医学生の謎
この話は実体験を元にした、半分真面目なある医学生の赤裸々な日々の回想録です。 1993年、春。ワタクシメは地方の医科大に合格しまして、ルンルンでございました。
そもそも医科大を受けようと思ったのは、中学生の時にストレスから来る全身痙攣を起こし、その時対応されたお爺さんのお医者さんの対応があまりにも人道的でなく、「コイツにやれるんだったら、ワシにもやれるだろう」と思ったのがきっかけでございました。
しかも、日頃ぼんやり者だと侮っていた――でも実は努力家の――兄が医学部に合格しまして、兄にだけは闘争本能を剥き出しにしていた反抗期真っ只中の危険な私は、「コイツに負けるわけにはいかない」とホンの3日ほどメラメラと戦いの炎を燃やしたのでございます。(←持続と言う単語が私の辞書にはなかった;)
浪人したり、酒に溺れたり、勉強しなかったり、予備校教師タラシこんだ(ゲフンゲフン)り、紆余曲折はありましたが、運命というのは基本的楽観主義者の私には優しく、なんだか知らない間に医科大の合格通知がきてしまいました;
確かに、試験当日の手応えはバッチリでした。けれども、無謀なワタクシメは、面接で『どうしてこの大学を選んだんですか?』という問いかけに対して、『センター試験の結果で合格の可能性のある医学部を絞り込んだんです』と答えて顰蹙を買っていた(普通は『環境がいいから』とか『カリキュラムに惹かれて』とか当り障りのないことを言うものだ)ので、面接点が大きかったらきっとアウトだろうと思っていたのです。でも、心にもないことをヘラヘラ笑いながら言うことだけは出来ない性格なので、どうせ迷惑がかかるのは自分と自分の家族だけなんで、正直に堂々とお答えしたんですが、単純に言葉だけで人を判断しない面接官の人間性には深く頭が下がりました。
医科大っていう場所は、奇妙な場所です。まず、学年の人数が100人しかいないというミニマムさ、そしてそれが最終的にはほぼ全員医者になるという不思議さ、女で失敗したA君も男を手玉に取っていたBさんもみなオイシャサンになるんですよ; 当然、先輩方もみんなオイシャサンになります。もう既にドクターである部活の先輩も、たまに運動不足を解消に部活動にいらっしゃったりしますので、一気に年増のお知り合いが増えます。とりあえず運動系の部活に加入したので、私に最初に圧し掛かった部活でのお仕事は『接待』でございました。
「御指名」と言われて男性ドクターの隣に座り、グラスが空いたら酒を作り、ニコニコ笑っている――それが『接待』
「オメメが落ちそうだねぇ」と酒に酔って気持ちよくなってスキンシップを図る男性ドクターに、顔はニコニコ笑いながら、腹の中では「落ちるわけないだろうが、肩に手を回すんじゃねぇスケベオヤジ!」と思うわけでございます。
もちろん、御無体なことまでされないように、世慣れた別の先輩が傍で目を光らせてくださっていますので、「○○ちゃーん(←本名)可愛い〜」と言ってキスを迫るもうじきドクターの先輩などからは身を呈して守っていただけます。――というか、守ってくれないんだったら部活なんて即やめます;
私は、数ある痴漢被害の体験や予備校での援助交際のハシリなどの経験で、そういうものに対してかなり強い免疫があったために、それが苦痛だとか、セクハラだとか感じたりはしませんでした。
まぁ、酒に酔って理性をなくして迫るのがキスくらいだったら『お坊ちゃん』ですよ; 中には土下座して『ヤラセテクレ』と頼まれる方だっています。もちろん、どうせ酔っていて覚えていないので『先輩、寂しいからってそういう風に振舞っていると、せっかくの先輩の良さが半減しちゃうじゃないですか。大体ですね、女性とのスキンシップをすぐに性的なことと結びつける考え方はちょっと短絡的ですし、第一不健全ですよ。そもそも性的なスキンシップって言うのは…』などとまくし立てて煙にまき、さっさと逃げるが勝ちです。
上で、『援助交際のハシリ』と書いていますが、私が予備校の時は『援助交際』というような単語はまだ成立していませんでした。
予備校の教師というのは、予備校の大切な商品である『生徒』に手を出してはいけない事になっているようです。私が聞いた話によると、手を出したのがバレると×が1つ付きます。そして注意を受けます。別の生徒に手を出したのが更にバレますと、×が2つになり、減俸になります。×が3つになると、状況によっては首がポンと飛ぶのだそうです。でも、目の前にピチピチの世慣れていない、簡単に手管に落ちてしまうそうな乙女が山のように居るので、手を出す教師は後を絶たないんです;
私はそういうタイプの方は好みじゃありませんでした。だって、分かりますよ、本気で自分の進路を心配してくれている人と、体を眺める人の違いくらいは。
でも、究極的にお金がなかったので、どうしたものかと思って居ましたら、世の中ステキな方が居るのです。ご飯を食べに連れて行ってくれて、お金は全部払ってくれて、ただただ真剣に教育の話やこれからの私の進路の話をするだけでOK。独身貴族で、どうやら何が原因なのか大人の女性や性に対してはちょっと臆病な、ほどほどに容姿の整った、話口と勉強の教え方が上手い、しかも一回りまでは年齢が違わない予備校教師。――もちろん、頻繁にお食事に連れて行ってくださいました。手を握ったり肩を組んだりさえありませんでした。少女が巣立っていくのを見つめるのが趣味の、いい先生でした。
その後、『援助交際』という単語を目にして、ふと予備校時代に思いを巡らせたときに、私がしていたアレはどうもこの『援助交際』に似ているような似ていないような気がして、思わずドキドキしたものです。
医学生とは言っても、最初の一年は普通の学部の学生と変わりません。数学とか英語とか哲学とか、そういう一般教養をやります。ただ、普通の学部とちょっとだけ違うのは、法学の選択授業の際に使われる題材が医療訴訟のネタが多い事、数学では普通の数学の授業よりも確率や統計に力が注がれがちである事くらいでしょうか。あと、一般教養の教授の多くが非常に腰が低い; まぁ、一般教養って大事なんですけれど、一般教養が優でその後の医学系の学問が可だった医者より、般教が可でその後が優である医者の方がなんとなく安心感があることも事実ですので、しょうがないのでしょう。
医学生の一年目は、部活と運転免許の取得と呑み会と、ほんの申し訳程度の勉強で過ぎていくのでした。医学生としての自覚を深く心に刻み込まされる解剖学の実習は、まだ先の話でございます。
医学生の謎 第2週
大学の一年生で一番大変なのは、まず『お酒を飲む』こと。特に体育会系の部活動に入った男の子は大変です。イッキ飲みは危険なのでやらなくてもいいのですが、呑めるだけ限界まで呑まなくてはなりません。
部活動の新入生歓迎の時など、まだまだ初心でお酒を知らなかったオトコノコにお酒を飲ませるわけですから、当然のように屍累々……。そんな中で平気な顔をして介抱して回っていたのは私;――女の子は飲まされないということもあるのですが、単純に酒が強かったんです; しかし、そのことが今後の私の人生に一つの方向性を与えてしまいます。
同学年のオトコノコの介抱をし、嘔吐した口をお絞りで拭ってやり、冷たい水などをあてがってやった時のことでした。彼は小さく
「おかぁさんみたい……(はぁと)」
――硬直;
確かに私は1浪だが、現役のアンタとは1つ違いだゾ。――というか、君、マ●コン!?
それ以降、私の呑み会の時の役割は『ホステス&オフクロサン』になりました。
そして次に大変なのは試験週間。
前後期の2期制の学校だったので、まるまる1週間の試験週間が2回襲ってきます。連日の試験で及第点を取りつづけていればいいのですが、赤点を取ると追試験。それも試験週間直後に行われる(早くしないと点数をつけるのが終わらない)ので、赤点が多いと死ぬ目にあいます。
しかし、まだまだ一般教養。なかには出席だけ取っていれば赤点なしの科目や、出席すらしていなくてもレポートを出せば終わる科目、試験自体に全く意味がない科目なんていうのもあります。
試験をしているのに何故意味がないのか。それは試験監督が素晴らしくユニークだからです。
試験当日、その先生は試験問題を配った後、仰々しく教壇に立ち私達に言われました。
「皆さん、試験というものは自分の力を正当に評価するものです。不正を行ってはいけません。わたしは試験時間中ずっと見ていますからね」
まぁ、いまどきカンニングも流行らないわよね、と思いながら教室の後方に歩いていく彼を見つめ、とりあえず問題に取り掛かりました。
私は一番後ろの一番端の席に居ました。ちょっと顔を斜めに向けると彼の姿が目に入ります。ふと、違和感を覚えて私は彼を見つめました。
視線の先で彼はずっと教室の後方に広がる何もない芝生を見つめていました。
彼はどういう意味で教壇であの言葉を言ったのか、私には未だに分りません。いや、きっと分らなくていいでしょう。なぜなら、過去に彼が作った問題がそれを雄弁に物語っています。
彼は英語の教師でした。問題文にはシェークスピアのハムレットの一部が使われていました。一部分に傍線がしてあり、その部分に対する問題はこうです。『この場面は、第何幕でしたか』――これ、すくなくとも正当に英語の能力が評価できるとは思えないんですが……。私には汲み取れない意図を持った教師、それが彼でございました。
さて、医学部というのはどちらかというと理系に分類されますから(理科の選択科目で受験するし、微分積分もあるしね)実験というものもございます。
初めて白衣を着用しての実習になります。なんとなく白衣を着ると嬉しいし、「理系の学生しています」という気分になるので、この時期は無意味に白衣でうろつく輩が増えます。ノリがきいてそうな実験用白衣でルンルンで歩いている姿は冷静になってみると幼くて滑稽ですが、本人たちはイッチョマエのつもりで歩き回っているのです。
化学実験は二人組みで行われます。全員で同じ実験をやるのではなく、いくつかの実験を日替わりでやっていきます。しかも、『学年で仲良くなるように』というなんだか可愛らしい趣旨で、毎回パートナーが替わります。内容はどうってことない普通の化学の実験ですが、周囲に下水道が整備されていない田舎だったので、田畑に流れ出てはいけない薬品と大丈夫な薬品とを分けて廃液処理しなくてはなりません。流せない廃液は天日によって余分な水分を蒸発させた後、業者さんが来てくれます。
当然のように、そういう廃液の処理を間違う人が居ます。学年に1人居るのは普通です。彼はある時は試験管を割り、ある時は廃液処理を間違い、ある時は実験の手順を間違えました。私とパートナーになる前までの戦歴は全戦全敗(何かどこかで失敗している)。
私は彼に宣言しました。
「実験する事で慌てちゃって、今まで実験中身を考える時間がなかったでしょう? だから、私が言う実験結果をこのノートに書いてくれるだけで、他は何もしなくていいから。とにかくノートとエンピツ以外に触らないでくれる?」
実験は滞りなく終了し、彼は初めての白星をあげました。
私は実験好きの女でございましたので、実験は得意でした。早く正確に実験を終わらせるのが私のモットーでしたし、事実、素早く終わらせてとっとと遊んでいました。その日も私は滞りなく準備をし、分液漏斗を振っておりました。ふと、背後に人影を感じました。
「お、順調に進んでいますね」
化学の教授です。いかつい顔をしておられますが、笑った時のはにかんだ顔が可愛らしく、口煩いが採点は甘いというのが先輩から教えられた彼の特徴でした。
「そう、分液漏斗はこう持つんです」
彼は突然背後から手を伸ばし、私を抱きかかえるようにして分液漏斗を握り締めるという暴挙に出ました。数回、私の手を握り締めたまま漏斗を振り、にっこり笑って彼は去っていかれました。その様子の一部始終を見ていた友人Aは、後にこう語っています。
――ありゃぁ、どう考えても手を握りたかったとしか思えんね。でも、まさか背後から抱きかかえるとは、冒険だよな。っていうか、俺も隙があるならやりてぇ。(……私にも相手を選ばせろ;)
そんなわけで、もちろん、化学実験の単位は『優』でございました。「実力で取ったのよ」と言いたい所ですが、手を握らせたのが駄目押しの追加点となったことを否定することが出来ないので、皆からは体の全てを使って実験をする女だと、一時期言われておりました。
そして白衣が適度に汚れてくたびれてくる頃、ようやく2年に進級し、基礎医学の勉強が始まるのです。