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現代小説:「無花果」
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『無花果』

 許して。
 もう、お願いだから、許して。
 私はそう言いたかった。
 もうしません。もう絶対にしませんから。
 けれど、私はたぶん知っていた。
 今日してしまった失敗を二度としないでいても、明日は別の失敗で殴られる。今は許してもらっても、明日許してもらえるかは判らない。
 だから。
 言葉にして言えなかった。
 ただ、黙って泣いた。
 だから、もっと殴られた。
 ずっと、私は言いたかった。けれど言えなかった。

 

 六月の少し湿気のある風が肌にまとわりついて、生成りのサマーセーターを肌に不快なほど張りつかせる。梅雨の近い曇りがちの天気は、歩く足のスピードも楽しい会話も思考回路さえも鈍くさせていくようで、無性にイライラした。
 低く垂れこめた雲の下には、青いばかりで覇気のない草の葉がむっとするほど茂っている。だらしなく垂れ下がったその姿に己の姿を見るような気がして腹が立つ。
 ますます湿気を感じるわ。雨が降るなら降ればいいのに。
 激しい雨に打たれたらいっそ爽快な気がするのに、と艶のない葉を見つめながら思った。
「香澄、今年の夏、どっか行く?」
 不意に掛けられた言葉に、僅かに眉間に皺をよせたまま、伸びて目にかかるようになった髪を乱暴にかきあげながら、香澄は振りかえった。
「別に、まだ決めてない」
 声の主はそんな不機嫌そうな香澄の様子にも頓着せず、大袈裟に溜息をついて見せる。
「えぇ?旅行行くんだったら早めに予約しないと。いいとこなくなっちゃうよ?」
「そういう美咲は決めてるの?」
 美咲は大抵、自分のことを棚に上げて発言することが多いのよ。
 ふと、心の中でそんなことを思いながら逆に質問を返すと、案の定、歯切れの悪い返事が返ってきた。
「んー。今の所実家に帰省することしか考えてないけど……」
 明るい栗色の髪の下で、美咲の瞳がきまり悪そうに宙をさまようのが見えた。
 ほら見なさいよ、といわんばかりの香澄の顔にちょっと腹を立てたのか、調子はいいが面倒は嫌いなはずの美咲が反論する。
「やっぱりお盆くらいは年寄り孝行しなきゃいけないでしょう?香澄だって帰るでしょう、お盆くらいは」
 嫌な所に触れられた気がした。
 美咲はいつも自分の世界だけしか考えていない、と思った。
「帰らないわ」
 必要以上に大きな声だった。驚いたように美咲が口を噤むのが見えた。
「家に帰ったって、何もすることないし。つまらないじゃない」
 慌てて私は捲くし立てた。
「それくらいだったらこっちでバイトでもしてるわよ」
 私は少し後悔していた。口を噤んだ美咲の顔がこわばったままだったので。
「それに、帰ったら融と会えないし……」
 わざとおどけた。本当はこんなことで融の名前を出したくなかった。
「あぁあ、お・あ・つ・い・こ・とっ」
 美咲の顔が一瞬歪むのが見えた。美咲が融を憎からず思っていたことは知っていた。けれど、融は私のもの。
 いいきみ。
 心の中で声がする。
 だって、融が私の方がいいんだから、しょうがないじゃない。あなたじゃ、なくて
 くすりと私は笑った。
 嫌な女だと思った。
「ね、喫茶店、いかない?」
 わざとらしくないように注意して美咲に笑いかけながら、ゆっくりと心は冷えていった。少しまだ頬をこわばらせている美咲がとても哀れで、そして、自分も哀れだと思った。

「え?無花果って、花だったの?」
 最初は名前の話をしていた。親がどんな願いを込めて名前をつけたか、という話をしていたのだ。美しく花が咲く瞬間の優しさと明るさを持った子になるようにという願いを込めて、母が付けてくれたのだと、美咲は嬉しそうに言った。
 私は自分の名前の意味など知らない。誰が付けたのかも知らない。たぶん母ではないだろうと思う。
 母の記憶はない。小さい時に死んだのだと言われていた。でも、お墓参りに行ったことはなかった。父に訊いてみたかったが、禁忌に触れるような気がして結局訊けなかった。小学校の時の「私の名前」という作文は白紙で出した。担任は少し哀れんだ顔をして、一言、なんでもいいから、別の題名でもいいから書いてごらんとだけ言って、私を叱ったりはしなかった。中年のすこしぽっちゃりとした女の先生だった。私は少し母の幻影を見ていた。けれど、学年の途中から先生はお産の為に学校を休み、そのまま教師を辞めてしまった。
 やっぱり。
 そのとき、そう思った。
 悲しいとか、淋しいとか、周りの子と同じようには泣けなかった。
 うるさく美咲に名前のことを聞かれて、しょうがなく私は「澄みきった香りのように心の綺麗な子になるように」と答えた。無邪気に、二人とも花に関係するのね、と笑う美咲の声が、とても遠くに聞こえた。
 そして、いつしか花の話になり、花らしくない花、無花果の話になったのだ。
「え?美咲、無花果の花がいつも食べている実みたいなものだって、知らなかったの?」
 私は時折、無邪気なほど無知さを顕わにして平気な美咲に呆れることがあった。
 恥ずかしくないのかしら、知らないってこと。
「割ると、中に内向きにたくさんの花が集まっているのよ」
 今度、夏になったら確かめてみればいいわ。私がそう言うと、美咲は明るく、祖父の家の庭に大きな無花果の木があると言い、お盆に遊びに行った時に絶対確かめてみると笑った。そしてそのまま、はしゃいだ声で田舎の話を始めた。
 私は時折微笑み、相槌を打ち、聞いている風を装いながら、美咲の声が遠く小さくなっていくのを感じていた。



 美しく花が咲く瞬間の優しさと明るさを持った子になるように。
 うつくしくはながさくしゅんかんのやさしさとあかるさをもったこになるように。
 ウツクシクハナガサクシュンカンノヤサシサトアカルサヲモッタコニナルヨウニ。
 ウツク シク ハナガサ クシュンカ ン ノヤサシサトアカ ルサヲモ ッタコニナルヨ ウニ。



 繰り返され、次第に意味のないものに変わっていく文字列。反響して耳元でゴワゴワと鳴る不快な音は私を頭から飲み込んで、私の全身を包み込み、繭のように私の身体の自由を奪っていく。
 生暖かく私を包むその繭は少し生臭い甘い匂いとベタベタした蜜に濡れて、しだいに私の身体を侵食していく。ゆっくりと獲物を食むように迫ってくる薄紅い花弁に私は目を閉じた。
 内向きに花開く花。際限なく続く自らとの対話は、波のように私を侵しては突き放した。



 スミキッタカオリノヨウニココロガキレイナコニナルヨウニ。
 スミキッタカオリノヨウニココロガ……
 ッタカオリノヨウニコ…….



 嘘。
 誰もそんなことは言ってはくれなかった。
 私につけられた名前なんて、ただ、私を識別する為の記号でしかない。私はただの一度もそれ以上の意味で名前を呼ばれたことなんてない。融も、美咲も、先輩も、友人も、近所の人も、学校の先生も、あの私を叱らなかった中年の優しかった先生も、祖父も、祖母も、父も。たぶん、母、も。
 ……かすみちゃん、ゆっくりあったまるまではいるんだよ……
 違う、そんな優しい声では呼ばれたことなんてない。嘘だ。嘘だ。
 ……なまえは?……
 優しく名前を聞かれたことなんてない。違う。その証拠にあの日だって打たれたじゃない。心配させたと言って、頬がはれて、口が開かなくなって、口の中に血の味がして。
 心配したんだぞと、甲高く叫ぶ父の声が、振り下ろされる拳と一緒に私の耳を打ち、がつんと目の前に迫った畳に顔をぶつけ、もがく手にテーブルの足が当たった。なにか、罵声が降ってきて、肩に衝撃が走ると、ごろりと身体が回転して歪んだ天井が見えた。
 このろくでなし。
 狂ったように見開かれた父の目。壊れた人形のように手足を投げ出して、倒れている私の影。
 ゆるして。
 喉元まで出かかった言葉は、その言葉を聞いた後の父の激昂を予想して、そのまま凍りついた。
 助けてくれなかったじゃない。愛してくれなかったじゃない。守ってくれなかったじゃない。
 雪のように桜が散る中で、冷たく雨の中で死んでしまえればいいと思っていた私を、温めて、笑いかけて。死なせてくれなかったじゃない。

 初めての父への反抗。家に帰ることを拒否して、ランドセルを川に捨てて雨の中を歩いた10歳の春。雨に打たれて散っていく桜の花を身体に受けながら、初めて死ぬということを考えた。だんだん冷たくなっていく指先が嬉しかった。
 なんて私は綺麗なんだろうと思った。白く血の気を失った指に紫色の爪。
 さようならと笑った。ちょっと泣いた。
 けれど、不意に現れた背の高い影は、私を美しい棺から引きずり出して私を温め、私の頭を撫で、父の暴力の中に返した。
絶望した。
 別れ際、影に向かって、怒りの言葉を投げようとした。それなのに不意に心の中にありがとうという言葉が浮かんで、私は口を噤んだ。
 おぼろな影は、まっすぐ祈るように私を見つめた。
 名前を、呼んでくれたような気がした。記号ではない、私の名前を。

 1週間後、知らない若い女性が私の家にきて、しばらく父親と話をした後、帰って行った。そして、私は隣りの県の施設に行くことになった。別れ際、父が泣いた。絶対に迎えに来るといって、私の頭を何度も撫でて、タクシーに乗った私にずっと手を振っていた。
 涙が出た。悲しいわけはないのに。嬉しいはずなのに。もう父の暴力に怯えなくてもいいのに。
 それなのに涙がでた。
 父は半年後に迎えに来た。そして、その1ヶ月後、私は全身に痣を作って、再び施設の門をくぐった。今度は泣かなかった。けれど嬉しいとは思わなかった。



 花なんて、花なんて私の日常のどこにもなかったじゃない。
 私は自嘲した。
 あの冷たい、全身を飾り立てた桜の花は、僅かの香りもしなかったわ。
 澄みとおった香りなんて、どこにもない。どこにも。
 生臭い甘い香りが私を包み込んだ。甘い蜜は私の瞳を塞ぎ、唇の隙間から入りこんで私を内側から埋めていく。
 血の味がする。
 目の前で美しく咲く花。無邪気な、何も知らない、ただ、咲いている花。残酷なほど。
 母の記憶を持って、名前の願いを持って、愛されるということに貪欲にならなくても愛されて。
 悔しい。
 だから、融を奪った。美咲が融を好きなのを知っていて、奪った。
 記号でしか私を呼んでくれないのに。

「香澄、香澄ったら!」
 乱暴に手を捕まれて、私ははっとして顔を上げた。
「どうしたのよ。大丈夫なの?」
 心配そうに眉をひそめて美咲が私を見上げていた。
「あ、ごめん。ちょっとぼっとしてたの。何の話だったっけ」
 笑うと、ちょっと安心したように美咲も笑った。
「香水を買いたいの。付き合ってくれると、嬉しいな、と思って」
 香澄って、服とか化粧品とか選ぶの上手なんだもの、そういうと花のように美咲が笑った。彼女にこそ、香りがあると、私はそんなことをぼんやりと考え、少し悲しかった。



 生キル。痛ム。哀シム。苦シム。泣ク。流離ウ。立チ止ル。
 死ヌ。癒サレル。狂喜スル。笑ウ。見ツケル。走リ出ス。

 自己矛盾と愛と、癒し切れない記憶と、日常と。
 私はそんなものに支配される。
 私の花は開かない。無花果。醜い…….



「わぁ、素敵……」
 さっきから美咲はそんな言葉ばかり繰り返している。花畑に走りこんだ童女がそうであるように、美咲は小さく華奢な壜の群れの中で色とりどりに染まりながら、幾つも手にとっては光にかざした。
「どれがいいかなぁ」
 そんな美咲の無邪気な様子を見ながら、私は小さく溜息をついた。
「美咲は、花の香りね。来ている服の感じとかもパステルが多いし……」
 そういいながら私はいくつかの小壜を手に取った。
「これ、とか」
 小さく壜の蓋に釣鐘型の花の取っ手を付けた、透明の丸い小壜は、光の中で小さく存在を主張した。
「んー、鈴蘭?」
 傍らの壜の箱に小さく書いてある英文の説明を見ながら、美咲は小壜を手にとった。そっと蓋を外すと、右の人差し指に僅か取り、左の手首に一筋付けると、そっと香りを嗅いだ。
「あ、いい匂い」
 私は美咲の指に釘付けになった。一筋、手首を切るように走る指。淡いピンクベージュのマニキュア……。
 ふと、急に美咲の視線がある一点で固定した。
「ね、香澄、あの人……」
 視線の先に独りの男性が途方にくれたような顔をして立っていた。

 歳は確実に上、だろうが中年という感じは余りしない。少し痩せた身体、繊細そうに見える柔らかな顔立ち。困ったような顔をして小壜の群れを見つめている。
「プレゼントなのかしら……」
 小さく美咲が笑った。その声に気付いたのか男性はふと、視線をめぐらして私達を捕らえた。

 どくん

 心臓が鳴った。
 名前を呼ぶ視線。まっすぐに瞳を見つめ、けして裏切らない確信を持たせて、私の名前を呼ぶ、視線。
 呪縛。
 彼は当惑したように私達を見つめた。美咲の指が私の背中をつつき、小さな声で手伝ってあげようよ、と耳打ちされるまで、私は真っ白な頭のまま呆然と立ち尽くしていた。



 妻の誕生日のプレゼントに香水を送る約束をしたのだと男性が言った。そしてうんざりとした顔で小壜に埋もれている一角を見つめると、こんなに種類が多いなんて、と呟いたので、美咲がまた小さく笑った。
「奥様の写真かなんかありますか?」
 そう訊ねると、彼は定期入れを取りだし、その中に挟み込まれている写真を示した。

 満開の桜の下で風に靡く髪を押さえながら笑っている、優しそうな女性。そして、そのスカートの端を掴むようにして、無邪気に笑顔を向ける子供。
 優しい風景。優しい絵。優しい世界。優しい関係。

 苦しい。

「写真をいつも持ってらっしゃるなんて、家族思いなんですね」
 美咲は無邪気に彼に笑いかけている。彼は微笑んだ。まっすぐに私を見つめると、私の瞳を覗き込んだ。
「家族は愛されるべきなんです」
 そうでしょう?と問いかけるように彼は私を覗きこんだ。



 そう、愛されるべきなのだと私は思う。私はもっと愛されてもよかったのだと。
 どうして愛してくれないのだろう、私はいつもそう思って。
 愛されたい、愛されたいと、心の中で強く、強く。

 振り上げられた手が見える。蛍光灯のかすんだ光に照らされて、逆光になった手の平は黒く、巨大な闇のように襲いかかる。のどの奥から悲鳴が湧き、口から零れる寸前に息を止めてこらえる。
 ゆるして。
 歪んだ視界の中で闇が打ちのめす。頬に熱感と痺れを感じて歪む視界に、天井が歪み、滴り落ちて。
 熱が、頬に、喉元に、腕に、足に、腹に。
 掠れた息だけが自分のものではないようにひっきりなしに口から零れて、剥落していく感覚、身体。
 記憶。
 ゆるして。
 壊れていく、自分。壊れていく、父。
 打ちのめした私を、倒れている私を我に返って抱き上げた父は、いつも、男泣きに泣いてすまなかったと繰り返した。
 ちがう。こんなあいしかたじゃない。わたしはこんなふうにゆるしてもらいたいんじゃない。
 例えば、とても美しいものを見るように、私は愛してもらいたかった。こんなに切迫した形ではない愛情の形が欲しかった。私の為に泣いてくれなくてもいいから、恐怖を与えるのを止めて欲しかった。
 まもってほしかった。



 私は崩れそうになる自分を両足で必死に支えながら、傍らの壜に手を伸ばした。
「これなんて、どうでしょう」
 マドンナ、という百合の香り。愛されるものの香り。
 差し出された小壜の匂いを嗅ぐと、彼はもう一つ選んで欲しいと言った。私は少し考えて、柔らかなライラックの香りを選んだ。



 結局美咲と男性に香りを選んでおきながら、自分は何も買わなかったなと、苦笑しながら、目の前で談笑する二人を見つめた。
 駅までの道を一緒にすることになってから、美咲は無邪気に男性と話している。時折、男性の視線が気遣うように私に落ちるのが分かった。
 気にしないで、というように笑って見せると、彼は微笑んだ。
「お医者さまなんですか?」
 服に染み付いた消毒薬の匂いに気付いて、美咲が尋ねる。
 そういう分野の研究者ですが、医者ではないです。と彼は答えて笑った。

 駅が近くなってきた頃、彼は急に振り向き、家はどっちの方面なんですか、と聞いてきた。3つほど離れた駅の名前を挙げると、同じ方面ですから途中までご一緒しましょうと笑った。
 美咲の家は駅から逆方向なのだ。
 ほんの少し拗ねたような顔をして見せた後、美咲はまた、無邪気に笑った。

 ゆったりとした列車の揺れに身を任せながら、適度に込み合った列車の中で、私は彼と他愛もない話をしていた。日曜日にはいつも、娘を連れて夕方近所の公園に散歩に行くことにしていること。恥ずかしそうに少し赤くなりながら、それでもとても嬉しそうに父の日に描いてくれた絵のことを話してくれた。
 私は微笑んだ。私の父も、父の日に描いた絵を喜んでくれた。そんな父の日がわたしにもあった事は覚えている。
 私はぼんやり、窓の外を眺めた、薄暗くなった空に薄くネオンが輝く。闇に閉ざされる前の、こんな空の色が私は好きだ。

 幼い時、私はよく、夕暮れの蒼い光の中で、なんとか家に帰らずにすむ方法を考えていた。お隣りの真美ちゃんのお家で遊んでいようか、それとも、学校で本を読んでいようか。
 けれどもいつも、夕飯近くになると重い腰を上げ、家に帰るのだ。大抵、父はまだ会社から帰っていなくて、灯りのついていない冷たい部屋の鍵を開け、ひんやりとした空気の中で膝を抱えているのだ。
 かつんかつんと階段を登ってくる音が聞えて、かちゃりと鍵の開く音がすると、そっと膝を抱えた手に力をこめる。
 ただいま。
 声がして、おかえりなさいと返すと、父の顔が扉のところに現れる。
 夕飯の仕度の時、夕飯の時、片付けの時、ほんの些細な失敗が父の怒りを買った。ちょっと茶碗をぞんざいに扱ったり、口を滑らせたりすると、普通なら笑って流されるようなことで父は激昂した。
 ゆるして。やめて。
 まるで口にできない呪文のように、その言葉が私を縛りつけた。

 窓の向こうに見える待ちの灯と重なりあった想い出の灯りが不意に消えて、私の背後で何かが動くのが見えた。
 硝子に目を凝らすと、背後に男が立っていた。黒い服を着た、少し背の高い男。顔はぼやけてわからない。
 私の腰の当たりに何かが触れた。ゆっくりとそれは滑るように足のほうへ動き始めた。
 嫌だ。この男。
 私の身体が強張る。恐怖と屈辱と怒りと嫌悪。
 やめてよ。
 私は唇を噛み締めた。
「何をしてるんですか」
 不意に、柔らかいけれど冷静な声が耳を打った。
 私の隣りで笑っていたはずの彼が、その黒い男の腕を掴み、私とその男の間に入り込むようにして私を守り、男と相対していた。
 男はそそくさとその場を離れて行った。周囲が一瞬ざわざわとし、私に対する憐憫と興味の視線が注がれた。
「私は次の駅なんですが、乗り越してあなたの駅まで送りますよ」
 断ろうとして顔を上げた先の優しい笑顔に、私は何も言えず、ただ、小さく頷いた。



「ひどい目にあいましたね」
 改札の前まで私を送ると、彼が不意に口を開いた。
「まったく、周りも気付いているのに何もしないんだから」
 彼は本気で怒っているようだ。私はなんだか微笑ましいような気さえしてきた。
「なんだか、すいません。こんな所まで来ていただいて」
 礼を言うと、彼は頭を掻いた。
「あなたを見ていると、昔、自分になんの力も無かった頃のことを思い出すんです」
 そのときの罪滅ぼし、という訳ではないのですけれど。と言葉を繋げると、彼は不意に俯いて押し黙る。
 何かしたいと思った時にそれをする事が出来るというのは、もしかしたら私の大いなる自己満足なのかもしれませんが。
 俯いたままそう言うと、彼は自嘲ぎみに笑った。
「そんなこと、ないです。今日は助かりました」
 私は笑った。笑っていないと泣いてしまうそうだったのだ。
「あぁ、そうだ」
 彼は思い出したようにセカンドバッグをかさごそと探り、小さな薄紅の包みを取り出した。それには見覚えがある。さっき彼が買った香水。彼は私が選んだ2種類の香水を別々に包んでもらったのだ。薄紅の包みでマドンナを、濃紺でライラックを。
「今日、わざわざ選んで頂いて、助かりました。これは、そのお礼です」
 私は慌てて断った。小さな包みは値段にしてみたらそう高いものではない。けれど、そんなものを貰う為に手伝ったわけではない。
「いいえ、あなたが選んでくれなかったら、今でもあそこで途方にくれていますよ」
 そう言って笑うと、彼は私の掌に無理にその包みをねじ込んだ。
「受けとってください。自己満足です」
 私は思わず笑った。
 それに、この香りはあなたのほうが似合うでしょう。
 彼の小さな言葉に、私の時が止まった。
 マドンナ。愛されるものの香り。
 彼は笑うと、小さく手を振って帰りのホームへ駆け出した。人ごみに紛れて、すぐに見えなくなってしまった影を私は呆然と見送った。



 鏡の前で、もう1時間も私は悩んでいた。日曜日の昼下がり、シャワーを浴びて、髪もセットし、服も選んで、化粧もした。けれど、小さな硝子の小壜を手に取ったまま、私はその蓋を開けることができずにいた。
 愛されるものの香り。白い、百合の花の。
 鏡の中の自分を見つめた。
 時計はもう、4時を回っている。
 私は意を決して蓋をとると、右手の人差し指で壜に蓋をし、小さく振った。指の腹についた僅かな液体から、予想以上の芳醇な香りがした。
 首筋にそっと指を走らせ、目を閉じた。
 私は愛されたかった。ずっと誰かに愛されたかった。

 小さな駅の改札をくぐると、私はゆっくりと公園へ向かった。駅員に聞いた話だとこの近くには公園は1つしかないのだという。だとすれば彼が来ている可能性は高いだろうと思った。
 会って話をしたいわけではない。彼に何を求めるわけでもない。
 なぜ、自分がこんな事をしているのかさえ、私には分からなかった。

 遠く木の影に小さな少女の手を引いた影が見えた。少女の笑う甲高い声が切れ切れに聞え、楽しそうに足元をくるくると回っている少女の姿が見えた。



 家族は愛されるべきなんです。

 そう、愛されるべきだ。
 愛されるべきであるはずなのだ。
 では。私のあれは。私のあれも。愛だったのだろうか。
 打ち据えた私を抱きしめて男泣きに泣いていたあの涙は、愛だったろうか。私を打ち据えたあの拳は愛だったろうか。施設に送られる私を見つめて千切れるほど振られていた手は愛だったろうか。よく帰ってきたと撫でたその手で、帰ったその夜に私を殴ったその手は愛だったのだろうか。



 少女が手を差し伸べるのが見えた。当然のように彼は優しくその手を握り、少女は嬉しそうに大きく手を振って歩き始めた。
 愛。
 私は差し伸べた手を躊躇いもなく、当然のように握り締めてくれる手を、持っているのだろうか。

 何をしに来たんだろう、私。
 目を離せない、美しい憧れの風景を見つめたまま、私は呟いた。
 何が欲しいんだろう。



 どれくらいの時間がたったろう。人影の消えた公園のベンチで、月に照らされながら、私はぼんやりと当たりを見渡した。
 あの親子の背中を見送ってから、ふらふらと木立の間を歩き、ようやく見つけたベンチに座り込んだっきり、動こうという意志が萎えてしまった。
 さむい。
 おもわず肩を抱くと、思っていた以上に冷え切っている肌が触れた。
 あの日もこうだった。冷たくて、寒くて、指は青ざめて。
 紫色に冷え切って、冷たい指が愛しかった。もう、これで楽になれるはずなのだと、麻痺した感覚の中で思っていた。冷たい雨と共に降ってくる桜の花弁が、一枚肌に張りつく度に、喜びと恐怖が私を苛んだ。



 しねる。シンデシマウ。
 らくになれる。コワイ。
 にげられる。シニタクナイ。

 歪んで剥落していく記憶の天井は、遠くけして近づくことのできない天国。神様は私には天国を与えてくれなかった。
 その証拠に、この部屋は歪んで壊れていく。私の身体は軋んで壊れていく。
 私の存在は虚偽と憐憫に包まれて、いつのまにか小さくなっていく。
 そうして、小さく小さくなってしまった身体は、蜜に絡められて、無花果のように内向きに咲く花になってしまうのだ。



 あぁ。

 私は顔を覆った。
 名前を呼んで下さい。私の存在を呼び覚ます名前を。私そのものを呼んで下さい。
 愛して下さい。守って下さい。見つめて下さい。花のように。祈りのように。尊い何かのように。
 どうか。

 街灯の蒼い光が雨のように私の身体を打って、私は10歳の春にそうしていたように、肩を抱きしめ、小さくなりながらベンチにうずくまっていた。舞う桜の花弁の代りに月の光が降り、あたりには私の身にまとわりつく豊潤な百合の香りが私を包み込んでいた。



 身体の上で、不意に震える感覚があって、私は我に返った。一瞬何が起きたのか分からなくなってしまった意識に苦笑しながら、私はバックを慌てて開き、中でしつこく震えている電話を取った。
「もしもし?」
 名乗りもせず、突然怒ったような声が聞こえた。
「何処に居るんだよ。何回電話しても出ないし」
 融?
「何時だと思ってるんだよ。連絡もしないで。今日は俺、お前んとこ行くっていったろう」
 あぁ、そうだった。バイトの帰り道に寄ると言っていたのだった。
「今、何処だよ」
「公園、隣りの駅の」
 電話口で、意外な答えに戸惑ったように躊躇った後、不意に言葉は優しくなった。
「迎えに行くから、そこに居ろよ」
 電話が切れた後も、私はしばらくそのまま電話を耳に当てていた。
 もう、何も聞えなくなった電話をゆっくりと膝の上に下ろすと、不意に質量を増してしまったように感じる。少し青みがかったそれは、手の中で冷たく、ゆっくりと私の掌で温もっていくのが感じられた。

「香澄」
 前触れもなく名前が呼ばれた。
 背の高い影が見える。まっすぐに私へと駆けてくる、融。
「香澄」
 もう一度、名前を呼ばれた。携帯のディスプレィに表示されている時間は10時。この時間の列車の本数は多くはない。さっきの電話からこんなに早く融がここに来るわけがないのだ。
 どくん。
 心臓が鳴った。
 私の部屋のドアの前からここまで、走ってきたのか。あの電話を切った直後から、おそらくは休みなく。
 名前を、呼んで。
「香澄」
 目の前にようやく到達し、まだ、荒い息を吐いている融が、切れ切れの息の下から名前を呼んだ。
 私は、そっと手を伸ばした。融は笑って、ごく自然な動作で私の手を握り、ベンチから引き起こした。
「心配したんだぞ」
 ゆっくりと手が上がり、ぽんと頭の上に置かれた。
 呆けたように融を見つめる私を、何と思ったのか、くすりと笑うと、融はそのまま私を抱き寄せた。
「心配させんなよ」
 不意に涙が出た。せきを切ったようにわあわあと子供のような声を上げながら泣く私の髪を、融はただ黙って撫で続けた。幾度も幾度も名前を呼ぶ声が、私の耳元で繰り返された。



 桜の花の代りに月の光が降る夜に。
 私は、名を呼ぶ声を聞く。そして、花開いた先、私は知るのだ。
 私の名前の意味を。

 
1999.05.02-1999.05.13.