわ……。
 彼の音からそのことを聞き取った彼女には、彼の事を教えなければならないような気がした。これから彼を待ち受けている運命と、彼が経験するだろう自分には想像もつかない苦痛を、彼女には知らせておかなければならないような気がしたのだ。私は、話がしたいと彼女に訴えた。――どうしても貴女に聞いてもらわなければならない話があるのだと。女性は唐突な申し出に一瞬困ったような顔を見せたが、私の泣きはらした顔を見つめると、不意に大きく頷いた。
「駅の近くによく行く喫茶店があるから、そこで話しましょうか」
 彼女は私を守るように、ことさら私の歩みに合わせながら薄暗くなり始めた道を歩いた。私はというと、どうして自分が今こんなことをしているのかさえ分らないまま、ただ、突き上げるような義務感と悲しみに耐えるように、一歩一歩地面を踏みしめていた。

 そこは落ち着いた喫茶店だった。静かにピアノの曲が流れ、壁にかかった大きな湖の絵は柔らかで冷たい蒼い水を湛えていた。彼女は私を一番奥の観葉植物に囲まれた席に導くと、そっと椅子をひいてくれた。
「落ち着くからいつもこの席に座るのよ。なんだか森の中にいるみたいでしょ」
 緑の葉の先が頬をくすぐる。微かに立ち上ってくる土の匂いに、私は深呼吸した。不思議なもので、途端に僅かに私の中に残っていた躊躇いや迷いが晴れていった。
「急に、こんなお願いをしてごめんなさい。私、彼と――山根貴之さんと同じピアノ教室に通っていました。さっきお話に出てきた、彼のお父さんの師匠に当たる方の所で、5年前まで一緒にレッスンを受けていたんです。私の母と師匠が交友があるので、レッスンをやめた後も親しくさせていただいていたんですが……」
 私は大きく息を吸い込んだ。彼女は首をかしげて私の顔をじっと見つめていた。
「彼、癌なんです……」
 それから先、自分がどういう順番で話をしたのかははっきりとしない。ただ、私は必死で彼の病状とこれからのことを説明し、このリサイタルが彼の最後のリサイタルだったのだと告げた。彼女は途中から両手で口元を覆い、目を閉じていた。
「――信じられないわ……。いいえ、信じたくなどないわ……。でも……」
 彼女は小さく吐息を漏らした。そして、唇を噛み締めた。
「きっと、真実なのね」
 そのまま珈琲のスプーンを取り上げカップの中を混ぜようとして、不意に思い直したようにスプーンを置くと、彼女は私をまっすぐに見つめた。
「話してくれて、ありがとう。私――彼に会うわ」
 強い人だと思った。自分など及びもつかないほど。
 彼女は涙を溜めたまま、その涙が頬に落ちることを拒んだ。キラキラと瞼の縁で涙が輝いているのを私は宝石のようだと思いながら、不意に全身を襲った疲労感に打ちのめされていた。


 彼がホスピスに転院したその日、私は学校の帰り道に彼の病室の寄り、リサイタルの成功への祝いの言葉を述べて、リサイタルの時に隣に座った女性のことをふと彼に漏らした。
「もしかして――矢口美佳さんのことかな。名前順で並ぶといつも隣で、家も近かったから仲が良かったんだ」
 何か幸せなものを思い出すように彼の顔が輝いたのを見た。私は微かに胸の痛みを覚えながら、確かにその名前だったと彼に告げた。
「懐かしいな。僕は小さい時は隣の市に住んでいたからね、こっちに来てからはなかなか会う機会もなかったし……」
 幸せそうに昔のことを話す彼に私は笑顔で応えながら、そっとスカートのポケットの携帯電話を握り締めた。一番新しいメモリー番号には彼女の携帯の番号が入っている。彼の転院先が分り次第連絡すると彼女には伝えてあった。
「――麻衣ちゃんはもう、ピアノを弾かないの?」
 不意に彼が尋ねた。その言葉は彼が私と会うたびに口にする言葉だったが、何故かこの時だけは唐突な質問であるような気がした。
「え、だって、私、指もこうだし……」
 私はそっと左の小指を握り締めた。その言葉は私にとって免罪符のようなものだ。神経が切れた小指は自分の意志では自由に曲げ伸ばしが出来ない。音数の少ないテンポのゆったりとした曲なら左の小指の部分を他の指でカバーしながら弾く事が出来たが、少し激しくなったり、左の和音が多かったりするとすぐに私のピアノは途絶えた。
「もったいないなぁ……。麻衣ちゃんの弾くピアノ、柔らかくて優しくて春風みたいで好きだったのに……」
 私は驚いたように彼の顔を見た。私は今まで一度も、自分のピアノが誰かに好かれているなどと想像してもいなかったのだ。
「僕が最初に先生の家に来た時、確か、麻衣ちゃんはブルグミュラーを練習していて――そう、確か『なぐさめ』を弾いていたよね」
 私は彼の口から紡ぎ出されたその言葉に愕然とした。確かに、あの頃私はブルグミュラーの25の練習曲を週に1曲の割合でやっていた。だが、その日にやっていた曲など覚えてはいないし、既に『なぐさめ』というタイトルを言われてもとっさにはメロディーも浮かんでは来なかった。
「ピアノを聞くと両親ことを思い出して、いつも悲しくたまらなくなっていたけど、何故かあの曲は聴いていて幸せな気分になれたんだ。ドアの向こうで、気付かれないようにほんの少しだけドアをあけて、レッスンの間中ずっと聴いていた……。本当はピアノなんて絶対弾くまいと思っていたんだ。悲しくなるから……」
 彼は小さく笑った。彼の昔語りを聞いていると何故だか私はとても悲しくなった。まるで、今までの日々の全てを思い出そうとするかのように、彼は繰り返し話し、私は笑って頷きながら痩せた彼の肩のあたりをただじっと見つめていた。
「山根さん、点滴の時間ですよ」
 既に日は翳り始めていた。病室にノックをしながら入ってきた中年の女性は明るい笑顔を見せている彼を見つめると、不意に笑った。
「あら、楽しそうね。ごめんなさいお邪魔しちゃったわね」
 私は笑って彼女に場所を譲ると、傍らに置いていた鞄を取り上げた。
「貴之さん、ごめん。なんだか長居しちゃって。遅くなるとお母さんが心配するから今日はもう帰るわね。また、遊びに来る」
「ううん、僕の方こそ引き止めちゃったみたいで。お母さんにもよろしく。リサイタルの時は綺麗なお花をありがとうございましたと、と伝えて」
 私は笑って頷いた。明るく笑ったつもりだったが、自信はなかった。
 病院を出てすぐ、私は携帯を取り出した。しばらく液晶に映る『矢口美佳』という名前を見つめると、そっと発信ボタンを押した。数回の呼び出しコールの後、彼女が電話口に出ると、手短に病院の名前と場所、そして病室の番号を伝えた。
「彼……元気そう?」
 躊躇いがちに尋ねた彼女に私は小さくうんと応えた。
「――信じられないよ、彼がいるのがホスピスだなんて……」
 短い沈黙の後、彼女は掠れた声でそうなのと呟いた。

 それからしばらく、私は彼の病室に行く事が出来なかった。一つには私の進路指導の関係で、冬の期末テストに向けて頑張らなければならなかったせいで、もう一つは母が彼の元に行くのを制限したせいでもあった。時折、師匠の元には電話をしていて、私は彼の元に幼馴染である彼女――矢口美佳が訪れていて、毎日彼の世話をしているということは聞いていた。
「大学の空き時間にも来てくれているの。貴之も楽しそうで。私では相槌を打ってやれない、まだうちに来る前の話ができるから、きっと嬉しいのね」
 私は美佳の屈託のない笑顔を思い出した。きっと、今まで誰にも話す事の出来なかった彼の両親の話ができる彼女は、彼の昔語りをただ微笑んで聞いているのだろう。そして、あの優しい笑顔で頷いたり、問い掛けたり、相槌を打ったりしているのだ。
 胸が痛んだ。彼が一番話したい話ができるのは、きっと私ではない。それがわかっているから。私は胸の痛みの理由を考えた。
 ――とても好きな人がね、もうすぐ死んでしまうの……。私、何が出るのか、どうすればいいのか、分らないの……。
 放課後の屋上で友人に語った言葉を繰り返してみた。不意に涙が流れた。


 クリスマスも間近の霧雨の日、不意に鳴った携帯電話に私は不穏なものを感じていた。液晶画面の名前は美佳のものだ。彼女とはいつも、月曜日の夜に電話をする事にしている。そして彼の近況や病状など、お互いの知っている内容を報告するのだ。彼女は彼の日常を、私は母経由で聞いた彼の病状についての話をする事が多かった。つい2日前に彼女と電話で話し、彼の癌による腹痛が強くなりはじめたこと、骨への転移のために腰痛が出始めたこと、痛みは増すばかりなので最終的には背中から鎮痛剤を持続的に入れるために、場合によっては歩くのが困難になるかもしれないことなどを話していた。
 私は恐る恐る受話ボタンを押した。
「もしもし……」
 最初に聞こえたのは悲鳴のような嗚咽だった。一瞬、美佳の声だとは分らないほど、取り乱し掠れていた。
「美佳さん? ねぇ、美佳さん、どうしたの?」
 嫌な予感が私を襲った。しかし私は無意識に頭を振った。
 ――違う。まだ早すぎる。まだ逝くのは早すぎるわ。
「私……、彼に酷いことを……」
 切れ切れに聞こえてくる美佳の震える声に私は必死で耳を傾けた。
「傷つけるつもりじゃなかった。ただ、私はもっと彼を強く覚えていたかったの……。彼が生きていたという証が欲しいのよ……」
 美佳の声は酷く寒そうで、時々しゃくりあげる声は幼くすら聞こえた。
「彼にピアノを弾いて欲しいの……」
 ――彼ニぴあのヲ弾イテ欲シイノ……。
 私はただ泣かないでと繰り返した。
 そうだ。もっとも彼らしい姿はピアノに向かう姿だ。白い濡れたような鍵盤に指を当て、虚空に浮かぶ美しい音楽の女神の姿を求めて、時に激しく、時に囁くほど優しく鍵盤を通して空気を震えさせるその瞬間だ。病床から起き上がって努めた最後のリサイタルの時ですら、彼は自らの心情を音に託していた。冴え渡った彼の音は、私の胸に痛いほどの悲しみをもたらし、状況を知らない多くの聴衆が、それでもその音色の中に悲しみを嗅ぎわけた。
 ホスピスには、小さな教会のようなホールがあって、そこにはグランドピアノが置かれている。定期的に慰問のために行われる演奏会では、地域の高校生が合唱をしたり、セミプロのピアニストを呼んだりしていると聞いた事がある。だが、彼の口からピアノの事が語られることはなかった。私はそれに気がついていながら、その事に触れる事が出来なかった。
 ホスピスでの明るく楽しげにさえ振舞う彼に、どうしても不自然なものを感じてしまう、それが彼の逃避だと分っていながら、私はそれを言い出す事が出来なかった。
 ――きっと怖かったのだ。
 彼と誠実に向き合うということは、死と向き合うということだから。彼が無言で問い掛けてくる『死』という問いに答えられるだけの十分なものが私には備わっていなかった。
「彼は生きなければならないの……」
 不意にはっきりとした口調で美佳が言った。私は携帯電話を両手で握り締めて、唇を噛んだ。
「死の瞬間まで、私は彼に生きて欲しいの。生きて欲しいのよ」
 それを望むのがどんなに我侭なことか、私には分っていた。だが、同時に、彼が必死で拒否しながら、それでも渇望しているのがその願いであることも、私には分っていた。その願いを口にすることさえ出来ない自分の弱さが腹立たしく、その願いのために必死になる事の出来ない自分が腹立たしかった。
「どうか、彼にピアノを弾かせてあげて……」
 私は目を閉じた。そうしないと声が震えてしまいそうだった。
「彼にはピアノが必要なの……」
 私はようやくそれだけ言うと、電話を切った。両手で握り締めた携帯はやけに重く冷たく感じた。

 ――僕が最初に先生の家に来た時、確か、麻衣ちゃんはブルグミュラーを練習していて――そう、確か『なぐさめ』を弾いていたよね。
 私は机の引出しからゆっくりと鍵を取り出した。銀色の大き目の鍵には滑らかな曲線の飾りがついていて、ずっと手にしていなかった割にどこにも錆など見えず、ずしりと掌に感じる重みが懐かしさを感じさせた。私はそっとそれをポケットに入れ、本棚の奥で埃を被っていたピアノの教本を取り出した。ずっと手にとっていない本は微かに古びた臭いがしたが、僅かに端が茶色に変色しているだけで、当時の師匠の注意書きやよく出来た時に貰っていたシールの色は、私が幼いときのままだった。
 ――なぐさめ。
 楽譜を開くと、その題名の下に師匠の文字で「泣いている子をなぐさめるようにやさしく」と書いてあった。目で楽譜を追うと、ようやくメロディーが私の中に浮かんできた。
 私は楽譜を抱きしめたまま部屋を出ると、誰もいない居間に向かった。ピアノは長らく使われていなかったが、母は毎年の調律を欠かしてはいない。それでもピアノに鍵をかけるのは、私の無言の意思表示だった。――けれど、それに果たして意味があっただろうか。
 私は鍵を鍵穴に入れ、そっと回した。カチリと小さな音を立てて長年封印していた扉は簡単に開いた。
 ――私も生きていなかったのかもしれない。立ち向かうことから逃げて、夢見ることから逃げたのを母のせいにして、夢が叶わなかったのを父のせいにして。
 紅い布をゆっくりと剥ぎ取ると、鍵盤はまだ白かった。楽譜立てに楽譜を立てて、私は左の小指をそっと鍵盤につけた。微かに触れている圧力を掌が感じた。私は楽譜に目を走らせて、これくらいの曲なら左の小指を使わなくても弾けるだろうとようやく両手を鍵盤に下ろした。
 5年ぶりの鍵盤の質量は重く、アップライトの少し篭った音は、思ったよりもずっと粒の揃った音で軽やかにメロディーを奏でた。
 ――泣いている子をなぐさめるようにやさしく。
 私は泣いていた美佳を思った。泣いている彼を思った。ピアノを弾かない彼を思った。ピアノを弾かなかった私自身を思った。そして、まるで泣いているように音もなく降り注いでいる、この霧雨を思った。
 ――彼は生きなければならない。
 そうだ。生きなければならない。泣かないで欲しい。泣かないで欲しいから、私はピアノを弾く。生きていて欲しいからピアノを弾く。言葉にして彼に言うことが出来ない、私自身にすらまだ分っていない彼への感情を語るために、私はピアノを弾く。私の音を好きだといってくれた彼へ向けてピアノを弾く。彼の命に対して誠実な美佳のためにピアノを弾く。――なによりも、私は私の感情と心のためにピアノを弾く。
 泣くな。
 私は自分にそう言い聞かせながら、必死で鍵盤を追った。イメージの中で泣いていた子供はいつの間にか彼の姿から幼いときの自分の姿に変わっていた。


 クリスマスの日に、私は彼を見舞った。彼の枕もとには綺麗なピンクの花が飾られていて、その傍らに数冊のピアノの教本が置いてあった。使い込まれ端がボロボロになったそれは、彼が好きなショパンのノクターン集とワルツ、そしてエチュードの楽譜だった。
 彼は更に小さくなったような印象があった。次第に食事が喉を通らなくなった彼には常に点滴が繋がれていて、どこに行くにも点滴棒を押しながら歩いていた。指は細くなり、もともと指に力のない私よりも更に細かった。
 彼は笑っていた。寄り添うように歩きながら、彼は私をホールのピアノまで案内し、ゆっくりと鍵盤に指を下ろした。
 最初に彼が弾いたのはノクターンだった。細い彼の指のどこにそんな力があったのかと思うくらい、彼の音は澄んでいて、やはり、月光のような印象がした。美佳は寄り添うように彼の隣にたって、彼のピアノに合わせてゆっくりと楽譜を捲った。美しい姿だと思った。これは悲劇ではない。彼らは慰めあっているのではない。彼らは生きていた。ピアノを歌わせ、彼は生きていた。彼を見つめて彼女も生きていた。
 一曲弾き終わると、彼は疲れたように腕を下ろした。だが、その顔は満足そうだった。
「あぁ、そうだ。後で麻衣ちゃんにあげる物があるんだよ」
 不意に思い出したように言うと、彼は悪戯を仕込んだ後の子供のようにクスリと笑った。
「クリスマスだからね、良い子にはプレゼントがあるんだよ」
 彼は再び鍵盤に向かった。流れるようなワルツのリズムを刻む左手と、優美な旋律を奏でる右手。月の光のように冴えた彼の音は、別れという事実すら甘い蜜事のように語った。
「いつも、最後はこの曲なのよ……」
 既に楽譜を空で覚えているために、美佳は私の隣に立っていた。そして呟くようにそう言うと、寂しそうに笑った。

 彼の歩みに合わせてゆっくりと病室に戻ると、彼はロッカーの中からそっと紅い包みを取り出した。
「プレゼント」
 私は包みを受け取ると、彼の視線に急かされるようにしながらリボンを取り、包みを開いた。ボルドーの深い色合いの皮の手袋には内側に暖かな毛が内張りしてあった。通常の手袋よりは確かに大きいが、それでも女性らしいすっきりとしたデザインは美しかった。
「手袋?」
 彼は笑った。
「手袋をしていないと、ピアノが弾けないからね……」
 ――彼はきっと覚えていたのだ。出会った日に私が練習していた曲を覚えていたように、あの時に私が言った言葉までも。
「麻衣ちゃんの柔らかくて優しい春風みたいなピアノが好きだったよ」
 まっすぐに彼は私を見た。しっかりと過去形で彼は言った。私は笑った。そして手袋を抱きしめると、大きく頷いて見せた。
「私ね、この間、昔の楽譜を出してきて『なぐさめ』を弾いてみたのよ……」
 嘘のように涙はこぼれなかった。今までで一番綺麗な笑顔が出来ている自信があった。


 それから彼は毎日、彼の体力が許す限りピアノを弾きつづけた。
 彼は桜の花が咲く前に、微笑んだままで逝った。霧雨の降る、優しい午後のことだった。
 そして私は、ピアノを弾いている。

 
2001.01.08.