『旅路の果て』 [ 命 ]
アルミのサッシの窓からは、いつにない晴天が覗いていた。青々とした空に白い雲が浮かび、青を引き立たせ、白を純粋にしている。
ベッドの上の住人はそれを眺めてため息をついた。
今朝、キャンセル待ちのCTが入るかもしれないので、できるだけ病室にいるようにと言われてしまったのだ。ちょっとだけならいいから、散歩に行ってしまおうかとも思ったが、以前同じ部屋に入院していた人が、それをして一回検査を棒に振っていたことを思い出してやめた。
お茶でも飲むかと、腰を上げた。ナース・ステーションのところに共同の電気湯沸かしのポットがおいてある。いつもそこで紅茶を入れて飲むのだ。自分用の小さなロッカーを開けてどれにしようかと紅茶の缶を物色する。
その時、静かな足音が病室の前で止まり、軽いノックの音が聞こえた。
「はい」
応えて慌ててベッドに登る。別に寝ていないと怒られるわけではないのだが、何となく、ベッドにいないといけないような気になってしまうのだ。
「横川武史さんの病室でしょうか?」
聞き覚えのない、若い女性の声がドア越しに聞こえた。
「はい、そうです」
応えると、遠慮がちにドアを開けて、少し神経質そうな細い体の子が入ってきた。
「あの……」
ちょっと口ごもる。
店に来た客だったろうか?覚えがないので、ちょっと首を傾げる。
「『sora』のマスターの横川武史さん、ですよね?四条くんと親しい……」
年の頃は司と同じか、ちょっとだけ上、といったところか。おかっぱの髪を掻き上げたときに爪の先に青い絵の具がついているのが見えた。
「はじめまして。私、横田恭子といいます。四条くんの高校の時の美術部の部長です」
彼女ははにかんだように笑った。
笑い返す。
「はじめまして。『sora』のマスターの横川武史です。司の先輩ですか?」
「はい。2学年上です」
彼女はほっとしたように笑った。笑うと、右頬にえくぼができることに気が付いた。とてもチャーミングだ。
最初は他愛もない話だった。司の昔の話。紅茶の話。絵の話。彼女はすっかりリラックスし、時折声を立てて笑うようになった。内気だが、いい子だ。
そんな彼女が不意に黙った。祥子の名前がでてきたときだ。
「あの、私、お願いがあってきたんです……」
そっと、バッグの中から古びた封筒を出す。
「これを、祥子さんに渡していただけますか?」
とても大事そうに、その封筒をさしだした手の上に置く、彼女。
「私、高1の時、奏さんと同じクラスでした……」
少し、目が潤む。
「私は、彼女と、友達になりたかった……。彼女の見つめているものを知り、彼女の考えていることを知りたかったんです。でも……」
そう、彼女は消えた。全ての人の前から。
司、祥子、そして、恭子。
死は終わりではないと、彼らは私に告げる。こんなにも、熱く奏を愛しながら。
「私は、彼女の死が信じられなかった……。彼女の死から2週間もすると、ゴシップ好きな子が、彼女の死の真相を噂しはじめて。私は、とても悲しかった……。皆が彼女の死を冒涜するので……」
少し、声が震えた。唇をかみしめる。
「私、図書委員をしている子にお願いして、彼女の貸し出しカードをもらいました。そして、彼女の読んだ本を追っていったんです。私の記憶に残る彼女は、よく、本を読んでいたから……」
封筒を懐かしげに見つめる。優しい表情になった。
「ワーズワースという詩人の詩集に、それが挟まってました。誰にも、見せたくなかった。彼女の家族にも、渡したくなかった。彼女の死の真相を、私も知ってしまっていたから……」
恭子は窓の外の空を見つめた。真っ青な空をみると、奏を思い出す。彼女は、天高くつき通る、澄んだ空のようだった。
「高3になって、四条くんが入学したとき、噂で、彼が奏の思い人だったことを知りました。既に、私は絵の世界で彼のことを少し知っていたので、最初は驚きました。そして、祥子さんと出会った……」
彼女の中に奏の表情を見つけたとき、その時の驚きと喜びをどう説明したらよいでしょう……。
恭子は笑った。どこか淋しげだ。
「あの日からずっと考えていました。この封筒は、私ではなく、祥子さんが持っているべきではないかと……」
そう、この封筒の中にあるのは奏の羽根。
未来へと託した、汚れなき羽根。
「ようやく、決心がつきました。もう、奏の思い出だけを抱きしめている時は過ぎました。私は前を見なければ、奏がいつも見つめていたのは、未来だったから……」
微笑む。
不意に祥子の微笑みを思い出した。
祥子はこの頃、心から微笑むようになった。初めて出会った頃は、優しく笑みを浮かべながら凍り付いた瞳をしていたのものだが。
「開けても、いいかい?」
「えぇ」
そっと封筒を開けた。
古びた紙に細い文字。少し癖のある、柔らかな字だ。
夢にせめてせめてと思い
焦がれる我が身かなし
愛の歌だ。
せめて我が器すて
こころにて彼を愛さん
これよりのちの彼の思い人を
こころより守らん
せつない歌だ。
夢にせめてせめてと思い
焦がれる我が身重ければ
全て捨てて、ただ夢のなかに還らん
夢。彼女の夢はなんだったのだろう。
誰かを心の底から愛し、誰かに心の底から愛されることだったのだろうか?
「ありがとう……」
なぜだか、お礼の言葉が滑り出した。
まるで、母に抱かれているような気がしたのだ。幼い日の記憶に微かに残る、病弱だった母。
「いいえ、祥子さんに伝えて下さい。貴方に返すって……」
恭子は微笑んだ。
「この言葉を見つめてから、私、カウンセリングの道に進むことを決意したんです。奏と同じ心の痛みを持つ人を、私、助けたい……」
その人の未来は、奏の未来だから。
突き抜ける青空のように、恭子は笑った。
[ 空 ]
「じゃぁ、こちらに寝て下さい。造影剤の注射をしますから、何か……、気分が悪くなったり、注射のところが痛くなったりしたら言って下さいね」
若い、医師が声をかけてくれる。
入院してから2,3度このCT検査をしたが、その度に若い医者が似たような言葉をかける。最初はこの細い小さな台から落ちないかどうか不安だったりしたが、この頃は馴れた。
「じゃぁ、チクッとしますよ」
この瞬間には馴れない。何となく緊張してしまう。
「じゃぁ、検査始めますからね」
ゆっくり動き始めた台の上で、そっと目を閉じた。
今、2時だから、検査が終わったら少し散歩ができるな。そんなことを考えていた。
検査が終わって、7階の病室に帰ると、手早く外に出る用意をする。と言っても、外履き用の靴に変えて、ちょっとひっかけるためのカーディガンを持つだけなのだが……。
ちら、と窓の外を見る。少し雲が多くなっているが、まだ、青々と晴れていた。
深呼吸して扉を開けると、エレベータに向かって歩き出した。
「あら、横川さん。お出かけですか?」
よく検温にやってくる看護婦さんだ。背が小さくて、くりくりしているが、動きが早くて見ていて気持ちがいい。
「散歩」
思わず笑顔が出てしまう。
「お天気いいものね。私も散歩したいわ……」
彼女も笑った。
「あ、そうそう。横川さんが検査に降りているとき、一人お見舞いに来られましたよ。また、来るそうですけど……」
彼女はちょっと思い出すように首を傾げた。
「たしか……。工藤さんっておっしゃてたけど」
ナースコールが鳴る音が聞こえて、彼女は笑って会釈をするとナース・ステーションの中に小走りに走っていった。よく動く。気持ちいいくらいに。
なんだかとても爽快になって、ゆっくりと大股で歩き出した。
工藤、と言われても、あまりピンとこない。
親戚にもいないし、常連客でもない。近所にも工藤という名字はないし……。
可能性があるとすれば、同窓生くらいだが。
ま、また来るということだし、今日のことは仕方がないと諦めてもらおう。
お見舞いやそれを見送る入院患者でごったがえしている一階の廊下を抜けると、自動扉があって、そこから外に出られる。表の正面玄関と違って、そこは売店の荷物などの搬入口らしいのだが、人も少なく車もほとんど通らないので散歩するには最適だ。
ちょっと歩くと芝生の丘が見える。そこに座って、草が風に揺れるのや雲が流れていくのをぼんやりと眺める。それがいつもの散歩だ。
今日はそこに先客がいた。
「やぁ、いい天気だね」
声をかける。
先客はちょっと驚いたように見上げたが、すぐ笑い返した。
「うん、気持ちいいよ」
まだ幼い。10才くらいだろうか。入院着は着ていないのでお見舞いの子だろうか?
「お見舞いに来たの?」
隣に座りながら訪ねる。少年はうなずいた。
「うん。お兄ちゃんのお見舞い」
「ふうん」
そう言ったきり言葉を発しなかったので、気になったのか、少年はちろっとこちらの顔をうかがう。
「おじちゃんは入院しているの?」
「そうだよ。お腹の中がちょっと悪いんだ」
「ふうん」
今度は少年が黙り込んだ。
「お兄ちゃんは、もう長く入院しているのかい?」
少年は、少し悲しそうな顔をした。
「3ヶ月くらい……」
俯いて、唇をかんだ。
「お兄ちゃんね、ケツエキが悪いんだって。上手にいいケツエキが作れない病気なんだ……」
入院するちょっと前まで一緒にサッカーして遊んでたんだけど、今は一緒に遊べないんだ。そう言うと、不意に泣きそうになる。
「でもね、僕のケツエキをお兄ちゃんにあげると、お兄ちゃん治るかもしれないんだ。だから……」
ず、と鼻を啜る。
「お兄ちゃんに治ってもらいたい……。また、一緒にサッカーしたい。でも、ケツエキ採るの、恐い……」
「恐い取り方をするの?」
「うん。お尻の方に針を刺して背骨の中から採るんだって、先生が言った。マスイで眠っちゃうから、全然痛くないよって言うけど、でも、恐い……」
「そうだね……」
少年はそっと顔を上げる。
「恐い、って思うの、いけないこと?お父さんとお母さんは、お兄ちゃんのために頑張ってね、って言うから、僕、恐いって言えなかった……」
「いけないことなんかじゃないさ。誰だって恐いと思うよ?」
少年に微笑む。こんな小さな体で、それでも自分以外の誰かのために何かをする気持ちを、もう知っている。
「おじちゃんも、恐い?」
「そりゃぁ、恐いさ。毎日の注射だって、やっぱり恐いからね」
少年の顔が少し明るくなる。
「おじちゃん、子供みたーい」
笑い声が高く澄んでいて、綺麗だった。
不意にきょとん、とすると、ぱっと顔が輝く。
「あ、お母さんだ。おじちゃん、僕、行くね」
はたして、かすかに誰かの呼び声が聞こえた。立ち上がって、2,3歩走ってから振り向く。
「おじちゃん、よくここ来る?」
「あぁ、来るよ」
「じゃ、僕もお見舞いに来たら、ここ、来てみるね」
小さく手を振ると、返事も待たずに走り去る。
やれやれ、散歩に来る理由ができてしまった。
しかし、子供というのは、あんな聞こえるか聞こえないかという声でも、自分の母親のものを聞き分けるのか。
そう思うと、何故か少し、悲しかった。
[ 夢 ]
夕刻に近づくと雲が多くなり、風が出てきた。少し、肌寒く感じて部屋へ戻ろうと考える。
ゆっくりと芝生から腰を上げると流れが速くなった雲を見上げる。
全てが、速く感じる。
時間も風も、命も全て。
自分の体が、もう、長くは持ちそうにもないことは、気がついていた。
そのことについて、誰も何も語らないからこそ、わかってしまう真実だってあるのだ。
みな、優しい。
死を語ることは絶望だと、そう感じているのだろう。
死が怖くないかといわれれば、怖いと答える。
昨日の夜も、一昨日の夜も死の夢にうなされ、泣いた。泣いて泣いて、苦しんで、昼になれば、何もなかったかのように微笑んで。
自分が、何かを残せるなら、死に行く勇気を残したい。
今、死を感じずに生きている、多くの優しい人たちに。その人が死ぬとき、けして、死から目を背けなくてすむように。
部屋に帰り、とりあえずベッドに横になる。
つかれやすくなった。なんとなく体がだるく、一つ一つの動きがゆっくりと体を疲れさせていく。
あの子。おそらくは白血病の兄を持つ、あの子。
名前を聞くのを忘れたな……。
明るい笑顔が目に浮かぶ。
誰かにかかわることができるということが、こんなにも、嬉しい。
--=--
この2、3日は風が強い。特に今日はすごい風だ。
あの少年は、その風の中でも、元気に走り回っているだろうか。
我知らず、微笑が浮かぶ。
そのとき、ノックの音が聞こえた。
「どうぞ」
久しぶりの来客のように感じる。
毎日が暇でしょうがないのだ。
「マスター、調子、どう?」
司だ。少し、顔が青い。このごろ、元気がないのだ。
「司、顔色悪いな……。どうかしたのか?」
「え、そんなことないよ」
司は椅子を引き寄せて座りながら言う。
「祥ちゃんと喧嘩、したのか?」
返事が遅れた。うつむいた、細い司の顔。頼りなく見える。
「司……?」
司はそっと、祥子が持ってきた薔薇を見つめる。
「こんな風のある日は、さ。思い出してしまうんだ……」
小さく笑う。
「昨日、奏の夢を見た。夢の中で奏は笑って……、奏を抱きしめると、それは祥子で……、亡くしてしまったものと、手に入れたものと、悲しみと、喜びで、いつの間にか、泣いてた」
不思議だ。
このごろ多くの人が奏を語りにくる。
まるで、奏が「死は終わりではない」と告げているようだ。死が残すものが、ここにもある。けしてそこが終わりなのではないと。
「横田恭子さんって、知ってるだろ?」
突然聞いた懐かしい名前に司は目を見開いた。
「彼女、今ここでボランティアをしているんだ。精神科らしいんだがね。2日ほど前に来て、その手紙を置いていった」
読んでご覧、と差し出す。
黄ばんだすり切れた封筒には、何度も読み返したような、擦れた便せんが入っていた。
ゆっくりと手に取った司は、ガラスでも扱うかのようにそっと、封をあける。
にじんだような文字。
細いインクの跡。
夢の中に去っていく、奏。
愛することだけを真実にしようとした、奏。
現実に適合できなかった、奏。
奏はどこに行ったのか。
それが、とても、知りたい。
「奏さんのことが、好きだったと、言っていた。祥子さんにそれを渡して欲しいそうだ」
愛されている、ということは尊いことだ。
愛に気づかなかったことは多かっただろう。
司は、まだ信じられないものを見るようにして、その手紙を見つめている。
そこにある、愛の欠片。
愛された事実。愛した思い出。
泥にまみれても、けして、失わない、それだけが、真実。
どんな恐怖にも、屈することがないように、お前の代わりに私が苦しんでやるから。
光の中を行け。光の中を歩め。
初めて、その才能を見つけたとき、全てをかけようと思った。全てを中途半端で生きてきた自分が、誰かのためだけに必死になれるのだということを教えてくれた、司。
できれば、お前が世に出る姿が見たかった。そうなるまで、そばにいて支えてやりたかった。
けれど、役目はもう、多分終わりなのだ。
司はともに飛ぶ仲間を見つけた。
だから、もう、ここからお前を花のように愛でていよう。
視界の先で、祥子が綺麗に生けていった薔薇が咲き誇っていた。
[ 母 ]
工藤、という女性が病室を訪ねてきたのは、司が奏の手紙を握り締めて帰った、そのすぐ後だった。看護婦に案内されて入ってきた女性は、薄い蒼のワンピースに細い体を包んでいる。
「あの、工藤、と申します。奏の母、と言ったほうがわかりやすいでしょうか?」
細くて、高い、若い声をしていた。
「はぁ……」
なんと答えようもない。
突然、どうしてこんな事になったのか判らないまま、不思議な糸で結ばれている運命を感じていた。
「実は、これを、差し上げたくて参りました……」
真っ白な羽のオブジェ。紙粘土で作られているのだろうが、それは恐ろしいほどに白い。
半ばで折れた翼。だが、そのやわらかな骨組みの、なんとしたたかで美しいことだろう。
「奏が、大好きだったオブジェなんです。一度も物をねだったことのないあの子が、これだけはハンストまでしてねだりました。とうとう根負けして買って与えたものなんです」
優しい、瞳をした。
--=--
お母さん、どうしても、欲しいの。
私のための食費の代わりに、どうかあれを買って……。
か細い声で、要求した。胸の前で手が組まれている。
このごろ教会に行っている様で、聖書の話や天国の話を何度か訊かれた。
何か、心の中で変わってきたのか、このごろリストバンドをはずしている。学校に行くときはさすがにはめているが。
引きつった、何本もの傷を見ると、胸が痛くなる。
何度も繰り返されるリストカットに、その原因がわからず、混乱し、奏にあたったこともあった。
自分の娘を理解できない辛さ。悲しさ。
それ以上に、自分の娘の体に、何本もの傷跡がつけられる苦しさ。
幾たびも泣いた。
初めて、奏からそれを告白されたとき、おもわず、奏を否定した。
真実を見つめることが、恐ろしかった。
私の大切な奏が、私の最愛の夫から、繰り返し手首を切るほどの苦しみを与えられているなんて。
私の最愛の夫が、私の大切な奏を陵辱しているなんて。
しかも、それを、奏が口にするなんて。
愛したものはなんだったのか。
信じたものはなんだったのか。
私はこれからどうすればいいのか。
夜中に、ナイフを手にしている自分に気付いた。
左の手首が、冷たい。
あぁ、これが、手首を切るという気持ちなのだ。
奏が幾たびも通った道。
涙が流れた。
強くならなければ。奏を守らなければ。
私の大切な奏。ただ一人の、私の血を次いだ奏。
離婚訴訟をし、母子二人で生活をはじめた。
湖のそばの小さな、幸せなマイホームは、虚構の城だったのだ。
この、新しい町で、奏の傷を癒してやらなければ。ただ、この子のことだけ考えなければ。
しかし、翼を買い与え、微笑が戻ったころ。奏は夢のように消えた。
ただ一行、「もう一度、お母さんの子供になってもいいですか?」そう書き残していた。
隣街の細い陸橋から、空に舞って逝ったのだった。
しばらくは、外に出ることすら出来なかった。折れた翼が恨めしく、燃やしてしまおうかとも思った。
1ヶ月すると、ようやく何かをする気力が生まれ、毎夜ごと街をさまよい、奏の抜け殻を探した。
死んだことなど、認められなかった。
どこかに、隠れているのだ。きっと。隠れているのだ。恐怖におびえて隠れているのだ。
出ておいで、奏。全てのものから、お母さんが守ってあげるから。お前の代わりに血を流し、お前の代わりに苦しみ、お前の代わりに泣いてあげるから。
抜け殻は、教会に落ちていた。
両手で、子宮を押さえる。
奏。
あなたの魂は、ここに還ってしまったのね。
もう一度、私の胎内に還ってしまったのね。
全てを呪うことも出来なかった、弱い奏。全てを憎むことが出来なかった、小さな奏。
いっそ、私がもっと醜い人間で、私を恨むことが出来れば、あなたは死ななかったの?
それとも、私がもっと強い人間なら、あなたを守ってやれたの?
全ての感情を抱き込んで、破綻して崩れた奏。
母は、それでも、あなたの母であることをやめようとは思いませんでした。
ただ、一人になったけれど。
あなたはここに居るのだもの。
--=--
オブジェを手に持ったまま、驚いている顔を見つめて、彼女は笑った。
ずっと、誤解していた。
母親の否定こそが奏を死に至らしめたのだと。
だが目の前には、輝くように美しい聖母の顔をした、もう一人の奏が微笑んでいた。
[ 光 ]
私は、と彼女は言葉を継いだ。
「私は、奏を素直で、物静かな、いい子だと思っていました。そう思っているほうが楽だったのでしょうし、再婚したということもあって、子供より、自分のほうが大切に思えてしまっていたんです」
奏のために自分は再婚したと考えていた。奏に父親をつくってやったのだと。
本当は、違ったのに。自分が庇護されたかっただけだったのに。
つうと、涙が頬をつたった。
「私は、弱い人間なのです。こうして、繰り返し自分の罪を語らなければ、魂の安息を得ることが出来ない」
美しいと、思ったのだ。
その、悲しみと苦痛に引きゆがんだ、懺悔を繰り返す無表情な顔が。
泣いても、挫折しても、自分の罪から目を背けない、その、潔いほどの、孤独。
「弱くない人間なんて、居るのでしょうか?」
ここにも、戦うものが居る。己の孤独、己の罪、己の過去、己の恐怖、そんなものを敵に回して。
司も、祥子も、奏も、その母も、恭子も、そして、あの幼い少年も。
孤独ではないではないか。
誰かのために生きる必要なんてないではないか。
全てのものが、己を見つめ、己のままに生き。そして、そんな姿を受け止められるのなら、我々はもっと豊かになれるのかもしれない。
「私は、毎夜夢を見ます。自分が、死ぬ夢です」
その恐ろしいほどの恐怖。不安と苦痛。自分の体の奥で、自分にわからないうちに、何かが変化していっているのだという確信。腐食し、浸食されて行く身体。
独りならば、泣き叫ぶだろう。殺してくれと、願うかもしれない。
死にたくない。
何度繰り返しただろう。
まだ、何も始まってはいないのに。まだ、何も残していないのに。
なぜ、自分なのか。なぜ、あの人ではないのか。どうして自分だけが。自分だけが。
浅ましく、他人を羨む。醜くも、自分を慰める。
でも、今は。
枕元で奏が微笑むので。
優しく微笑むので……。
「私の命は、もう長くはないと思うのです。みな、ひたすらに、それを隠しますが……」
ずっと、迷っていた。真実を知ること、その先にあるのが絶望ではないと言いきれなかったから。
でも、今は、もう、迷わない。
そこにある、道標。多くの、先に逝った者たちの足跡。繰り返し思い出す、面影。
ここにある、この肉の存在が、そこにある、魂の存在へと変わっていくだけなのだ。
誰かから感じ取り、そして、誰かに感じとられて生きてきた。その年月の確かさだけが自分を支えるだろう。
愛して、愛して、愛して。泣いて、泣いて、泣いて。苦しんで、傷ついて、悲しんで。
そして、笑って。
それでも、笑って。
何も、語らなかった。ただ、微笑んだ。
雲を呼んだ強い風が、今度は雲を晴らす。やわらかな象牙色に染まり始めた午後の光の中で、それでも真っ白な翼は、ひっそりとうずくまり、傷ついた部分を癒しているように見えた。
--=--
その夜、夢を見た。
兄に手を引かれ、長い廊下を歩く。ずっと先にある大きな窓からの光がまぶしくて、ただ、しっかりと兄の手を握り締めていた。
泣いちゃ、だめだよ、と、兄が言った。怖くなんてないからね。お兄ちゃんが居るからね。
こつん、こつんと自分たちだけの足音が響く廊下。
だぁれもいないの?
そう尋ねると、兄は笑った。
お兄ちゃんが居るだろ?
兄が開いてくれた扉の向こうに、光に包まれて、母は眠っていた。
美しく、冷たく、微笑さえ浮かべて。
綺麗に化粧をほどこされた顔は、今まで見たどんな母より美しかった。
ハレーションを起こす記憶の中で、讃美歌が響く。
初めて行った教会。透けるガラスの向こうが、天国なのだと兄が言った。
手を。握り締める。
だぁれもいないの?
お兄ちゃんが居るだろ?
讃美歌。
悲しいのとは少し違う感情で、涙が流れた。
[ 心 ]
「おじさんっ」
扉が開くなり、明るい元気な声が響いた。追うように、看護婦の笑いを含んだ、たしなめるような声が続く。
ベッドの上で上体を起こして新聞を読んでいた目が、入ってきた侵入者を見つけて、笑う。
「やぁ、君か」
明るい笑顔のまま、小さな入院着を着た少年は芝生の上と変わらないいたずらな表情をした。
「おじさん、名前わからなかったけど、背が大きいから、訊いたらすぐわかったよ」
ベッドにちょこんと腰掛けて、不思議そうに病室を眺め回した。
「どうした?いよいよなのかい?」
驚くほど真剣な表情が、幼い顔の上に乗った。少年は真っ直ぐに目を合わせると、だまってこくりと頷いた。
「今日、いろんな検査をするんだって。そして、明日、血をとるの……」
ぱんぱんと、ベッドに放り出されていた大きな掌を叩く。芝生の上であったときほど、少年は迷ってはいないように思えた。
「昨日ね、お兄ちゃんのお部屋に入ったの」
少年は独り言を呟くように話す。
ビニールを隔ててしか、お兄ちゃんに触れない。綺麗に手を石鹸で洗って、綺麗な白いエプロンをして、マスクをして。
今までは綺麗にできないかもしれないから、入れてもらえなかった病室。でも、兄が、自分のために血を分けてくれる弟とどうしても話しがしたいからと、無理に母に言ってビニール越しに話した。
「貴史、怖い思い、させてごめんな」
少しやせてしまった兄の、かすれたような声がした。
「お兄ちゃん、頑張るから」
泣きたくなった。
大好きなお兄ちゃん。
僕、頑張るから、怖いなんて、もう言わないから。
だから神様。お兄ちゃんを連れていかないで。
黙ってしまった少年の頭に、大きな手がぽんと乗せられた。
「検査だろう?行っておいで。おじさんは、ずっとここにいるからさ」
少年が掌をぎゅっと掴んだ。
そっと握り返した。
痛みは全部渡してくれればいい。
辛いことは全部、代りに持っていってあげよう。
小さな身体で、ほかの誰かを救ってくださいと願った、君。
君とって、私がここにいることが救いのひとつになるのなら、私はそれを喜ぶだろう。
心から、喜ぶだろう。
小さな背中が去っていくのを見つめながら、私は私の心の中の祭壇に跪く。
ステンドグラスの向こうに居る、私の神よ。
母が死んだあのとき、兄が私にくれた優しさを、どうかそっくりあの少年に渡してください。
私の乏しい生命で、何かが贖えるのなら、どうか、あの少年の願いを聞き届けてください。
全ての、悲しみを知る魂よ。
どうか、その共鳴の中に少年を引き込むな。どうか。
心は静かだった。
苦しまない、朝。
誰かの優しさに満ち溢れた、朝。
自分の心のままに、生きてきていたつもりだったのに、いつのまにかその心に縛られて。
気付けなかった優しさもあったろう。
気付けなかった幸せもあったのだろう。
私が眠りについた後、泣いてくれるものもあるだろう。私はその心の中に散らばり、いつしか同化していくだろう。
そして、その魂が天に召されたとき、また、その死を痛むものの中に引き継がれて。
幾度も、幾度も。
散り散りになった私は、全てになるだろう。
全てに、なれるだろう。
[ 美 ]
1日が長い。時計を見上げたが、前回見たときからまだ10分しか進んではいない。
気晴らしに散歩でも、と思うが、手術室の小さな台に寝かされているだろう小さな友人を思うとそうもしていられない。
こんなときに限って、検査もなければ見舞いも来ないのだ。
半ば諦めて、ため息をつき、手元の新聞に目を落す。
その時、ノックの音が聞こえた。
「はい……」
ドアが開いた瞬間、花の香りがした。
「祥ちゃん!」
思わず声が大きくなった。薔薇の陰から、かみ殺したような笑い声が響く。
「看護婦さんの言った通り、落ち着かないのね」
祥子は笑ったまま薔薇の花を手渡した。
彼女には、薔薇が似合う。その華やかさや美しさが似合うというよりは、強いガクに支えられ、けして下を向かない強さが彼女自身に似ていた。
「どうして、そんなに、落ち着かないの?」
微笑みは優しくなった。
最初に現れたときは、そのどこか人を突き放す部分が、危うい均衡を保っているようで、黙って見ていることが辛くもあったが。喫茶店の一番奥の、観葉植物に囲まれた椅子を(彼女は緑の椅子と呼んでいたけれど)指定席にして、毎日のようにそこに座っては、いろいろと考え事をしていた。不意に涙が光るときもあった。
彼女は、自分で自分を傷つけ、甦っていく。
それは強い心にしかできないことだ。
そして、彼女も旅立っていく。あの店は止まり木のような場所なのだ。
自分は、あの店がそのような店であることを望んだ。誰かの祭壇がある店。誰かの祭壇になれる場所。
やはり、兄弟は似てくるのだろうか。
ふと、優しい笑みを浮かべる兄を思い出した。
「今、小さな友人が手術室で頑張っているんだよ」
話を聞いて、祥子は生けるために花束をとこうとした手を止めた。
「マスター、私、また明日お花持ってくるから、今日は、お花なしでも、いい?」
思わず笑顔がこぼれた。
「もちろんだとも」
祥子は用心深く薔薇の棘を折り始めた。
いつもは、その行為を「薔薇が痛そうだ」と言ってしないのだが、もし、その小さな手が怪我をしたらと思ったらしい。ひとつ折るたびに痛そうな顔をする。
優しくなった。本当に。
もとから、この優しさを持ってはいたのだろうけれど。ぎりぎりまで張り詰めていた頃はそうもいかなかったのだろう。
「あのね、マスター。私ね……」
不意に、こちらを向かずに話し始めた。
「湖に行ったわ。薔薇の咲く……」
薔薇の咲く湖。奏の湖。
水は澄んでいて、波は穏やかだった。その濁りを全て、底に沈殿させて、まっ平な水面は私と奏をつないでいた。
「私、もし、子供を生んだら、『奏』ってつけるの、名前」
きめたの。
母となった祥子は、きっと美しいだろう。
こうして、命が繋がっていくのだ。
私の命が砕けても、それを拾って生きていく者がいる。そして、それはその子供に繋がっていく。
命。
子供の顔を、見たかったな。
司と、祥子の。
「祥ちゃん、僕が死んだら、あの喫茶店は君の好きにしていいからね」
どうしてそんな言葉が出たのか、自分でもわからなかった。
驚いて、こちらを見た祥子の頬に、突然涙が落ちた。
あぁ、この子は知っているのだ。既に自分の死を予期していたのだ。
それでも、毎週、毎週、笑顔で花を持ってきていたのだ。
不意に沸いた喜び。
ともに戦ってくれていたのだね。
薔薇を抱いて。微笑みながら。
「あの店は、誰が悩みを考えてくれる場所にするために、始めた。司も、そして祥ちゃんも、止まり木にしてくれた。嬉しかった。君達を見ているのが……」
若く、弛まない精神が、張り詰めながら、空を目指していく姿の、その、美。
「祥ちゃんにとっては、迷惑な話だろうが……」
祥子は首を振った。
「迷惑なんかじゃ……。ただ、ただ、そのことが……」
そのことが、大切な人の永遠の不在によってもたらされることだということが、ただ、それだけが。
不意に言葉が途切れて、祥子は真っ直ぐに見つめた。
その瞳を真っ直ぐに見返すことができる自分がいることが、嬉しかった。
[ 影 ]
その日は、たぶん、悲しみで始まり悲しみで終わる日だと、あらかじめ決められていたのかもしれなかった。私達が、私達の影から逃れることが出来ないように、誰もがまた、抗いようのない運命を、持っている。
電話が鳴った。
急かすような音が、耳に痛くて、祥子は怒りさえ覚えながら受話器を取った。
『祥子……』
慟哭。
全てが終わったことを、祥子は理解した。
「あの……」
いつものドアに、書きなぐったようのマジックの文字で『面会謝絶』と書いていることに戸惑って、祥子はナースステーションの中に声をかけた。
「725号の横川さんの……」
一人の看護婦が振り返った。
「横川さんのお見舞い?」
疲れたような肌の色。ほつれた髪。微かに痛みのようなものが祥子の心に走った。
「ごめんなさい、今、横川さん容態が悪くて……」
祥子はそっと、花束を渡した。
「じゃぁ、これだけ、時間のあるときに渡して下さい……」
微かに、その看護婦は微笑むと、花を受け取った。
「花は、いつも、綺麗なのよね……」
寂しそうだと、思った。
祥子はその足で司の部屋へ急いだ。
雑踏を小走りに抜けて、アパートの階段をかけあがる。鍵を出すのももどかしくて、ドアを叩いた。
「司っ」
不意にこらえていた涙が落ちた。
「司……」
慌てたように開いたドアの向こうの影に飛びつく。
「マスターが……」
驚くほど静かな声が、頭の上でした。
「知ってる」
なだめるように祥子の髪を指で梳かすと、抱きかかえるようにしたまま部屋の中へ誘った。
「祥子が、前、見舞いに行った翌日から、病状が急変したんだ」
ソファに座らせると、まだ震えている肩を抱き寄せた。
「身体中に水が溜まって、昏睡状態になってる」
昨日のマスターのお兄さんからの電話。家族以外には司にしか知らせていないといった。
「いつ、そうなってもおかしくない状態ではあったのだと、言ってた……」
震える目で、祥子は司を見上げた。
「逝ってしまうの……?」
「分からない……」
沈黙。
死というものを、どうやって受け入れればいいのだろう。
どうすれば、受け入れることが出来るのだろう。
覚悟はしていたはずだった。けして、泣くまいと決めていた。
病気のことも、これからのことも、ちゃんと理解しているはずだった。
なのに……。
祥ちゃん……。
優しい声が、ただ、どうしようもなく懐かしかった。
朦朧とした意識の中で、時折白い天井が見えては消えた。
壁際に飾られた、淡いピンクの薔薇の香りが、時折、懐かしい記憶のように瞼の裏に色を掃いた。
不意に鮮やかに純白の翼のオブジェが目に焼きついた。
瞬間悟った。
あぁ、私は逝くのだ。
これが、私の果てなのだ。
あわただしく電話が鳴って、司が額に口付けを置いて病院へ去っていくのを、夢の中のことのように考えていた。
信じられなかった。
信じたくなかった。
カタリと、窓が風に鳴って、祥子ははっとしたように窓の外を見つめた。
何もなさげに緑は風に揺れていた。その向こうの空が驚くほど澄んでいて、白い雲が、ゆっくりと流れる。
私達は、流れていってしまうのだ。
雲の流れを見つめた。涙が伝った。
そう、流れていってしまうのだ。流れて。
青い空の色が、少しずつ薄くなり始めた頃、電話が鳴った。
そして、一つの旅が終わったことを知った。
[ 祈 ]
人気の無い、暗い窓の無い部屋に微かに線香の匂いがして。
マスターの大きな身体は真っ白な布の中で固まっていた。
枕元には、ついさっき届けた薔薇と、オブジェ。そして入院中に書いていた日記が置かれていた。
暖かな字が、少し掠れかけたボールペンで綴られている。
○月○日。
今日、私は母の思い出を夢に見た。私の中で母は、いつのまにか聖母マリアのように美しい。
きっと嫌だった面もあったはずなのだ。病弱な母に授業参観に来てもらえなかった事とか。
なのに思い出す事はいつも、美しい事なのだ。
母は死ゆえに美しくなった。私はいつも、母を求めている。
母よ、私は死ぬのか。
私は死ぬのか?
死んでしまわなければならないのか?
どうして。
どうして私だけが。
死にたくない。
死にたくない。
不意に乱れた文字は、荒々しく上から消されていた。
死という文字をこの世界から隠蔽するように。
○月○日。
私は、愚かだ。
愚かな私を、何故人は愛してくれるのか、それがわからない。
教えてくれ。
私は何故生まれ、何故死ぬのか。
○月○日。
私は生まれてくる命を考える。
彼女の愛について考える。
彼女の死について考える。
折れた翼を見る。分かった事がある。
旅には終わりが来るのだ。
私の愛しい者達よ。私の旅が終わる。
どうか、泣くだけ泣いたら、私を忘れて欲しい。
私の旅は終わったのだから。
祥子は泣いた。
失う事など、考えなかった。目の前にあるものがこんなにも容易に崩れ去っていく事など、信じられなかった。
だが、それが事実で、現実なのだ。
揺らめく光に照らされる薔薇を見つめて、祥子は思い出した。
――透けるガラスの向こうが、天国なのだ……
硝子の向こうの天国。
虚構だ。
けれどそれは、優しい響きで心を穿つ。
いつも、人は神を求める。
悲しいほどに誠実に、それでも人は求めるのだ。
命という響きのよく似た、神を。
誰も何も言わなかった。
祥子の頬を伝って落ちた涙がポツリとノートの上に落ち、インクの染みがにじんで、「死」という文字を消した。
もう、永遠に瞳を開かない人。
それでも、私達は生きるのか。
生きていくのか。
生きていかねばならないのだ。
強く。強く。
生きていけることは強さに似ている。
生み出す事が痛みと優しさに似ているように。
悲しみの日が終わる。
闇に沈んでも、また、明日、日が昇る。
[ 愛 ]
少年は、息を切らして7階に駆けあがった。大きな扉の横に書いてる数字を見ながら目当ての病室を探すと、ネームプレートを確認した。
『横川武史』
読めるわけではない。字の形で覚えているのだ。
元気よくノックすると、返事を待たずに扉を開けた。
「おじさんっ」
がらんとした部屋に、忘れられたように薔薇の花が咲いていた。
「おじさん?」
看護婦が、少年に気が付き病室に入ってくる。
「どうしたの?」
少年は無邪気な顔で尋ねた。
「おじさんは?」
一瞬、真っ直ぐに少年を見ると、看護婦は優しく笑った。
「おじさんは、いないの」
「退院しちゃったの?」
傍に来て、少年と同じ目線まで屈むと、少年はあどけなく首を傾げて見せた。
「うん、急にね」
「ふうん」
つまらなさそうに唇を尖らすと、少年は看護婦にバイバイとして見せて、パタパタと走り出した。
急に思い出したように振りかえるとネームプレートを指差した。
「これ、なんて読むの?」
「よこかわたけしって言うのよ」
「よこかわたけし」
繰り返すようにゆっくり唱えると、少年は笑った。
「ぼく、ふるやたかふみって言うんだよ。おじさんに会ったら教えてあげてね」
少年は走った。もう振りかえらなかった。
看護婦は、そっと薔薇を見つめると、病室を出て、扉の名前を持ってきていたクリーナーで拭いた。
面白いように真っ白になったプレートを、一度、そっと撫でて、小さくさよならと呟くと、不意に聞こえてきたナースコールに急きたてられるように廊下を小走りに駆ける。
横川さん、最後のお願い、叶えたよ。
大きくて優しい笑顔は、もう、空の向こうに消えたのだ。