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現代小説:「桜謳〜さくらうた〜」
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『桜謳〜さくらうた〜』

「佳枝……。佳枝、ダメだ」
 私はまだ幼く、分別のつかない愛娘の小さな悪戯を叱った。
「どうして、いいつけを聞けない?」
 悪戯な掌に仕置きをしようとすると、悴んだ小さな手が怯えたように背中に隠される。大きな目が上目遣いに私を見て、不安そうに潤む。
 ふいに、思い出す。遠い記憶の中の少女。
 ため息。
「佳枝、手を出しなさい。ほら」
 恐る恐る出された手をきゅっと握ると、コートのポケットから白い小さな手袋を出し、そっと手にはめてやる。
「さぁ、寒いから、お家に帰ろう……」
 佳枝の小さな手を握り、もう不安も何も忘れたような笑顔を見て、苦笑する。
 幼い素直な命を守る、私は、父になった。
「わぁ」
 あどけない声がして、小さな靴が進むのを止める。
「パパァ、ゆき!」
 白い綿毛がふわふわと舞い落ちる。
 羽毛のようなその優しさの中で、小さな佳枝の白い帽子に、白い手袋に、白いコートに、小さな白い靴に、真っ白な花が舞った。
 風に吹かれて舞い散る、花びらのように。

 あの日、花雨の降る日、桜の木の下に私は少女を見つけた。まだ10かそこらの少女。私はまだ、高校に入ったばかり、遠隔地入学というもののせいで、慣れない一人暮しを始めたばかりだった。あの、かつて私達がいた桜の木の下にも、今は雪が降る。

 あれは遠い日の午後。

 

「あ〜ぁ。散っちゃうなぁ、これじゃぁ」
 同級の達弥は写真部だ。学園の門に並ぶ桜並木は地域でも評判で、花の季節になると、散歩がてら眺めに来る人も多い。達弥は花の写真だけでなく、そういう人の表情を撮るのが好きらしい。
 3階にある教室の窓からは、その桜並木が一望できるのだが、今日のその地面は黒く濡れ、蒼くしとしととした雨が桜の花びらを打ち、花色に染まっていくようだ。
「なぁ、雅佳……」
 ぼんやりと雨に打たれる花を眺めている私の耳に達弥の声が入ってくる。
「ん?」
 達弥は最初に出来た友人といってもいいだろうか。席が近かったこともあるのだか、そのおどけて見せていて実は真剣な瞳などが、一目見て気に入ってしまった。彼の方もどうやら似た感情を持っているようで、入学式の翌日から、二人、つるんでいる。
「お前んち、カメラ置いてもらっててもいいかな……」
 一昨日、やはり花を撮ったあとで、達弥が初めて私の部屋に来た。ひとしきりいろんな話をして帰っていったのだが、小雨が降り始めたこともあって、カメラを置いていったのだ。カメラを入れるケースを、持ってきていなかったので。
「あぁ、いいけど。手入れ、とか、大丈夫?」
「あ……」
 困ったように、達弥は口を噤んだ。出来れば、掃除をしておきたい。けれど、必死でバイトして貯めた金で買ったカメラだ。いかに相手が私でもあまり触れて欲しくないのは頷ける。
「放課後、うち、来る? カメラの掃除して、帰れば?」
「悪いな……。なんか、頼んでばっかでさ……」
「いいよぅ、別に。一人暮しだしさ」
 達弥に向かって笑いかけると、窓枠にもたれて、桜並木を見つめた。暫く私の顔を眺めていた達弥もそれに習って顔を外に向ける。
「しかし、よく降るなぁ」
「あぁ。散るかなぁ」
 背後に様々な教室の喧騒を聞きながら、言葉を交わさず同じ空間を共有できる友人。入学そうそう、そういう人間に出会えて幸せだと思う。
 そのまま私達はぼんやりと花を眺めつづけ、半分割れたようなチャイムの音と一緒に古文の教師が教室の扉を開けるまで、じっと窓枠にもたれて、雨に濡れていく大地を見つめていた。

 雨は降り続いた。強さはそうたいして強いわけではないが、しとしとと降り続く雨は心の奥まで冷やしていくようで、冷たい。帰りのホームルームではだらだらと担任が連絡とも雑談ともつかない話をしている。
 担任は、嫌いじゃない。変に進学にばかり目を向ける学科担当の教師ではなく、体育の、しかも柔道の教師だからかもしれない。どことなくおおらかで、それでいて小さな事にまで気付く目 。
「――では、雨が降っているが、風邪はひかないように……」
 委員長の良く通る声が担任の話の語尾をすくいとるように号令をかけ、椅子を引く耳障りな音と共に、今日1日の学業の終わりが告げられる。
「八木……」
 不意に野太い声に名を呼ばれた。
「あ、はい……」
 教壇の前に進む。柔道家らしい、背は高くないががっちりとした体格は、あまり年齢を感じさせない。
「どうだ。一人暮しには、慣れたか?」
 優しげな顔をして見せて、眼光が鋭い。それは、もう、格闘するものの性分のようなものなのかもしれない。
「はい。大分、慣れました……」
 探るように私を見る。そして、ため息を一つついた。
「まぁ、お前の事だから、変な溜り場にされたりとかは、ないだろうがな」
 暗に注意を促す、こういう話し方は嫌いではない。そして、ネチネチとしないのもいい。
「ちゃんと飯は食うんだぞ」
 それだけ言って、バンと強く肩を叩くと担任は出ていった。肩に残る鈍い痛みをさすりながら振り返ると、教室の中はだいぶ閑散としていて、鞄を机に置いたままの達也が、恨めしそうに空を見上げていた。
「達弥……」
 声をかけると、振り向き、にやりと笑う。ご愁傷さま、というところか。
「帰ろうぜ」
 ぽんと、鞄を投げてくる。危うく受け取ると、お返しに近付いてきた身体を小突いてやった。



「達弥、ほら、タオル」
 傘をさして歩いても、しっとりと髪が濡れてしまう。部屋に着くとすぐ、私はタオルを取りだし、達弥に投げた。
「さんきゅ」
 慣れたもので、達弥はどっかりと畳の上に胡座をかき、髪を拭いた。
「カメラ、その箱の中な……。コーヒーいれるから」
 6畳一間に小さな台所と風呂場のある、西日の差す部屋は、これから3年間の自分の城になる。下宿でも良かったのだけど、もともと両親が共働きで家事は得意な方だったから、両親の反対を押し切ってアパートにした。どっちにしろ県外の大学に進めば一人暮しだから、ほんの3年、早いだけの話だ。
 コーヒーメーカの電源を入れ、カップの用意などをしていると、達弥の声が上がった。
「なに、雅佳、わざわざ布、掛けといてくれたんだ」
「ん? あぁ、埃、付くの嫌だろうと思って」
 達弥はあまりそういうことに神経質ではない。それでも、親に反対されてもバイトを続けて買った大事なカメラを、大事にしてやりたかった。知り合ってまだ、2週間ほどしか経っていないが、それでも何故だか、そんな風に思えるのは、達弥の生まれ持った性格のせいだったのかもしれない。
 ゴボゴボと音がしはじめ、辺りにコーヒーの香りがし始める。ミルクと砂糖を出すと、お盆にカップを乗せた。
 隣りの部屋からは時々、プシュという掃除の音がする。
「コーヒー、はいった……」
 お盆を抱えて隣りの部屋に入ると、胡座の中心にカメラを置き、レンズを外して掃除している姿があった。
「わりぃ。そこ、置いといて」
 丹念にレンズを眺め、ブラシで拭き、空気をかける。慣れた手つきで換えのレンズまで掃除をし終わると、達弥は愛しそうにしみじみとカメラを眺めた。
「こいつさ、よかったら、暫く置かせてくれる?」
 真剣な顔。
「家にもって帰るとさ、壊されるかもしれないから……」
 達弥の父は、達弥のカメラの趣味を良くは思っていない。達弥とて、カメラで一生食べていくつもりいるわけではないのだが、何かに夢中になってしまったとき、不完全燃焼させられてしまうのは我慢がならない。
 自分の思ったとおりの道を進まないものを否定して、殴り、支配する。それを子供に対する教育だと言い、愛情だと言う親。
 私は、許せない。
 どうしても、許せない。
「あ……」
 不意に達弥の声が響いた。
「雨、上がった……」
 薄い雲を抜けて、西日が光のカーテンのように大地に差す。それは、天国への階段。
「おい、桜、撮りにいこうぜ」
 私が応えるより早く、達弥はまだ濡れている革靴に足を突っ込んだ。黒々としたつま先に濡れて張りついた淡く白い花弁が私を誘っているように見えた。
「待てよ……」
 私は笑いながら、達弥が忘れていったフィルムをポケットにねじ込み、換えのレンズを持って、鍵もかけずにその背中を追った。

 雨上がりは綺麗な写真が取れる。自然についた水滴がキラキラと日の光を反射して、澄んだ空気はいつもにまして鮮やかだ。
 達弥は夢中でシャッターを切っている。
 ひらひらと、踊るように花びらが落ちる。私は思わずその花びらの行方を追った。
 風に流されて不意に私の傍に寄ってきた花びらは、思いもかけず私の頬に張りついた。冷たい感触と、視界を横切った白い軌跡に思わず顔を歪めると、耳元でパシャリと音がした。
「え?」
 カメラから顔を出して、達弥がにやりと笑う。
「いい、顔」
 私達は悪戯を仕込んだあとのように、顔を見合わせて笑った。
「あぁ、あと3枚しかないや……」
 そう言うと達弥はもう一度カメラを抱えなおした。
「雅佳。お前、適当にこの道ぶらついてて。俺、並木の端から全体を撮るからさ」
 少し坂になっているこの道は、上からなめるように斜めに撮ると、まるで永遠に続く桜の道のように見える。美しくて、どこか狂おしいほど、寂しい。
 桜は、寂しい心の中に花びらを散らす。どうしてこうも無常感をかきたてるのか。桜の木下に立つと、寂しい心が泣いているように感じられる。
 その時、小さな啜り泣きが聞こえた。
 一瞬ギョッとして、桜の木々を見つめる。
 声のほうに近付くと、今度ははっきりと、嗚咽が聞こえた。
「どうか、した?」
 桜の黒い幹に隠れるようにして、少女が泣いていた。先ほどの雨の時から居たのだろう。肩までの髪は濡れて、所々に桜の花弁が張りついている。濡れて張りついた服が体温を奪い、唇も、指先までもが青ざめでいた。
「大丈夫?」
 駆けよって、顔を覗き込むと、零れそうな目が一瞬怯えたように私を見、諦めたように伏せられた。
 大声で達弥を呼んで、私はとにかく少女の冷たくなった身体を温めてやるために自分のガクランを着せ掛けた。
「名前は?」
「香澄……」
 小さなくしゃみをしたあと、少女は掠れたような声で答えた。


 達弥の行動は素早かった。
 ガタガタと歯の根の合わない少女の様子を見ると、すぐガクランごと抱え上げ、学校のすぐ横にある交番へ向かった。ぼんやりと達弥のカメラを抱きしめている私を尻目に、交番のどこか人の良さげな制服姿の男性に手短に話をすると、私の部屋の住所と連絡先を書いたメモを渡して、そのまま私の部屋へと直行した。
「ゆっくり、暖かくなるまで入るんだよ」
 そう言うと、少女を風呂場に入れ、シャワーの温度を調節した。
 私は台所と部屋とを区切る扉を閉めると、後生大事に抱きしめたまま忘れ去っていた達弥のカメラをようやく床に置いた。
 不意に沈黙が落ちる。時計の秒針が刻む音だけがやけに耳についた。
「なんか……」
「あのさ……」
 会話が重なる。戸惑ったような視線が絡んで、不意に達弥と出会ってからまだ、1月も経っていないのだという事実が頭に浮かんだ。
「あ、ごめん。何?」
 振り払うように、無理に笑って、私は達弥の言葉を促した。
 一瞬ひるんだ視線はカメラの上を撫で、小さく唇を噛むと、達弥は静かに私を見た。
「あの子の腕、見たか?」
 私は必死に記憶をたどった。少女は薄いブラウスとセーターを着ていて、肘までまくった細い腕には何箇所か痣のようなものがあったような気がする。
「腕、足、確認は出来てないけど、たぶん身体にも、殴られた痕があるな、あの子……」
 殴られた……。
 私は不意にその細い腕を詳細に思い出した。数カ所の赤黒い斑紋と、内出血の消えかけの黄色い染み。転んでぶつけたにしては不自然に多い、その痕。
「殴られた……?」
「たぶん、親からだな」
 俄かには信じられなかった。私は両親から暴力を受けたことが、無かった。
 信じられないように黙り込んだ私を達弥が真っ直ぐに見つめた。
「喧嘩で殴られている子でも、あんな諦めた目はしない。子供が全てを諦めるのは、親から自分の望まないものしか与えてもらえない時だよ」
 私は黙って達也を見つめた。
「俺さ、家出したこと、あるんだよね」
 視線は私を試すように強く私の目を射ぬいた。私はただ、達弥を見つめた。まっすぐに。
「3日間。知らない場所を歩いて、知らない人を見て。知ってる人から逃げつづけて……」
 金を使い果たして、夜中にさまよっている所を保護された。毛布に包まれた顔の先に不意にコーヒーのはいった温かなカップが渡されて。
 カップを握った節くれだった手は、何箇所か喧嘩の傷の跡があって、そのくせ強く、やさしいもののように感じられた。
「母親に泣かれてさ、父親からは殴られて……。それでも……」
 不意に達弥は目をそらした。
「それでも、何故か、憎みきれないんだよな」
 求め続けていたものに裏切られ、傷つき、追いつめられ、逃げて。それでも。
 強く優しいどんな他人の手よりも、けして握り返してはくれないその手を求める。今度こそはという淡い期待に埋もれて。

 沈黙が落ちた。

 私は迷った。自分自身の心に宿る思いをぶちまけたいという衝動と、いつものごとく必要以上に自分を押さえようとする衝動が衝突し、眩暈に似た感覚が私を支配した。
 憎みきれない。そう。たとえ、両親が私を見つめていてくれなくても。
 そして、自分を見つめないことを諦めと共に望んでいながら、それでも、強欲に見つめて欲しいと願う、そんな自分の収拾のつかない気持ち。
 私は震える唇を開こうとした。何を語るかも決めてはいなかったが。
 最初の一音を発しようとしたその時、はかったように電話が鳴った。私は達弥と顔を見合わせ、一瞬躊躇った後、ゆっくりと受話器を取った。
「はい……。はい。そうです」
 交番からだった。少女の家族と連絡がとれ、私の家まで迎えにくるという。自分も立ち会うから、大丈夫だといって、電話は切れた。
 気がつくと、亡霊のように濡れた髪の少女が部屋の前に立っていた。
 私の持っている中で一番小さなトレーナーと体育用の短パンを身につけた少女は痩せていて、どこか暗い瞳をして、無表情のまま私達を見つめた。
「暖かいもの、飲む?」
 少女は黙って横に首を振った。その瞬間、ぎゅっとトレーナーの裾を握り締めた手に力がこもったのが見えた。
「お父さんが、迎えに来るって」
 はっとしたように顔を上げた少女は怯えたように私を見つめ、やがて諦めたように目を伏せた。
 そんな様子を達弥はただ黙って見つめていた。


 父親が迎えに来るまで、少女は一言も言葉を発しようとはしなかった。
 私は短パンから出た少女の細い足にいくつかの痣をみつけた。
 くっきりと、右のふくらはぎに2つ。太股に1つ。左の太股に3つ。青黒いものもあれば、赤みがまし消えかけたもの、黄色く変色したものまでいれれば無数にみてとれた。少なくとも何ヶ月という単位で受けた傷に違いなかった。
 達弥は黙ったまま、俯いて揺れている少女の髪の先を見つめている。
 私は紙の袋を取り出すと、ビニールに入れておいた濡れた少女の服を入れ、そっと少女の横に置いた。
「洋服、ここにおいておくからね」
 少女は僅かに私を見上げ、小さく頷いた。痩せた頬に瞳だけが大きく丸く、怯えたような不安定な色をして私を見つめた。
 私は胸を突かれた。
 諦め――。さっき達弥はそう言った。この瞳の色が諦めの色だというのならば、私の記憶の中で重なり合うあの瞳も諦めの瞳なのだろうか。
 小さな身体が手術の為の薬を注射される直前の、私と私の両親に向かう大きく見開かれた瞳。血色の悪い頬は痩せていて、瞳だけが大きくキラキラと私を見つめる。
『加奈……』
 私は胸の奥で小さく病んだ妹の名を呼びながら、思わずその目を逸らした。

「どうもすみませんでした……」
 少女の父はどこにでも居るような、スーツを着た普通のサラリーマンだった。慌ててきたらしく、ネクタイは捩れ、髪は乱れている。
 私の部屋を訪れるなり少女を抱きしめた彼は、まだ濡れている髪をしきりに撫でながら、心配したんだぞと繰り返した。
 少女は黙っていた。トレーナの裾を握る手に力が込められたのが見えた。
「洋服は洗ってすぐにお返ししますので……」
 バッタのように何度も何度もお辞儀を繰り返しながら少女の手を引き、彼は帰っていった。
 一瞬だけ私の方を振りかえった彼女は、何か言いかけて唇を開いたが、すぐに諦めたように目を伏せてただ小さくバイバイと手を振った。
 去っていく姿を見つめながら、達弥は苦い顔をして、立ち会ってくれた警官に問いかけた。
「殴っているのは、父親ですか?」
「えぇ。父子家庭で、再婚のこととか、いろいろあるようで。一応担当地域の保健婦には報告しておいたんですが……」
 ため息。
 短い沈黙の後、気を取り直すように帽子を被りなおし、ではこれで、と短い挨拶だけをして警官は帰っていった。薄闇にその姿が消えるのを待って、達弥が振りかえった。
「俺もそろそろ、帰るわ……」
「うん……」
 一瞬視線が交錯した。
 探り合うようなそれは、今までの関係を根底から覆してしまいそうで、私達は不意に視線を逸らした。
「じゃぁ……」
 気まずい雰囲気のまま、達弥は背を向けた。
「あ、気をつけて……」
 私はただ、その背を見送った。扉の向こうに見える薄闇が、暗いガクランを溶け込ませて、細く続く道路以外には何も見えなくなってしまっても、私はその闇を見つめていた。

 疲れきった私はとりあえず達弥のカメラをもとの箱に収めると、カップを流しに浸け、崩れるように畳に座り込んだ。
 ぼんやりと、少女の座っていた辺りを見つめると、細い足につけられたいくつもの痣が思い出された。
 諦めの瞳。
 私は頭を抱えた。年の離れた妹の青ざめた頬が瞼に浮かんだ。
 私達兄妹は、諦めの瞳をしているだろう。妹の完治を願う両親もまた。
 生まれつき心臓に重い奇形を持っていた妹は、手術の繰り返しで健康な子のように幼稚園に通うこともなく、母は妹の奇形を自分の責任なのだと自ら責めつづけ、父はそんな母を支えるのに必死で、私はそんな家族が耐えられず、高校進学を理由に家を出た。
 これ以上両親を見ていたくなかった。見つめていれば、私は妹に嫉妬するだろう。
 私は親へと望む子供らしい感情を、すべて諦めなければならなかった。少なくとも、妹がその人生を掴み取るまでは、諦め続けなければならない。
 手術の度に、私達家族はこれが最期とかもしれないと、覚悟させられた。私は学校を休み、時には10時間以上にも及ぶ手術の時間を病院の一室で過ごした。
 手術室の扉が開き、数人の医者に取り囲まれた小さなベッドが出てくると、まず、その中の小さな身体がしっかりと脈打っているのかを確認した。まだ、人工呼吸の管を入れられたままの痛々しい身体が、目の前を通り過ぎ、集中治療室の中に消えると、緊張の糸が切れた母のためによくコーヒーを買いに行った。それが、私の仕事だった。

 あぁ、そう言えば、加奈の再手術がもうすぐなのではなかったっけ……。

 加奈がまた、具合が悪くなり、入院したと一昨日電話があった。そのまま再手術を行なわなければならない可能性もあると言われたと、父が震える声で言っていた。
 何度手術をしたのか、もう分からない。成人できる可能性は手術で完治できない限りないと言われている。
 外で走ることも出来ない。加奈の欲しがっている白い運動靴は玄関で眠り、幼稚園の制服は使われることの無いまま小さな洋服掛けにかかったままだ。
『おにいちゃん、がっこうっておもしろいとこ?』
 加奈はよく私に聞いた。幼稚園に行きたいと駄々をこねる加奈に、幼稚園は無理でも小学校には行けるからと、母が言ったからだ。
 私は畳の上にごろりと横になった。
 独りになった部屋は空虚で、時を刻んでいる時計の針を見つめながら、私はゆっくりと自分の左胸に手を当てた。
 私の正常な心臓。鼓動。
 加奈の心臓に耳を当てると、それだけで、鼓動の隙間にごうごうという雑音が聞こえるのだ。
 この心臓を千切りとって、加奈の小さな身体にうめこんでみたらどうだろう。そうしたら加奈は外を走れるだろうか、赤いランドセルをガタガタといわせて……。
 私はそのまま、じっと自分の鼓動に耳を澄ませていた。



 私は夢を見た。
 私はランドセルをガタガタといわせて走っていた。
 カシャリと音がして、フレームの中に私の走る膝が止まった。
 扉が開いた。生まれたばかりの青黒い加奈が白い産着に包まっている。
 カシャリと音がして、加奈の閉じたまぶたが四角く切り取られた。
 母が振りかえり、その頬に涙が伝った。叫ぶように開かれた唇からは、掠れたふいごのような音がした。
 フレームの端に俯く父が見えた。
 カシャリとシャッターが切られる度に、記憶の中の断片が妖しく切り取られていく。
 不意に見開かれた加奈の瞳が恐ろしく大きくレンズ越しに私を見ると、その瞳孔の中に私は加奈を睨みすえる私を見た。

 ちがう

 両の目から涙が流れた。
 唇が震えながら開かれ、音のない声で、瞳の中の私が囁いた。

 ドウシテ、ボクニハオヤノアイジョウガナインダ。

 ちがう

 何時の間にか、涙は血に変わり、ドクドクと私の胸を濡らした。
 赤黒い血の跡は拭いてもとれそうに無かった。

 アァ、ソウダヨカナ。アイジョウヲエルカワリニソノシンゾウヲトラレタノダッタカ。

 ちがう

 耳元でカシャリと音がして、視界は闇に閉ざされた。
 ちがう、ちがうと叫ぶ私の声だけが、反響しながら変容し、やがてすすり泣きに変わっていった。



 翌朝、桜の並木は昨日の雨のせいで半分ほど花弁を落としていた。黒い地面に散ばり、靴で踏み荒らされ、白い肌を無残に赤くつぶされた沢山の破片は、昨日の濡れた少女に通じる痛々しさがあった。
 彼女は昨日の夜も打たれたのだろうか。心配をさせた、という罪で。
 私は軽い眩暈を感じながら落ちていく花弁を見つめた。
 ひらひらと螺旋を描きながら落ちつづける幾つもの花弁は雪のように穢れなく、地に落ちたとたんに赤黒く変色し、刻み込まれていく贖いの印のように思えた。
 私はそっと紙袋を胸に抱えた。達弥のカメラだった。冷たい感触が袋を通して私の掌に伝わってきた。心まで冷えるようだった。
 夢の中でこだまするシャッターの音が、私には審判の音のように思われていた。
「おはよう」
 不意に肩にかけられた手が、私の意識を呼び戻した。
「あれ? それ、カメラ?」
 達弥は紙袋を目ざとく見つけると、ちょっと意外そうな顔をした。
「あ、うん。フィルム1枚残ってたし、桜ももう散ってしまうから、早く渡した方がいいかと思って」
 押しつけるようにカメラを渡すと、私は弱く笑った。達弥は私の顔を覗き込み、瞼に深く染みついたクマを認めると、かすかに眉をひそめて訊ねた。
「おい。どうかしたのか?顔色、よくないぜ?」
 ちょっと妹の身体の調子がよくなくてね、と、私は曖昧に笑って見せた。それ以上、加奈の話をしていられそうになかった。私は校舎を見上げ、軽く達弥の肩を叩くと、黙って歩き出した。達弥が何か口を開きかけたのが見えたが、私は気付かないふりをした。達弥は結局、何も言わなかった。

 その日の昼、ようやく午前中の授業が終ろうかという時、不意に教室にやってきた担任が、授業担当の数学教師に何事かを告げると、彼は慌てたように私の横に走りより、小さな声で帰る用意をしなさいといった。
 私が小さく妹ですかと訊ねると、彼ははっとしたように私の顔を見て、小さく頷いた。
「病院に直行しなさい」
 窓の向こうから心配そうに見つめるずんぐりとした影は、私がゆっくりと鞄に教科書を詰め、急きたてられるようにして教室から出てくるのをじっと待っていた。出てきた私の顔を暫く見つめると、何も言わず、ただ私の肩をばんと叩いた。
 私は小さくお辞儀をすると、少し心許ない足取りで昇降口へと向かった。
 門をくぐって桜並木に出ると、急に風が吹いて、一斉に花弁が大地に降り注いだ。雪のようだった。

 バスを乗り継いで病院に着くと、私は4階にある加奈の病室に向かった。何度も訪れた病院の内部はもう、ほとんど場所を把握していて、 加奈が入院しているだろう病棟に着くなり、顔見知りの看護婦に病室を尋ねた。
「あ、ちょうどよかったわ。加奈ちゃんがお父さんたちを呼んでいたんだけれど、今、先生からのお話の途中で。よかったら加奈ちゃんに付いていてくれる?」
 手術の前、前投薬をされる前に、加奈は必ず父を呼んだ。その小さな手で父の指を握り、哀しいような、寂しいような、そんな瞳をして、大きな父の顔を見上げていた。
「はい……」
 私でその役がつとまるのか、不安だった。加奈は私を見て、どんな瞳をするのだろう。
 不意に甦りそうになる夢の中の瞳の影を消して、私は足早に病室に向かった。
 加奈は小さなベッドの上で、上半身を起こし、口元に少し大きすぎる酸素マスクを付けて窓の外を見ていた。
「加奈」
 私の声に気付いた加奈は振り向き、マスクの中で、色の悪い唇が大きく笑った。
 私は少しほっとして、加奈の横に腰掛けると、差し出された手を取った。
「お父さんは今、先生とお話をしているから、もう暫くはお兄ちゃんと一緒に居ようね」
 そう言うと、加奈は小さな手で私の手を握り返し、嬉しそうに頷いた。
「ありがと」
 何気なく加奈の口から零れた言葉が、不意に私の心に刺さった。
 これから手術に向かうまだ4歳の子供が、何故、兄である私にありがとうと言うのだろう。
 私は加奈の手を撫でながら、学校のことや、たわいもない話をした。ふと、私の靴先についていた花弁を見つけた加奈が大きく笑って、お花、と指差した。
 私は祈った。
 どうか、神様、私から加奈を取り上げないで下さい、と。
 私の今までの苦しみも、嫉妬も、悲しみもそんなものに対する代償など、どうでもいいですから。どうか。私からこの小さな加奈を取り上げないで下さい、と。

 手術は、長かった。
 延々10時間にも及ぶ沈黙の後、不意に手術室の扉が開いた。
 慌しく小さなベッドが廊下を走り、集中治療室の扉の中に消えた。いつもと違う雰囲気が私たち親子を戸惑わせた。
「先生……」
 マスクを付けたままの医師の姿を見つけた母が悲鳴のような声をかけると、医師はまっすぐに私たちを見つめ、短く低い声で言った。
「覚悟は、しておいて下さい」
 私たちには言うべき言葉がなかった。

 そして、その日、私の願いは聞き届けられなかった。



「家に、帰ってこないか。バスで、通学したらどうか」
 通夜と葬式をすませ、疲れきった母を先に寝室に行かせ、父がそう言った。
「お母さんのショックがもうすこし軽くなるまででもいいから」
 今更だ。
 私は、ゆっくりと首を横に振った。
「僕は別に、加奈の病気の為だけに家を出たんじゃないから……」
 そう、私は加奈の犠牲になっていたのではない。加奈の為にしてやれる精一杯が、私の感情を殺すことだったとしても。
 私だって加奈を守りたかった。両親と同じように、ほんの少しでも加奈に何かをしてやりたかった。
 両親が私を見つめなかったのは、加奈のせいではない。両親にそれだけのゆとりが無かっただけで、私はもう、すでにそれを諦めていたのだから。 ましてや、両親の瞳が加奈に向かうことを、望んでさえいたのだから。
「明日から、また、アパートから学校に行くよ。週末は家に帰ってくるけど……」
 私はそっと父を仰ぎ見た。
「そうか……」
 父は、それ以上言葉を発さなかった。

 学校への細い道を歩きながら、私は剥離してしまって悲しみの湧いてこない自分の感情を手繰り寄せた。
 私はまだ一筋の涙も流してはいなかった。現実味のない哀しみだけが私の皮膚に張りついて、私を張りぼての中に隠してしまっているようだった。
 病室でその小さな手を握った時の加奈の顔だけが、繰り返し私の瞼に甦った。
 私が愛されるということを諦めようと努力し、そして、諦めきったと思っていたのは全て、この小さな身体が必死に命を諦めきれずにいたからなのだ。
 あの小さな手が、細い色の悪いか弱い手が、それでも何かを掴もうとして、きつく握られていたからなのだ。
『ありがと』
 小さな声だけが残る。弱く握りかえすその手の感触と、その言葉だけが。
 花が散って若い葉が目立ち始めた桜の木は、まだその燃えるような生命を吹き上げることなく、細い幹を風に晒している。弱々しく思えるその細い枝のシルエットが、加奈の指に重なって、私は思わず立ち止った。
 その黒い幹に背中を預けて、私を待っていた影が、私に気付いて、真っ直ぐ私を見つめた。慰めの言葉も、抱擁もなく、達弥はゆっくりとカメラを構えると、私の顔にピントを合わせ、小さな音を立ててシャッターを切った。
 私は自分の視界が歪むのを感じた。
 私は、はじめて泣いた。
 達弥の手が肩にかかるのを感じながら、私は小さく何度も妹に呼びかけた。今までの痛みや哀しみを洗うように涙は流れつづけた。

 

 加奈は若葉の頃に生まれ、5回目の誕生日を迎えることなく、桜の花が散る頃、その短い命を終えた。
 桜の木の下で出会った少女は、私に忘れられない瞳を残したまま、その後出会うこともなく、大学で別れた達弥とも賀状を交わすだけの仲となった。
 私は結局、加奈の病んだ心臓の代りを作る為、生体工学の道に進み、現在の妻を迎え、父親になった。
 そして今、こうして、小さな手を握り締めている。

 ぽつりと現れた玄関の明かりに佳枝が歓声を上げた。
「ママ」
 ぱたぱたと薄く積もった雪の上に小さな足跡をつけて、玄関の前の階段を一段ずつ大急ぎで上がると、頭の高さにあるドアノブを両手でまわす。私は苦笑しながらその後を追うと、ほんの数センチしか開かれていないドアの隙間に指をかけ、佳枝の努力を無駄にしないよう気をつけてそっと扉を開いた。
「ただいまぁ」
 小さな靴を脱ぎ散らし、肩と髪に雪を乗せたまま、佳枝は居間に走りこむ。
「ママ、雪なの」
「あら、佳枝ちゃん。ダメじゃない、風邪をひくわよ……」
 優しい声が遠くに聞こえ、私はそっと小さな白い靴を揃えた。

 子供は、守られなければならない。彼等は 愛されるために生まれてくる。彼等は、きつく握った拳の中に、命を握り締めて生まれてくる。
 私はふと、玄関に山のように置いてある写真立てのなかに、桜の木の下で佳枝が生まれた時に撮った写真を見つけた。
 今よりほんの少しだけ痩せている妻と、目じりが垂れ下がってしまった私と、ちいさな白い産着にくるまれている佳枝。
 佳枝は次の春で、加奈をこえ、5歳の誕生日を迎える。加奈の行けなかった幼稚園に行き、加奈が欲しがっていた白い運動靴で、外を走る。
 私は写真の中の桜をそっと指で撫でた。
 微笑みと共に懐かしさと痛みのあるこの感情に、私は名前をつけよう。
 誓い、と。

 窓から見える木には、白い雪の花が咲いている。

 
1998.12.04-1999.01.17.