『鵺』
それはか細い鵺だった。
人々から目を背けられ、けして振り向かれることなく、
ただ、小さく身をひそめる、
せつなく、悲しい、鵺だったのだ。
[ 胡蝶 ]
浅い藍の着物、薄い青地の稽古用の扇、眼にいたい真白の足袋。
桂は、美しい兄の舞姿をただ、じっと見つめる。
舞台に上がるときは面をつけるのでどんな顔をして舞っているのか、「気」の気配でしか分からないが、今日は稽古とも遊びともつかないものなので、優しい微笑みが口元に見える。
兄、融(とおる)の舞はいつも優しい。ことに、今舞っている「胡蝶」のような題目では透き通るような無垢な美しさだ。舞台では華やかな御髪の飾りをつけ、優しい女面をつけ、華やかな着物を着て舞う。どんなにか美しいだろうと、そう思うと、舞っている兄の柔らかな指先を追いながら、うっとりと心が飛んでしまうのだ。
桂が初めて舞をしてみたいと強く感じたのは、やはり兄の舞姿を見たときだった。6つ違いの兄は桂が物心つく頃にはもう、舞を始めていた。初演は融が10才の時。真白の鷺を舞ったのだ。その時初めて、桂は兄の舞う姿を見、生まれて初めての自己主張をした。自分もやりたいと。祖父はことのほかその言葉を喜び、初めての舞を、兄がその手を取って教えた。
人形のような子供達が、手を取り合って舞をする姿を見て、周囲は喜び、期待した。
舞をやめた今、未練がないかと問われれば、「ない」と答えるだろう。でも、それは嘘だ。桂は兄とともに舞いたかった。融と二人で、舞台に立ちたかった。いつか、二人で「二人静」を一分の狂いもなく舞うのが、夢だった。
融は、どうだったろうか……。
桂は真っ直ぐに伸びた兄の背中をまぶしそうに見た。
大好きな、兄。
兄は今年、成人式を迎える。けれど、その面差しは鷺を舞っていた頃とあまり変わらない。
いつまでも、優しい、兄だ。
「桂、どうかしたか?」
ぼんやりと心を飛ばしてしまった桂に、融が問いかける。桂の前を扇がふわりと舞った。
「え、あ?」
不作法に、思わず流れる扇を見る。いたずらな兄の目。
「試合は残念だったね。勝てると思ったんだけどなぁ」
桂は内心ほっとした。試合のことを思い出してぼんやりしていたのだと思われている方が、いい。能への未練は隠さなければ。
ひらりと、兄の扇を取った。
「来年は、勝つよ……」
扇を持たないまま、融が舞う。まるで影のように桂がそれを追う。
いつもいつも、こうして一緒だった。ただ、兄だけを追いかけていた。
それが、兄を苦しめているのだと、知るまで……。
桂は、融の6つ下の実弟になる。が、同時に融の6つ下の伯父になる。
桂は桂の祖父と桂の母の間に産まれた子。それが分かったときから、桂は父をなくした。祖父が亡くなると、父は全寮制の学校に桂を押し込め、家庭をなくした。ただ、兄だけが優しかった。さすがに両親に気兼ねして、まだ家にいた頃は桂を家に呼ぶことはしなかったが、融がシテ方の流派に養子にいってからは、そちらの稽古場によく桂を呼ぶ。
今日も、稽古の合間に時間を作り、桂の試合を応援し、一緒に稽古場に来ているのだ。
融はそっと桂を見た。
切るなと言う自分の言葉を守って肩にかかる程度に伸ばした髪。幼いときと変わらぬ一途で真っ直ぐな眼。少女めいた顔立ちだが、消して弱々しい印象はしない。目が強いのだ。
意志を持った目をする。生意気に映るほど。
ひらりと、扇が舞った。
虚空を見つめる眼差し。完全に舞の中に没入している自我。張りつめる気。
桂は舞で人を切る。それほどに張りつめる。
それは自分にはないものだ。とても祖父に似ている。
完全に融は桂と気を重ね合わせる。
昔から不思議なほど、二人で舞う舞は良く合った。合う、というより、どう動くのかが分かるのだ。呼吸が分かる。どちらが影か、どちらが本体か分からないようになりながら、舞う。
桂と舞うのは心地よかった。切り、切られ、新しいものになる。
「死」は「始」だと、身体だけが理解する。
桂は何でも自分の真似をした。
能への道を進むこと以外は、全て。
融はその意味を、知っている。
[ 鷺 ]
桂は、初めて見た融の舞台を今でもおぼろげながら覚えている。4才の誕生日を目前に控え、有頂天になっていた頃。稽古のために兄が遊んでくれないので、ちょっと拗ねていた。
母に手を引かれて舞台に来て、舞う兄を見たとき、桂は声もなくただ兄を見つめた。
それ、は兄ではなかった。
たとえれば、それは雪のよう。雨のよう。鳥のよう。花のよう。
けして人ではあり得ないもの。
舞台が終わり、兄が微笑んだとき、桂は抱きついて泣いた。
「どこにもいっちゃ嫌だ」と。顔を涙でぐしゃぐしゃにして、誰にも渡さぬように兄を抱きしめた。
母は桂を悲しそうに見つめた。
母は桂にも、そして融にも、どこか一線を引いたような接し方をしていた。
たぶん自覚があったのだろう。自分の行いが、けして母として許されないことの。母もまた、ある意味では犠牲者だったのだ。祖父母には能のためなら死をも厭わぬようなところがあったから。
そのせいか、桂は融によくなついた。
桂にとって、世界は融だった。
「桂の初舞台も、鷺だったよね」
融が唐突に桂に声をかけた。いつの間にか桂は舞に没入してしまい、思い出のままに鷺の一節を舞っていたらしい。
ふと、舞う手を止めて桂は融を見た。
「うん、兄貴が使った衣装をそのまま使ったんだよ……」
ひらり、と、融が桂から扇を取り返した。
「桂の分も夕御飯を作ってもらえるように麻井さんに頼んでくるから、ちょっと待っておいで」
ぴたりと顔の前で扇を畳んで、にこりと笑う。
桂はただ笑い返すことしかできなかった。
後ろ手に障子を閉めながら、融は訳もなく心を尖らせている自分を戒めた。
家を出たあとも、こうしてよく自分の元へやってくる桂。けして手にとってはならない能という道を、追憶と、悲しみと、そしてどうしようもない憧れを持って見つめる桂。
心の底から、そんな桂を愛おしいと思い、その心を慰めようとする気持ちに偽りはない。
だが、いつも気付いてしまう。
そんな心の隙間にも、暗い感情は巣くっている。
それは、鵺だ。
流されるべき、鵺だ。
融は、なにかに耐えるように眉をひそめ、俯いて低くうめいた。目のはしに、異形の影がうずくまる。乾いた風になぶられるようにして無防備に立っているそれは、視界からけして消えることはない。
舞っているときですら。
それは、融の鵺だ。
消すことのできない暗い暗い感情なのだ。
桂の出生の秘密が分かり、唯一の守護者である祖父が亡くなり、父が桂を疎み、ただ一人家庭を離れなければならなくなったとき、融は必死で桂を庇った。
生まれることを選ぶことはできない。
責められるべきは、選択できた人間だったのではないのか。
それは、母であり、祖父であり、祖母であり、そして父自身だったのではないのか。
父は、あまり才能のある人ではない。逆に母は、幼いときから舞をし、能家の血は一滴も入っていないが、祖父すらその舞の美しさ故、嫁として認めたという人だ。
だからこそ祖父は許されぬ所行をし、祖母もそれを黙認した。
才能は責められるべきではない。
責められるべきではないのだ。
なのに……。
もう、壮年をすぎても、直面で鷺は舞えない……。
自分には視界から鵺を消すための面が必要だ。
あのころ。
初めて鷺を舞い、抱きついてくる桂が愛しくてならなかった、あのころ。
舞うことが、ただ嬉しく。自分の指のひらめき、足の一打ちが心地よく。
自分の精一杯が、自分だけで満たされている充実感が、つま先まで満ちあふれて……。
もう、けして戻らない、あのころ……。
台所にいるだろう家政婦の麻井をもとめて、歩き出しながら、融は身のうちに影のようによりそう鵺の体温を感じていた。
[ 二人静 ]
融が扇を取ったとき、思わず、取られまいと扇を引き寄せようとした……。
桂は兄の消えた障子を見つめながら唇を噛んだ。未練だ。
あの時、決めたのではなかったか。父に向かい、融が桂を抱きしめながら叫んだとき。
桂になんの罪があると言うんです。桂に何を償えと言うんです。もし、貴方が、その憎しみで桂から全てを奪うなら、僕が桂に、全てを与えます。桂を僕から奪うことは、いくら貴方でも許さない。
自分が許されぬ子だと知ったのは、10才の時。初舞台を踏んで半年も経っていなかった。それでも祖父が亡くなる11の秋までは桂は兄とともに過ごすことができた。祖父が亡くなり、3月もしないうちに父は桂を自分の書斎に呼び、黙って学園のパンフレットを渡した。
桂は、理解した。
自分がどうすべきか、どう生きるべきか。
食事の席で、父と母に週末は帰ってきてもいいですか、と問うた。父は無言だった。母は泣いた。そして兄は叫んだ。
桂を精一杯抱きしめて、泣かない桂の代わりに、兄は泣いた。
大好きな兄。陰で自分と兄を比較し、祖父に取り入るために好き勝手なことを言っていた人間がいることも知っていた。そんな声が聞こえる度、兄の稽古の量が増えていったことも。
本当は兄だって自分を憎みたかったかもしれないのだ。なのに。全てが桂を孤独にするので、融は桂を抱きしめた。優しい兄。優しすぎる、兄。
桂は背筋を伸ばし、ゆっくりと右手を肩の高さまで持ち上げた。目を閉じる。
聞こえる、自分の鼓動。息。
舞いたい。ただ、舞い続けていたい。
自室で、二人だけで夕食を取ることになったということを桂に告げるため、融は稽古場に急いだ。台所から帰る途中、外弟子の集団と出会ったため、思ったより時間をとってしまったのだ。
障子を開けようとしたとき、その隙間から漏れ出る張りつめた気に、融は動きをとめた。
桂が舞っている。
それが分かる。
気付かれぬようそっと細く障子を開けた。
僅かに俯いて、桂は舞う。張りつめたからだ。流れるような動き。扇を持つ形にすぼめられた、手。目に見えない扇の質量が、分かる。
斜めの方向を向いて、桂の顔がゆっくり上げられた。
そこにある、完璧な、無。桂の瞳は映る景色を通り越して、もう一度自分の奥底へ沈んでいく。
裏切るように、堅い頬に、涙。
視界の端で鵺が飛んだ。
嬉々として桂の周りを回り、鵺は舞う。
やめろ。やめてくれ。
融は叫ぶことはできなかった。動くこともできなかった。
ただ、鵺は舞う。桂を縛るように、舞い続ける桂を嘲笑うように。
融……。
鵺が呼ぶ。舞いながら、かすれた声で。
そして、融は気付いた。視界の端で、舞う自分の姿を。
鵺と全く同型の舞を舞う自分。舞わせているのは鵺なのか。それとも、自分こそが鵺を舞わせているのか。
やめてくれ。お願いだから。
弔っておくれ、この闇を……。この悲しみから救っておくれ……。
鵺は舞う。
こんな風にしか、兄弟でいられないのか。こんな風に苦しみながら、ともに寄り添うしかないのか……。
不意に部屋を満たした気が途切れた。
部屋の中央で、桂は顔を覆い、声もなく慟哭していた。
「桂……」
4才のあの時のように、桂は真っ直ぐに融に駆け寄り、抱きついて泣きじゃくった。
どこにも行っては嫌だ、と。
[ 鵺 ]
融は細い桂の肩を抱いた。
「ここにいるよ、桂……」
桂は無邪気に自分の感情を全て表に出す。
その怒りも、悲しみも、寂しさも。時にその憎しみさえ。
だから、自分は全てを隠す。
その怒りも、悲しみも、寂しさも。隠しきれないその憎しみさえ。
「おいで、桂。麻井さんが桂の好きな鶏煮を作ってくれているよ……」
袂から、小さなミニタオルを出して、桂の顔を拭ってやる。真っ赤に腫れた目をして、桂は恥ずかしそうに頷いた。部屋に行くとき、桂は融の袂を離そうとしなかった。幼いときから、寂しくて堪らないときの、桂の癖だ。
幼い日に、わざと袖を引き離したときがあった。桂はその時、泣いて融の後を追い、融にしがみついた。愛されていない、ということにひどく敏感な子供だった。
今、もし、袂を引き離したら、桂は追ってくるだろうか。それとも、悲しみに沈んだ目でただ自分を眺めるだろうか。能を見るときのように……。
融はひどく残酷になっている自分に気付いて、唇を噛んだ。
桂の出生を知り、初めて人が自分と桂を比べたとき、そして、祖父が桂をより愛していると知ったとき、死んでしまいたいと思うより先に殺してしまいたいと思っている自分に気付いて、その浅ましさに身がすくんだ。
桂を疎む父を罵りながら、それを喜んでいる自分に腹が立った。
力の限り抱きしめたことは、嘘ではないのに。流した涙は偽りではないのに。
そして、鵺は心の隅に住み着いた。
麻井は食事の膳を整え終えると、二人が来る前にあわてて部屋を出ようとした。
気のいい麻井は二人の姿を正視することができない。藤陰の家の内情のことを麻井は良く知っている。桂の出生のことも、先代が亡くなる前にその内部がどうであったかや、今もってあれこれと詮索しては陰口をたたく連中がいることも。
それでも、お互いに必死に自分の感情に耐えながら兄弟は寄り添っている。
哀れなほど。
あれほど、必死な愛を麻井は見たことがない。
台所の方へ急いでいた麻井は遠くに寄り添うようにして歩いてくる兄弟を認めた。桂の目元がほんのりと赤い。
近づいてくる前に、会釈だけしてあわてて台所に引きこもった。
そっとしておきたかった。
「桂、先に部屋に行っておいて……」
台所に行く廊下との分かれ目で、融はそう言うと、先ほど消えた麻井を追った。
「麻井さん……」
小柄な影がのれんの下から顔を出す。
「麻井さん、あとで氷を持ってきて欲しいんだ……。あと、僕の藍と浅黄のTシャツ、あれを袋に入れておいてくれないかな……」
優しい融の顔。
「え、えぇ。でもあのシャツはお気に入りでは?」
気遣うように見あげる麻井に融は笑った。
「僕も、そろそろ自覚をしなくてはね。昨日も師匠にいつも着物でいなさいと怒られてしまったんだ。お気に入りのシャツだけれど、タンスの肥やしにするくらいなら、欲しがってた桂にあげようと思ってね」
にこやかな顔。
麻井は嬉しそうに笑った。
「まぁ、そうですか。お帰りの時までに用意しておきますから……」
頼んだよ、といい残して、融は桂の待つ部屋へと歩き出した。
目の端に、鵺。
ふと立ち止まると、融はそっと腕を広げた。
鵺よ。僕はお前を受け入れよう。おいで、ここへ。
お前の悲しみ、お前の憎しみ、お前のねたみから、僕は目を背けまい。
そのかわり、けして桂を離すまい。お前が憎めば憎むほど、僕は桂を抱きしめよう。
それが身を切るほど辛くても、桂を切るくらいなら、己が切られた方がいい。
何も知らなかった幼い頃と、何一つ変わらずにいる桂。人知れず、慟哭する桂。
同じ血で結ばれ、同じように舞を愛し、同じように舞の中に命を見た唯一の兄弟。
お前を守りたい。
鵺よ。おいで。僕がお前を抱きしめる。
か細く息を吐いて鵺は融の広げた腕の中へひらめいた。冷たい風が融の頬を濡らし、微笑みの端に落ちた。