『光流〜みつる〜』 [ 綺羅 ]
2、3日は休みにしようと言われたのに、何とはなしに来てしまった……。
私は憂鬱な気分で美術室の扉を見つめた。
ここにいたいという気持ちだけが、憂鬱な私を奮い立たせていた。
考えなければ。今、私が濁っている部分を全部。
見つめなければ。私の中で何が起こっているのか。
私は美術室の扉を開けた。
無人の教室。
こもった油絵の具の匂い。
いつも寄りかかる窓。
いつの間にか此処が私の考える場所になっている。
つい1週間前までは他人の場所だった、今はもう手放せない場所。
見事なまでに、気付かぬうちに体の中に入り込んでいる……。
そう、まるで恋情のように。
私は窓にもたれ、遠くぼやける町並みを見つめる。
なぜ、こうも人は誰かを求めたしまうのだろうか。欲深く。
自分が求めるからこそ、自分は求められていないかもしれないと不安になるというのに。
自分が愛するからこそ、自分は愛されていないかもしれないと恐怖するのに。
私はなんと愚かなのだろう。
人は求められないからこそ求め、愛されないからこそ愛するのであったか?
そんなにも人は飢え、空虚なものだったか?
否。
愛は、溢れるものだ。
大地に降り注ぐ雨のように。
愚かな……。
愛される恐怖におびえながら、私は常に誰かを求めている。
壁に掛かった時計を見た拍子に、私は無人だと思っていた教室に鞄が置かれていることに気付いた。
古いスケッチブックの下から見える鞄に見慣れた傷。
右隅のサイン。
こんなところのサインも、蒼なのね。
興味につられてスケッチブックを手に取る。
題字を見て一瞬手が止まった。
「KANADE」
「アナタ、奏サンノ代ワリナノ……?」
私はゆっくりとスケッチブックを開いた。
そこに奏がいた。
幾枚も幾枚も、少女だけを描き続けるスケッチ。
瞳・唇・うなじ・髪・肩・指。
本を読む奏。湖に足をつける奏。空に手を伸ばす奏。微笑む奏。
私、奏さんの代わりなの?
肩にかかる髪。とがった顎。少し神経質そうな眼差し。
そして、私は気付いた。彼女の他者を拒絶するような微笑み。
スケッチブックを置いた。
顔を巡らして教室の奥に掛けてある司の絵を見た。
「昔の花」
そう、彼女は昔の花。
追憶と贖罪の花。
では、私は?
答えは出るだろう。司が私の絵を描き終えたときに。それは司の問題。こうして司に突きつけられた私自身を、どう考え、どう導いていくかが私の問題。
そう、これが私。わたしということ。
わたしは笑った。
その時、扉が開いた。
「雨宮……」
司が立っていた。手には新しいスケッチブックを持っている。
「あぁ、ごめんなさい。なんだか足が向かってしまって」
指してくる西日が顔に当たり、司はまぶしそうに目を眇めた。スケッチブックで顔を隠す。その拍子にスケッチブックから破り取られたノートの切れ端が落ちた。
「あ、それは……」
足下に落ちたそれを私は手に取った。
「光に向かう祥子」
窓辺に座る私。窓枠に寄りかかり、心持ち顎をあげて。
「四条くん、これ……」
司は照れたように頭をかいた。
「モデルを頼む前に書いたやつだよ。それ」
これを描いてから雨宮のことをモデルにしようと考えたんだよな、と、少し懐かしげな顔をして、西日の射す窓にカーテンを引くと、奏のスケッチの上に無造作にスケッチブックを置いた。
「昔……」
壁に掛かっている花を見つめながら、司は言った。
「昔、初めて人物画を描こうとしたとき、俺は表面のことだけを見つめていた。微笑んでいれば幸せなのだと思っていたし、語らなければなんの不満もないのだと思っていた」
私は黙ったまま、司の見つめている「昔の花」を見つめた。
「自分が理解できる範囲が世界だと思ってたんだ」
だれも、みなそうだ。いくつも躓いて、世界の形を知る。
「雨宮が微笑みながら世界を拒絶した時、光に背を向けながら、なおかつ光の中を歩んでいこうとするように見えた」
描きたかった……自分の、罪。
小さく、司はつぶやいた。
[ 翼音 ]
私は空の中にいた。店の名前も「Sora」というのだと今日初めて知った。
司とともについ先日訪れた喫茶店に、今日は私一人でいる。
透明な樹脂でできたいびつな丸椅子に腰掛け、昨日の出来事を思い出していた。
描きたかった……自分の、罪。
そういう司のつぶやきを聞いて、尋ねた。
「あなたは罪人なの?」
司は夕日に照らされながら、少し微笑んだ。
「たぶん……」
光をいっぱいに受けながら、微笑む、罪人。
私は黙って、絵を司に返した。そして、そっと司の鞄とところへ寄ると、鞄の蒼いサインを撫でた。
「罪人でない人を、知っている……?」
司は静かに頭を振った。
「私も知らないわ。皆、シーシュポスのように……罪を生きている……」
包まれている。司に。
包んでいる。私が。
司の唇が、額に触れた。
驚いたことに、私は拒否することなくそれを受けていた。
帰ろうか、と、司が言った。
私はただうなずいた。
中1の夏、私は初めて男性を知った。相手は伯父。伯父と言っても10しか年は離れていなかった。その頃、まだ、私は女性ではなかった。少しばかり体つきは女性らしくなっていたが、子供を産めるほど成熟はしていなかった。
私は初潮を迎えることが恐ろしかった。
伯父は私が未だ少女だったので、私を愛したのだ。
少女でない私など必要ではないのだ。
事実、初潮を迎えた私から、伯父は去った。
母は私を16の時に生んだ。当時、母は二人の男性と交際していて、私はどちらの子供なのかはっきりしなかった。結婚を承諾した男性は、生まれた私が次第にもう一人の男性に似てくるのを知って、私が3歳の時に私たちを捨てた。
今の父は私が小学校に上がるときに、再婚した相手だ。
いい人だが、私を愛しているわけではない。母を愛しているのだ。
私は常に要らない子だったのだ。
だから、誰も愛さないと決めた。
交際を申し込む手紙など、相手にしなかった。少年の愛など、ただの誤解なのだから。
誰も愛さない。誰からも愛されてなどいないから。
なのに……
私の心はこんなにも、誰かを愛したいと要求する。
誰かの熱い手が私に触れるたび、私は伯父の手を思い出す。
愛して欲しい。愛して欲しい。
誰か……。誰でもいいから……。
「アナタ、奏サンノ代ワリナノ……?」
代わりなの?
私、ではないの?
代わりでもいい、と叫ぶ私。
私しか要らない、と叫ぶ私。
誰でもいい、と叫ぶ私。
司がいい、と叫ぶ私。
私は目を閉じた。目の前にちらつく奏の微笑み。
あの、拒絶。完璧な、愛の拒絶。
たぶん、私たちは似ていた。
奏と私は似ていたのだ。
だから、司は……。
だから、だから何だというの。
私は目を開けた。
似ていたからなんだというの?
私は私よ。
私は、私でしかないもの。
誰かに愛されていなくても、誰も愛してくれなくても、私は光の中にいる。私であってみせる。
私はゆっくり立ち上がった。店の奥へと歩き、司の湖の絵の前に立つと、そっとそのサインに触れた。
蒼いサイン。何時からこの色を使うようになったのか。
何時までこの色を使うのだろう。
私、私の絵の隅に書かれた司の名が、この色でも、悲しんだりしないわ……。
私はゆっくり絵から離れた。
カチャリと、陶器の響く音。振り向くと、マスターが白いティーカップに紅茶を注ぎ終わったところだった。
笑いながら手招きされる。
「これ、味見してくれる?」
新作なんだ、と言う。私はカウンターへ歩み寄った。
花の香りがする。薔薇の香り。
飴色と言うよりは紅に近い色。
口に含むと、薔薇の香りが充満する。まろやかな味。渋みはない。飲み込んだ後に、清涼感。
「美味しい……」
マスターは笑った。
「名前、使ってもいい……?」
「なま……え?」
カップを握ったまま、小首を傾げた。
「そう、このお茶に『祥』って、付けてもいい?」
驚いて、カップの中身とマスターの顔を交互に見比べた。
--=--
強く辞退したのだが、結局押し切られて。あげくブレンドしたお茶までお土産で持たされてしまった。
そっと、手の中の黒い筒を見つめる。
生成のラベルに「祥」と、大きく書かれている。
どうして私なんだろう。
その小さな筒が、無性に愛おしくて、そっと両手で包んだ。
涙が出た。
今、私は私を包んでいる。
私を包むその手が、あなたのじゃない。あなたのじゃない。あなたのじゃない。
あなたのじゃないなんて……
愛なんてものが、どうしてこの世にあるんだろう……。
私は空を見上げた。
夕闇の空。司のサインと同じ色。
光の中にいたいのに。愛すると誰かを憎んでしまうなんて。
羽が欲しい。
あの空を抜けたら、その先にはきっと本当の青空が広がっているはず。
羽が欲しい。
繰り返す罪の贖いなんて放り出して、いっそこの身を灼かれたい。
羽があったら。
あったら、司を愛せるかもしれない。司の罪ごと全部。奏の罪まで全部。
[ 身体 ]
「祥子、文芸部に入部しても、いい?」
唐突な彩の言葉に、少し奇妙な印象を受けた。昨日の放課後まで、いつもと変わらず陸上をやっていたはずだ。美術室の窓から、彩の細いからだが地を駆けるのを見ていたから。
「辞めるの?」
彩は黙って頷いた。理由は言わない。
「そう、じゃ、放課後、松江先生のところへ行こうか」
だから、理由は聞かない。
もしかしたら、私はこうやって全てから逃げてきたのかもしれない。話したくないなら聞かない。そうやって全てを拒絶していたのかもしれない。
私であるために全てを拒絶する。
愛さなければ傷つかないし、愛されなければ裏切られない。
それが私……。
そんなものが私……!
「彩。なにか、あった?」
彩は驚いたように目を上げた。じっと見つめる。
「祥子、なんか、変わったね」
少し哀しそうな顔をした。
--=--
放課後、とりあえず松江先生の所に入部の件をしに行き、彩の話を聞くために店に向かった。どこに行くか迷ったのだが、結局例によって「sora」に来てしまった。
扉を開けると、ふうっと薔薇の香りがした。
「いらっしゃい」
いつもと変わらないマスターの顔。ほんの数回しか来ていないのに、ほっとする。
「あれ?雨宮?」
司がいた。マスターが特別に作ったらしいサンドウィッチをカウンターでつまんでいる。
「四条くん……」
二人して立ち止まる。
にっこりと司はカップを上げた。
「結構いいお茶だよ」
かっと顔に血が上るのが分かった。
司が、私を、飲んでいる……。
私は、彩がゆっくりと体を引いたことに気付かなかった。
彩は慎重に慎重に体を引くと、ゆっくりと司から背を向けようとしていた。
「園上?」
司の声がきっかけだった。
一瞬泣きそうな顔を司と私に向けると、彩は身を翻した。その拍子に突き飛ばされ、私は床にしりもちをついていた。
「園上……!」
私の体の脇を司が走り抜けた。
茫然と私は床に座っていた。マスターがやって来て、抱え起こしてくれる。
「っ痛……!」
手のひらを擦り剥いていた。うっすらと血がにじんでいる。
「救急箱を持ってくるからね。これで拭いて」
おしぼりを当ててくれる。マスターが奥に消え、店内に一人になると、急に涙が出そうになった。
たぶんこの時にもう、分かっていたのだ。
これからのことが。
これまでのことが。
司は帰ってこなかった。
夕闇の中を、私は一人歩く。
思い出したように痛む手のひらに、わざと力を込めた。
……痛い。
目が潤む。
……罰だ。私への罰。
家の明かりが見えたのは、宵の明星が沈んでからだった。
--=--
「祥。遅かったのね。先生がみえてるんだけど」
少女のような母がいう。
一日中、おままごとのような家事をし、趣味の手芸をし、花を育て、お手伝いにかしづかれて、幸せそうに笑う母。
私は母が嫌いだった。
母は私の世話も、お人形の着せ替えのように、する。
でも、私は人形ではないから。
「先生?」
帰ってきたそのままの格好で、客間に向かった。ソファに埋もれるようにして、悲愴な顔をしているのは、陸上部の顧問、まだ若い阿部教諭だった。
「阿部先生?」
阿部教諭と私の間には、なんの面識もない。阿部教諭は担任を持っていなかったし、体育の授業は女性の教諭がついている。私が阿部教諭を見知っているのは、陸上部の顧問であるということと、その若さ故に女子の間では噂が絶えないからだ。
「雨宮くん……」
今にも泣きそうな顔。
「何の、お話でしょう……?」
私は向かいに座った。阿部教諭の顔色が悪い。
「園上くんのことなんだが……」
私は背筋を伸ばした。
「君は、園上くんと親しいので、君のお願いするのが一番かと思って……」
たどたどしく語りはじめた。
「僕は、知らなかったんだ、だから、彼女に試合に出るように強くすすめて……」
かなり混乱しているらしい。前後する話をうまくつなげ、誘導し、ようやく私は彼の言わんとするところを得た。
1ヶ月後に迫った陸上の試合に出るように、彩にすすめたが、まったく話を聞いてもらえず、彼の若さ故の独断で、彩の家に乗り込んで両親の説得に及んだらしい。
しかしそこで彼が得たものは、試合への出場の許可ではなく……。
「雨宮くんはきっと知っていると思うが、園上くんは性別が不明で……」
混乱故の、彼の失言。
私はとっさに、その事実を昔から知っているそぶりをした。
「先生。知っていること、園上さんには言ってませんよね……」
彼は再び泣きそうな顔をした。
「彼女に、謝った。そうしたら……」
そうしたら、彩が部活をやめた、と、そういうことなのだろう。
背を丸めて、とぼとぼと帰っていく大きな背中を見つめながら、私は昔のことを思いだしていた。
どうして、彩は小学校の時いじめられていたのだろう?
髪の色が薄いせい?瞳の色が薄いせい?
それだけではなかった。彼女はいつも何かにおびえ、小さく丸まっていた。
だから……。
幼い子は、罪の意識に苛まれている同胞には敏感だ。そして、その無垢な残虐性の生贄にする。
そういう、ことだったの……。
性別が不明。
両性具有。
そういう人たちがいることを聞いたことがある。
インドでは聖なるものとされているらしい。
生まれつき、違うからだを与えられることは、やはり、つらく悲しいことだと思う。
ことにそれが、人を愛するということに関わってくるならなおさら。
彩……。
だから、集団がなじめないなんて言って、部活をやめることを考えていたの?
あなたの運動神経なら、必ず大会に出場することになる。大きな大会になれば、あなたが女性でもなく男性でもないことが分かってしまう。
だから……。
彩……。
私は擦り剥いた手のひらに、爪を立てた。そうすることで、彩の痛みが軽くなるわけではないのに。
翌日、彩は学校を欠席していた。
ふと、不安になる。数学の教諭が課題を出したのを口実に、彩の家に行ってみようかと思う。一度行ったことがあるだけだが、たぶん迷いはすまい。だらだらと話をする担任を無視して、
ぼんやりとそんなことを考えていると、司が小さく私の名を呼んだ。
「話があるんだ。長くならないから、ちょっと、いいかな……」
私は頷いた。
昨日のことを聞かなければ。
私は手のひらをそっと撫でながら、ようやくホームルームでの話を終えようとしている担任を眺めた。
「雨宮、園上のこと、どれくらい知ってる……?」
唐突な司の言葉。ピンと来るものがあった。
「彩が、私たちとは同じじゃないってこと?」
知っていたのか?と司は問うた。
「昨日、阿部教諭から聞いたの。彩が部活をやめた理由……」
私はいつもの窓枠に腰掛けた。今日も陸上部は練習をしている。彩の姿はない。
「そうか……」
司が俯く。
「園上のこと、どう思う……?」
司らしくない言葉。なぜ?
私は司を見つめた。
切迫した目。期待と不安と混乱の眼差し。
その後ろに、私は彩の瞳を見た。
「彩は、やっぱり彩よ。今までの感情は、その事実だけでは変えられない……」
ただ、昔の彼女の行動や表情が、どうしてああだったか、その理由が分かっただけ。
司の目にうっすらと、哀しみに似た感情が広がった。
「今日、園上の家に行くのか……?」
私は頷いた。
「園上のこと、大事か……?」
頷いた私に、司は言った。
全てを、肯定してやれ、と。
[ 愛情 ]
彩の家には、彩以外誰もいなかった。
共働きなので、いつも、一人よ、と、彩は笑って言った。
二階の彩の部屋に上がり、その部屋のかわいらしさに、ちょっと圧倒される。
「あぁ、部屋にはいるのは初めてだったけ?」
彩は笑う。
一生懸命、少女になろうとしていたのだろう。
本当の自分を隠すために。
「これ、数学の課題。今日の様子だと、たぶん、彩の番号の辺りが明日あたるわよ」
口実を、渡す。
「ありがと。やだな、明日も休んじゃおっか……」
くすくすと笑う。なんだか浮かれているようだ。
「彩、どうか、した?」
笑みを浮かべたまま、彩が私を見る。焦点が微妙にずれているような印象。
彩は不意に声を潜めた。
「祥子、司くんのこと、好き?」
彩の司の呼び方が変わっている。昨日までは「四条くん」だった。のに。
「ねぇ、好き?」
執拗な問い。
「よく、分からないわ。モデルをしていても嫌じゃないから、嫌いなのではないと思うけど……」
語尾を濁す。
司のことは嫌いじゃない。
でも。
司に惹かれるのは、司を見つめているからじゃないかも知れない。その先に、別の誰かを見ているのではないか?
伯父さん……。
あの大きな手に、伯父の愛撫を思い出してはいないか?
あの背中に、ほとんど崇拝に近かった伯父へ愛情を見てはいないか?
罪に苛まれる。
愛情を失わないためには、女性になってはならなかった。
それでも、健全な体は成長を望む。
心だけが、罪と罰に縛られ、繰り返し繰り返し、なくす痛みを感じ続ける。
痛いのは、私が罪人だから……?
「……スしたの」
不意に現実世界に引き戻された。
「私、昨日、司くんとキスしたの……」
彩は笑っている。手のひらが思い出したようにズキズキと痛んだ。
「え……?」
「ここで……」
彩はベッドを指さした。
ぞくりと、悪寒が走った。
全テヲ肯定セヨ……。
どういう、こと……?
どういう、意味なの……?
教えて、どうか、司……。
つかさ……。つかさ……。つかさ……。つか……
私は、全ての慟哭を、体のうちに収めてしまおうとした。
「そう、なの……?」
唇が少し、震えた。
とたんに、左頬に火がついた。
彩に平手で殴られたのだと気付くのには、少し時間がかかった。
「祥子……!」
彩の細い体に押し倒され、床に縫い止められる。一瞬自分の身に起こっていることを理解できず、無抵抗のまま、彩を見つめた。
彩は泣いていた。
涙が私の頬に落ちた。
ブチリッ。
嫌な音がして、ブラウスのボタンが飛んだ。
一瞬の静止と、静寂。
彩が私に覆い被さり、私の首筋に顔を埋めた。
唇が、私を確かめる、感触。
背筋を走り抜けたのは、嫌悪ではなかった。
「いやっ」
私はもがいた。彩の力は、強い。
私は、思い違いをしていたのかも知れない。
彩が愛していたのは、司じゃなくて、司じゃなくて、私。
彩が求めているのは、私。
私の体。私の心。
全テヲ肯定セヨ……。
「好きよ、祥子好き……」
耳元で、うわごとのような彩の声。
「初めて、そう思ったとき、自分がおかしいんだと思ったわ。同性を好きだなんて」
彩の両手が、服の上から私の体を求める。
「でも、本当の私が分かったとき、私は悲しくはなかった……」
だって、女じゃないなら、祥子を好きでもおかしくないもの。ほっとしたの。
私は凍り付いた。
ただ、涙だけが流れた。
「あ、や……」
押しつぶされた胸が痛い。苦しくなって、咳き込んだ。
「祥子……。司くんのこと好き……? ねぇ、好き……?」
愛撫をやめ、まっすぐに私を見つめて、彩は問いかけた。
「本当のことを言って。言わないと、やめない……」
「あ……」
涙が頬を伝った。嘘はつけない。裏切れない。不器用な自分。
「誰かに愛して欲しい。誰かの、一番になりたい。要らない子でいるのは、いやよ……」
唇がおりてきて、私の涙をすった。
「誰でもいいと思う自分と、司がいいと叫ぶ自分と、どちらが本当の私なのか、分からない……」
司を好きになったら、嫉妬で黒く自分を染めるかも知れない。
そんな自分すら、愛せるだろうか?
「私は、もし、祥子が司くんを好きで、そのために祥子がどんなに浅ましく汚れても、それでも祥子が好きよ。自分の不具をネタにして、祥子を惑わせてでも、自分の元においておきたい。誰にも、渡したくないわ……なのに」
不意に、彩は私の上から退いた。Tシャツが投げられる。
「司くんを試したの。昨日。どうか私を哀れんで、祥子を私に頂戴って……」
彩は私に背を向けた。肩が震えている。
「打たれたわ。何も言わず、頬を打って、一言、駄目だって」
そんなの、愛じゃないって。
「だから言ったの。あなたが祥子を愛してるなら、証拠をみせろって..」
どうせ、私のことを化け物だと思ってるんでしょ。
私に、まともに人を愛することなんかできないと思ってるんでしょ。
私は祥子が好きよ。あの子の恐怖も哀しみも全て、愛してるわ。
あの子がどんなに汚れても好きよ。愛してるわ。
誰にも傷つけさせないわ。
あなたにだって……!
叫んだ自分に、司は接吻をした。
優しく。
化け物なんかじゃない、と。
誇りを持て、と。
嬉しかった。
本当に、祥子を愛しているのだ、司は。
思い返しながら、彩は泣いた。
どうして、私ではないんだろう。どうして。
「彩……。あや……」
私は背後から彩を抱きしめた。
「ごめん。彩。あなたを愛せたら、良かったのに……」
そうすれば、世界は完結しただろうか……?
ゆっくりと、彩が振り返った。
「祥子……」
くちづけを、かわした。
「祥子。あなたがどんなに汚れても、あなたがどんな罪を犯しても、私はあなたを愛しているわ。いつでも、あなたが私の一番なのよ……」
だから。
だから、はやく、自分になりなさい。
「彩……」
そして、もう一度……。
「司くんのところに、行くね?」
優しく、彩が言った。
私は頷いた。
「愛することに、臆病にならないで……。いつでも、見ているから……」
呪文のようにくちづけを交わす。
優しく、何度も。
[ 光流 ]
翌朝、司は私たちの顔を驚いた様子で眺めていた。
「園上、いいのか?」
短く、聞いた。
「うん。スッキリしたわ。私は、やっぱり私だから……」
極上の、笑顔。
「祥子を傷つけたら、許さない……。でも、傷つかない成長なんて、ないんだわ……」
薄い色の瞳が琥珀のようにきらめく。隠せない涙が、光る。
「彩……」
彩の微笑み。
「行って。光の中を……。いつも、見てるわ……」
強い、横顔。こうやって、一人生きてきて、こうやって、一人生きていくのか。
「絵、できあがったら、見に来てくれ」
司の微笑み。
私たちは分岐点に来ていた。
それぞれが自分らしくあるために。
--=--
絵ができたと、司から連絡があったのは、1月ほどしてからだった。
私と彩は文芸部の活動に忙しく、司はほとんど毎日、美術室にこもっていて、授業の時にかろうじて顔を見る程度だった。
例によって、噂好きの面々が、私たちのことをああでもない、こうでもないと噂はしていたが。
私と彩は美術室の扉を開けた。
懐かしい香り。
いつも腰掛けていた窓枠に身を持たせかけると、私は彩に言った。
「ここから、よく彩が走るのが見えたわ……」
「私もよく、祥子が腰掛けているのを見たわ……」
そして、二人で笑った。
司も、笑った。
「じゃ、布をとるよ……」
司は3つのキャンバスの布を一気に剥がした。
優しい色、柔らかな曲線。
イヴ……
緑の木々、白いドレス、微笑み。
愛し合う喜び。
サロメ……
一面の花、かすれた色のドレス、勝ち誇った笑み。
愛する意味。
マチルダ……
暗い部屋、黒いドレス、不安と哀しみ。
愛される不安。
右隅のサイン。
白い絵の具の、サイン。
私は涙が出そうになった。
司のサインが、蒼じゃない。
もう、蒼じゃない……。
司はイヴを手に取ると、彩に渡した。
「これは、園上に……」
彩はそっと受け取ると、じっと絵を見つめ、優しく絵を抱いた。
「ありがとう……」
今、光の中にいた。
私たちは幼く、小さく、弱いけれど、それでも天を目指している。
満ちる。満ち足りる。
光の中を。光が。
私は、私の体を巻き込むように、光の風が流れ込んでいるのを感じた。
そして、光に微笑んだ。
私は満ちていた。
私は独りではなかった。
私の周りに、光の風が吹いている。
いつも、これからも。
振り返ってみると、私の歩んできた道は、なんと、優しい道だったことだろう。
光はいつも溢れていた。
貧しい私の瞳は、その光を見失っていたのだ。
光が流れた。