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現代小説:「光流〜みつる〜」
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『光流〜みつる〜』 [ 古音 ]

 私は渇いていた。
 私は飢えていた。
 私が知りうる限り、私は独りだった。
 私は、何故、私がそこにあるのかを知らず。私は、何故、世界がここにあるのか知らなかった。
 私は独り世界の中にいて、私の周りのあるものは、ただ吹きすさぶ風、風、風ばかり。

 水を下さい。水を……。
(命を下さい。命を……)
 木霊が還る。私の言葉を私の言葉ではないものにして。
(いのちをください。いのちを……。いのりをくださ……)
 風が還る。足元の砂を巻き上げ、私の髪を巻き上げ、私の躰を巻き上げ、まるで私そのものが風ででもあるかのように。
(何処へ?)

 熱い……。
 風が熱いのか。
 砂が熱いのか。
 それとも私そのものが熱いのか。
 私の魂が熱いのか。私のいれものが熱いのか。
 熱いのは私なのか、それとも私ではないものなのか?

 熱い……。
(熱い……。痛い……。にくい……。みにく……)
 木霊が応える。風が木霊に応える。
 幾つもの言葉が私の中で重なり合い、意味のあるものは意味のないものへと変容していく。重なり合った木霊は、うなりのような声を残して小さくなって消える。そう、まるで最初から存在しなかったかのように。

 ――存在しない!

 突然激しい感情が私の心を裂いた。
 消えていくものと存在しないもの、その違いはいったい何なのか。
 この、私の中にある、哀しみも苦しみも怒りも、全て、私という存在があってこそ意味があるもの。
 では、私というものが存在しないのと同じならば、私の心は何処へ行くのか。私の愛は何処へ行くのか。私の魂は何処へ去っていくのか。私自身は何処に逝ってしまうのか。

 あぁ。私の指が、爪の先から、砂となってこの大地に注いでいる。風に巻かれながら、私の腕が砂に還る。
 私は私ではないものへと変容して、私の躰は風に巻かれながら次第に融けて流れていく。
(何処へ?)
 私は、そう、散り散りになって、どこにあるのかも分からないものになって、何処へか行ってしまうのだろう。行方も知らないどこか。世界の果て。夢見た場所へ。
 私の全てが私とは違うものになっても、それでも私は想うのだろうか。それでも私は涙を流すのだろうか。それでも私は、悲しいのだろうか?

 不意に躰が崩れた。砂の上に私自身が小さくなって崩れていくのを感じながら、それでも私は言葉を紡ぎ続けた。

 熱い……。
 言葉こそが私。
 私を証明するもの。
 私というものの存在が大気を震わせ、大地を揺るがし、風を裂いているということの証明。
 水を下さい。水……。み……。
(みずをください……。みず……。み……)
 風が吹き荒れ、私は散り散りになり、まるで最初からなかったかのように大地の中へと融けていった。
 それでも最後の言葉は大気を震わせ、風を裂き、木霊は言葉を返し、風は木霊に応える。そう、これが私ということ。わたしということ。

--=--

「祥子? どうしたの?」
 私は不意に現実世界に引き戻された。目の前にある小さな顔。少し幼いものが残る、少年が好みそうな、整った小さな……。

 アヤ……。

「考え事?」
 小さな顔が小首を傾げる。

 友人の彩は、背こそ168pと少し高いが、幼げな躰をした、いかにも女の子という感じの子である。柔らかくて細い茶色の髪と少し色の薄い目のせいで、小学校の頃はよくいじめられていた。その頃取り立てて仲が良かったわけではないのだが、私は「いじめ」という行為が好きではなく、結果として彼女と昼食を一緒にする機会は多かった。
 中学の時、彼女は私立の女子校に行き、私たちはバラバラになったが、彼女がエスカレーター式に高校に上がるのを拒んだので再び一緒になった。転校の理由はやはりいじめだったという。

「あぁ、ごめん。ちょっと、ぼーっとしてた」
 彼女はふわりとスカートを翻して隣の席へと腰掛けた。柔らかな花の香りがする。肩までの髪が風に揺れ、小さな白い耳朶にポツリと金色のピアスが光るのが見えた。
「彩。ピアス」
「あ、はずすの忘れてた」
 慌てたように彼女は小さなピアスをはずした。
「あ……」
 細い指からキャッチがこぼれ落ちる。
 午後の光に照らされて床に弧を描いた小さな金色の光は、茶色の大きな革靴にあたって止まった。太く長い指が器用にそれをつまみ上げると、彩の小さな手のひらにそれを置く。
「ありがと……」
 別段気にする風でもなく、ひょいと首をすくめると、大きな手の主は低い柔らかな声で言った。
「はずすの、忘れんなよ」
「ん、気を付ける」
 彩はポケットから小さな小銭入れを出して、その中にピアスを入れた。私は白い指先が金具を開け閉めするのを、別の生き物のように感じながら眺めていた。

「そんな所入れて、なくしたりしないの?」
 低い声が突然上から降り注いで、私は思わず声の主を見上げた。目の前に、日に灼けた頬があった。一瞬、激しく身を引きそうになる自分を押さえる。
「大丈夫、出すときに気を付けてるから」
 低い声の主、四条司は割と目立つ存在だ。特別顔がいいとか、スポーツが万能であるとか、そういうことがあるわけではないのだが、どこか大人びた、少年を抜けきったような表情をするとき、何とはなしに心が引かれてしまう。
「どうやって開けたの? 病院?」
 司は、そのまま話し続ける。くっきりと輪郭がとられた唇が、思っていたより女性的だ。私は、時折こみ上げてくる衝動を抑えながら、ゆっくりと、さりげなく、司の唇から離れた。
「雨宮」
 不意に名を呼ばれた。
「あ、何?」
 司の顔が、今度は正面にあった。悲しいような、いとおしむような、不思議な表情をして、司は私の目をのぞき込んだ。
「ちょっと頼みたいことがあるんだけど、今日の放課後、いいかな?」
 返事をする前に、一瞬のためらいが生じた。その隙間を、司は見逃してはいなかった。
「用事、ある?」
 私は、慌てて首を振った。
「あ、大丈夫。放課後、何処?」
「美術室、少しくらいなら遅くなってもかまわないよ。俺、絵描いてっから」
 それだけ言うと、司はくるりと背を向けた。

 美術室……。絵を、描いている……?

「司くんって、あれでも美術部なんだって。なんか、サッカーとかバスケとかしてそうなのにね」
 彩の声が響く。隣の席で彩は小さく笑った。
「イメージと違うよね」
「あら、彩だって陸上部なんて、イメージと違うことやってるじゃない」
「本気じゃないもん。先生にぜひにと言われて断りづらくて……。でも、そろそろ潮時かな、と考えてるとこ。集団って、馴染めないたちだから」
 彩は、その華奢な体からは想像できないほど、運動神経がいい。バネのきいた動きはどこか野性的で、猫科の動物を思わせた。入学当初からいろいろな運動部から引っ張りだこだったが、とりあえず県内一の実力の陸上部に落ち着いていた。
「やめたら、また運動部が騒がしくなるわよ」
「ん、とりあえず祥子と同じ文芸部にでも入ってごまかすわ」
 ぺろりと舌を出して見せて、彩は髪を掻き上げた。薄い色の目が日に透けて美しく、琥珀のように光った。その笑みに答えて笑いながら、ふと、横からの視線を感じた。
 柔らかい視線。振り向いた先に司の目があった。自分の笑みが凍っていくのが分かる。ぎこちなく視線を泳がせながら、私は司の視線が自分から離れていくのを待った。長い時間のように感じたそれは、担任の津崎の登場でようやく終わった。

[ 花韻 ]

 別段用事があったわけでもないが、放課後すぐに出向くのも何となく気が引けて、文芸部の書類の整理をした後、私は美術室へと向かった。

 美術室は音楽室とともに、別館のような離れた場所にある。どこかしめったような感じのする別館は、一階に音楽室、二階が美術室で、その上に長い階段のある時計塔がついていた。時計塔へと続く螺旋階段の壁には、美術部員が描いた絵がかけられていて、ちょっとしたギャラリーのような印象があったが、時計台へと上がっていく長い階段を見上げると、私はいつもなぜか少し憂鬱になった。

 ゆっくりと美術室の重い引き戸をあけると、夕陽に向かうようにして、司がキャンバスに向かっているのが見えた。
「四条くん……あの……」
「あ、ごめん、ちょっと座っててくれる?」
「あ、うん」
 私は授業用の椅子に腰掛けた。逆光になった司の体は、服をすかして、その胸の筋肉や、腕の筋肉の形をくっきりと表している。彩がサッカーやバスケをしていそうだと言ったのがうなずけるほど、鍛えられた筋肉の形をしていた。
「何、描いてるの?」
「花だよ。見る?」
 私は興味につられてキャンバスの方に近づいた。そこには上を向いて花開いている、一輪のバラが描かれていた。バラの背景には柔らかなドレープを持った布が描かれていて、花瓶の周辺にはいくつかのアクセサリーが無造作に散らばっている。
「綺麗……」
 司の絵は繊細で、バラが持っている棘の一本一本まで、花びらの縁のわずかなフリルまでが丁寧に描かれている。筆を持った指先が小さく小さく動いている。どうやらもう、仕上げの段階に入っているようだ。
「よし、こんなもんかな……」
 司は濃いブルーの絵の具を出すと、右下に「TSUKASA.SHIJOH」とサインして、筆を置いた。
「なんていう題なの?」
 司が振り向いた。逆光の中で司の表情が読めない。
「昔の花」
「むかしの……花……?」
 不思議な感覚がした。どこか、亡き者への手向けの花のような、そんな隠蔽されたものを感じさせる花の名。
「ま、座りなよ」
「うん」
 逆光になった司の顔がまぶしい。気付いたらしく、司は西日の射す窓にだけカーテンを引いた。
「絵、巧いね。ずっと前から描いてるの?」
 司は椅子には座らず、カーテンを引いた窓辺に寄りかかるようにして立った。そうしているといつもの愛嬌のある顔がまるで別の人間の顔のようだ。
「ん、小さいときからね。祖父ちゃんが絵描きだったから……」
 そういえば、入学した頃、有名な画家の孫がいるといううわさ話をよく聞いた。興味がなかったので気にしていなかったが、それが司のことだったのか。
「お祖父さんが絵を教えてくれたの?」
「いや、実は、祖父ちゃんのことあんまり覚えてないんだ。小学校の2年くらいの時に死んじゃったしね。絵は祖母ちゃんが教えてくれたんだ」
 司はゆっくりと椅子へと戻ってきた。
「俺に残ってる祖父ちゃんの記憶って、狂ったようにキャンバスに向かってる姿だけなんだ。俺が小さかった頃は可愛がってくれていたらしいんだけど……」
「ふうん……」
 祖父、という感覚はよく分からない。父の両親は生まれる以前に亡くなっていたし、母の両親も私が幼いときに相次いでなくなっている。祖父や祖母の記憶を持っている司が何となく羨ましいものに思えた。私はぼんやりと、キャンバスの中の赤い花を見つめた。

 司は用事があったはずなのになぜかその話を切り出そうとしない。沈黙とぎこちなさに体が押しつぶされそうで、私は無理やり口を開いた。
「で、私に用って何?」
 司は一瞬ためらったようだった。視線を私から逃がした後、一瞬息を止めて、そして、意を決したように口を開いた。
「モデル、頼もうと思って」
 たぶん、一瞬私はとても信じられないと言うような顔をしたのだろう。司は慌てたように言葉をつなげた。
「いや、別にずっと目の前で座っててもらうようなものじゃないんだ。ただ、雨宮をイメージにして絵を描くのを了承して欲しいっていうだけで……」
 司の表情は、どこか必死だった。司の顔の中で、少年の顔と大人の顔がせめぎ合っているように思えた。私は沈黙した。こんなとき、普通何を言うのだろう。苦し紛れに口を開く。
「どうして、私なのか、知りたい……」
 努めて冷静な声を出した。音楽部のピアノがふたりの間を流れた。
 司は苦しげに顔をゆがめた。訊いてはならないことだったのだろうか? だが、司がためらえばためらうほど、私の中で黒い衝動が大きくなっていく。
「雨宮を描きたい理由は……」
 司は、唇をかんだ。目を伏せ、何かを考え、そして、目を上げ、私を見た。
「この、花を描いた人に、雨宮が……、いや、雨宮の悲しみが似ているからだ」

 私の、悲しみ……。

 表情がこわばっていくのが分かった。司は、私の中にどんな悲しみがあるというのだろう。あのことを知っている?
 いや、そんなわけはない。あのことは私の両親さえ知らないのだから。私の胸の中だけに収まっているはずなのだから。

 私は、まるで動揺などしていないようなそぶりで、再び尋ねた。
「どんな、悲しみ?」
 真剣な司の瞳が、私を射抜いた。司は少年ではなくなっていた。一人の男の瞳が私を見つめていた。私は目をそらそうとした。
「こういう、悲しみ……」
 司が不意に、その長い指を私の首にかけた。熱い指先が私の頬を覆うように、ゆっくりとはい上がってくる。その感触に、私は恐怖しながら、ごく一部で、熱く身を潜める自分を感じた。
「いやっ」
 思わず、私は立ち上がった。大きな音を立てて椅子が倒れ、衝動的に逃げようとした私の行く手を阻む。

 知っている。
 司は知っている。
 私にどんな罪の烙印があるのか、私が何を隠しているのか、司は知っているのだ。

 なぜ分かるのだろう? こんなに必死で隠しているものを……。
 なぜ、その悲しみをあえてキャンバスに移すと言うのだろう?
 なぜ、私をひっそりと泣かせてくれないのだ。なぜ、私の悲しみをどこか遠くへと忘れさせてくれないのだ。なぜ、なぜ……?

 私は衝動的に自分の肩を抱きしめ、外界のすべてから己の体を守ろうとした。美術室の机も椅子も、すべてが私の行く手を阻み、どうしようもない落とし穴へと私を導こうとしているように思える。
「これが……!」
 大きな司の声に私は我に返った。
「これが雨宮の悲しみだろ……? 違うのか……?」
 振り向いて、司を見た。司の顔がゆっくりとぼやける。私は泣いていた。司は容赦のない男の顔で、私を追いつめていた。
「モデル、考え、させて……」
 よろめきながら、私は司に背を向けた。
「雨宮……!」
 司の声が呪文のように響いた。
「俺はお前まで昔の花にしたくないんだ……!」

 オレハ、オマエマデ、ムカシノハナニシタクナインダ。

 私は、呪文にかかった。体が、動かない。わき上がる衝動に、胸がどうしようもないほど震え、涙を止めどなく流しながら、罠にかかったウサギのように私は立ちつくした。
 わき上がる衝動。激しい拒絶と、そして、疼き。罪の瞬間が私の中で繰り返される。私の額に押された罪の烙印が熱く火照る。
「中途半端な気持ちでは描かない。これでも、迷ったんだ。ずっと、迷って、雨宮を見てた。雨宮はまだ悲しみを風化させてなくて、それが、雨宮の鎧になってて、あの花を贈った人と同じように、同じようになって……」
 ゆっくりと、私は司を見た。少年の司がいた。呪縛はとけた。
「その人の悲しみと、私の悲しみは同じじゃないわ。私とその人は違うんですもの。あなたは私の悲しみを解放させたく私を描くんじゃなくて、自分のために私の悲しみをえぐり出そうとしているのよ」
 私の心は燃え上がっていた。肉食獣の獰猛さで、わたしは司を罵倒した。

 ――私を傷付けようとするものは許さない。

「あなたに私の悲しみが分かるというの……? 分かりもしないくせに……!」
 司の唇が、きゅっと結ばれ、瞳が私を射た。
「じゃぁ、もし、描かせてくれたら……」
 司の唇が震えた。私たちは獣同士のように燃え上がった目で、お互いを見つめた。
「俺の右手を君にあげよう。どんな絵を俺に描かせようが、俺から絵を取り上げようが、君の自由だ」
 これで釣り合いがとれるだろう。司の目がそう言った。

--=--

 翌日から私は美術室の住人になった。「ポーズを取ることも、話をすることもいらない、ただ、自分の目に映る範囲にいること」これが司の出した条件だ。期間は2週間。その2週間の中で、司は私をスケッチし、作品の下地を作る。
 私は条件を呑んだ。予想していたよりもずっとたやすい条件だった。

 2日もすると私が司のモデルになっていることが噂になった。私がモデルになったその背景に何があるのかを皆が知りたがる。すべてを恋だの愛だのに繋げたがる、そんな年頃の中で、私たちは異端者のように現実と隔絶していった。

[ 慰撫 ]

 最初は居心地の良くなかった美術室も、1週間ともなると馴れてきていた。司はほとんど絵に没頭していたし、私は本を読んだり、景色を眺めたり、文芸部の原稿を書いたりして過ごしていた。音楽部の練習の声が下から響いてくるのも、ささやかな音に包まれていくようで不思議に心地いい。

 私は窓枠に腰掛けながら、ぼんやりと絵を描いている司を眺めた。右半分の顔がスケッチブックに隠れ、いつもとは違う顔に思える。

 絵を描くとき、いつも司の顔は男の顔になった。絵を描きながら、何かに立ち向かっているのだろうか? あの目の先に何があるのだろう……。
 自分の弱さか? それともユートピア? 憧れと罪の狭間で揺れているのだろうか?

 階下から音楽部の練習の声が響く。流れては途切れ、再び最初から。途切れ途切れのピアノ。少しうわずる声。時折起こる笑い声。

 波のようだ……。ざわざわと寄せては返す、波。

 次の瞬間、私の心は波に包まれていた。海、波、小さな魚。何もない、ただ波だけがさざめく中で、私は漠然とした幸福感と、ぼんやりとした孤独に包まれて、漂った。
 肌に感じる、水の冷たさ。毛穴からしみ通ってくる、大いなる者たちの声。聞こえない声。見えない姿。感じる。私は私に包まれているのを。そして、同じだけの強さで誰かに包まれたがっているのを。

 幸福感。なぜ……?私は私に包まれているから。
 孤独感。なぜ……?私は私にだけしか包まれていないから。

 私は自分が泣いているかもしれないと思った。無意識に頬に手をやった。涙は流れていなかった。ホッとした。

 私は司を見た。
 司。誰にでも優しく、人当たりが良くて、愛嬌のある人。でも、皆は本当の姿を知らない。絵に向かうとき、司は少年ではなくなる。いや、人という概念さえなくなってしまう。そんな、司の、横顔。

 そのとき、美術室の重い引き戸が音を立てて開いた。知らない女子が立っていた。襟章の色で、その人が3年だという事だけが分かった。
「あ、部長……」
 司が笑って見せた。どこか引きつったような笑いだ。
「へぇ、四条くんがクラスメイトの女の子をモデルにしてるって噂は、本当だったんだ」
 その人は完全に私の存在を無視していた。否、無視するようにつとめていた。
「ね、見せて。いいでしょう?」
 私はこの手の女の媚を売るような声が嫌いだ。今までの漠然とした幸福感が音を立てて崩れ落ちていく。風の音も、音楽部の声も、すべてが不快なものへと変わっていった。
「やめて下さい。横田部長」
 柔らかくするようつとめながら、キッパリと司が要求をはねのけた。バタンと音を立ててスケッチブックを閉じる。
「雨宮、帰ろう」
 司は立ち上がった。横田と呼ばれた少女は一瞬どうして良いのか分からないように、首を傾げた。
「四条くん?」
「作品ができあがる途中に人に見られるの、死ぬほど嫌いなんですよ、俺。部長にはそういうところ、ないですか?」
 嘘だ、ということはすぐに分かった。事実、司は花の絵を私に見せたではないか。
 スケッチブックを手に取ると、司は目で私を促した。頷くと、司は扉へと歩き出す。私は、ゆっくりと窓枠からすべりおりると、軽く会釈をして、彼女とすれ違おうとした。
「モデル、どうして受けたの?」
 意外にも、言葉に棘はなかった。怒りも、妬みも、興味本位な部分さえない表情で、彼女は私を見ていた。
「なんと、なく」
 そう答えて、私は通り過ぎた。彼女の視線を背中に受けながら、私は美術室を後にした。 教室を出たところで、司は壁により掛かっていた。すこし、くらい表情をしている。
 扉が開く音を聞いて、司は私を見た。瞳に何かが揺れていた。私は、司と私の視線がからみつき、湿った薔薇の香りを醸し出すのを感じた。

 私たちは、罪を背負っている。けして終わりの来ないシーシュポスの神話の様に、私たちは罪の岩を毎日頂上へと押し上げている。司は、司の岩を。私は、私の岩を。けして他人には肩代わりできない岩を、繰り返し、繰り返し。

 あぁ、だから司は私をモデルにしようとしたのだ。

「お茶でもおごるよ」
 司は歩き出した。私は黙ったまま、司についていった。司の中に見た罪を感じていたかった。司が岩を押し上げる、その背中を見ていたかった。
 音楽部の声。
 寄せては返す、波。
 潮の流れに身を任せながら、私は漂う。波の切れ間から、カモメが舞い降りてくるのを待ち、その鋭いくちばしでさらわれ、私の罪を刺し貫いてくれるのを待つ。
 私は安らいでいた。包まれていくのを感じた。少なくとも、この瞬間は、私は、孤独ではないのだ。

--=--

 そこは、ほとんどギャラリーといってもいいような雰囲気だった。喫茶店という割にはテーブルは2つしかない。広いフローリングの要所要所に大きな観葉植物が置かれ、まるでオアシス。壁には絵が掛けられ、一枚一枚丁寧な照明が当てられている。
 司はここにはよく来るようで、司が入るなりマスターは何も言わずにエスプレッソマシーンを動かしはじめた。
 司は私に奥のいすを勧め、壁に掛かっていたメニューを開いた。
「なにがいい?」
 メニューを見たとき、そこに「昔の花」という単語を見つけて、思わず目を留めた。オリジナルブレンドの紅茶のタイトルとして、その名は付けられていた。
 何も言わず、私はメニューのそれを指さした。戸惑ったような司の目が私を伺う。私はふと、笑った。不意に司と肌で触れ合っているような気がしたからだ。ホッとしたように、司も笑った。
「マスター、昔の花、と、いつもの」
 分かってるよ、という感じで、マスターは片手をあげた。
 マスターは大きな人だ。背も、横も大きい。そのくせ、あまりその大きさを人にアピールしないような感じがした。

 司が私に勧めたいすは、観葉植物に囲まれていて、座っていると森の中にいるような気がした。頬をくすぐる葉を指でもてあそびながら、私はゆっくりと店内を観察する。

 店内は入り口が「空」、奥に行くに従って、次第に「海」になり、やがて「森」になっていくように計算されているようだった。
 入り口の方は天井が高く、大きなガラスの窓に薄いレースがかかっている。テーブルはなく、床もガラス張り、透明な樹脂でできたいびつな丸椅子が2つ無造作におかれていて、床にも、透明な樹脂の中にビー玉やらボタンやらを閉じこめたブロックが積み上げられている。木の棚が一つだけぽつんと壁におかれ、そこには小さな観葉植物が2つと、小さな空色の絵が掛かっているのが見えた。
 ガラスの床から一段下がってフローリングが広がるが、半分ほどはすりガラスの仕切で遮光されている。その中央に六角形のテーブルが置かれ、壁際には2カ所、白い砂が積んである。ここが「海」だ。テーブルの上に置かれた小さな帆船と白いカップに入った観葉植物がかわいらしい。
 そして「森」。背の高い観葉植物と湾曲したビーンズ型のテーブル。壁からアイビーが下がり、額に入った大きな絵が3枚。花と森と湖……。
 私の目は正面にかかっている大きな絵に釘付けになった。右隅に鮮やかなブルーで「TSUKASA SHIJOH」のサイン。湖の絵。

 司の絵だ。

 私が、周囲をいろいろと見回していると、不意に今までかかっていたハープの調べが消え、代わりにピアノが鳴り響いた。
 司が笑顔でマスターを見た。また、分かってるよ、という感じで、マスターは片手をあげた。たぶん、この曲は司が好きな曲なのだろう。
 ピアノが割と大きめの音でかかっているので、司と話をせずにすむ。私たちは、見つめ合わず、語り合わず、それでいて触れ合い、不思議な空間を共有していた。
「はい。昔の花とエスプレッソ」
 カチャリと微かな音がして、カップが置かれた。ジノリの手書きのカップ。柔らかな飴色の液体。
「これは、サービス」
 同じ柄の大きな皿にトリュフが並んでいる。
「マスター、いいのに……」
「また、絵、描いてよ。司」
 にっこりと笑うと、マスターはカウンターへと去っていった。
「いい人ね」
 私は笑って見せた。司は戸惑ったように私を見つめ、一瞬間をおいてから笑った。

 私はぼんやり司の描いた絵を見つめていた。そして、そのまま私たちはとうとう一度も言葉を交わさなかった。交わさずとも通じる、そんな何かが二人の間を流れていた。
 CDが一回りして再び同じ曲がかかる頃、ぼんやりと空想に浸っていた私の目を司がすくい上げ、そろそろ帰ろうか、と尋ねた。空にはすでに小さな星が瞬き始めていた。

[ 奏 ]

「あぁ、祥ちゃん」
 2限目の世界史のために教室を移動していると、不意に後ろから声がかけられた。
「御井先輩」
 小柄で少しぽっちゃりとした、見るからに人の良さそうな笑顔の3年生。文芸部では部長を務める御井美子は、外見とはそぐわず、鋭い、孤独な詩を書く。その文章は他校の文芸部だけでなく、市内の中学校でも有名で、彼女に憧れて文芸部の門を叩く新入生も多い。
「よかったわ、ここで会えて。昼休みにでも教室に行こうかと思ってたのよ」
 小走りに脇に駆け寄りながら言う。
「あ、ごめんなさい。私このごろ部室に行ってなくて」
 人の通行のじゃまにならぬように脇によけ、彼女の言葉を待った。
 いいのよぉ、と少し含みのある笑顔で笑うと彼女は言葉を続ける。
「文化祭用の会誌の表紙や挿し絵のことで話し合いをしようと思うの。作品を出すのは1年ではあなただけだろうし、後は私たち3年だけだから、私たちの都合に合わせてしまうようで悪いんだけど……」
 文芸部の部員数は少ない方ではない。各学年とも5、6人はいるのだが、実際に活動しているのは3年が主で、1年は祥子一人、2年は作品は書かず、会計と広報の仕事をするものが二人いるだけである。
 その理由は兼部している人間が多いことによるのだが、たいてい3年の文化祭の時だけは作品を書くことが多い。そういうことから卒業記念誌めいた意味もあるので、文化祭用の会誌は表紙や挿し絵にまで凝ることが多かった。
「わかりました。じゃぁ、放課後……」
 悪いわね。そういうと、彼女は再び小走りに駆け戻っていき、階段のところで待ってもらっていたらしい数人の友達と一緒に階段を駆け下りていった。

--=--

 昼休みに、放課後部室に行く用事が出来たことを司に告げると、司は一寸迷い、そして言った。
「うん。モデルのことなんだけど、2、3日休みにしてもいいかな」
 昨日までの絵に没頭した様子を知っているだけに、その申し入れは唐突に感じられた。ふと、昨日の美術室での一幕が思い出される。
「えぇ、いい、けど……」
 そのせいで、歯切れが悪くなる。
 司はこちらが感じたことをすぐにつかみ取ったようだったが、何も言わなかった。ただ、苦痛に似た光が一瞬瞳の中を通りすぎて、消えた。

 放課後部室の扉を開けると、2、3人の3年の姿があった。入ってきた人影が誰だか分かるなり急に話が尻窄みになったところを見ると、どうやら司と自分のことが話題だったようだ。部長の姿はまだない。
 手近にあった机に鞄を置くと、1週間前から手に取っていない部日誌を開く。
 「文化祭用会誌」と書かれたページに几帳面な御井の字で「投稿者の確認」「投稿作品名」「挿し絵担当」「表紙」と間をおいて書かれている。「投稿者の確認」の欄にはすでに4人の最上級生の名と国語担当の松江教諭の名が書かれていた。その下に少し癖の強すぎる字で「雨宮祥子」と書く。
 それ以外のところは空白だったので、そのままにしてノートを閉じた。
「ごめんね。待った?」
 不意に音を立てて扉が開き、御井が飛び込んできた。
「木根じい、ホームルーム長いんだもの」
 そう言いながら部室内の人数を数え、どうやら話し合いができそうだととると、後ろを振り返って誰かに声をかけた。
「恭ちゃん。入って」
 扉のところに現れたのは昨日の彼女だった。
「紹介するわね。美術部の部長の横田恭子さん。今回の会誌の表紙をお願いしようと思っているの」
「どうも」
 短い挨拶。
 視線が合うと、少しうろたえたように目をそらした。その様子が少し痛々しくて、思わず言葉が出た。
「よろしくお願いします」
 そんな様子に御井は満足そうにしながら、横田に椅子を勧め、部日誌をめくった。
「じゃ、まず表紙のことね。今回の文化祭のテーマが『今、前へ』なので、このテーマに添う形で自由に書いてもらおうかと思っているんだけど……」
 話が具体的な方向へ向かい始めたので、横田は少し安心したようだ。
「あ、待って。文化祭のポスターも私がやるから、そのテーマだとどうしても似てくるように思えるんだけど……」
 少し言いにくそうに、そう口をはさむと、左手を神経質そうにこめかみに当てた。
「できれば、何か文章を見せてもらって、それをモチーフにした方が私としては楽だわ……」
 こめかみに当てた薬指の爪に、青い絵の具のかけらがついている。ふと、司がいつもサインに使う「蒼」の色を思い出す。

 なんで、あの蒼が気になるのかしら……?

 青というと、以前はシャガールの青がとても好きだった。あの、幻想的な、夢と紙一重のところにある青を見て、いつも心をとばしたものだった。あの青は、夜明けの青、日暮れの青、宙の青だった。
 では、司の蒼は?
 空の青では、ない。海の碧でも、ない。
 あれは……

 哀しみの、蒼。

 司は失っていくことの哀しみを知っている。たぶん..
 そして、奪い取った罪と、奪われた罪の深さも。
 私がこの体に知っているように。

 ふと気付くと、視線の先に横田の目があった。
 彼女は私を見、初めて何かに思い至ったように目を見開いた。
 無意識に唇が動く。声はない。

 ニテイル。カ・ナ・デ。

 一瞬、彼女が泣いてしまうのではないかと思った。
「恭ちゃん?」
 御井が声をかける。
「どうかした?」
 救われたような気持ちで、私は御井を見た。おそらく横田の心情もそうだったろう。
「あ、ううん。いつ頃までに原案を持ってくればいい?」
 そうねぇ、と少し小首を傾げてカレンダーを見た。
「印刷に3週間ほどかかるとして……その1週間前には完成作品を手元に置いておきたいから……」
 10日後。そう言うと、御井は他の部員にも、いい?というように首を傾げて見せた。
 反対の意見が出ないことを確認すると、御井は部日誌を閉じ、ため息をついた。
「じゃ、そういうことで。原稿はなるべく早くね」
 頼んだわよ、というように笑いかけると、御井は鞄をとった。
「じゃ、解散」

 3年が全員出ていったのを確認して、窓の鍵を一応点検して、部日誌を引き出しにしまい、用事を済ませたことをもう一度確かめると、私は部室を出た。
 人影を見つけて足が止まる。
 横田だった。

「私、四条君がどうしてあなたをモデルに選んだんだろうって、考えていたの」
 モデルを頼むことがそんなに意外なのだろうか? 私は思わず首を傾げた。
「四条君、人物画描いたこと、ないの。あの人風景画が専門なのよ」
 横田は一寸うつむいて、ためらうような素振りを見せた。
「さっき、私を見て、似てるって言いませんでした?」
 私は逆に尋ねた。ゆっくりと横田の瞳があがり、視線が合う。
「似てるわ。奏さんに。ああいう、心ここにあらずといった顔をすると特に……」

 カ・ナ・デ……。

「あなた、奏さんの代わりなの……?」
 密やかに、密やかに勝ち誇った気持ちを込めて横田がささやいた。
 私の心が肉食獣になる。
「代わり……かもしれないわ。でも……」
 私は笑った。
「私を描こうとするとき、司の目は追憶に沈んではいないけれど……」

 
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