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現代恋愛小説:「硝子の器」
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『硝子の器』

 あなたは綺麗な蒼い硝子の器を取り上げて、いいねと一言だけ言った。透明にかすかに気泡を含み、そして僅かに蒼い色をした硝子は、きっとグラスにしても美しいだろうに、それは花びらのように繊細な縁をタバコを置くためのスペースにかえて、灰皿になっていた。でも、あまりにも硝子は美しくて、美しい大理石のテーブルにでも置かなければ、似合わないような気がした。
 買ってもいいかと問うので、私は笑って答えた。買ってあげる、欲しいんでしょうと。
 硝子の灰皿は私の一間の部屋には似合わなかった。けれども、私は安いテーブルの上に生成りの和紙を正方形に切って置き、その上にその灰皿を置いてみた。そこだけみると、とても綺麗な部屋に住んでいるようだった。灰皿の隣に置いたあなたの煙草。あなたのライター。そして、あなたがくれた小さなおもちゃのような指輪。
 私は幸せだった。淡い硝子の気泡の中には幸せが閉じ込められていた。

 あなたとの出会いは唐突で、私は鮮やかに覚えている。
 午後の光の中、ポツンと花壇の縁に座り誰かを待っていたあなたは、煙草の煙に目を眇めて、しきりに周りを見渡していた。約束の時間は過ぎているのだろうと、私はそう思いながらあなたを眺めていた。私も人を待っていた。待ち人は既に結婚式の話もちらほらと出始めている、もう、5年も付き合っている彼だった。
 煙草を吸い終わったあなたは花壇の縁に種火を擦り付けて消すと、中の葉をふるい落とし、まるで大事なものをしまうかのようにそっとポケットに吸殻を納めた。そして、ぼんやりと空を見上げた。私は、あなたの横顔がまだ幼いことをはじめて知った。襟足を短くそろえた微かに茶色い髪から伸びる細い首が、あなたの若さをこれ見よがしに主張していた。
 私にはその行動は衝撃だった。何故だったのかは分からない。私は煙草を吸い、吸殻を道に投げる人を嫌悪していたし、年若くして煙草を吸う少年たちをあまり好ましく思ってはいなかった。確かにあなたは若かった。少年と呼んでもいいほどに若く見えた。だが、大切なものをしまうように吸殻をポケットに入れたあなたの横顔は、幼くありながらどこか年老いていた。
 あなたはもう一度周囲を見渡すと、諦めたように溜息をつき、再び煙草を咥えた。そのまま火をつけずにあなたはまた空を見上げた。私はその横顔に見惚れた。
 彼が仕事の都合で来れないと知ったのは、思い出したように火をつけたあなたが、煙草を吸い終わる頃だった。溜息混じりに携帯の電源を切った私に初めて気が付いたように、あなたはきょとんとした顔で私を見つめた。視線が重なり、私はただあなたを見つめた。あなたは少し困ったように微笑んで、ゆっくりと立ち上がると用心深く私に近付いた。
「ひま?」
 ぶっきらぼうな声。掠れた喉に掛かるような声はたぶん、煙草のせいなのだろう。
 彼は手にしていた煙草を眺めると、器用に根元から折り、火の付いた部分を地面に落して消した。そしてまた、大切そうに残りの吸殻をポケットに入れた。
「どうしてポケットに入れるの?」
 私は尋ねた。あなたは小さく笑うと、灰皿を持っていないからだと答えた。
「行こ……」
 どこへ行くのかと尋ねる気さえおきなかった。私はあなたの背中を追い、そっと、シャツの袖を掴んだ。あなたは、変な腕の組み方だと笑った。
 その日のうちに私はあなたと関係を結んだ。あなたの脇腹には小さな傷があって、あなたはそれを喧嘩の傷だと言った。嘘、盲腸の傷でしょうと笑うと、あなたは小さく舌を出した。
 あなたの口付けは煙草の味がした。私は、あなたの目が柔らかい茶色であることや、目元に黒子があること、指が細くて、体温が私よりも高いことを知った。
 そして私は、交際していた彼と別れた。

 電話も家も名前さえも、私はあなたことを知らない。あなたは時々思い出したようにふらりと私の家を訪ねて来て、食事をしたり買い物をしたり、お互いを抱きあったりした。私はあなたのことを何一つ尋ねなかった。だから、いつも私はあなたを「あなた」と呼んだ。それにあなたは「何」と答え、私をあなたは「君」と呼んだ。
 あなたのために灰皿を買った。あなたはよく家に来るようになった。灰皿の横にはいつも、あなたの煙草が置かれ、ライターが置かれた。

 仕事の用事で町に出たとき、私は本当のあなたを見た。学生服に身を包み、明るい太陽の下で友人たちをじゃれるようにしゃべっていた。その制服はその周辺でも有名な進学校のもので、あなたは年相応の明るい笑顔を浮かべて笑っていた。
 不意に私に気が付いたあなたの顔から一瞬笑顔が消えた。私は悟った。
 ――さよなら。
 私は微笑さえ浮かべて、ゆっくりとそう唇を動かした。

 さようなら。たぶん、もう二度と私の元を訪れることのない、名前も知らない恋人。
 あなたさえ気が付かないなら、私はまだあなたの灰皿のままで良かったのだけれど。気が付いてしまったあなたは、きっともう二度と私の元を訪れない。あなたが流すものなら、それが血だろうと涙だろうと、私は受け止めてかまわなかったけれど、あなたはきっと、二度と私に触れることはない。

 疲れた足で家に帰ると、綺麗な硝子の灰皿が目に入った。置き忘れられた煙草に火をつけると、私はゆっくりと咥えた。浅く吸い込んで煙を吐くと不意に涙が出た。

 さようなら。痛いほどに鮮やかだった、名前も知らない、あなた。

 
2000.10.15.