JSUsed CSSUsed
現代恋愛小説:「天国への階段」
HOME
ホーム > 小説一覧 > 小説
 
 
 

『天国への階段』

 ススキが風に揺れていた。ギターの音が聞こえた。
 幼い頃、そこに近付いてはいけないと何度も言われていた。以前、その場所で、放置されている土管の下敷きになって、少年が一人、死んでしまったからだった。
 その場所は通学路の横にあり、破れた金網をくぐると、うっそうと茂った草の青臭いむっとするような匂いに包まれていた。草の厚い壁を過ぎると、不意に感じられる風が、体中についてしまった青臭い匂いを吹き去る。私は一番近くにある土管の中を覗いた。微かに泥の積もった内部には、いつのものか水の染みた跡があり、湿った土に似た匂いがした。
 ギターの音は切れず流れている。足をその音の方に踏み出しかけて、私はふと、躊躇した。
 私は、何のためにここに居るのだろう。私はここに居て、何をしようとしているのだろう。
 私は、優等生だった。親に逆らったこともなく、教師に逆らったこともなく、友人関係はそつ無くこなし、成績はある程度の上位を保持していた。だが、私の周りには、悩みを打ち明け、語り明かし、共に泣く、そんな友人は居なかった。いや、そんな関係は友人とは呼ばないのかもしれない。私は、私という精神が耐えられるギリギリのところまで、孤独だった。
 私はギターの音だけを頼りに、ゆっくりと土管の群れの中を歩き始めた。風に紛れ、切れ切れに聞こえるギターの音が美しかった。途中、何度も間違えて、壊れかかったレコードを再生するように何度も同じ部分が繰り返されたりしたが、それでも、その風に紛れた音は、美しいと思った。
 ことさら大きな土管を覗き込んだとき、私は初めて彼に出会った。ギターを腕に抱えて、土管に凭れながら彼は私に気付き、じっと私を見た。
 彼は、この地域では知らないものが居ないというほど、名を知られていた。悪い意味で彼は目立つ存在で、私もその名前と顔は多少尾ひれのついた噂話と共に記憶の中にあった。
 不思議と、そのときは彼を恐ろしいなどと感じなかったのだ。彼はいつもは固めている髪を下ろし、唇にタバコを咥えてはいたが、大事そうにギターを抱えていた。年代物だと一目でわかるギターは、薄汚れていたが、十分に拭かれ、滑らかな曲線にあわせて美しく光っていた。
「何してんの?」
 ようやく彼が口を開いた。邪魔だと言いたげな口調だった。
「それ、なんていう曲?」
 どうしてそんな質問が口から出たのかわからなかった。心のどこかでは、怖いという噂の彼から逃げ出したくてしょうがないのに、別のどこかは、彼のようになってみたいと訴えていた。
「気に入ったの?」
「うん」
 彼はゆっくりと私を招いた。素直に土管の中に入り、私は彼の斜め向かいに座り込んだ。
 彼はゆっくりと指を弦に置いた。弾かれる澄んだ音と、指を走らせるときの弦の擦れる切なげな音が土管に響いた。ひとしきり弾いて、彼は指を止めた。
「天国への階段……」
 独り言のように呟かれたそれが、その曲の名前だと分かるのには少し時間がかかった。
「ギター、上手いんだね」
 驚いたように私を見つめた彼は、初めて見るはにかんだような笑顔を見せた。彼はまた最初から弾いた。私は飽きることなくその曲を聞いていた。何度か繰り返したあと、不意に彼は弾くのを止めた。
「お前さ……」
「何?」
 彼が何を問いかけようとしたのか、今となってはもう、分からない。彼はそのまま口を閉ざして、いいやと一言だけ言うと、またギターを弾き始めた。一週間後、彼は喧嘩で人を刺し、そのままこの町を出て行った。


 それから数年が過ぎ、私は短大に進み、一緒に映画に行くような友人も出来た。まだ、優等生らしさは私の中に残ってはいたが、諦めに似た容認が私を少し大人にした。付き合って欲しいと言われた先輩にまだ返事をしないまま、私は友人のような先輩との関係を続けていた。優しいと思う。答えを急ぐでもなく、先輩は私のペースに合わせ、私に映画や買い物、二人でいる楽しさを教えてくれた。
 その日は映画の待ち合わせだった。いつものように早めに出るはずだったのだが、出発直前に届いた小包のせいで私は待ち合わせに遅刻寸前だった。
「何、言ってんスか、勘弁してくださいよ」
 不意に耳に滑り込んできた声に、私は思わず振り返った。引越し会社の車が止まっている。社員らしい作業服を着た男達の中に、彼がいた。あの時初めて見た、あのはにかんだ笑顔で彼は笑っていた。彼は背も伸び、色は黒くなり、髪を短く整えて、あの頃の荒んだような雰囲気は微塵も感じられなかった。
 声をかけようとして、私は躊躇した。そのうちに、彼は引越しの作業の為に家の中に入り、私の視界から消えた。
 私は急ぐ事も忘れて、ゆっくりと歩き出した。心に靄がかかったように、過去の彼のとの僅かな会話ばかりが思い出された。
 待ち合わせ場所に、すでに先輩は来ていた。耳にイヤホンを付け、目を閉じて何かを聞いていた。
「ごめんなさい」
 言葉をかけると、すぐに気付いて明るい笑顔で笑った。
「おう」
 遅れた私を咎めるでもなく、遅れた理由を聞こうともせず、先輩は笑ってイヤホンを外した。
「何を聞いていたんですか?」
 先輩は答えず、イヤホンを私に渡した。そっと耳に付けると驚くほど芳醇なギターの音が耳を叩いた。聞いたことのあるメロディーだった。彼の爪弾いていた、あのメロディー。比べようもなく、そのCDから漏れてくる音は彼の音よりも芳醇で、美しく柔らかだったが、それでも、その曲が彼の弾いたあの曲だと、私にはすぐに分かった。
「天国への、階段……?」
 先輩は驚いたような顔をして私を見つめた。
「知ってるの?」
 頷きながら、私は視界が歪んだのを感じた。涙が頬を伝った。理由もなく、涙は流れた。
「どうした?」
 驚いたように私の肩を抱き寄せて、先輩はそっと尋ねた。ただ首を振るばかりの私に小さく溜息をつくと、そのままゆっくりと抱きしめた。私は素直に体を預けた。それでいいのだと、心のどこかで思っていた。
 私はたどたどしく、彼のことを話した。土管の中での彼のこと、そして、不意の再会のこと。
「良かったね」
 ただ、それだけ言って、先輩は宥めるように私の髪を梳いた。誰かの体温はこんなにも温かいのだと、私は初めて知り、そしてまた涙した。

 幾たびも、私の中にはあのギターの調べが響き、いつの間にか棲みついてしまった。天国への階段という曲は私の中で愛という言葉と等しい。淡い、少女期の自覚すらしなかった初恋と、ようやくこの手にした、確かな愛情と。

 
2000.10.15.