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現代小説:「罪の樹」
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『罪の樹』

 神さま どうか
 わたしに与えられた
 優しさに見合うだけの
 強さをわたしにお与えください


 夢を見る。
 夢の中ではとても優しそうな女性が泣いている。綺麗にピンクベージュに塗られた爪を頬に食い込ませながら、優しい色で塗られた唇から鞴のように漏れる嗚咽を必死で体の中に留めようとする。
「どうして……」
 搾り出すようにそれだけ言って、彼女はベッドに突っ伏した。乱れた髪を梳いてやろうとしてはじめて、自分の体が半透明に透けているのを知った。
 ――彼女を抱きしめたい。
 私は願ったけれど、叶えられることもなく、ただ嗚咽を漏らしつづける彼女を困惑したまま見つめていた。午後の柔らかい日差しは白い部屋を淡いオレンジに染め上げて、彼女の髪は栗色に輝いていた。
 ――これは罰だろうか……。私たちは罪の木の実を食べたので……。
 暖かな色の日差しの中で、彼女の小さな嗚咽だけが別世界の音のように小さく反響しながら消えていった。


 ――最近の那美はおかしい。
 誰が最初に言い出したのかは分らなかったが、度々そう言われて、那美自身、かすかに戸惑っていた。元来自分は引っ込み思案であまり友達は多くなく、皆でカラオケにくり出すよりは図書館で本を読むことの方を好み、誰かが泣いていてもなんと言ってやってよいのか分らずに右往左往するようなところがあった。――孤独が好きなわけではない。ただ、幼い時から体が弱かった那美は同じ年代の友達を作る機会が少なく、人を慰める機会より慰めてもらう機会のほうが格段に多く、誰かと騒ぐ自由を与えられてはいなかったのだ。だから、こうして健康な体となっても、他者と触れ合うことは微かに緊張感に似た気負いを那美に感じさせている。
「だって、ビックリしたのよ。昨日、コンタクトがずれて痛くて思わず涙が出たら、那美ったら迷わずハンカチを出して自分の手で私の頬を拭いたのよ」
 それは優しく母が娘の頬を拭くような、そんな愛しげな動作ではなくて、どこか気障な印象を与える――そう、まるで女性の扱いに慣れた男性のようだったと佐和子は言葉を続けた。
「私、2回くらいかなぁ、ホストクラブ行ったことがあるのよ。ママとママの友達に連れて行ってもらったんだけど。なんかね、その時のホストの人の動きとなんとなく似ているの」
 学園の午後は間延びした空気が漂う。女子高特有の緊張感のなさも手伝って、短いスカートから伸びた足をだらしなく芝生の上に伸ばしながら佐和子は少し得意げに空を見上げて見せた。
「ホストクラブ?」
「え、嘘。ねぇ、どんなだったの?」
 思い通りに視線が自分に集まるのを感じて、佐和子は満足げに微笑んだ。
 進学校だお嬢様学校だといわれているが、実際に通っている自分たちにはその意識はない。ブラウン管に恋をするし、街の中で体を寄せ合っている男女を見れば羨ましくなる。自分達に張られた「お嬢様学校」というブランドのレッテルがどれだけ街の中で有効かということも知っているけれど、それだけで誰かの関心を自分のものだけに出来るなんていうことが幻想だということも知っている。
「う〜ん。気持ちよかった」
 佐和子の全く何の説明もないかわりにそれ以上の雄弁さはないほど端的な感想を聞いて、周囲の少女からは歓声に似た非難の声が湧いた。
 実際は気持ちいいという感情とは少し違う。自分が微かに誇りに思っている、ここだけは私は綺麗だと信じている部分を的確に誉めて賞賛してくれる彼らの言葉や、自分のためだけにドアを開けてくれる腕、常に自分だけを見つめて自分だけに笑いかけ、さりげなく腕が触れ合って体温を感じさせてくれたり、未成年なんだからと色々なことを心配したり注意してくれたりする、そんな彼らの行為は嬉しかったけれども、所詮はお金で購われたものだ。ホストクラブは女を磨きに行くところよと、佐和子の母ははっきりと佐和子に言った。
 ――彼らの言葉で自分が未だ女としての魅力が溢れていると自分に信じさせて、心の中から美しくなるための、彼らは手段であり道具なのよ、分っているわね。
 だから、彼らの賞賛は気持ちよかったけれども、それに溺れてしまうようなことはなかった。――そう、悲しかった。本当は、少し悲しかったのだ。
 チリチリと熱を感じさせる日差しの中にいて、那美は隣に座る佐和子の短い沈黙を感じとっていた。那美にとって佐和子は最初に出来た友人で、佐和子の冷静さと張りつめたような脆さが、自分の中にあるある種の諦めの感情と共感し合い、他の誰よりも傍に居ることが楽な存在だった。
「どんなってそうねぇ……」
 佐和子が言葉を続けようとした時、微かに音の割れた予鈴が少女たちの耳に響いた。
「やだ、昼休みもう終わりなの?」
 口々につまらなさそうな言葉を口に出して、芝生に座っていた体を億劫そうに起こし始める。那美は佐和子が立ち上げる前に腰を浮かすと、佐和子の前にそっと手を差し出した。
「教室、帰ろう?」
 それは何も考えずにやったごく自然な動作だった。太陽に透ける明るめの瞳を一瞬眩しそうに細めて、佐和子は差し出された手を握った。立ち上がる動作に合わせて体を引き上げてやりながら、那美は太陽の下で輝く佐和子の栗色の髪を見つめた。


 夢を見る。
 彼女の髪が微かに湿った香りをたてて波のように広がっている。閉じられた瞳を覆う、やはり少し明るい色をした睫毛は小刻みに震えていて、時々ため息のような息を漏らしながら、彼女は小さく私の名前を呼ぶ。
 彼女の肌は白くて、日の光に当たると融けていってしまいそうだ。だから、全ての光から彼女を守るように抱きしめた。
「苦しいね……」
 最近口癖のように繰り返される言葉を彼女は再びその唇にのぼらせた。
 確かに、幸福だった。それなのに、心臓は潰れるほどに苦しかった。


 ――絶対やばいって。
 不意に呟くように佐和子が耳打ちした言葉の意味を、那美は想像することが出来なかった。きょとんとした顔で振り向くと佐和子は困ったように笑って見せた。
 幼い時から病院の中にいたせいか、那美の女性としての成長は遅い。両親共に長身の家系であるために身長だけは平均に達してはいたが、那美の体は女性的な印象が薄い。中性的という言い方よりは少年的だと言ったほうが近いだろう。自分の華奢な首筋や骨ばった指を見ることが那美は大嫌いだった。髪質がショートに合っているせいもあって、常に短くしているのも少年のように見える原因かもしれなかった。
 下駄箱には時々手紙が入っていた。少女期の幻想だと佐和子は笑って複雑な顔をしている那美を励ましてはくれたが、那美は同性を、しかもこんな自分を好きだという人がいることを信じられないでいた。
「何が?」
 佐和子は困ったように笑ったまま答えなかった。ただ、繋いだままだった手を佐和子が用心深く自然に離した事に那美は気がついた。
 胸が痛かった。何故だろう、否定されたような気がしたのだ。
 ――わたしはやはり、こうして不意に手を離されてしまうくらいに醜いのだろうか……。
 那美は佐和子から離された手をゆっくりと胸元に引き寄せた。
 手を引き寄せたそこには、大きな傷がある。それはまだ誰にも、佐和子にすら言っていない。それはこの健康な体を手に入れるために付いた、大きな手術の痕だ。体育も学校行事としての旅行も医者から止められていたので、その傷は苦労せずに皆から隠しておくことが出来た。だが、来学期からは少しずつ体育に参加するようになるので、いつか皆にその傷の存在が知られるだろう。
 那美はその傷を告白するのが怖いのだ。
 その傷の奥には、規則的に鼓動を刻む心臓がある。だがその心臓は那美の心臓ではない。那美の心臓は死んでしまった。この、いま体の奥に埋め込まれている心臓は、名前も知らない、どんな人間だったのかも知らない提供者のものなのだ。
 ――わたしのこの心臓は、死んだ人から譲られた心臓です。わたしの心臓は、もう、わたしの意識より先に天国の門をくぐってしまっているのです。
 きっと、奥の人間が不気味に思って離れていくだろうと思う。その事実を告白した時に、背を向け去っていく友人の背中を見送らなければならないかもしれないと思うと、いっそ移植を受けずにそのままゆっくりと死んでいった方がましだったのではないかと、そんな気持ちになってやりきれなくなる。
 那美はため息をついた。
「ねぇ、那美。次にさっき話していたお店に行くとき、一緒に行こ?」
 不意に振り返った佐和子が笑った。


 夢を見る。
 彼女は笑っている。彼女の胸元に不似合いなほど無骨に黒く光っているのは、私が彼女に贈った皮と銀で出来た十字のネックレスだ。彼女は無意識にそれを弄びながら、携帯電話の相手にわざとらしい猫なで声で何かしゃべっていた。
 不意に彼女は私を見た。そして、素早く周囲を見渡して誰も見ていないことを確認すると、声を出さないように小さく「すきよ」と口を動かした。
 彼女は栗色の髪をかきあげると、ただ私にだけ向けられた最高の微笑を面にのぼらせた。
 彼女は美しかった。


 重厚な暗い色合いのインテリアの中で、濡れたように光るグランドピアノにはこぼれるほどに百合が飾られていた。那美はそのピアノを食い入るように見つめた。
 病院のベッドの上で那美は繰り返し擦り切れるまでピアノのテープを聞いた。それは時折ミスタッチをするような拙いピアノの演奏だったが、母が那美のために自ら弾いて録音してくれたものだった。
 ――お母さんのピアノよ。淋しいときは聞いてね。
 寝ている間ですらヘッドホンからはそのピアノが流れていた。伸びきって音階が定まらなくなっても、那美はそのテープを捨てなかった。
 ――元気になったらピアノを習いにいきましょうね。
 だが、いま那美はピアノを習ってはいない。そんなことより勉強の遅れを取り戻す方が大事だったし、今更拙い段階から始めるということ自体が、どこか気恥ずかしく思えたからだ。
「ピアノ、気になる?」
 不意に優しくかけられた言葉に、はっとしたように那美は声の主を見つめた。お店の中でも最近人気が出てきたのだというその男性は、屈託なく那美に笑いかける。那美を一緒に連れてきた佐和子は、佐和子の母と一緒にすぐ隣で明るい笑い声を立てていた。開店直後の早い時間なので、まだ他の客の姿は見えない。
「ピアノ、好き?」
 近付きすぎず、かといって冷たさを感じない程度には寄り添いながら、その男性は那美のショートの髪から伸びている細い首を誉め、那美のために上手に紅茶を煎れてくれ、那美が唯一豊富に持っている本の知識を、飽きることなく聞いてくれていた。
「ええ……」
 男性はそのピアノを見つめて僅かに辛そうに顔をゆがめた。
「あのピアノね、以前はピアノが上手な同僚が弾いたりしていたんだ……」
 初めてかもしれない。彼自身が那美に那美が望んでない話を語るのは。彼は小さくため息をついて、ピアノから目をそらした。
「人気のある奴でね。男から見ても格好よかったし、ピアノも巧かったし、たまに、まだお店を開ける前の時間なんかに、俺の好きな曲とかを弾いてくれたりして。――でも、一番大事な人が出来たからって、お店、辞めることになって……。最後に『別れの曲』だっけ……。なんだか有名の曲を弾いてくれたりしてね」
 それ以降、誰もピアノを弾かないのだと彼は続けた。不意に彼の瞳が揺らいだことに那美は気が付いた。胸が痛んだ。
「結婚式目前だったのに……」
 続きの言葉を彼は言わなかったが、那美にはその言葉が分るような気がした。
「亡くなったんですか……?」
 たっぷり30秒ほど迷ったあげく、那美はその言葉を口に出した。
「うん。事故でね」
 彼は辛そうに口を歪めた。『死』という事実に、心臓が痛んだ。
 全ての生き物が生まれてからずっと、『死』への長い旅路を歩んでいることなど分っている。事実、那美の目の前には常にその終着点が見え隠れしていたし、誰かの『死』をもって那美の『生』は購われた。けれど、その『死』という一つの物事の終わりに対して、その周囲の人々が感じるこの悲しみの責任はいったい誰がとるのだろう。
「ごめん、変な話をしちゃったね」
 慌てたような彼の言葉が那美に奇妙な感情を抱かせた。
「あの……。ピアノに触ってみてもいいですか?」
 自分でその言葉を言っておきながら、那美には自分が何をしたいのかすら分らなかった。彼の許可の返事も待たず、那美はゆっくりと立ち上がり、ピアノの元に歩いた。椅子を引くと、そっと蓋を開ける。鍵をかけられていなかった蓋は簡単に持ち上がり、目を刺すような紅いビロードの布が白い鍵盤を隠すように掛けられていた。
 那美はゆっくりとその布を剥がした。白い濡れたように光る鍵盤が、抑えがちな照明の中でぼんやりと光る。
 別れの曲は母がくれたピアノのテープにも入っていた。優しくゆるやかな音の流れが美しくて、優しげでそれなのに寂しくてならなくなる曲だ。もちろん弾いたことなどない。
 那美はゆっくりと鍵盤に指を下ろした。質量のある鍵盤の重さが、那美の中で不思議な感動を呼び起こしていた。一度も弾いたことのない曲を、那美の指は一音も間違えることなくまるで全て知っている曲ででもあるかのように軽々と、溢れるような情感をもって紡ぎ出していた。


 夢を見る。
 彼女の栗色の髪が日溜りの中で輝いている。
 彼女は私のピアノが好きで、とりわけ私の弾くショパンが好きで、何度となく曲をねだっては私の足元で猫のようにうずくまって聞いていた。
 「ピアノの音は暖かい音よね」
 彼女は確かめるように尋ねる。
 ――木の音だからね。
 そう答えると、彼女は小さく笑った。


 最後の一音を叩いて、那美は余韻を楽しむようにゆっくりと指を鍵盤から離した。小さくなって不意に途絶えた音が、那美を不安にさせた。
「那美、すごい……」
 感極まったような佐和子の声に不意に現実に引き戻されて、那美ははっとしたようなピアノの鍵盤を見つめた。不意に視界が歪んで、涙が滴り落ちた。
 胸が痛かった。今まで経験したことがないほど、締め付けるように胸が痛かった。
「那美、どうしたの?」
 何が起きたのか分らずに佐和子は蒼ざめている那美の体を抱き寄せた。急に堰を切ったように溢れ出した涙が、佐和子のシャツにしみて、那美はただ為すすべもなく泣き崩れた。
「那美?」
 ――分ってしまった。わたしにはこの心臓が誰のものか。どうして繰り返し夢を見たのか。その夢は誰のものだったのか。
「どうしちゃったのよ、ねぇ。那美?」
「ごめんね、ごめん……」
 誰にともなく那美は呟いた。
 ――生きているのだ、彼は。わたしのこの心臓として、わたしの代わりにわたしの壊れた心臓を受け取って天国の門をくぐった彼は、それでもわたしのこの心臓の細胞一つ一つになって生きているのだ。
「麻衣さん!?」
 涙で滲んだ視界に女性が一人立っていた。波打つ長い栗色の髪と大きな瞳、そして何より鎖骨の付け根に鈍く光っている十字の銀のネックレスを見て、那美はその女性が夢の中の彼女なのだと確信した。
 彼女はゆっくりとハンカチを出し、涙でボロボロになった那美の頬を拭った。夢で見たままの優しい微笑を作ると、彼女はゆっくりと那美の髪に触れた。
「素敵なピアノをありがとう……」
 彼女はまっすぐに那美を見つめた。そして、小さく笑うと背を向けた。
「麻衣さん……。大丈夫ですか?」
 気遣う言葉に彼女はきっと笑ったのだと、那美には確信できた。柔らかだがしっかりとした彼女の声が小さく響いた。
「彼、どこかで生きているの。知っている? 彼、ドナーになったのよ。彼は生きてるの。どこかで」
 ――彼ハ生キテイルノ。
 ぎゅっと佐和子の指が腕を掴んだのを那美は感じた。見上げると心配そうな佐和子の瞳がある。微かに微笑んで見せると、ようやく安心したように佐和子が笑った。
「今度、ゆっくり聞いて欲しい話があるの、佐和子に……」
 面食らったように一瞬きょとんと目を見開いた佐和子は、不意に明るく笑って頷いた。那美は佐和子にしがみ付いていた指をゆっくりと離すと、そっと胸に指先を当てた。
 ――私が生きているということは、私が生きることを許されているということだと、信じてもいいということなのですよね?


 罪の樹には悲しみや苦しみ、怒りや悦びの実がなるけれども、その中に確かに優しさの実もたわわに実っているのだと、私はそう祈っている。いつかこの心臓が罪の樹の根元に埋められたら、私は小さな優しさの実を実らせたい。それが私の、私に与えられた優しさへの、贖いの旅の小さな第一歩だと信じているから。

 
2000.12.16.