保険実習の謎
保健学というものがあります。
公衆衛生学と呼ぶ大学もありますが、うちは保健学Iと保健学IIがございました。IとIIの違いは――今もってわかりません(爆) まぁ、無理やり考えてみると、Iは全体視野が広い感じの統計の多い授業で、IIはもうすこし地域密着臨床型だったように思います。
授業はデスクワークが中心ですが、試験と同時に実習も行われます。保健Iはグループに分かれて、それぞれ勝手に実験やアンケート調査などを行います。私どもは合格水準点60点を目指してアンケートに逃げました。そして本当に60点でした(涙)
保健学IIでは、4人グループに分けられ、それぞれ適当な施設に見学に向かいます。もちろん、歩いて行けちゃうんじゃないかしらというような近くの施設から、高速使って行かなきゃいけないような遠い施設まであるので、施設選びはくじ引きです。
私達のグループがあたったのは、高速を使わなくても行けない事はない(でも、高速を選びたくなる)距離にある、知的障害者施設と併設されている老人ホームの2箇所で、3日間の予定で見学・体験させていただきました。
まず、最初に、実習日の前にはご挨拶に伺います。「これこれこういうことで、何日から3日間、施設を拝見させていただき、お話や実習をさせていただきます。よろしくおねがいします」と、スーツにネクタイでご挨拶申し上げるというわけです。実習自体ははっきり言って汚れるので、ジーンズとシャツなどで行うので、施設の偉い方と会うには不向き――というわけで、わざわざ前もってご挨拶するわけなんでございます。
その時は、施設の一番偉い方がご不在だったので、2番目に偉い方にご挨拶。先方はご機嫌で、屈託なくお話してくださって「うちの施設からはそちらに献体(解剖実習の篤志になること)される方も多いんですよ」とおっしゃったのでございます。このときは素直に感動いたしました――まさかこの言葉にあとで苦い思いをするなんて思いもしなかったのでございます。
最初の日は知的障害者施設の実習でごさいました。ざっと施設を案内して頂いて、実際に行われている作業療法を別室で体験(スタッフ数に限りがあるので、指導する人が割けない時間帯はこういうことを体験してみるわけ)させていただきます。ネジのついた部品を作る作業で、最初こそは面白かったですが、だんだん飽きてきます。けれど、目の前にはネジと部品の山があるわけで、黙々と、ただ黙々と金槌で叩きつづけます。
そのうちにスタッフの方がやってきて、「面白くなかったでしょう」と笑われ(爆) 屋外施設(畑とかの作業場)の見学と実際に畑仕事をしている方々の様子を見せていただきます。
スタッフの方は、例えばあの子は――と指差して、IQはいくつですが日常作業能力は高いので、このような高度な作業が出来ますけれど、あの子は――と別の人を指差して、IQは比較的高めですが、日常作業能力が極めて低いので、一番簡単な作業しかできません――など、実際の具体的数字を言いながら教えてくださいます。そして、大きな井戸の傍に来た時に、ふと悲しい顔をされました。
スタッフ「この井戸、大きいでしょう? この井戸はとても重宝しているんです。これは施設入所者のご家族からの寄贈なんです」
友人A「え、井戸を寄贈なんてすごいですね」
スタッフ「ええ、お金もすごくかかっているんですよ――でも、つまり、この寄贈は『金を渡すからその子は施設で一生面倒を見てくれ』という意味なんです。うちは老人施設が併設されていますから」
一同「……(絶句)」
スタッフ「現実って残酷ですよね」
その後、再び施設内に戻り、スタッフの方から施設内での医療上の問題点や薬物療法の実際を教えていただきました。そして、入所者のお部屋を見せていただき、知的障害者施設の今後の問題点や、入所者が子供をもうけた場合の問題点など、具体的に実際の例を挙げながらお話いただきます。目の前いっぱいに、自分たちとは無縁だった世界の闇が広がったのでした(涙)
そのうち、作業を終えた入所者の方々が帰ってきて、夕ご飯の前までという約束で入所者の方と自由におしゃべりさせていただきました。入所者の方も、知らない人がいるので興味津々、積極的に話をしにいらっしゃいます。特に、ある女性(私よりは明らかに年齢は上)の入所者は私をとても気に入ってくださったようでした。
女性「あのね、手を触ってもいい?」
私「いいよ(――と差し出す)」
女性「うわぁ、柔らかいねぇ。あたしの、ほら、固いでしょ」
私「あ、本当だ。お仕事を頑張っている手だね」
女性「えへへ。畑仕事、嫌いじゃないもん。あのね、聞いてもいい?」
私「なぁに?」
女性「おねーちゃん、結婚してる?」
私「してないよ」
女性「私ね、結婚するのが夢なんだ」
私「えぇっ、好きな人、居るの?」
女性「うん。ほら、その人(――と男性入居者を示す) 格好いいでしょう?」
私「そうだね」
女性「でもね、規則であんまり傍に居ちゃいけない事になってるんだよ」
私「そうなんだ、残念だね」
女性「うん」
夕食の時間になり、帰る私たちに入所者の方々は全員で見送りをして手を振ってくださいました。夕闇は深くて、私たちは何か悲しい思いに浸りながら、黙って車を走らせたのでございました。
保険実習の謎 第2週
さて、保健実習の2日目と3日目は老人施設での実習でございます。
ここには出張の診療所があるので、2日目は入所している方々の診療の見学とお手伝い・横になっていらっしゃる方の話し相手を、3日目は施設の中の見学とスタッフの方からのレクチャーを受けます。――が、風邪で発熱してしまった私は2日目をパス(マスクをして出席しようと思ったんだけれど、施設の方に「免疫機能が落ちている入所者もいるから、熱があるなら休んで」と言われてしまったのだ;)、休んだ日の概要を友人に説明してもらって実習最終日になってしまったのでございます。
とりあえず施設に着いたら、施設のスタッフの方に昨日の欠席のお詫びを言ってから実習がはじまります。
要介助入所者の方のための電動お風呂を見せていただき、実際にお風呂作業なさっているところを拝見させていただきました。入所者の方は座った格好のまま、クレーンの要領でウイーンと吊り上げられて、かなり高い位置にあるお風呂にゆっくりと入ります。お風呂の高さは、スタッフのお腹くらいの高さなので、比較的楽に体を洗ってあげたりできるのです。お風呂に入れてもらっているおじいさんは、気持ちいいのか、にこにこ笑っていらっしゃいました。
そのうち、ディサービスの方のバスが到着したと知らせを受けたので、そっちのヘルプに走ります。
入所している方の食事の介助などのお手伝いをして、遠赤外線照射器を膝に当てているおばあさんの隣に行って世間話をしていたその時、スタッフの方に呼ばれました。
昨日、診療を受けられたおじいさんで、少し具合がよくなかった方がいらっしゃったのですが、その方が今朝未明亡くなられて、ご家族がお迎えにいらっしゃったので、お見送りに参加してくださいということだったのです。――実際、私以外の学生は昨日の診療のお手伝いをしていたので、全くの無関係というわけではありませんでしたから。
おじいさんは診療所のほうに横たえられていました。昨夜は医師を呼び、診療所で診療をして最終的に診療所のベッドで看取ったのだそうでした。年配の看護婦さんの横に立ち、ご家族が抱きかかえるようにして車に乗せられるのを黙って見つめ、去っていく車に深く頭を下げて見送りました。――その時です。
「あの方はご家族が迎えに来て下さったからよかったわね」とため息混じりに看護婦さんが独り言をおっしゃったのでした。
――迎えにきてくださってよかったわね――ということは、迎えにこないことが普通だとでも言うのでしょうか。
友人A「あの、それ、どういう意味ですか?」
看護婦「あ、あぁ(はじめて学生が傍にいる事に気が付いたように)ええとね、まぁ、いいか、言っても」
一同「……?」
看護婦「ここにいらっしゃる人の中には、遺産相続の関係とか、親戚間のこじれた関係のためにすぐにお葬式を出せない方がいるんですよ。だから、家族の迎えがなかったりするの」
友人B「でも、それじゃ亡くなられた方はどうなるんですか?」
看護婦「たいていはご家族が希望もあって、あなた方の大学の献体になることになるんです」
スタッフの方々に余裕がなくなったので、私たちは別室の図書館のような場所でしばらく待機する事になりました。
私達の頭の中でこびり付いてはなれなかったのは、施設の偉い方の自慢げな「うちの施設からはそちらに献体(解剖実習の篤志になること)される方も多い」と言ったときの顔と、看護婦さんが「ご家族が希望されてあなた方の大学の献体になることになる」とおっしゃった時の沈痛な顔でした。
友人A「さっきの話さ…、オレ、なんかショックなんだけど」
友人B「いや、現実なんだろうと思うけどさ。やっぱり、解剖実習のあとにはさ、ある種の感動があったじゃん。医者になるために――医者にするために体を捧げてくださった方がいるんだって思ってさ。でもさ…」
友人A「やりきれないな」
私「腹が立った。私、なんか腹が立ってる」
友人A「誰に? 家族?」
私「ううん。施設の偉い人。そんな経路で献体なさっているのをさ、ああいう自慢げな顔で言うのって、なんだかちょっと違うよ。受ける側の私たちにそんなことを言う権利なんてないかもしれないけどさ。でも、奴の自慢げな顔を思い出すと腹が立つ!」
友人B「くやしいな」
友人A「うん」
結局スタッフの方の手があかず、私たちはそのままその日の感想を提出して実習終了となりました。
実習開始前に、教師のほうから『時間を割いて見学させていただくのだから、くれぐれも批判的な感想を提出しないように』と強く言われていた理由が、この時になってどういう意味だったのかが分かったような気がしました。感想を書く手は進みませんでした。通り一遍の丁寧な実習のお礼だけ書いて、私達の感想は終わりました。
ウィンドウショッピングのように上っ面だけを見せてもらって終わるしかなかった実習――でも、その中で看護婦さんのあの言葉を聞くことが出来ただけ、私たちはラッキーだったのかもしれません。
帰りの車の中で、私たちは湿っぽくなりながら黙っていました。やりきれさなと腹立たしさと悔しさが一緒になって、自分の感情がよくわかりませんでした。なんだか、急に年をとってしまったような気分になったことを覚えています。
友人A「呑むか?」
私「うん」
憂さを晴らすようにそのまま呑み屋に行き、酒をかっ喰らい、保健の実習が終わったのでございました。