『我という響きの底に』
声が聞こえる。呻き声だ。時折掠れながら、止め処なく繰り返される。
嗚咽だろうか。いや、恐怖だ。低く、低く、身体に直接響いてくる音で、私の心臓を狙っている。
消さなければ、直ぐにでも。気が狂ってしまう。
TVか。いや、ダメだ。不協和音で耳が痛い。
音ではダメだ。私の精神がこの呻き声を凌駕しなければ、いつかこの声は私を飲み込んでしまうだろう。
絵だ。絵を描かなければ。
私の精神の全てをキャンバスに打ち込んで、私の五感を視覚だけにすりかえよう。
絵の具。絵の具を。
呪縛された腕が強張って、ばらりと絵の具が散らばった。
描くのだ。描くのだ。何を。何を?
声を。
そうだ、声を描くのだ。あの声に打ち勝て。キャンバスの中にあの声を呪縛しろ。
私は真っ白に無を体現するキャンバスに最初の一筆を描き入れた。
あの声は、赤。恐怖に打ち震え、助けを乞う、赤。
キィキィという耳障りな音が私の耳を打ち、不意に後のドアが開かれた。白く美しい顔が現れて、私には判断のつかない声で何かを語りかけた。盆の上に乗っている柔らかな色のものが、不意に香ばしい香りを私の鼻に運んできた。
「あぁ、すまないそこに置いていてくれ」
私は白く美しい顔にそう語りかけた。少し淋しそうな顔をして、それは盆の中身を離れたテーブルに置くと、小さくキィと呟いて姿を消した。
あれの名前はなんだったろうか。かつて、求めたものだ。
私は目の前のキャンバスを見つめた。赤。赤。赤。艶やかに光るビロード。丸い、円やかな、仄かな香りのする。
プチリと嫌な音がして、不意にその丸い果実の中から黒い煙が噴出した。
やめろ。まだ、そんな力が残っているのか。
私はぐしゃりと音を立てながら筆をキャンバスに叩きつけた。
消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。
額に汗が噴出した。じっとりと濡れた手の平から、ぽとりと筆を落とすと、私は肩で息をしながら、テーブルに手を伸ばし、先刻のお茶に手を伸ばした。静かに口に含むと、不意にあの白い顔の名前を思い出した。
百合枝。
私がまだ、空だけを見つめていた頃、何度愛していると囁いたことだろう。美しい唇からは花のような旋律が流れ出て、私はそれに酔った。美しきマドンナ。私の最愛のものだ。誰にも彼女を汚させない。だから私は己の欲情のはけ口をも彼女に求めてはならないのだ。
底に残る黒い液体を揺らすと、焦げた匂いがした。彼女が私の為に煎れてくれた。愛しい。
不意に背後でガタリと音がして、私の心臓は縮み上がった。
この音は、アレだろうか。
私はゆっくりと顔をめぐらせた。はたして、それはアレであった。
北向きの部屋の、窓のない北の壁が崩れ落ち、剥き出しのコンクリートを背景に私の死体。
私を絶望が襲った。
なぜ、何度も私に自覚させるのだ。知っているとも、私が本当はとうの昔に死んでしまっていることなど。やめてくれ。私はまだ、彼女と別れたくないのだ。隠さなければ、隠さなければ。誰かにこの事実が漏れたら、私はここには居られない。
私は慌ててカップをテーブルに叩きつけると、倒れている私の死体を抱き起こした。
荒れた髪。こけた頬。血色悪い肌。醜い私。なぜ、こんな私に百合枝は笑いかけてくれたのだろう。
コンクリートの壁に私は私を立てかけると、パレットナイフを手にとって、真っ白い絵の具を塗りつけた。眠りなさい。眠りなさい。おやすみ私。永遠に。
トントンと百合枝が階段を登ってくる音が聞こえた。
早くしなければ。私は私の残骸を必死で覆い隠すと、白いパレットナイフを握り締めたままキャンバスの前に滑り込んだ。程なくして、遠慮がちに扉を開く音がして、百合枝の美しい顔が覗いた。
問い掛けるようなまなざしが、テーブルの上を見て、一転して悲しみに沈んだ。カップはテーブルの上で砕けていた。
ぜんまいの壊れたおもちゃのようにただ彼女を見つめる私を、彼女は悲しそうに見つめると、砕けたカップの欠片をテーブルに乗せ、私には何も言葉をかけずに扉を閉めた。扉の向こうで小さな嗚咽が聞こえた。
ガタリと音がして、壁から私が倒れてきた。乱暴に何度も壁に塗り込められたせいで、あちこち取れたり壊れたりしていた。私はため息をつくと、そっとその身体を抱え、壁に立てかけると、じっと醜い私の死体を見つめた。
毎日、毎日死んでいく私。ここに在るのが私なら、ここに居るのは私だろうか?
幼いとき、夏に捕らえた蝶の羽をブチリと毟ると、そこにあるのは羽と見知らぬ昆虫になった。私にはそれが不可思議だった。
記憶の底で小さな悲鳴が聞こえた。手についた黄色い燐紛が毒のように私の精神を責めていた。あれは多分、蝶の憎しみだったのだろう。拭いても拭いても取れなかった。
おやすみと言ったじゃないか。永遠におやすみと。私は私が死んでいることなど、最初から分かっていたのだよ。
白い絵の具を取って、もうこれ以上私を壊さぬように細心の注意を払いながら、私は私の死体を壁に塗り込めた。
キャンバスに向かうと、克服した赤い悲鳴の果実の上に、そっと黄色い蝶を描き入れた。
おやすみ。おやすみ。私に向かう恐怖の声よ。
私はキャンバスに向かいながら、不自然な何かを感じていた。百合枝。今日は百合枝の生きている気配がしない。
私はそっと階下に降りた。
「百合枝」
声に出して呼んでみる。久しぶりに動かした唇は上手に彼女の名を呼んではくれない。
「百合枝?」
台所から漂う甘い香りに引かれて扉を開けると、先日絵に書いた赤い果実が流しで腐っていた。
甘い香り。百合枝がいない。私は不意に不安に駆られた。
私は、壁に塗り込めた私は、ちゃんと塗り込められているだろうか。もしかして百合絵は、私がそうとは知らないうちにあの死体を見つけて、私の死を知ってしまったのではないだろうか。
私は慌てて階段を駆け上がった。はたして、私の死体は壁から抜け出て、くにゃりと妙な形に捩れて床に転がっていた。
あぁ。絶望が私を襲った。
遠くで笑い声がした。耳に障る甲高い声が私を指差し嘲った。
はーは・は・は・は。ふひゃ・ひゃ。
やめろ。
私は筆をキャンバスに叩きつけた。
笑い声は大きくなり、幾重にも私を取り巻いた。
この声は、狂気。オレンジと黄色。蝶の燐紛。
聞き覚えのある声が私の耳元で囁く。
私だよ。
あぁ、私の声だ。笑っているのは私だ。私を塗り込めろ。キャンバスに。凌駕しよう。死んでいった私を超えて、キャンバスに本当の私を証明するのだ。
一身に私は筆を走らせた。いつのまにか私を惑わす声は聞こえなくなった。その代わり過去の私の思い出が私の瞳から頬を伝い流れ落ちた。
もう一度、百合絵に会いたい。
私の最後の視界が白く塗り潰されたとき、私は遠くで、小さな甲高い泣き声を聞いたような気がした。
バタンと大きな音がして私は霞む目を必死に凝らした。
「あなた」
悲鳴のような百合絵の声が私の耳を打った。
あぁ、百合枝。私はここだよ。それは、私の肉の欠片だ。
横たわる私の死体に取り付いて気が狂うほどに泣き叫んでいた彼女は、ふと頭上の私に気付いて、呆然と私を見上げた。そして、その白い指先でそっと私に触れると、唇をかみ締めた。
もう、私の醜い欲望で君を汚すことを恐れなくてもいい。私は永遠に君を愛するだろう。美しい、私の百合枝。
柔らかな彼女の指先を感じながら、私は美しく塗り込められた北向きの壁を見つめた。永遠におやすみ。数多く死んでいった、私。